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2015/12/04

あくつぃおんすあると!と頭の整理

「意味ってなに?: 形式意味論入門」 にて、語彙的アスペクト(アクツィオンスアルトでも、事象タイプでも、色々と呼び名はあるが)が触れられていたのでメモ代わりに。

概ね広くで合意されている事象タイプは事象を4つに分類する:状態、活動、達成、到達ですね。これはヴェンドラーの動詞分類とさして変わりません。

重要なのは、活動、達成、到達の上位概念として出来事(event)があり、さらに、出来事と状態の上位概念として事象類 (eventuality)がある、ということです。本書では、

・ 出来事:なんらかの変化が時間を追って起こるようなこと
・ 状態:単にそうなっているという状況、本質的な変化は進行しない

みたいに2つを説明している。出来事は動的な事象類であって、状態は静的な事象類だ、ということだということ、でしょう。多分。もう少しきちんというなら、本質的に動的か、静的(というより、動的でない)か。

※ ここでまずひとつ気をつけておくべきなのは、文表現は必ずしも事象類の具体表現であるとは限らない、ということでしょう。確かに、「アカシアは男である」という表現を、状態表現(持続性のパラメータの値の差異のみが属性表現の差異だ)とみなすこともできましょうが、こういう個体属性の表現を完全に健全にそこに押し込んでしまえるかどうかというのは一考の価値があるでしょう。ここで言いたいのは、文表現は事象類以外にも表現している事柄があるだろうということです。遍く還元するのはとりあえずマテということで。

で、状態と活動は atelic であり、達成と到達は telic です。これは「終端の有無」の話です。実際に終端があるかどうかではなく、その表現で示唆される認識状態において、内在的に終端が考慮されているかどうか、という話でしょう。

telic な出来事には、あらかじめ決まった終端がある。これはつまり、「完遂されたかどうかの決め手になる状態と結びついているもの」のことです。…! これって味噌煮込みアスペクト論の言ってることじゃん!その表現で示唆される認識状態において、その事象類は完遂されるものとして認識されている、ということでしょう。では、「完遂」はどこに拠ればよいのかというときに、1つの手がかりとして、「決め手になる状態」というものがあるということです。「完遂性」にはそれを示す「完遂インジケータ」なるものが必要で、それの代表的な(直観的な)ものが 「キー状態」(決め手になる状態)なのでしょう(「代表的」とか「直観的」とか言って、ユニークであることをぼかしましたが、確実にユニークでないかどうかも定かではありません。少なくとも僕にはこの、完遂インジケータとしてのキー状態が完遂性には不可欠だというのは受け入れやすいものです)。

…この記事は、僕以外の人間が、telic について、「完遂されたかどうかの決め手になる状態と結びついているもの」 と言っているのを見つけたよ!ということを報告したいだけの記事なので、もう書くことがありません!

あ、そうだ。まだもうちょっとだけいうことがあった。

nu は "generalized event" や 「事象抽象」 と辞書では説明されているけれど、nu の下位概念として za'i, zu'o, pu'u, mu'e があるのなら、nu は(動的な事象類という意味での)出来事を抽象するわけではないということには気をつけるべきですね。nu は事象類抽象詞です。"generalized event" と英語では説明されていますが、これが要するに "eventuality" に相当するのでしょう。

個人的には、NU1 za'i, zu'o, pu'u, mu'e はそれぞれ上の4分類に相当する抽象詞であってほしい。左から、状態、活動、達成、到達の抽象詞であってほしい。そしてさらに、nuは事象類抽象詞なので、「出来事抽象詞」、つまり、活動、達成、到達の上位概念の抽象詞も欲しいなと思う。

NU1で引き出せるものは、nuで引き出せるものと変わりなく、結局のところ、NU1は nu が引き出した事象類に明示的にラベルを貼ったものでしかないと解釈するのが一番でしょう。

と、考えると、僕のロジバンのアスペクト観で修正に迫られる部分が実は出てくるんですね。それはデフォルトアスペクトのところで、絶対アスペクトとか言ってたところです。僕はあのアスペクト論で、「ロジバンはca'oがデフォルトの相だ」と少しの心もとない根拠とともに述べていたわけですが、それをどうやら修正しなくてはならない。

実はこの契機を生み出してくれたのは上の話だけでなくて、並行してやっていたトキポナとアイヌ語でもある。アイヌ語で「大きい」は poro だけれど、poro は「大きくなる」という意味もある。僕はロジバンが命題を語る言語だから、という点を以って、基本的な文表現は状態表現(あるいは属性表現)だと考えたわけですが、上で僕自身が指摘した通り、これは言語としてのロジバンを把握するには極めて乏しい認識だと言わざるを得ないわけです。出来事の表現を軽視しすぎている。というわけで、僕は、「ロジバンの述語はデフォルトにおいて、事象類やそれとは異なるものたち、それらの上位概念に当たるものを示す」くらいの壮大さで語らないといけなくなりました。これはトキポナにも通ずる述語認識だと思われまして、相や時制がオプショナルなロジバンにおいては「一皮むけた」解釈だということになります。

そうすると、なるほど、NU1 はかなり有意義な抽象詞になってくれます。(凡人にとっては)過度に一般化された述語が用いられた文表現から事象類を抽象したところで、それがそもそも状態なのか出来事なのかが分かりません。そこで NU1 で、もっと砕けていえば「ラベル付き事象類抽象詞」で抽象してやれば、その区別がつきます。

この「ラベル付け」という発想は実のところ、他のところでも応用できるんじゃないかと思っています。下位概念のラベリングによって、一般化されている述語が、その概念レベル(のちょっと上)にまで同定されるわけです。これは、「省略されている」という説明とは次元が違うと僕は思っていて、「省略」の発想では述語の概念レベルは変わらないのだけれど、「ラベル付け」の発想では、そのラベルの種類によって述語の概念レベルが適宜上がり下がり(ふつうは下がるだろうけど)する。ここのところはもう少し言葉を吟味してまた論じたいですけども。

例えばの話、{mo'u}を完遂ラベリングとしてみてやると、{mo'u}がついているという時点で、その文表現は事象類の中でも出来事、の、さらにtelicなもの(達成か到達)を表しているということが分かるわけです。

一般化された述語概念ツリーを、ラベル付けを頼りにして、述語が下っていくイメージ。この観点でアスペクトについて再考してみたいかもしれない。ひとつ言えるのは、ZAhOが付いているという事実それのみによって、一般化された述語概念ツリーを、述語は少なくとも事象類のところくらいまでは下ってくるということです。つまり、ZAhOに言及することこそが、ロジバンの全体について議論することを不可能にしていて、逆にいえば、ZAhOの議論というのは事象類以下においてで整合すればよく、それ以外のところで適用できなくてもOKということになる。

上の述語の一般化という修正は、要するに、dasni は「着ている」だけでなく「着る」も表すということを引き戻すことにほかならない。これによるアスペクトの混乱というのは…、以前に十二分に味わったので、さて、どうしたものか!!

2015/08/15

味噌煮込みアスペクト論(追記その1)

http://misonikomilojban.blogspot.jp/2015/08/xao.html の追記。

以前はこのようなアスペクト図を提案した。
このアスペクト観では事象は2つある:当該文が焦点を当てている中心事象と、natural point を創出するための背景事象(図のState A, B, C, Dが該当)である。

natural point は、背景事象の切り替わりによって中心事象に生じるものである。背景事象の切り替わり後の状態(遷移後状態)はふつう、強弱はあれど、中心事象を終わらせる(始めさせる)傾向をもつ。"end" や "beginning" はそのことを意味している。

一般に、ある事が完了するためには、何かが変わらなければならない。その何かこそが背景事象である。このとき、背景事象の遷移後状態とはほとんどの場合で「中心事象の目的である状態」である。しかしながら、ロジバンではより一般的に背景事象を考えることができる。つまり、背景事象は遷移後状態が必ずしも目的である必要はない。重要なのは、中心事象の他に、それと並行するような事象を想定しているかどうかである。たとえば、{co'u sipna} と {mo'u sipna}では、前者は単に「座り」が終わったことを意味しているが、後者では「座り」の他にそれと関連するような(そして「座り」を終わらせるような)状態が始まったことを意味する。

以上が、この前の記事で書いたことである。以下はもう少し網羅度を埋めるための話をする。

さきほどの図では、co'u点はmo'u点より後にあった(そのために、za'o線があった)。ではその順序が逆であるような場合はどうなるであろう?
この図はまさにそのような図である。mo'u点とco'u点の間の範囲はどのような表現で表されるだろうか(もちろん、順序が逆であるならば、za'oで表される)。このスキームでは、背景事象の2状態遷移が起こる前に中心事象が終わってしまったことを意味している。

まず、このスキームが成り立つには、中心事象の進展が背景事象の進展と独立していなければならない。たとえば、「マラソンを走る」とき、途中で棄権してしまえば、その時点で完走が起こることはありえない。これは、「走る」ことが「マラソンの完走」の実現と直結しているからである。一方で、「映画が終わるまで座っている」とき、「座り」をやめても、映画は流れ続け、やがて終わるはずである。このように、中心事象と背景事象が独立である場合に上のスキームは成り立ちうる。今の例でいえば、映画が終わるまでに痺れを切らして座るのをやめてしまったのである。

ここの「???」にあたる部分は、{ba'o}で表すのが筋である。つまり、{ba'o}には基本事象線の{co'u}の後という基本的な意味と、{mo'u}とそれより早い{co'u}の間の範囲という背景事象と関連する意味があることになる。このことはこれまでの{ba'o}の用法となんら矛盾はせず、むしろ「既に~してしまっている」というニュアンスの1つとして使われている意味である。「映画が終わる前に、既に座るのをやめてしまっている」の「既に」である。ここでは、遷移後状態になれば終わるはずだということの裏返しの期待として、遷移前状態の間は終わらないはずだという気持ちが隠れている。「失敗のba'o」とでも言えそうである。

一般に、背景事象を引き合いに出して中心事象のアスペクトを述べるとき、なんらかの「裏切られ」を話者が感じていることになる。つまり、「背景事象の状態が然々であるのにも拘らず、中心事象が終わらない(始まらない)」という、中心事象が期待はずれの挙動をしていることに対するギャップへの態度である。もしこの態度が無いのであれば、xa'o と za'o の範囲は中心事象のみで、つまり ca'o によって語られるはずである。

同様に、"opposite" な {xa'o} と {co'a} についても考えてみる。


natural beginning point がさっきとは異なり、co'a よりも早く登場しているスキームである。

これは実はさっきよりも素直に考えることができて、「中心事象を始めさせる傾向をもつ遷移後状態になってもまだ中心事象が始まっていない」という状況を表している。これも先ほどと対照してみれば、{pu'o}を使うのが筋であり、{ba'o}と同様、{pu'o}には基本事象線の{co'a}の前という基本的な意味と、"natural beginning point" とそれより遅い {co'a}の間の範囲という背景事象と関連する意味があることになる。「遅延のpu'o」とでも言えばいいかもしれない。

mo'u と natural beginning point は対照的である。が、xa'o と za'o も対照的であるかどうは一考の価値がある。なぜなら、そのような意味での pu'o と  ba'o がいるからである。

「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもつにも拘らず、中心事象はそのよう(開始/終了)でない」 という状況を表しているのは、pu'o と za'o である。一方で、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもち、それゆえ、逆に遷移前状態ではそう(開始/終了)でない傾向があるにも拘らず、中心事象はその(開始/終了)ようである」という状況を表しているのは xa'o と ba'o である。

そのため、pu'o や za'o では「まだ」という副詞が、 xa'o や ba'o では「既に」「もう」という副詞が使われる。この点でも、それぞれでの共通点が見える。

この共通点のことを念頭において、もう少し探ってみる。


この図では broda な中心事象と na broda な中心事象の2本の中心事象線を引いている。これらは排他的な関係であり、一方が真/偽のときもう一方はそうでない事象であるとする。

このとき、少し面白いことがおこる。 natural point と 中心事象のON/OFF点の間の範囲を見てみると、{broda}な事象ではそれは za'o であり、{na broda}な事象ではそれは pu'o である。両方とも訳すときに「まだ」を使っているのは、za'o と pu'o が、中心事象のON/OFFの構造の違いにすぎないからなのだろう。もちろん、xa'o と ba'o でも同じである。

つまり、次のような等式が類推できる:

za'o broda = pu'o na broda ・・・ ①
xa'o broda = ba'o na broda ・・・ ②

ちなみに、基本事象線上の ba'o と pu'o の意味を使うと、次のような等式もえられる:

za'o broda = na ba'o broda ・・・ ③
xa'o broda = na pu'o broda ・・・ ④

①と②で broda を na broda に置き換えると、

za'o na broda = pu'o broda ・・・ ①’
xa'o na broda = ba'o broda ・・・ ②’

