いくつか質問を持ち込んだので。
Q1. {lo} の "generic" は「総称的」って意味ではない?
A1. ない。「汎用的」って意味。
Q2. zo'e は「複数定項」なら、話者にとって特定的では?
A2. (記憶があやふやです)そうとも限らない。議論領域の中のどれかを指示しているというだけで、「そうでないものはそうじゃない」といったニュアンスを含む(だから指示しているわけで)。「存在的言及」ではなく、「指示的言及」であるということ。
おそらく、議論領域Dの上で述べるか、その中に入り込んで述べるか、とそんなニュアンスの違いなんだろう…。
中身が見えない箱に対して、「この中に黒くて金属製のものがあります」というのと「この中にある黒いのは金属製です」というの。後者が結局、存在的言及も含意するから、あんまり違いがないようにも思えるけれど、やはり後者は「黒いもの」は指示されて当然のもの、つまり、存在ありきで語られているもの、という感じはする。でもだからといって、特定の「黒もの」を話者が指している必要はないんだね。「存在ありきで述べる態度
」が「指示的言及」なのかもしれない。これくらいで軽く捉えておくのが健全かな…。
Q2'. じゃあ{le}は「話者特定的」という意味合いを持つことにおいて有用でいられる?
A2'. そもそも{le}ってよくわかんないです(u'i)が、そう解釈することもできる。
Q3-1. 習慣文について。「私は毎日リンゴを食べる」の「リンゴ」は{lo plise}?
A3-1. 多分それでOK。毎日食べているリンゴたちをまるっと{lo plise}で指示すると考えれば。
{ca ro djedi mi lo plise cu citka}
Q3-2. 総称文はどうでしょう?「鳥は飛ぶ」は{lo'e cipni cu vofli}?
A3-2. OK。もちろん、「鳥は飛ぶ」が必ず総称文として訳されるかという問題はあります。
Q3-2'. {lo'e cipni cu cipni}だと思うから、{lo cipni}は{lo'e cipni}を含む?
A3-2'. BPFKで公言はされていないのであれですが、guskantさん、Ilmenさん的には含むべき。
(そうなると、{lo}が便利すぎてハゲそうですね)
2015/03/16
2015/03/14
ゴリラと学ぶロジバン入門 ~ごりばん!~
この講座は、やたらに知能の高いゴリラとロジバンを学んでいこう!というものです。
「ウホッウホホッ」
彼は今のところ、日本語は通じますが、日本語で話すことができないので、この有りさまです。
「ウホホォ…」
そこで!
「ウホ!」
ロジバンを教えこむことで、このゴリラとはロジバンを介して意思疎通を図りたいと思います。
「ウホホォ」
頑張っていこうね!
「ウッホ!」
~~~~~~~~~~~~~~~~~
いや無理でしょ
「ウホッウホホッ」
彼は今のところ、日本語は通じますが、日本語で話すことができないので、この有りさまです。
「ウホホォ…」
そこで!
「ウホ!」
ロジバンを教えこむことで、このゴリラとはロジバンを介して意思疎通を図りたいと思います。
「ウホホォ」
頑張っていこうね!
「ウッホ!」
~~~~~~~~~~~~~~~~~
いや無理でしょ
2015/03/13
zo'eのメタレベルでの量化の可能性
zo'eの不特定性の救済に関する試案 をちょっと前に書いた。
そこでは、「zo'eは定項であるのに、どうして不特定性を醸し出せるのか」ということを論じた。zo'eは定項であるから、議論領域Dは一定だったとして、影響を受けるのはその解釈関数Fの在り方である。(中略)解釈関数のうちのどれであるかを確定しない間は、zo'eもその指示対象が1通りには定まらない。つまり、zo'eの不特定性というのは、解釈保留から生じる不特定性であるとみれば、矛盾しない。とし、そして、
今までは、話者は何らかの特定な構造を携えてその文を発すると考えていたわけだが、その前提をやや否定するのである。そうすると、話者は
1. ひとつの特定の解釈を想定している
2. それを充足するような解釈関数があることを主張している(特定の解釈を想定していない)
3. どの解釈関数であっても充足することを主張している(特定の解釈を想定していない)
4. 複数の特定の解釈を想定している
のいずれかの態度をとることができるかもしれない(4は少し厳しいかもしれない)。などと言い、
こう考えると、zo'eの解釈の不定性によって、メタレベル(構造レベル)での複数変項の量化をロジバンは備えているとみることもできそうである。少なくとも、よく使われる、zo'eに対する2.の態度というのは、su'oi と実質遜色ない意味合いになるはずである。と言った。このことについてもう少し吟味したい。
モデル M をドメインD、解釈関数Fの組 M=(D,F)とする。任意の論理式(文)Φはこれに加え、自由変項群の評価μを用いることで、ΦがMとμによって充足していることを
M, μ |= Φ
とできる(|=は充足記号)。充足可能性というのは、メタレベルでの量化:
∃M∃μ . (M, μ |= Φ)
で表せる。ここで、もう少し条件の厳しい「可能性」として、
∃F∃μ . ((D,F), μ |= Φ)
を考える。これは「ドメイン固定の充足可能性」である。程よい文脈が共有できていれば、ドメインは(話の内容にもよるが)あまり揺らがないことが多いだろうし、このような「D固定の充足可能性」はしばしば遭遇するはずである。こちらの方が議論も見やすくなるので、D固定の充足可能性を見ていく。
さて、解釈関数Fは述語と定項の評価を担っている。述語の評価は簡単のため一意に定まったとすると、Fはすべての定項への複数の対象の割り当て方で多様性が生まれる。Fを特定のひとつに定めれば、定項の指示を1通りに固定することになり、これは定項が定項らしくあるときの状況である。つまり、「定項が定項らしくあるとき、話者は解釈関数を特定の1つに定めている」ということになる。これはさっき引用したリストの1.に該当する。
これはそこまで語るに及ばず。問題は2,3,4であって、これを少し見て行きたい。
2.は通常レベルにおいて su'oi を用いるのに相当すると思われる。たとえば、
la'a la mik cu prami lo vi zvati
/ 多分、ミクはここにいる誰かのことを愛している。
という文を、話者は「充足可能である」という態度で発したとすると、
∃F. ((D,F) |= P(la .mik. , lo vi zvati))
のようになる。これは、la .mik. と prami の解釈だけを固定した