①’、②’の右辺をそれぞれ④、③の右辺に代入すれば、

za'o broda = na xa'o na broda
xa'o broda = na za'o na broda

が得られる。この等式は
https://groups.google.com/forum/#!msg/lojban/anpbQH1pFHw/jkP7B5hEFeMJ
において、la xorxes が述べているものと一致している。

ちなみに、この等式自体は、味噌煮込みアスペクト論でなくても導くことができる。味噌煮込み論が提唱しているのは、"natural point" の起源(すなわち、背景事象)である。味噌煮込み論は今までのアスペクトを破壊するものではなく、今までのアスペクト体系の基盤を(理論によって裏付けられた)確固たるものにするためのものである。

先ほど述べた、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもつにも拘らず、中心事象はそのよう(開始/終了)でない」 という状況と、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもち、それゆえ、逆に遷移前状態ではそう(開始/終了)でない傾向があるにも拘らず、中心事象はその(開始/終了)ようである」という状況の2つ、そしてこの2つであることだけが 「まだ」 "yet" と 「既に」 "already" の意味ではなかろうか。つまり、日本語では「裏切られ」の態度の種類としてこの2つが、中心事象の構造と関係なく捉えられているのではないだろうか。「そうあるべきところでそうでない」という裏切られ(yetな裏切られ)と、「そうあるべきでないところでそうである」という裏切られ(alreadyな裏切られ)の2つがあるのだろう。


最後に、 "natural beginning point" について追記しておく。ロジバンでは "natural end point" には {mo'u} が割り当てられているが、 "natural beginning point" には相当する語句がない。私は試験的cmavoとして暫定的に{xo'u}を割り当てたが、案の定、現在の理論基盤のない状況ではコメントとして「それは{co'a}と何が違うのか」というものしか得られなかった。味噌煮込み論では、{xo'u}はどのような状況を表すのか(そして、より重要なのが「どのように訳せるのか」)を見てみたい。

とはいえ、上のスキームを見れば、想定される状況の把握は容易である。mo'u点が、背景事象の終了志向の遷移後状態への遷移を表しているのだから、xo'u点は、背景事象の開始志向の遷移後状態への遷移を表している。mo'u点は「終わるべき点」なのだから、xo'u点は「始まるべき点」である。つまり、「(ある状態変化によって)中心事象が始まるべきときがきた」というのが {xo'u} の意味するところである。実際、mo'u点も「中心事象が終わるべきときがきた」と訳すのが最も一般的で良いはずであるが、実際には co'u点とmo'u点が一致しているような物言い(「~し終える」)が主流である。英語でいえば "It's time for XXX to end/start" とかだろうか。

「もう行かなくては」という表現はふつう {ei mi cliva} を使うだろうが、これを {mi xo'u cliva} としてもいいという話。

実はこの{ei}を使う文と xo'u や mo'u を使う文というのは結構互換が効く。

ei do sipna / 君は寝なければならない。
do xo'u sipna / 君が眠るのを始めるべきときがきた。
do mo'u cikna (=na sipna) / 君が起きるのを終えるべきときがきた。

xo'u broda = mo'u na broda であることに注意。

------------------

mo'u や za'o, xa'o, xo'u といった、背景事象を伴うアスペクトのことを相対的アスペクトと呼べば、それに pu'o や ba'o も含まれるだろう、というのが今回の話。もちろん、pu'o、ba'o には絶対的アスペクト(基本事象線のアスペクトのこと)的意味もある。

2015/08/09

アスペクトの2カテゴリー

アスペクトとは?と聞けば、大体の人が 「述語が表す事象の完成度を表す」 だとか 「事象の進捗具合を表す」 だとか 「事象がどの段階にあるのかを表す」 とか言ってくれます。

Wave lessons の言葉を借りれば、"event contour" 「事象線」 に関する諸々がアスペクトだと言えます。「事象局面」とか、僕はときどき使います。

しかし、完結相や習慣相、経験相のことを考えると、アスペクトの定義として「事象局面」は十分ではなさそうです。たとえば、完結相をwikipediaで引いてみると:
完結相(かんけつそう、英語Perfective aspect)とは言語学で、一回限りの事象を時間経過と無関係に(点として)表現する相をいう。
とか、「出来事を全体としてとらえる」と説明されています。ううん、完結相というのはむしろ「事象の段階」に触れずに出来事に言及する態度です。

完結相はロジバンでは co'i で表されます(関連記事)。瞬時相とも呼ばれます。別に、その出来事が実際に瞬時に起こったというわけではなく、その出来事に対する話者の態度が「瞬時的」ということです。「点として」とか「時間軸上に幅をもたない」とかとも形容されますが、要は発話時点にその事象が覆い被さる心配がないってことを意味しています。

ロジバンのテンスというのは、時間軸上の言及している部分以外での成立の是非を含意しません。

ti pu crino / これは過去において緑だった。(=これは緑色だった。)

は、「今現在は緑ではない」を含意しません。過去の1点に目を向ければ、そいつは緑だったよ、しか言っておらず、現在においてそれがどうなのかについては言っていないわけです。日本語訳からは、そのような印象は受けないはずです。むしろ、今は緑ではないと思うのではないでしょうか。

ロジバンと日本語の違いはどこにあるかといえば、まさにこの表現の相にあります。ロジバンでは相は不定ですが、日本語では完結相が想定されています(たぶん)。つまり、日本語においては、その事象(これが緑であること)が発話時点に覆いかぶさっているかどうかを心配しなくていいわけです。被さってない!

・・・・と、完結相について簡単に説明しましたが、とりあえず、開始相や、進行・継続相、完了相といったような、事象の局面を表したものとはまるで異なります。

というわけで、個人的には、アスペクトには2つのカテゴリがまずあると思うわけです:

・ 事象局面系
・ 事象分布系

事象局面系はいわずもがな、いわゆるよくいわれるアスペクトのことです。事象分布系というのは、「時間軸上のある範囲に、表現される事象がどのように分布しているか」を表します。完結相はどちらかといえば、この事象分布系のアスペクトです。着目している時間軸上の1点(これはテンスで表されます)に1点だけぽつんと事象があるよ、ということを表すのが完結相です。

習慣相や経験相は事象分布系に属すると考えると理解しやすいです。この2つも、時間軸上で事象がどのように分布しているかを表します。習慣相では、事象1つ1つ(この1つ自体は完結相的な態度でみるべきです)が習慣的な間隔をもって時間軸上に配置されているさまを表します。経験相は、注目している時間軸上の1点よりも前の範囲において、事象が少なくとも1つはあることを表します。

事象分布系のアスペクトは事象局面系のアスペクトよりもマクロな視点であることに注意してください。事象局面系のアスペクトは事象の内部に視点を向けていますが、事象分布系のアスペクトはむしろ内部には目を向けず、その事象全体を1つとし、それら(いくつかの事象全体)がどのように分布しているかを表します。この視点のシフトがどうにも重要そうです。

-----------------  以下、ロジバン ---------------

事象局面系は ZAhO なのは明らかですが、事象分布系はというと、TAhE や ROI に相当します。しかしながら、BPFKやCLLでは、TAhE はどちらかというとテンスの方に含んでいるようです。日本のwikibooks ではなぜか TAhE を相制詞としており、その影響もあってか、日本語辞書では、TAhEは相制詞です。

そのこともあって、ロジバンでは「アスペクト」といえば「事象局面を表す語のことだ」となるので、まあそれはそれでありがたいわけではあります。

実際、たしかに ta'e や su'oroi はそれぞれ習慣相、経験相とみなせます。それから、di'i 「規則的に」, na'e「典型的に」 も事象の分布の様子が規則的/典型的であることを表しているので、事象分布系の1つと考えてよさそうです。しかしながら、事象分布系という視点でTAhEを見ると、ru'i だけは少し妙です。ru'i は、指定された時間軸上の範囲において「ずっと」「継続的に」その事象があるということを意味します。他のTAhE cmavo は co'i 的な事象を時間軸上の指定範囲にバラまいて(いや、もっと丁寧に!配置して)いましたが、ru'i だけはそのような挙動を示しません。 co'i の「点な感じ」と、ru'i の「幅広い感じ」が見事にミスマッチしているわけです。

ですが、これらを併用することは可能です。むしろ、ru'i はデフォルトで co'i 相でさえあると思われます。一見矛盾しているように見えますが、ru'i は co'i 相の「全体性」というところを上手く使うわけです。たとえば、

mi ru'i bajra

では、相が不定なため、もしかすると

mi ru'i pu'o bajra / 私は指定された時間範囲中ずっと、走ろうとしていた。

とか

mi ru'i ba'o bajra / 私は指定された時間範囲中ずっと、既に走り終わっていた。

というようなことも意味できないことはないわけです。おそらくは、

mi ru'i ca'o bajra / 私はずっと走っていた。

がほとんどのケースで意図されるとは思われます。しかしこれが「走り始めと走り終わりはこの時間範囲の中にはなかった」ということをも意味していることには注意すべきです。つまり、走ろうとしているところ、走り始めたところ、走り終わったところといった「走り全体の一部」は指定された時間範囲から漏れでています。結局、そういった、走り全体の一部をもその中に詰め込んで、きっかりちょうど、その時間範囲内で「走り全体」が完結する(そして、それは継続的なものだった)とするには、

mi ru'i co'i bajra / 私は指定された時間範囲中で走った。

とするしかないのです。そう考えると、確かに ru'i は他のTAhEと比べると事象分布系から常軌を逸したものとなっていますが、co'i的な事象を使っているということを踏まえれば、『引き延ばした事象分布』としてなんとか受け入れられるように思います。

ちなみに、TAhEを単にテンスの一部として扱うことへの抵抗感というのは、TAhE と ZAhO を併用したときにおこります。

mi ta'e co'a bajra / 私は習慣的に走りだす。

…? ふつう、ランニングの習慣があるときに、私たちはランニングの過程の一部(たとえば、開始点)が習慣的に分布している、だなんて言わないわけです。

mi ta'e co'i bajra / 私は習慣的に走っている。

こっちのほうが断然自然な物言いです。しかしながら、この不自然さが自然言語では表現できなかったがゆえのものかもしれないことは十分に注意しておくべきで、もっと言えば、事象分布系がアスペクトに属しているのは、単に自然言語での文法形式がたまたま事象局面のものと同一であったからにすぎなく、それ以外に根拠はない(実際にはまったく独立した文法形式をとれうる)可能性だってあります。…が、この話はここまでにしておきましょう・・・。

少なくとも、自然言語的な間相制観、すなわち、あるテンス表現に対して想定されやすい相というのが自然言語レベルでは存在するということは頭に入れておくべきでしょう。それが、因果的なものであるか、単なる傾向性でしかないかは、それこそロジバニストの使用傾向で明らかになってくるかもしれません。

僕としては、まあやはり、BPFK様に逆らわずにテンス表現の1つとして受け入れたほうが楽かなと思いますw

2015/08/07

ロジバンのアスペクト観 - xa'o を 『論理的に』 再定義する

タイトルの「論理的に」は皮肉です。

ロジバンのアスペクト観(独自考察)をまとめておきます。

ロジバンの最も基本となる事象線は次の5相からなると考えられます:



これは(少しズレますが)いわゆる「活動(activity)」「状態(state)」と相性のいい相体系です。
atelic な事象ですね。目的のない(達成したい状態がない)事象は大体これです。

さて、mo'u と za'o というのは、端的に言って、別の事象線との相対的な関係によって定まる相です。
別の事象線というのは、目的の(達成すべき)事象の事象線です。

この関係を示しているであろうのが zukte です:

x1 は x2 (行動内容)を x3 (目的/目標)のために行為/実行する

lo se zukte を行うことで、lo te zukte を成就しようとするわけです。
ここで、中心となる事象線を selzu'e線、目的の事象の事象線を terzu'e線 と呼ぶことにします。


selzu'e線の構造はほとんど全くさっきの基本事象線であることに注意してください。
これに対してterzu'e線が平行しているところがさっきと違うところです。
terzu'e線の構造も基本線ですが、もっぱらフォーカスは前半部分に当てられます。

このterzu'e線が平行しているときに、「何かを達成する」という観点が生じます。
「何かを達成する」とは、ある状態を成就するということで、terzu'e線の事象を開始させるということです。

ですので、terzu'e線の構造でいうところの co'a 点に対応するところが mo'u 点になりえます。
ふつうは、ある状態を成就するために行動していたのですから、ある状態が成就してしまえば、行動は止まります。しかしながら、selzu'e線とterzu'e線は半ば独立していますから、mo'u点に延続してselzu'e線のca'o部を維持することは不可能ではありません。この mo'u と正味の終了点 co'u の間が za'o です。

mo'u と za'o は terzu'e線と関連することで初めて出てくる観点であることに注意してください。

それから、もちろん、mo'u と co'u が同一点であることがしばしばあります。つまり、za'o段階が無いわけですが、さっきも言ったように、ふつうは成就してしまえば行動を止めるはずですから、za'o の段階はふつうそんなに生じません。すなわち、大体において、mo'u と co'u は同一点です。

さて、これを踏まえて、xa'o を『論理的に』再定義してみたいと思います。xa'o の現行の意味としては「自然な開始時点(natural beginning point)より前に開始してしまっている」「早すぎるスタートだ」くらいで、いうなれば「フライング」を意味します。辞書的には、xa'o は za'o の正反対として定義されています。この「自然な開始時点」というのを上手く定義してやろうというのが今回の目標です。

少し(かなり)視点をがらっと変えてみます。

natural な point というのは、「2状態間の遷移点を、中心事象に結びつけた」ものです。natural end point でいうと、非terzu'eからterzu'eへの状態遷移の点(さっきまでは terzu'e の co'a点と言っていたもの)を、中心事象と結びつけたものが mo'u に他ならなかったわけです。ではなぜこれが "end" なのかといえば、それはもっぱら、大体その遷移点を以って中心事象は終わりを迎える(ことが多い)からです。つまり、その遷移点が中心事象に対して終了志向をもっているわけです。

じゃあ、これを beginning にそのままもってくるとどうなるかというと、「開始志向の2状態間の遷移点を、中心事象に結びつける」、すなわち、ある状態Aからある状態Bへの状態遷移点が、それを以って中心事象が大体始められるようなものである、ということになります。図を見たほうが早いですね。


mo'u の点が、ある2状態間遷移点であり、中心事象をしばしば終わらせる点であることと対応して、natural beginning pointも、何らかの2状態間遷移点であり、中心事象をしばしば始める点であると定義できます。そうしたときに、xa'o は co'a と natural beginning point の間の段階としてかなり素直に定義できます。これは「開始志向をもつ遷移点に対応する点に先立って既にそうである」ということを表しており、まさに現行の「フライング」の意味です。

mo'u とパラレルであることを示すために、natural end point のほうも書きなおしてみます:


結局、俯瞰図としては次のようなものが得られます:


他の状態間遷移と相対的に定められる相として、mo'u, xa'o, za'o を統一的に定義することができました。個人的にはこれが一番しっくり来ます。

形式上はかなり対称性があってキレイですが、捉え方に少し注意が必要です。natural end point では、中心事象によって状態間遷移が起こると普通は捉えます。しかしながら、natural beginning point ではその逆で、状態間遷移が起こることによって中心事象が起こると捉えられることが多いわけです。大雑把にいえば、因果が逆なわけです。でも、この因果関係の逆転は、beginning と end が対であることと関係があるかもしれません。

いずれにせよ、この「開始/終了と関連する傾向のある状態遷移点」というのはかなり抽象的に収まってくれており、mo'u の使い方をより一層豊かにしてくれるかもしれません。この見方では、いわゆる「完了」というのは「目的」だけでなく「目処」によっても生じることができます。つまり、進捗が上がらなくても、完了しうるわけです。たとえば、「15時まで正座をする」とき、正座をすることそれ自体が時間を進めるわけではありません。しかしながら、その事象になんらかの目処があることを想定していれば、それは完了することができるわけです。「映画が終わるまで席を立たないでいる」のほうが分かりやすいかもしれません。このとき、「席を立たないでいる」ことそれ自体は「映画の進展」に影響しません。もし、「マラソンを完走するために走る」というような構造をこの退屈な映画鑑賞に適用するとすれば、たとえば、座椅子がボタンになっていて、そこに人が座っていないと映画が止まってしまうような状況が考えられます。このときは、座り続けることがそのまま映画の進展に影響するわけですから、事象の様子が少し異なっていることが分かるかと思います。

この観点の優秀なところは、状態の維持もまた完了することができる点にあると思います。ロジバンでは、実際のところ、活動と状態(動的事象と静的事象)を文法的に区別しませんから、このような見方は非常に心強いかと思われます。

最初は「目的事象線の存在がmo'uを生起させうる」と言っていましたが、それをより一般化して、中心事象に平行した(終了志向の)2状態遷移が意識されていることが mo'u には重要であるということになりました。


最後に、少し話はそれますが、まともな相の訳語を考えたので載せておきます:

・ pu'o : 将然・未然相
・ xa'o : 早発相
・ co'a : 開始相
・ ca'o : 継続相
・ mo'u : 達成相
・ za'o : 延続相
・ co'u : 終了相
・ ba'o : 已然相

2015/07/27

"bridi" と "sumti"

参考
[1]:https://groups.google.com/forum/#!topic/bpfk-list/yChr3cGT1_Q/discussion
[2] :
http://mw.lojban.org/papri/gadri_%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6%E7%9A%84%E8%A6%B3%E7%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC#.E8.A4.87.E6.95.B0.E9.87.8F.E5.8C.96

色んなところで、ロジバンには独自の文法用語が存在すると言われています。事実、ロジバンには基本単語レベルで色々な文法用語を備えており、ロジバニストはその用語を使っています。

その独自用語のほぼすべてが gismu や、lujvo 由来のものであり、その用語の正確な意味はPSによって裏付けられます。最近はPSも大分洗練されてきており(年月がある程度経つことで使用の傾向が明確になってきた、という方が正しいかもしれません)、これは各独自用語の意味を明確に捉える足がかりができたとも言えます。そこで、基本的なロジバン文法用語を見直してみよう、というのがこの記事の主旨です。

この整理において重要なポイントは、それぞれの用語の項位置の型です。最もしばしば考えられるのは、そこに入るのは文字列なのか、もっと別のものなのかでしょう。

# bridi
{bridi} はもっともよく使われるロジバン用語です。現時点で、PSは次のように定義されています。

x1 (du'u) is a predicate relationship with relation x2 among arguments (sequence/set) x3.

ポイントは、「bridiのx1は命題(閉文の内包)が入ること」です。[1]において、selpa'i氏の例文:

 .i lo du'u mi prami do cu bridi lo ka ce'u prami ce'u kei mi ce'o do

が示すところによれば、

・ lo bridi : 命題(lo du'u [命題文] に相当するもの)
・ lo se bridi : 属性・関係 (lo ka [属性/関係文] に相当するもの)
・ lo te bridi : その命題の属性・関係で結ばれている対象の集合列

となります。selpa'i氏、guskant氏がこの例文に同意し、xorxes氏はツッコミを入れていないということを見る限り、これは現在のロジバンで合意が取れた事実と考えてよさそうです。

selbri や terbri は bridi を単に転換したものとして(少なくともロジバン定義では)定義されているので、 selbri は属性・関係を表すのことでなく、命題の構成要素である属性・関係そのものを表すということがわかります。

つまり、

.i lo du'u ko'a broda ko'e cu bridi lo ka ce'u broda ce'u kei ko'a ce'o ko'e

となります。命題文 「ko'a broda ko'e」 の selbri は {ce'u broda ce'u}によって表される関係のことであり、zo broda ("broda"という語)のことではありません。

関連して、最近登録された lujvo に selbrisle があります:

x1 selci lo sinxa be lo selbri

これは、selbri の記号(つまり、ある命題の関係/属性を表す語句)の最小単位(いわゆる、tanru-unit)として定義されており、{lo selbrisle} は語句/文字列のことを指します

# sumti
これもかなりよく出てくる用語ですね。これは、

x1 is a/the argument of predicate/function x2 filling place x3 (kind/number).

と定義されており、x1, x2 は文字列であるという注釈があります。[1]を見ても、{lo sumti} は「話題にする対象を指す記号、あるいはその記号を代入できる記号」と定義されており、たしかに x1 は文字列だろうということが伺えます。

一方で、jbo定義によると、

x1 se tisna x3 no'u pa lo te bridi be x2

でありますが、この時点で食い違いが生じています。 x2 は selbri に相当するので、これは記号ではなく、関係/属性の場所です。{se tisna} は 「を満たす」という意味なので、 「x1 という記号は x3 (terbriの1つ)を満たす」 となるのですが、微妙ですね。

とりあえず、lo sumti が記号であるということを前提に話をするなら、 sumti という語が表す関係性というのは、bridi と違って、統語論的な(つまり語と語の)関係を表していそうです。

となると、少なくとも no'u 以下の部分は

... no'u pa lo te bridi be la'e x2

とすべきでしょう。しかしながら、そうしたところで、{pa lo te bridi} は terbri のうちの1つを指すわけですから、記号ではなく、関係/属性(la'e x2)に取り結ばれた対象を指すことになります。たとえば、

zo mi sumti zo prami lo pamoi

は、「"prami"の表す関係性によって取り結ばれる対象たちのうちの1番目は "mi" によって満たされる」 となります。より良い定義として、

x1 sinxa x3 no'u lo pa me lo te bridi be la'e x2

を提案したいと思います。これで解釈すれば上の文は、「"mi" は "prami"によって表される関係性が取り結ぶ対象たちのうちの1番目のものを指示する」となります。

bridi が [1] で命題を表すことになったことで、完全に統語論的な役割を表す言葉(今までの selbri に相当するもの)がなくなってしまったように思います。

少し取り留めがなくなってきたので、一旦ここで締めます。


2015/07/16

CLLに書かれた tanru内接続についての考察

参考:http://ponjbogri.github.io/cll-ja/chapter14.html

論じるところを引用する。

(引用ここから)

別々のブリディに展開する法則は、タンル接続の場合必ずしも成り立たない。 例えば、アリスが、青い家に住んでいる人であるとすると、

12.6)  la .alis. cu blanu je zdani prenu
       アリスは ( 青く、かつ、家 ) タイプの 人だ。

は正しいであろう。(jek は、タンルのまとめあげより優先順位が高い)しかし、

12.7)  la .alis. cu blanu prenu .ije la .alis. cu zdani prenu
       アリスは 青い人 かつ アリスは 家の 人

は、「青さ」を持つのは家であってアリスではないため正しくないであろう(アリスが「青い 人」であるというのはどういう意味かというのをさしおいても。青チームに所属しているかもしれないし、青い服を着ているかもしれない)。タンルは意味的に曖昧であるため、こういった論理操作ができないのである。

(引用ここまで)

さて、論点は「12.7は本当に正しくないのか」ということです。CLLでは「「青さ」を持つのは家であって、アリスではないため正しくないだろう」と書いてありますが、はて、どうしてアリスが「青さ」を持つ必要があるのでしょう?アリスは「青さ」と関係があればよいのであって、アリス自身が「青さ」を持つ必要はないでしょう。

仮に、

la .alis. cu blanu je prenu

であれば、確かにアリスが青さをもつ必要はありますが、ここでは blanu は seltau です。

blanu prenu では、blanu の位置のどこかと prenuの位置のどこかがある関係Rで繋がっていることになります。それぞれ b1, p1 とすれば、

b1 co'e p1

なる命題がなにかあれば(要は co'e に具体的になにかがあれば、ということでもいいですが)、12.7 は特段変ではありません。

ここで、 b1 zdani p1 なる関係 {zdani} を想定することは可能です。そしてそれはまさしく

12.6)  la .alis. cu blanu je zdani prenu

が意図するものと同じではないですか。というわけで、12.7 は別に正しくないことはないんですよね。

つまり、12.7 の前文は「アリスは青的人だ」ですが、この解釈として、「アリスは自らの家が青い的な人だ」はまったく健全です。

tanru は意味が曖昧だからこういった論理操作ができない、とのことですが、むしろ、意味が曖昧だからこそこういった論理操作に頑健なんではないでしょうか…。

2015/07/06

NAhEについて少し

BPFK sections を読みながら、NAhEについてメモ。

今のところ、NAhEには je'a, na'e, to'e, no'e がある。
いずれも NAhE というのは 述なれ語(selbrisle)を別の述なれ語に変換するコンバータの役目がある。


je'a は恒等変換である。例えるなら「×1」。変換前後で意味を変えない。
…が!大体の人は「実に」とか「本当に」とかで変換前後を訳し分けている。

to'e は意味を反対にする。例えるなら「×(-1)」。要は反意語・対義語を作る。

no'e は意味を中立にする。BPFK sections 的にいえば、「neutral meaning between the original meaning and its opposite」で、「原義と反意の間の中立の意味」。多分、足して2で割ればよく、「×(1 + (-1)) / 2」であり、つまるところ例えるなら 「×0」です!

そして、一番理解しにくいのが na'e。これだけは数字の演算で表わせないのでイメージしにくい。BPFK sections では "a complementary meaning, such that they can't both be true at the same time." 「同時に真になりえないような、相補的な意味」 なので、補集合の元のようなイメージをもてばいいんでしょうかね。あえて書くとすれば、「x ∈ S ー {a}」とか。

ここのところは少し確信がもてませんが、おそらく、 na'e na'e broda ≠ broda です。 na'e broda は broda 以外のどこかであり、na'e na'e broda は na'e broda 以外のどこか、つまり broda 以外のどこか以外のどこかですので、broda 以外でもありえます。この辺りが na'e の面倒なところです。

基本的に、NAhEを考えるときは、broda (あえて書くなら je'a broda)を 1とし、 to'e broda を -1 とするような数直線を考えることが多いです。このとき、0 が no'e broda になるのはわかりますね。この数直線のことを僕はスケールとか概念スケールとか brodaスケールとか、いろいろと呼びます。

NAhEで気をつけるべきは、broda を 1 とするスケールは往々にして複数ありえるはずだ、ということでしょう。簡単にいえば、brodaの反意語というのはいろいろ考えられうるということです。成犬の反対は…、子犬、かもしれませんし、ある人にとっては、成猫かもしれません。ここにNAhEの面白みとリスクがあるわけです。

milxe や mutce は NAhE のように使われることが多いですね。試験的cmavoに rei'e や sai'e というものがあります。例えるならそれぞれ、「×0.5」と「×2」とかでしょうか?

なお、na'e と na の違いはどこにあるかといえば、na'e は brodaスケールの broda 以外のところ、と言うのに対して、na ではそもそも broda スケール上に然るべき点がないことも意味しえます。

ti na'e nanmu / これは非男だ。
ti na nanmu / これは男であるというのは真でない。

ここで to'e nanmu = ninmu となるような nanmuスケールを取ることにすると、前者では、「これ」は男ではないが、少なくとも性別という概念(中性もそこに含めるとして)には乗っかっているというニュアンスになります。つまり、「これは男以外の性だ」くらいに訳せます。一方で、後者の文では「これは石ころなんだから、性別とかないよ」と続けることもできます。つまり、そもそも性別のスケール上で ti が論じれるものでない、ということを意味しうるのが na の文です。もちろん、大体の使用において na = na'e だとは思います。

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追記:
NAhEが重ね掛けされているとき、それぞれのNAhEが同じスケール上の話をしているとは限らない(人間の性向から、ほとんどの場合、同じスケール上の操作だとは思うが)。確かに、同じスケールでの操作ならば、to'e to'e broda は broda と等しくなるが、to'e broda の点で2つのスケールが考えられるときはそうは行かなくなる。

かなり単純な例として、broda = (1, 0) とし、x軸方向のスケールで to'e をとると、 to'e broda = (-1, 0) となる。これを brode とする。このbrodeはy軸方向のスケールが考えられ、このスケールの中心が (-1, 1) とすると、 to'e brode = (-1, 2) となる。

結果として、 to'e (to'e broda) = (-1, 2) ≠ (1, 0) = broda となる。わざわざ座標を設けてまでする話ではないけれども…。

BPFK sections - noi/poi と少しの考察付け

今後書く記事のために、いまいちど該当箇所を訳しておく

# noi (NOI)
 付随的(非制限的)関係節マーカー。

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象についての追加情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「非制限的(non-restrictive)」は、noi節の情報が、先行sumtiが参照する物々の集合を制限するのに用いられないということを意味している。noi bridiは先行sumtiの指示対象について追加的な情報を与える。

noi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

論理スコープの観点からみると、noi節のスコープはそれが含まれる言明のスコープの完全に外側にある。すなわち、そのスコープはnoi節を含んでいるスコープが終了した直後に発生する。noi節は、スコープの観点からは、noi節を含む文と、それと論理接続されている全ての言明の後に、それ自身の事実上の文(技術的には、形式文法でいうところの、それ自身の『statement』部)において生じるとみなされるべきである。

noi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、noi節は kuの内部にあるとみなされる。


# poi (NOI)
制限的関係節マーカー

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象について特定するような(specifying)情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「制限的(restrictive)」は、poi節の情報が先行sumtiが参照する物々の集合を制限するために用いられるということを意味している。換言すると、poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている。

poi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

非量化sumtiでは、poi節はそのsumtiの指示対象すべてから、それを満たすもののみを選り抜く。内部量化詞があるとき、その量化詞はpoi節を満たす指示対象がいくつあるのかを示す。量化sumtiでは、量化はその節を満たすsumtiの指示対象の上で行われる。

poi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、poi節は kuの内部にあるとみなされる。

---------------------------------------------------------

このBPFKsectionsの定義で一番悩むのが、「先行sumtiの参照する物々」のところなんですよね。そして、noiの「集合を制限しない」というところ。それから(これが一番の悩みの種なんですが)「poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている」の部分。

個人的には、おそらく、poiの説明は非xorlo的であると考えています。だって、「たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる」というのは xorloっぽくないんだもの。

この "for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed" というときの "can be" は「誰にとって」の可能性なんでしょうね?…というところが焦点です。

xorlo では lo broda = zo'e noi ke'a broda の等式が成り立つわけですが、もし {lo dacti} が実に大量の物々でありうるのであれば、{zo'e}はそりゃもう、{lo dacti}以上に大量の対象を指しうるはずです。しかしながら、そうであるにも拘らず、lo broda の定義には noi が使われています。

ここで立てられるひとつの推測は、xorlo以降のロジバンで使われる(非量化的な場合の)「制限的」というのは、聴者のためにあるのではなく、もっぱら、話者のためにのみぞある、ということです。もし、「制限的」、すなわち、「先行sumtiの参照する物々の集合を制限する」 poi が聴者のためにあるのなら、lo broda = zo'e poi ke'a broda でないとおかしいでしょう、と思うわけです。

先行詞それだけでは具体的に何を指しているか分からないから、制限的な関係節によって、その候補を狭めてやる、というのは、英語において言えることではありますが、思うに、英語の名詞は形式論理に書き写すとき、すべて外部量化詞の形(すなわち PA da)で写されるはずなので、同じ論理を xorlo世代ロジバンに適用することができません。

次に、zo'e は代詞であって、だから、poiとnoiの使い分けが『普通のsumti』とは変わってくるんではないか?という反論も期待できます。しかしながら、多くのロジバニストが同じく代詞である ti, ta, tu においては臆面なく poi を使っている場面が散見されることをみるに、おそらく代詞だから云々という主張は退けられます。

結局、zo'eのような話者以外(場合には話者にとっても)にとって実に様々なものを指しうるsumtiに対して noi を使える事実を踏まえれば、poi の役目というのが自然と見えてきます。

聴者の立場から文を眺めることをやめ、発話者の立場から文を眺めることにすれば(個人的には xorloではこっちのスタンスなのだと考えている)、lo broda と、それを還元した zo'e は全く同じ対象を指示しているはずなので、「指示対象の集合を制限する」という発想はおかしいわけです。 強いてすることがあるとすれば、他者がこの文を(つまり、zo'eが何を指しているのかを)自分の意図した通りに理解してくれるよう注釈をつけることくらいです。発話者の立場からすると、lo broda を zo'e noi ke'a broda とするのは至極もっともらしく理解できます。彼にとって、 lo broda とは zo'e であり、この zo'e は厳密に lo broda なのです。

こう考えたときに、では、「指示対象の集合を制限する」とはどういうことかといえば、話者が想定している然々の指示対象をさらに縮小していくという操作に他なりません。つまり、「~のうち...であるもの」という表現に使われるのが poi ということになります。このとき、 zo'e poi broda は、「zo'eの指示対象が漠然としているから、brodaによって縛っている」のではなく、「zo'eの指示する対象のうち、brodaなものをさらに選り抜いている」ことになります。BPFK sectionsのformal definitionsに倣うと

zo'e poi broda = zo'e noi me zo'e je broda ≒ zo'e noi ke'a me zo'e gi'e broda

です。ここで、noi前のzo'eとme後のzo'eは(ほとんどの場合)別ものです。前者をzo'e1, 後者をzo'e2とすれば、 zo'e1 me zo'e2 の関係ですから、zo'e1 のほうが指示対象をより絞りこまれていることになります。量化項とちがって、定項ではその指示範囲が定まっているという点がキモです。

例として
ti noi blanu cu se zbasu mi

ti poi blanu cu se zbasu mi
を比較してみます。



こんな感じで話者の近くに3つの玉があったとし、青い玉は話者が作ったとします。(他の玉は別の人が作った)

noi のほうでは、 ti は を指していて、他者への気遣いとして noi 節によって、「tiで指しているものは青いよ」と伝えています。
一方、poiでは次のようなことが考えられます。たとえば、tiでのすべてを指示して、「そのうちの青いやつ」として最終的にを指示する方法です。最終的にどちらも「青い玉は私が作った」という意味になりますが、注意したいのは、noi文では ti だけで 青い玉を指示していますが、 poi文では ti poi blanu の句を以って初めて青い玉を指示しています。言い換えれば、noi節の有無は文の内容を変えませんが、poi節の有無は文の内容を変えることがあります。実際、上の指示の具合を固定したまま {poi blanu} を消し去ると、ti はを指しているのですから、この文は正しくなくなります。

…というのは実は前々からずっと書いてきたことです。本当に書きたいのはここから!

上の分析が合っていたとして、ほとんどのロジバニストはそれでもやはり noi を使うべきところで poi を使っているようにみえます。これを救済する解釈はないものかとずっと悩んでいました。

さっきの理屈でいくと、

lo gerku poi bajra / 走っている犬

というのはまず{lo gerku}で(おそらくは)複数の犬を指しておいて、そのうち、走っているやつ、と対象を絞るのがこの表現と取れます。しかしながら、大体の人はこのようには使っていないはずで、実際のところは poi節によって {lo gerku}自体の範囲を制限しようとして使っているはずです。これはあれです、英語ライクな「制限」で、つまりは他者視点からみた「制限」です。これを上手いこと、xorloの「制限」と矛盾なく説明できたらいいのだけど…というのが実のところこの記事で書きたい事柄です(前置き長いな)

今回救済できるのは描写sumtiに関してのみです。描写sumtiでないsumti…まあ要は代項については少し救済できません。とはいえ、代項についてはそんなにトラブルは起きないかなと思っています(なぜかというと、内部量化詞がないからです!)。

救済にあたって着目する点は、「描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる」です。

そして、noiの説明:

selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

と、poiの説明:

selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

がキーです。また、noi節とkuの位置関係による意味の違いとして、BPFK sectionsのNotesにある:

{pa lo ci gerku noi zvati ku} は「そこにいる3匹の犬のうちの1匹」であり、{pa lo ci gerku ku noi zvati}は「3匹のうちのそこにいる1匹の犬」

というのもヒントとして救済していきます。

poiのほうが説明しやすいのでpoiでまず説明していきます。poi節はkuの前に置いた場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示します。言い換えれば、内部量化詞は selbri-poi節複合体に対して勘定を行なっています。例を挙げると、

lo ci gerku ku poi blabi
lo ci gerku poi blabi ku

では、前者がku外に、後者がku内にpoi節が存在しています。このとき、前者では「[sumti] poi ...」の形式がそのまま成り立っているので、

[lo ci gerku ku] poi blabi = lo me [lo ci gerku ku] je blabi

の等式の通りに書き下せます。前者では「白い犬は3匹以下である」ということです。

一方で、後者では、定義通り、ku内にpoi節がある場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示すわけですから、「白い犬は3匹である」ということになります。分かる通り、後者(ku内)の構造は前者のような等式に落とし込めません。ここがミソです!BPFK sections では書かれていませんが、formal definitions を書くとすれば恐らくこうできます。

lo [selbri] poi broda ku = zo'e noi ke'a [selbri] gi'e broda ≒ lo [selbri] je broda ku

{lo [selbri] ku}というsumtiが介在しないことに注意してください。ku内にpoi broda が入りこんでいるとき、ロジバンのpoiは実に英語の制限節らしい振る舞いをするわけです。

私の考えた救済案というのはたったこれだけです。すなわち、もうひとつ formal definition を追加しよう、という非常に単純なアイデアです。

こうすれば、lo ci gerku poi blabi ku が「3匹の白い犬」となるのが、形式定義からもわかります。

lo ci gerku poi blabi ku = lo ci gerku je blabi ku

この、selbri-poi節複合体を仮想的に1つの大きなselbri構造として捉えるという見方によって、(何回も同じことを言っているだけですが)現在のpoiの使われ方を正常なものとして捉えることができます。

noiの場合はどうでしょう?まず、formal definition を見てみますと、

[sumti] noi ke'a broda  = [sumti] to rixirau broda toi

となっております。noi節がただの注釈付である(取り払っても文意が損なわれない)ことがわかりますね。

noi節がkuの外にある場合は、上のformal definition がそのまま適用できます。

lo ci gerku ku noi blabi = lo ci gerku ku to ri xi rau blabi toi

問題は ku内に noi節がある場合です。

lo ci gerku noi blabi ku = lo ci gerku to ri xi rau blabi toi ku

ここでは、lo ci gerku ... ku の構造は noi 節時点でまだ完成していないので、 ri xi rau によって照応できない気がします。多分これも追加でformal definition を入れてやるほうがいい気がします。

lo PA [selbri] noi broda ku = lo ro me lo PA [selbri] ku noi broda ku 

こういう周りくどい定義をしたのは、外部量化のことを考えてです。

PA1 lo PA2 [selbri] noi broda ku = PA1 lo ro me lo PA2 [selbri] ku noi broda ku
PA1 lo PA2 [selbri] ku noi broda = PA1 lo PA2 [selbri] ku to ri xi rau broda toi


後者は {PA1 lo PA2 [selbri] ku} という sumti に noi broda が係っているので、従来の定義式が使えます。
前者は、{PA1 lo PA2 [selbri] .. ku}と未完成な構造の時点で noi broda が入っているので、提案した定義式によって、一旦 {lo PA2 [selbri] ku}というsumtiの構造を完成させ、ソレに対して noi節を修飾させます。そしてそのsumtiを使って、少しまどろっこしいですが PA1 lo ro me [sumti] noi broda ku という変形前と同意(なはずです)の複合体を形成することで、ku内外におけるnoi節の修飾具合を説明できます。

------------------------

noiのほうは少し迂遠な定義式になりましたが、poiのほうが比較的簡潔です。今回特に論じたかったのはpoiの救済ですので、まあこんな感じでいいかなと思います。


2015/07/04

タンルの解釈の傾向を考察する

 タンルはいくらその意味が緩いと言われようと、実際の使用の場をみると、文脈から切り離しても意味が分かるくらいには統一感を以ってその解釈がなされているように思う。

 そこで、あまりに突飛なことをしない範疇で、できる限りその実際の解釈の傾向を法則化してみたいと思う。注意したいのは、これはロジバンの話であるということである!ロジバンの外の現象をロジバンの法則にあまり持ち込みたくないので、できる限りロジバンの中だけで動こうとしている。

 法則は至ってシンプルである。セルタウの項をA1, A2, ... とし、テルタウの項を B1, B2, ... としたとき、ある項 A_n, B_m において、

A_n = B_m

を満たすような解釈がほとんどである。表記上の注意として、これをn=m タイプと書くことにする。また、同じ番号が等しいときをホモタイプ、異なる番号の項が等しいときをヘテロタイプとよぶことにする。

 特によく見られるのが1=1タイプである。 melbi nanmu や kukte plise、 blanu tsani、 barda gerku などがある。例をみても分かるように、この 1=1 タイプはいわゆる「形容詞 名詞」タイプでもある。

 ヘテロタイプの典型例としては gerku zdani がある。これは往々にして、「犬の家」と訳されるだろうから、A_1 = B_2 タイプ、すなわち 1=2 タイプである。「ベビーシッター」を直訳した、 cifnu kurji も同様に 1=2 タイプである。1=2タイプは、PSの傾向として、x2に「~の」や「~を」がくるので、「目的語 動詞」タイプや「所有 名詞」タイプが該当する。 cmana cpare (≒山登りをする)もここに当てはまる。

 あまり見られないと思うが、他のヘテロタイプもある。 karce klama はしばしば「車で行く」となるだろうが、これは 1=5タイプになる。lojbo tavla も恐らく 1=4 タイプだろう。

 さて、この法則は実は原理上のタンルに比べるとかなり束縛した法則である。なぜかというと、タンルは理想的にはセルタウの項とテルタウの項がとある関係Rによって結ばれてさえいればよいからである。しかしながら、ここではとある関係Rとして同一関係(=)を定めてしまっている。この点でこの法則の前提条件は少し厳しい。たとえば、この条件下では

gerku zdani ~ 犬が作った家

という解釈は生起しえないことになる。この記事の焦点は解釈の傾向であり、gerku zdani を「犬が作った家」と解釈する傾向より「犬小屋」と解釈する傾向が強いということを述べるだけにすぎない。よって、もちろん「犬が作った家」も可能性として秘めている。それを認めた上で、「では何と解釈されやすいか」を考えているのがこの記事である。

 ここで、あるタンルがホモタイプかヘテロタイプかを見分ける方法はあるだろうか?恐らく、純粋にロジバン的な答えは用意できない。なぜ、gerku zdani を 1=1(もしくは 2=2)と解釈しないのかという問いに対して、「犬は往々にして家ではないから」としか答えられない。タイプの見極めにまで話を進めることができないのは、この辺りでロジバンの外に出なければならないからである(たとえば、犬や牛の皮を使ってヒトの住まいを作る民族がいたとしよう。彼らにとって gerku zdani はホモタイプである可能性は十分高い)。しかしながら、ごくごくおおよその傾向として、まず我々は(無意識かも分からないが)ホモタイプな読みを試すかもしれない。

 n=m則に加えて、もう一つ、さらに少し強い(しかしごくシンプルな)傾向を加える:

1=m であることが多い

たとえば、これによれば、次の2文のタンルの解釈の違いが説明できる:

do prami ninmu
do se prami ninmu

SE類は述語の項の順番を入れ替えるのみであり、その意味を全く変えない。n=m則において、prami と se prami はまったく同じ項を有しているのだから、傾向に差異は出てこないはずである。しかしながら、実際は出ている。そのための法則が 1=m 則である。

 1=m則が妥当である理由のひとつにPS走査の負担がある。たとえば n=m タイプでは、それぞれ項の数が3つずつの述語からなるタンルだとすれば、9つの可能性がありうる。しかしながら、1=m則の下では、可能性は3つにまで少なくなる。その場で可能な解釈の数を減らすことで、話者・聴者両方の思考の負担を減らせるメリットがある。また、

ko'a broda brode



ko'a FA lo broda ku brode

とロジバンの文法上、非常に簡潔な操作で 1=m タイプの書き下しが可能である点も、1=m則の妥当な根拠の一つになるかもしれない(個人的にはこちらのほうがずっとロジバン的なので、こちらを採用したい)。


 以上では n=m則(1=m則)について話してきたが、実はもう少し拡張せねばならない。例えば次のタンルは n=m 則に当てはまらない:

mi sipna djica / 私は眠りたい

mi が sipna djica それぞれで位置するところを考えてみよう。 mi = djica1 は当然である。 mi = sipna1 もここでは妥当であるが、これを 1=1 とすることは早計だろう。なぜならば、ここでは 1=1タイプであれば正しい書き下し、

mi sipna gi'e djica

は合っておらず、むしろ

mi djica lo nu mi sipna

のほうが正しいからである。一見 1=1 に見えたのは、 djica_1 と、 djica_2 の抽象節内の sipna_1 が等しいからである。このように、n=m則で述べられた「項と項の同一関係」の「項」には抽象節内の項も含まれなければならないように思える。これはかなりややこしい。無理やり書くなら、

sipna djica

B_1 = B_2[A_1]

こうだろうか。しかしながら、次のタンルを考えてみるとこの推察は怪しくなる。

catra minde (ko'a minde fi lo nu .. catra ..)

ここでは、mindeのどの項も、必ず catra のどこかの位置に入るとは限らない(「私は私を殺せと命じた」など、特別な例では当てはまる)。確かに、抽象節内の項も n=m では含まれなければならないかもしれないが、そう考えるよりはむしろ、 セルタウ自体がテルタウの項として働くような場合があるとして処理したほうが理解しやすい。つまり、次のような法則が得られる。

しばしば、いずれかの抽象体(lo su'u broda)がもう一方の項に当てはまりうる

この場合、抽象体となる方を * で表して、

*=m

と表すことができる。たとえば、 sipna djica では *=2 であり、 catra minde では *=3 である。

この解釈が起こりやすい理由のひとつとして、やはりロジバンの文法上、簡易な操作でこの形式に書き下せることがありえそうである。すなわち、

ko'a broda brode

ko'a FA lo NU broda ku brode

と、先ほどと同じくらいシンプルな操作で書き換えが可能であることが理由のひとつかもしれない。

ちなみに、この捉え方では、mi sipna djica の sipna 1 と djica 1 が同一であることまで述べられていない。しかし、*=2タイプで書き換えてみると、これは

mi sipna djica = mi djica lo nu sipna

であり、sipna_1 と djica_1 が同一であるかどうかというのはタンル側の解釈の範疇ではなく、むしろ抽象節側のzo'eの解釈の範疇である。(往々にして、抽象節内の1位のzo'e は本節の1位と同じであることが多いので、ここから sipna_1 = djica_1 が導かれる。しかしながらこれは、抽象節の解釈傾向の話であるので、わざわざタンルの法則に組み込む必要はないだろう。実際、 catra minde でこれが成り立たないのは、minde_3 のとる抽象節のx1は多くの場合 minde_1とは異なるからであり、これはmindeの(つまり抽象節の)解釈の話である。

 n=m則と*=m則のハイブリッドな感じの事例がある。

sutra bajra : 速く走る ~ ko'a sutra lo nu bajra kei gi'e bajra

mutce blanu : とても青い ~ ko'a mutce lo ka blanu kei gi'e blanu

これがさっきと違うのは、x1 は実際に走っていたり、青かったりするところである。つまり、bajra や blanu は抽象体として sutra, mutce の位置に入る一方で、それ自身 x1 に当てはまるのである。これは、

2=* かつ 1=1

として記述できる。短く書くなら、 2,1=*,1 と順序列で書くこともできる。

 これは新しい解釈というよりは、単に複数の解釈が偶然矛盾なく両立しているにすぎない。たとえば、

ra slabu pendo mi / 彼は私の久しい友人だ

では、1=1 であると共に、2=2も成り立っている。このことを、1,2=1,2 と書けば、これは先ほどのものがさして特別なものでないことと感じさせてくれる。実際、多くのlujvoでこのように複数の箇所で連関することはよく起こっている。

 以上をまとめると、タンルの解釈は n=m則(1=m則)と*=m則の2種に分けることができ、しばしばその複合的解釈もなされる。ほとんどのタンルの解釈でこの法則が成り立っていると思う。

2015/04/06

アスペクト(とテンス)の備忘録、もといロジバンの考察

wikipedia - grammatical tensewikipedia - grammatical aspect
wikipedia - Lexical aspect

をつらつらと読んでいた。これは備忘録であって、あまり内容は保証されない。

テンスは「その文の表す事態が発話時点から見て、時間軸のどの方向にあるのか」を表す文法要素で、「過去か今か未来か」を表す要素。もう少し言えば、「その文の表す命題が真である時間軸上の舞台はどこか」を表すもの。「時間軸上の舞台がどこか」というのはつまるところ「それが真であるのはいつか」ということ。

 アスペクトは、「テンスによって表された時間軸上の舞台で、その事態がどのようであるか」を表す文法要素。この「どのようであるか」というのが若干厄介で、曖昧がゆえに、多彩。どのようであるかというのはその事態をどう捉えるのかということであり、それを外からただ眺めるだけなのか、内部構造をもったものとしてみてやるのかがまずある。それから、内部構造をもったものとしてみたなら、その時間軸上の舞台において、言及事態がどのような段階にあるのかという話ができる。また外からただ眺めるだけでも、時間軸上の舞台に幅があるなら、その中でどのように事態が分布しているのか、ということも「どのようであるか」という話に含まれる。
 アスペクトを把握する上で重要なのは、アスペクトの要素はすべてが並列的ではないということを理解することだと思う。アスペクトの中でも上位カテゴリ、下位カテゴリがあったりするし、そもそも事態の分類の仕方が独立なときもある。

また、ふつう言われる「アスペクト」とは異なるアスペクトが存在するらしい。Lexical aspectとか、aktionsartとか言われるらしく、ここによれば、「語彙的アスペクト」とか「行為タイプ」とかと訳せるらしい。とりあえず分かりやすいので「行為タイプ」で通したいと思う。

行為タイプというのは、英文法である「動作動詞」と「状態動詞」というような分類のこと。エスペラントでいうところの「点動詞」と「線動詞」だろう。Vendlerの動詞分類というのがメジャーらしく、それによれば、述語は

  • 達成(accomplishment)
  • 活動(activity)
  • 到達(achievement)
  • 状態(state)
の4つに分類できるらしい。Bernerd Comrie(1976)はこれに semelfactive を加えている。これの訳語が見つからないのだけど、とりあえずはこのままで。

上の5つは3つの二択な項目によって分類される。
  • 動的か静的か
  • 瞬時的(no duration/punctual)か継続的(has duration/durative)か
  • 内在的終了点の有無(telic か atelic か)
下の図はwikipediaからの引用。

No durationHas duration
TelicAchievementAccomplishment
realisedrown
AtelicSemelfactiveActivity
knockwalk
telic/atelic とは、内在的終了点(natural endpoint)があるかないかを表す語であり、その事態に予め決まった終了点があるかどうかを表す。「リンゴを食べる」のはtelicであり、「歩く」のはatelic。

まず、静的なものは状態である。静的なものは状態のみであり、状態は継続的であり、atelicである。

動的なものは残り4種で、先に継続的な2つから説明する。継続的な2つとは達成(accomplishment)と活動(activity)であって、これらは telic か atelic かで区別される。すなわち、達成的な事態は内在的終了点が存在するが、活動的な事態は内在的終了点が存在しない。たとえば、前者は「1枚の絵を塗る」、後者は「歩く」がある。

 ここで注意すべきは、継続的でかつtelicであるということは、達成的な事態というのは「だんだんと仕上がっていく様子」が想像可能ということである。達成的な事態は、だんだんと内在的終了点に近づいていくような事態である。

次に、瞬時的な2つだが、これは到達(achievement)とsemelfactiveが該当し、この2つはtelicかatelicかでやはり区別される。前者は「気付く」とか「発見する」とかで、後者は「叩く」とかがある。

同じことの言い換えだけれど、達成と到達の違いは継続的か瞬時的かの違いであり、「だんだんと内在的終了点に近づいていくような事態かどうか」の違いである。時間経過を横軸に、進捗度を縦軸にプロットするとすれば、右肩上がりのグラフができるのが達成的事態で、グラフが飛び値になるのが到達的事態といえる。

はたまた、活動とsemelfactiveの違いは継続的か瞬時的かの違いで、内在的な終了点が存在しない(原理的には延々と続けることができる)ことは共通で、違いはその述語が連続的な動きの流れを表しているのか、ある瞬間の事態を表しているのかである。「歩く」は連続的な動きの流れであり、「叩く」は瞬間的な事態である。

ロジバンに応用することを考えれば、semelfactiveは正直なくてもいい。まあ、一応こんなのもあるよってことで。

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さてさて。またまたアスペクトに話を戻す。と同時にロジバンではどうであるかも書いていく。

①完結相(perfective)か非完結相(imperfective)か
これは言及事態を「外から眺めた感じ」なのか「内部構造に着目した感じ」なのかの違い(多分)。「外から眺めた感じ」というのは、その事態を包括的に捉えているということ。もう少し砕けていえば、「時間軸上において点的に扱う」ということ(点的に扱えば、内部構造は見えないからね)。

ロジバンでは{co'i}が完結相に相当するが、これは「punctual (perfective) aspect」で、「時間軸上において点的に扱う」という理解で十分。

①-1. 完結相(perfective)のサブタイプ
サブタイプというか、「これを指定するなら、完結相が前提だろう」というような話。たとえば、{puze'a co'i broda}は{ze'a}「時間幅があること」と {co'i}「事態が点的であること」があまり調和していないように感じる。おそらくこれは、「過去のある程度の時間幅のどこかでその事態が起こった」くらいの意味だろうけれど。

TAhE と roi はまさに完結相(co'i)が想定されるはず。TAhEはテンスが定めた時間軸上の舞台において、「事態の分布」を指定し、roiは「事態の回数」を指定する。これらは内部構造に着目するようなアスペクトとあまり調和しなさそうであり、それはおそらく「分布」や「回数」というのが、結構「俯瞰的」なものだからだろう。喩えるなら、街の建物の分布をヘリコプターで上空から調べるときに、わざわざ建物の玄関を探すようなことはしないでしょと。

ちなみに、TAhEの中の ru'i(継続的)だけは co'i と相性が悪そう。これだけは「分布」でなく、指定した時間幅全体においてその事態が生じているということを表すので、…たしかに「分布」であるが、離散的でないので『点』である co'i と相性が悪いんだろう。ru'i だけは co'inai、非完結相と相性がよさそうだ。

ちなみに相性がいいというのでは、{PU ZA co'i broda}は相性がいいはず。というより、英語のsimple tense というのはふつう完結相が想定されているはずなので、「自然言語らしい」という意味で相性がいい。逆に、多くのロジバニストは {PU ZA broda} において、ZAhO として co'i を暗黙に想定しているはず。

①-2. 非完結相(imperfective)のサブタイプ
 imperfective は {ca'o} らしいが、{ca'o}はそれだけでなく progressive でもある。以前は、「continuitive」と定義されていたらしいが、これは間違いだろう(この用語は{za'o}を表す)ということでBPFK sections では progressiveに変更された。でも wikipedia を見ていると、たぶん言いたかったのは continuitive でなく、 continuous だったのではと思う。 continuous は imperfective のサブタイプであり、 progressive と stative の上位カテゴリなのです。progressive は "ongoing and evolving" であって、 stative は "ongoing and not evolving" であるので、前者はもっぱら行為タイプでいうと、達成で、後者はもっぱら状態でしょう。ロジバンはその述語が達成的か状態的かを区別しませんので、ca'o は progressive より、stativeも含んでいる、それらの上位概念である continuous であるとしたほうがベターでしょうね。

 いずれにせよ、imperfective と continuous が同じ語で表されるということは注意しておこう。まあ注意するほどでもなさそうだけれど。っていうか、imperfective は co'inai になすりつければいいんでは…。

② 内部構造に着目したアスペクト
①ではその事態を外から眺めるか否かの話だった(ca'o が continuous なので、一部②の話もしたけれど)。その事態が「どのようであるか」を指定するのには、その内部構造に着目して、テンスが定めた時間軸上の舞台において、事態はどんな段階にあるかを示す方法もある。これは「事象局面」とか「event contour」とかって呼べばいいのかもしれない。

ここでひとつ注意なのが、co'i もたしかに ZAhO ではあるけれど、②には属していないということ。②は横軸に時間経過、縦軸に進捗度をプロットしたグラフで表せるのだけれど、しばしばこのグラフに無理やり co'i を突っ込もうとしているのがみられるので、そんなグラフは見かけても睨めっこしないほうがいいと思う。

②-1. prospective
訳語は「将然」とか「前望」とからしい。「今にも~しそうだ」という感じ。これはロジバンでは{pu'o}。割とそれだけ。

②-2. initiative/inchoative/inceptive/ingressive
訳としては「開始」とか「起動」とか。ロジバンでは{co'a}。BPFK sections では initiative と言っているのだけど、そんなメジャーな用語ではなさそう。inceptive,ingressive は 動的な事態の開始を表すのに対して、inchoative は静的な事態(状態; state)の開始を表すらしい。おそらく、BPFK sections が採用した initiative というのはこの3つ(inceptive, ingressive, inchoative)の上位カテゴリ的な相(さっきのprogressive, stativeに対する continuousみたいな)を想定しているのだろう。

いずれにせよ、「事態の開始」を表す。

②-3. cessative/terminative
terminative は weblio によれば 「終結」 と訳すらしい。wikibooksでは cessative を「停止」と訳している。ロジバンでは {co'u}。重要なのは、これは「その事態が内在的終了点にある」ことを必ずしも意図しないということ。もっと広い意味で「終わる」「止まる」ということ。

ロジバンでは行為タイプを区別しないので、{co'u}みたいな汎用的な終了を表す語が不可欠だよね。

②-4. completive
訳としては「完了」らしいけど、さてこの辺りからね、訳語にブレがね、出てくるよね。"perfect aspect"も「完了相」と訳されるけれど、この2つは違うアスペクトですから。completive はここでは「事態が内在的終了点にある」という意味です。ロジバンでは{mo'u}。「完了点」であり、「完了している」ではないことに注意。

個人的には「完了相」と訳したいですが、歴史が深すぎて誤解が生じる気しかしないので、「完成相」くらいで訳しましょう…。ちなみに、wikibooks では {ba'o}のことを「完成相」と言っているのでまたまたややこしいのですけど。「仕上がり相」とか「内在的終了相」とかのほうが分かりやすくていいかもしれない。

重要なのは、completive相は内在的終了点があるような事態でないと使えないということです。行為タイプでいえば、telicな事態、つまり、達成か到達な事態でしか completive相は使えません。逆にいえば、ロジバンは行為タイプが不定ですから、mo'u を使ったということは、その行為タイプが達成か到達であるということを暗に意味することになります。

②-5. perfect/retrospective
perfect はおなじみの「完了」です。retrospective は prospectiveの対極という意味で使っている用語なんでしょう。「回顧」とか「既往」とかかなあ。「将然」と対応させるなら、「既然」とかがいいのかもしれない。perfect は completive の結果生じている事態を示していて、retrospective は単に co'u の後であることを示しているんでしょう。「既に~し終わっている/止めている」ですね。ロジバンでは {ba'o}です。

②-6. continuative
wikibooksでは「延続」と訳されているので、ここでもこれを採用しましょう。ロジバンでは {za'o} です。これは、「内在的終了点を超えてなお事態が続いている」ということで、ちょっと奇妙なアスペクトです。「1個のリンゴを食べる」ことの内在的終了点は「食べきる」ときですが、それを超えてリンゴを食べることはできません(無いもの!)。延続相で想定されている行為タイプはtelic と atelic の間のようなものだと思います。最も使われるであろうのが、「目標のある活動」です。目標があるという点で telic ですが、それ自体は活動ですから、内在的終了点をすぎても、atelic として活動を続けることができます。

マラソンを想像してみると、「彼はゴールしたのにまだ走っている」というのは、目標のある活動という達成的な事態が完成(completive)し、目標のない atelic な活動がまだ行われているという状況です。

延続相が使える telic というのは、atelic的なtelic事態なわけです。活動やsemelfactiveに「目標点」を貼り付けてできた達成、到達ですね。

ちなみに、状態(state)は必ず atelic かという話もしておきます。たとえば、「座っている」は静的ですから状態で、ふつうはatelicです。しかしながら、「校長先生の話が終わるまで座っている」というような状況では、「目標が達成されるまで状態を維持する」という達成的な事態に変わります。これを状態にもtelicな場合があるととるか、もうこれは既に状態ではなくて、達成であるとみなすかはさておいて、さきほどの atelic的な事態をtelicにしたような事態という構図がそのまま表れているので、za'oが使える状況です。

②-7. pausative
訳は「中断」とか「休止」とか。{de'a}。一時的な終了にあるということですね。co'uとの違いは、話者が再開を見込んでいるかどうかだと思います。

②-8. resumptive
「再開」。pausative で一時的に取りやめられていた事態が再開することを表す。{di'a}。

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さて、ロジバンの述語は行為タイプが不定ということで話を進めてきたが、果たしてそうなのかという話。

反例は簡単に見つかる。{dasni}は "put on" ではなく "wear" の意味である、というのは、述語ごとに行為タイプの傾向があるということだろう。{sanli}や{zutse}ももっぱら状態(state)タイプである。

一方で、{citka}は動的なので状態タイプではない。また瞬時的でもないので、活動か達成タイプのどちらかだろう。

・・・本当か?{citka}は動詞的でもあれば、形容詞的でもあるはず。"is-an-eater"という意味もあるのだから、静的な事態も表し得るのでは。たとえば、

ra co'a citka lo plise

は、静的な関係、つまり、「リンゴを食べれるようになった」くらいの意味にできるのでは。

いずれにせよ、述語がtelicかatelicかということについては、話者の態度によるところが大きいだろうから、不定として問題ない。そして、述語はすべて動的でもあり静的でもあるからこれについても不定で問題ない。残るはno durationか has duration か、つまり、瞬時的か継続的かの違いである。

詳しくは別記事で。

2015/04/05

by standard 再考

by standard の分析 の続き。

以前はcogas個人が独自にあーだこーだと言っていました。
しかし最近、xorxesがgismuのjbo定義をどんどん追加しているので、これを見ると解決するのではないか?と思い、続編です。

おさらいとして、こんな感じに分類できましたね:

① 単位的述語(メートル、キログラム、分、秒、非SI単位)・・・ 36語
② 順序性述語 (長い、重い、遅い)・・・ ~36語
③ 境界性述語 (嘘、真実、悪質)・・・ ~36語
④ 血縁述語 (兄、娘)・・・ 3語

大体100語くらいあったわけですが、現時点でjbo定義がないものは、

clite
linto
litce
molro
nobli
radno
stero
tilju
xadba
xampo

の10単語だけでした。うち、単位系述語が{litce},{molro},{radno},{stero},{xampo}と半分を占めてます。あとは、「軽重」「礼儀正しい」「高潔」「半分」だけですね。いずれできるでしょう。

というわけで、上の①~④の順に見て行きたいとおもいます。


まずは単位系。

delno
gradu
grake
jeftu
kelvo
masti
mentu
mitre
cacra
snidu

基本SI単位系(秒、メートル、カンデラ、(キロ)グラム、ケルビン)、単位(gradu)、時間(秒、分、時、週、月、)の3つに分けられますが、いずれも、"by standard"の位置がjbo定義では消えています。これが「記述不足」なのかどうかはわかりませんが、ひとまずの解答として「気にするな、消してやった」となります。

しかしながら、djedi(日)とnanca(年)だけは、

djedi
x1 se ditcu lo nu mo'e $x_2$ roi mulcarna fa lo plini no'u $x_3$ .i x1 cacra li revo pi'i x2 la terdi

x1(事)は x3(惑星)の x2(数)回の自転に相当する時間; x1(事)は地球でいえば x2(数)× 24時間

nanca
x1 se ditcu lo nu mo'e $x_2$ mulno sruli'u lo se plini fa lo plini no'u $x_3$ .i x1 djedi li 365.25 pi'i x2 la terdi

x1(事)は x3(惑星)の x2(数)回の公転に相当する時間; x1(事)は地球でいえば x2(数)× 365.25日

となっており、djedi を 「惑星が1自転するのにかかる時間」、nancaを「惑星が1公転するのにかかる時間」として再定義し、その基準を「想定している惑星」としています。

(個人的には、太陽年にしてしまって、365.2422倍にしたほうがいいんじゃないかと思います。実際、現代の世界のスタンダードであろう太陽暦はグレゴリオ暦で、これは1年を365.2425日としていますし)

ちなみに他の月・週・時・分・秒について見てみると、

masti
x1 se ditcu lo nu $x_2$ se rapli lo nu lo lunra cu mulno sruli'u lo terdi .i x1 cu djedi li 30 pi'i x2 gi'a jeftu li 4 pi'i x2 gi'a nanca li x2 fe'i 12

x1(事)は 主要衛星(月)が惑星(地球)の周りを x2(数)回公転するのに相当する時間; x1(事)は x2 × 30 日間、または x2 × 4 週間、または x2 / 12 年

jeftu
x1 djedi li 7 pi'i x2

x1(事)は x2 × 7 日間

cacra
x1 klani x2 lo ka lo xo kau boi fi'u re vo si'e be lo djedi cu ditcu ke'a

x1(事)は x2(数)/ 24 日間

mentu
x1 klani x2 lo ka lo xo kau boi fi'u xa no si'e be lo cacra cu ditcu ke'a

x1(事)は x2(数)/ 60 時間

snidu
x1 klani $x_2$ lo ka lo xo kau boi fi'u xa no si'e be lo mentu cu ditcu ke'a .i x1 klani x2 lo sornai rauci'e ni ditcu

x1(事)は x2(数)/ 60 分間; x1 はSI単位系の時間量でいうと x2(数)の量

となっており、sniduにはSI単位系についての言及、mentuは時間から、cacraとjeftuは日間からその意味が得られ、mastiは主要衛星と惑星の関係で定義されています。

いずれにせよ、SI基本単位系についてはSI単位系を参照、djedi, masti, nanca については惑星/主要衛星の公転/自転を参照せよとなっています。

では、"by standard"は一体何を想定していたのかという話ですが、恐らく、「参照する惑星」や「参照する単位系」だったんでしょう。

 jeftu, cacra, mentu, snidu に関しては、惑星の自転(djedi)から意味が得られているわけですから、もし"by standard"を復活させようと思うのであれば、それぞれの定義文のdjedi3(すなわち惑星種)を x3 として採用すればよいかと思います。
 masti も同様に x3 に惑星種を指定してやればよいかと思いますが、主要衛星が2つあったり(ツートップ的な意味で)すると、衛星種を指定する x4 も必要な気もします。ちなみに、水星と金星には衛星がないそうですね。

「別の単位系を使うときはどうすれば?」と思うかもしれません。つまり、「sniduやmitreやgraduをSI単位系だけでなく、その上位概念的なものとして定義して、x3で単位系を指示する」というアイデアもあるかと思いますが、そもそも、英語定義の頃から、これらは metric unit です。すなわち、非metric unit のために x3 を用意する必要はなく、ロジバンはその代わりに「土着的単位」のためのgismuを用意しています。

minli
x1 noi na'o clani tersei cu klani x2 lo ni clani kei ma'i x3

x1 は x3(観点; ma'i)でいうと、長さにして x2(数)だ(ふつう、長めの単位)

gutci
x1 noi na'o tordu tersei cu klani x2 lo ni clani kei ma'i x3

x1 は x3(観点; ma'i)でいうと、長さにして x2(数)だ(ふつう、短めの単位)

dekpu
x1 klani x2 lo ni canlu kei ma'i x3

x1 は x3(観点; ma'i)でいうと、体積にして x2(数)だ

bunda(非メートル的重さ)がまだ定義されてませんが、{tilju}{linto}がまだなので、さもありなん。


次に飛びますが、簡単な血縁述語を見ていきます。

bruna
mensi
兄弟、姉妹の2つですが、この"by standard"は tunba3 に等しく、

tunba
x_1 is a sibling of x_2 by bond/tie/standard/parent(s) x_3.

さらにこれは、dunli3

dunli
x_1 は x_2 と x_3 (性質)に関して同等

と等しいとされていますから、血縁述語の "by standard" は 「(ka)な位置」と言えるでしょう。

つまり、「どういう点で兄弟(姉妹)なのか」というのを表しているわけですね。

また、lanzu3 は ckinysi'u2 と同じ、つまり、やはり「どんな関係で家族なのか」を指定します。

②③
とりあえずこれら:

banli偉大
cafne頻発
certuベテラン
cinse性的
citno若い
clira早い
cnino新しい
drani正しい
glare熱い
jinsa清い
jmive生きている
kanro健康だ
kargu高級
laldo古い
lenku冷たい
lerci遅い
mulno完全
nanla息子
nixli
panra対応的
plana太っている
pluja複雑
ruble弱い
slabu馴染みある
srera間違っている
tsali強い
verba子ども
virnu勇敢
vitno永久
xamgu良い
xlali悪い
zasni一時的
dizlo低い
galtu高い

については、"by standard"の位置が消えています。ラッキーなことにほぼすべて「わけわからん」やつだったので、こちとら大歓迎です。

では、"by standard" が無事残っているのは…?というと、大きくわけてやはり2つです。

1つ目:cnano3(標準/平均/スタンダードのための集合/群れ)

barda大きい
caxno浅い
cinla薄い
clani長い
cmalu小さい
condi深い
ganra広い
jarki狭い
tordu短い
rotsu厚い
これらの"by standard"の位置は cnano3 が入ります。つまり、「大小」「浅深」「細長」「広狭」「薄厚」というのは「より~だ」という意味であり、「ある集団の中で平均より上だ」ということになります。

ちなみに、これらはすべて{barda}{cmalu}に還元されます。caxnoとcondi以外は、

x1 barda/cmalu x2 noi XXX cimde x1 ku'o x3

という形式です。一応見てみると、

clani/tordu
x1 barda/cmalu x2 noi brarai cimde x1 ku'o x3 (最大量の次元)

rotsu/cinla
x1 barda/cmalu x2 noi cmarai cimde x1 ku'o x3 (最小量の次元)

ganra/jarki
x1 barda/cmalu x2 noi remoi cimde x1 ku'o x3 (2次元)

となっています。あとの2つは、

condi/caxno
x1 barda/cmalu x_2 noi farna x1 boi x3 ku'o x4

です。

残り13語、

claduうるさい
smaji静か
jetnu
jitfa
mintu同種
drata別種
racli理性的
fenki狂った
vrude美徳
palci悪質
juxre不器用
melbi美しい
dukse過剰
については、まちまちなので1つずつ見ていきます。

cladu
x1 tsali le ka ka'e se tirna bu'u x2 kei x3

smaji
x1 seltinynalka'e lo'e zvati be $x_2$ ma'i $x_3$ .i x1 se sance no da

「うるさい」「静か」の対をなすはずですが、定義文はあまりそう見えない。

問題は x3 なんですが、 cladu では tsali3 が、 smaji では ma'i = manri1 となっています。
しかしながら、 tsali3 は現行の定義では消えてるんですよね。
そうなると、smaji の定義をあてにして、ここでいう "by standard" は「観点」となりそうです。

jetnu
x1 mapti lo fatci lo ka ce'u ve skicu ce'u fo $x_2$ .i x1 to'e jitfa x2

jitfa
x1 na mapti lo fatci lo ka ce'u ve skicu ce'u fo $x_2$ .i x1 to'e jetnu x2

これも「真偽」の対です。 {lo ka ce'u ve skicu ce'u fo x2} が少し読みにくいですが、

skicu
x1 (者)は x2 (物/事/状態)を x3 (者)に x4 (表現/文字列)によって描写/叙述する

を見ると、直訳は

「x1 と 事実は 「x2 は Y を zo'e に X によって叙述する」という関係を満たす」

くらいの意味になります。意訳すれば、「x1はx2にとって真実/嘘である」で、jinvi/senpi とそんな変わらないような気がしますね。jbo定義的には "by standard" は skicu1 ですが、ニアリーイコール manri1 でしょう。なので、これも「観点」と訳せそうです。現行の「認識体系」でも十分でしょう。

mintu
x1 dunli $x_2$ lo ka ce'u du makau ma'i $x_3$ i x1 to'e drata $x_2$ boi $x_3$ i x1 joi x2 simxu lo ka ce'u ce'u basti x3

drata
x1 frica $x_2$ lo ka ce'u du makau ma'i $x_3$ i x1 to'e mintu x2 boi x3

mintuの方だけ追加で1文ありますが、それは置いといて。見るからに ma'i = manri1 の意味ですね。つまり、"by standard" は「観点」です。


racli
x1 sarxe lo se zanru be lo kanro menli kei $x_2$ .i lo nu x1 ckaji ja zukte x2 cu zabna lo ka se krinu ma kau

fenki
x1 to'e racli $x_2$ .i x1 kalsa lo ka zukte $x_2$ .i lo nu x1 cinmo x2 cu vlile

この2つはjboとengで意味が変わっています。x1が元は「行為・行動」だったのですが、jbo定義では「人」になっています。

sarxe は {x1 ckini x2 x3 ja'e lo zabna ja pluka ja melbi ja to'e vlile} という意味で、意訳すれば「x1 は x2 と x3(関係)で繋がりがあり、その結果、イイ感じなことが起こる」くらいですね。
 結果として、racli2 = sarxe3 = ckini3 なので、 ここの"by standard" は「(関係)」です。しかし、次の定義文では ckaji2 か zukte2 であり、「(性質・事)」です。ここでも x1 は「(者)」となっていて、「x1がx2(事・性質)をする/であるのは、何らかの正当な理由があるという点でイイ感じだ」と、訳が悪いのでざっくりですが、おおよそそんな感じです。

fenkiについても x1 は行動から者に変更されていて、x2 は zukte2 となっていますね。


vrude
x1 zabna $x_2$ ma'i lo marde .i x1 to'e palci x2

palci
x1 mabla $x_2$ ma'i lo marde .i x1 to'e vrude x2

zabna/mabla はそれぞれ、

x1 xamgu ja trina ja melbi ja pluka ja mansa fi $x_2$ fe $x_3$ .i x1 to'e mabla x2 x3

x1 xlali ja rigni ja fegli ja to'e pluka ja na'e mansa fi $x_2$ fe $x_3$ .i x1 to'e zabna x2 x3

なので、ここでの "by standard" は結構幅があります。xamgu3, trina3, melbi3, pluka3, mansa3 のいずれか、 xlali3, rigni3, fegli3 のいずれかですから。「(性質・者)」くらいでしょうか。

(実は、xamgu, xlali, pluka, rigni は x3 が消えてるんですよね)

juxre
x1 zukte ja ckaji x2 gi'e claxu lo ka certu ja stati x2 gi'a melbi fi x2

これは(事・性質)ですね。

melbi
x1 jai pluka x2 fai x3

これについては、審美基準 x4 は消えています

dukse
x1 zmadu lo banzu $x_2$ ma'i $x_3$ .i x1 zmadu lo mansa be $x_3$ bei x2

見るからに manri1 ですから、これは「(観点)」です。

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消えた by standard は一体なんだったのか、という話ですが、おそらく、manri1 でしょう。manri1 の位置を付け足すためには ma'i を使えばいいわけで、PSに標準で余程のことがない限り用意する必要はないのでは、ということかもしれません。少なくとも消えた「基準」が cnano3 であることはないでしょう。それが分かっただけでも個人的には万々歳です。

「基準」位置は、大別すると、cnano3, manri1, ckaji2, zukte2 の4つに分けられそうです(時間述語はまた別ですが)。

cnano3 は barda/cmalu 由来で、「(比較群)の平均より」という意味
manri1 は 「(観点)から/においては」という意味
ckaji2 は 「(性質)という点で」 か 「(関係)という点で」という意味
zukte2 は 「(事)をするという点で」 という意味

に解釈できそうです。jbo定義で消失したものについては恐らくすべて manri1 だと思われます。

これでひとまず "by standard" の意味がすべて解決したことになります。

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最後に、消失した"by standard" は本当に消してしまってよいのかという話を。たとえば、{glare}は「熱い」ということですが、「誰にとって熱いか」を明示しない限り、命題としては不十分な気もします。

しかしこれはコンテキストを見逃しているとも言えます。誰かが {glare} と叫べば、「誰にとって熱いか」というのは一目瞭然でしょう。xorxesはおそらく、「観点がないなら、それは話者の視点だ」ということを考えているのではないかと思います。

まあでも、多分、ma'i を付け足した定義にすればいいんじゃないかとも思います。

ma'i項の有無はまだ発展途上なので、今後変わる部分かなとも思います。とりあえず、"by standard"がcnano3とmanri1のどちらなのかという当初の問いに対してある程度明確な答えが用意されたのは大きいですね。


2015/03/13

zo'eのメタレベルでの量化の可能性

zo'eの不特定性の救済に関する試案 をちょっと前に書いた。
そこでは、「zo'eは定項であるのに、どうして不特定性を醸し出せるのか」ということを論じた。
 zo'eは定項であるから、議論領域Dは一定だったとして、影響を受けるのはその解釈関数Fの在り方である。(中略)解釈関数のうちのどれであるかを確定しない間は、zo'eもその指示対象が1通りには定まらない。つまり、zo'eの不特定性というのは、解釈保留から生じる不特定性であるとみれば、矛盾しない。
とし、そして、
 今までは、話者は何らかの特定な構造を携えてその文を発すると考えていたわけだが、その前提をやや否定するのである。そうすると、話者は 
1.  ひとつの特定の解釈を想定している
2. それを充足するような解釈関数があることを主張している(特定の解釈を想定していない)
3. どの解釈関数であっても充足することを主張している(特定の解釈を想定していない)
4. 複数の特定の解釈を想定している 
のいずれかの態度をとることができるかもしれない(4は少し厳しいかもしれない)。 
などと言い、
こう考えると、zo'eの解釈の不定性によって、メタレベル(構造レベル)での複数変項の量化をロジバンは備えているとみることもできそうである。少なくとも、よく使われる、zo'eに対する2.の態度というのは、su'oi と実質遜色ない意味合いになるはずである。
と言った。このことについてもう少し吟味したい。

モデル M をドメインD、解釈関数Fの組 M=(D,F)とする。任意の論理式(文)Φはこれに加え、自由変項群の評価μを用いることで、ΦがMとμによって充足していることを

M, μ |= Φ

とできる(|=は充足記号)。充足可能性というのは、メタレベルでの量化:

∃M∃μ . (M, μ |= Φ)

で表せる。ここで、もう少し条件の厳しい「可能性」として、

∃F∃μ . ((D,F), μ |= Φ)

を考える。これは「ドメイン固定の充足可能性」である。程よい文脈が共有できていれば、ドメインは(話の内容にもよるが)あまり揺らがないことが多いだろうし、このような「D固定の充足可能性」はしばしば遭遇するはずである。こちらの方が議論も見やすくなるので、D固定の充足可能性を見ていく。

さて、解釈関数Fは述語と定項の評価を担っている。述語の評価は簡単のため一意に定まったとすると、Fはすべての定項への複数の対象の割り当て方で多様性が生まれる。Fを特定のひとつに定めれば、定項の指示を1通りに固定することになり、これは定項が定項らしくあるときの状況である。つまり、「定項が定項らしくあるとき、話者は解釈関数を特定の1つに定めている」ということになる。これはさっき引用したリストの1.に該当する。

これはそこまで語るに及ばず。問題は2,3,4であって、これを少し見て行きたい。

2.は通常レベルにおいて su'oi を用いるのに相当すると思われる。たとえば、

la'a la mik cu prami lo vi zvati
/ 多分、ミクはここにいる誰かのことを愛している。

という文を、話者は「充足可能である」という態度で発したとすると、

∃F. ((D,F) |= P(la .mik. , lo vi zvati))

のようになる。これは、la .mik. と prami の解釈だけを固定した F を用いて、

(D,F), μ |= ∃X. P(la .mik., X)

に相当するはずである。ここで X は複数変項である。たとえば、D={a, b} として、

F(lo vi zvati)=...
① a
② b
③ 「a, b」

の3通りの解釈がありうるわけだが、これは複数定項 X について

μ(X)=...
① a
② b
③ 「a, b」

とされるのと意味上変わらない。このことから、zo'e は話者の態度の具合によって、複数量化の代行ができそうである。

※ 話者の態度の話になればこっちのもので、新しい心態詞を何か定義すればよい。


3. は微妙なところである。これは ro'oi による量化に相当し、

∀F. ((D,F) |= P(la .mik. , lo vi zvati))

に相当する(ただし少し微妙で、ここではFの{lo vi zvati}に対する挙動に関してのみ∀である)。

これはおそらく理論上は可能だが、滅多に使われることがないと思われる。というか、そもそも、ro'oiの日常における使用頻度はほとんどないだろう。

2. 3. によって、zo'e が su'oi でも ro'oi でもありうるので、これはある意味「量化の保留」を意味している。

そして、4.は特定の複数解釈の想定であるが、あわよくば、総称文の解釈がこれになるかもしれない。

さらに、

5. いくつかの特定の複数解釈を想定し、それにおいて真であるために一般化し、むしろFについて何もしない

これは解釈関数の自由変数化となり、複数定項のメタレベルでの自由変項化が実現できる。
ここで重要なのは、解釈関数は1個でも複数個でも特定なものを想定できるし、特定のものを想定せずに量化の形を想定してもよいということである。

束縛変項との違いはメタレベルでの要素の特定具合の影響の程度による。
束縛変項は、モデルMのドメインDが定まってしまえば評価が可能であるが、
複数定項は、解釈関数Fによって解釈され、しばしばFよりもDのほうが文脈から定まりやすいことから、
複数定項のほうが「自由変項っぽい」感じになるのである。

これは、guskantさんの変項と定項執筆時代の「zo'eは自由変項である」という解釈説を幾ばくか救済できるかもしれない。つまり、guskantさんの抱いていた「zo'eの自由変項らしさ」というのは、zo'eそれ自体に備わっているのではなく、メタレベルでのモデル(の特に解釈関数)の不特定性によって呈するのではなかろうか。

gadri の論理学的観点からの解説の 4.3 ではこのことについて少し述べてある。欠点として、
{zo'e} が文脈によって自由変項だったり、束縛複数変項だったり、複数定項だったりするので、単一のbridiからは、その中の項がどのような項であるかを判断できず、文の真理値を判断することができない。
ただし、このように、文の真理値が一般には文脈に依存するという側面は、あらゆる自然言語が共有する性質である。
また、 {zo'e} が複数定項だけを表すという現行解釈を取るにしても、「何らかの議論領域が与えられている」ということが判断出来るだけで、文脈がわからなければ、どんな議論領域かを判断できないのだから、文脈無しでは文の真理値を判断できないという問題が解消されるわけではない。
と書かれてあるが、「文の真理値が一般には文脈に依存する」というのは、つまるところ「文の真理値を定めるためのモデルの特定には文脈が必要である」ということであろうから、この記事で書いてきたことと適合する。

今後、zo'eは複数定項であるという状況では「素粒子を lo で表すことができない」ということについて、モデルの不特定性からなんとかできないものか、というのを考えたい。

2015/03/09

アスペクトとNU1


BPFK sectionsでは、アスペクトはすべて次のような形式で定義されています:

XXXXX aspect. It indicates that a situation is XXXXX

まとめてみると、

aspectit indicates that a situation …
pu'oProspectiveis about to take place, not yet realized.
co'aInitiativeis at its outset, just beginning.
ca'oProgressive/imperfectiveis in progress, ongoing.
co'uCessativeis at its termination, ending.
ba'oPerfect/retrospectiveis over, no longer taking place.

となります。

無相表現から何が抽出できるかを考えてみましょう。ここでNU1の登場です。

mu'epoint eventan event that is considered a single point in time, devoid of internal structure.
pu'uprocessan event having a beginning, an internal structure and an end.
za'icontinuous statean event that has sharply defined natural boundaries dividing when the state exists and when it doesn't.
zu'oactivityan event that is considered extended in time and is cyclic or repetitive.
NUというのは bridi を取り込んで、そのbridiによって表すことのできる抽象を引き出します。ここでは nu とその細分化したものだけを扱います。

nu [bridi] は、「x_1 は 取り込んだbridiによって表せるような状況/事象/事態 である」というPSを有します。そして、事態/事象にはお分かりの通り、様々な種類があるため、それを明示した NU1 が活躍するわけです。

まず、mu'e は点事象、すなわち、co'iの相を引き出します。事象の時間的流れを完全に無視するってことですね。これはちょっとイメージが付きにくいかもしれませんが、

mi co'a sipna pu lo nu do sipna / あなたが眠る前に私は眠る。

では、{do sipna}のどの段階の前時点で{mi sipna}なのかは明確ではありません。「眠りはじめ」「眠っている最中」「眠り終わり」のどこより前の時点でなのかが指示されていないわけです。ふつうは

mi co'a sipna pu lo nu do co'a sipna / あなたが眠り始める前に私は眠る。

としたいでしょうが、これは「日本語→日本語翻訳」を通した結果の文で、日本語も変わっていて、あまりキレイではないですね。ここでは、{do sipna}という事象がある程度の時間を持っているということが最大の原因になります。なので、点相 co'i が登場します。

mi co'a sipna pu lo nu do co'i sipna / あなたが眠る(という一連の事象の)前に私は眠る。

{do co'i sipna}は、「はじめ」「最中」「終わり」といった内部構造を無視し、あたかも時間軸上の1点であるように{do sipna}を見つめたものになります。つまり、{do sipna}の全体を1点と見ているわけです。

これと全く同じ働きをしているのが、mu'e です。

mi co'a sipna pu lo mu'e do sipna / あなたが眠る前に私は眠る。

ここでは、mu'e によって、{do sipna}で表される事象全体を1点として抽出し、「それより前」と言ってやることで、日本語で想定している意味と同等の表現が実現されています。

次、pu'u。これは「過程」を表す。引き出した事象が「始まり」「終わり」とその間にあるいくつかの段階からなることを示すわけですが、これは mu'e の対極にあるような引き出し方です。

ko catlu lo pu'u mi pilno ti / 私がこれを使っている過程を見ていてください。
/ 私がこれを使い始めて使い終わるまでを見てください。

pu'u は「はじめから終わりまで」の一部始終的な意味合いが出てくると思います。「始まって、こうやって、こうして、こうなって、ああなって、終わる」といった、サブ事象の連結としての事象であることを表す、と思えばいいと思います。一部始終という意味では mu'e と似ていますが、内部構造を勘案した一部始終であるという点が異なります。

次、za'i。これは「状態」を表す。つまり、引き出した事象に明確な境界線があることを示すわけです。これはたぶん、アルカの継続相の部分の事象を表しているのだと思います。

za'i sanli / 立っている状態だ。

za'i は continuous な状態を表すということに注意。「立っている」様子や「座っている」様子は、1秒でも2分でもその様子に変わりないですが、「走っている」様子や「歩いている」様子は時間の取り幅によってはそうではありません。これはzu'oとの対比でよく分かるかと思います。

zu'o は activity、動作/活動を表します。動作というのは周期的・反復的であり、その時間を引き伸ばすことのできるような事象のことです。「走っている」様子や「歩いている」様子は「状態」ではなく、まさにこの「動作」なのです。

{za'i sanli}は、まさに立っている様子、直立している様子を表しますが、{zu'o sanli}は、何度も立ち上がっている様子、着席と起立を繰り返す様子を表しているはずです。

※ zu'o はアルカでいうところの -and に相当するんでしょうね。もちろん、zu'oは相でなくて、抽象詞ですので、かなり別物ですが。

さて、当初の目的は、無相からどんな様子が引き出せるか、でしたが、「点」「状態」「過程」「動作」の4種を無相で表せることが分かりました。点はともかくとして、「状態」「動作」「過程」なる事態を無相で表せると分かったのはいいかんじだ。とはいえ、「状態」「動作」というのは、アルカでいうところの、継続相と反復相に相当し、つまり、状態動詞と不定動詞に相当するという、この前の話からも分かることではあります。

「過程」。これも無相で表せる事態のひとつですが、何があるでしょうね。

ti pu'u jmive / これが生きるということだ。

とかでしょうか。命がはじまり、そして朽ちていく様子を

jmive

と一言で表すことができるということです。でもこれは割と当たり前ではありますね、たとえば

ti pu'u citka

の意味で

citka

といい、食べ物を口にやり、むしゃむしゃして、食べ物を食べ終わる様子と紐付けるのは、たとえば直接教授法でロジバンの動画をみることを考えてみてください。なるほど、確かにありそうだ。

「座らせようとする」{gasnu lo nu zutse}、

ti pu'u gasnu lo nu zutse

の「終わり」というのは、対象がzutseしはじめるところでしょう。ここでは、無相、

gasnu lo nu zutse

は、状態でも動作でもなく、その過程を表しているはずです。


※ 継続相と経過相は状態じゃないのかという疑問がずっと頭の中にあるんですよね。多分、経過相も状態だと思うんですよ。「駅へ向かっている状態」というのは変ではないでしょう。「歩きで駅に向かっていることを考えれば、歩きは動作であって、状態ではないから、これは状態ではないのでは?」とか「リンゴを食べることを考えると、リンゴを咀嚼し、飲み込み、また口にするという動作の繰り返しであって、それゆえに状態ではないのでは?」みたいなことが頭によぎるのですが、これはちょっと紛らわしい罠に引っかかっていそうです。たとえ、その手段(「歩き」や「咀嚼、飲み込み、口にする」)は動作であっても、「駅に向かう」「リンゴを減らしていく」というのはどんな時間でも一貫しているので、状態だと思うわけです。「複数回の動作を用いて、1つの目標に向かっている状態」というのが今言った例における経過相でしょうから、これは累積でも反復でもないんですよ。

※ そう考えると、{gasnu lo nu zutse}で、その状態(つまり経過相)を指示するのはなんら奇妙でないですね。

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なんかとりとめのない記事になってしまった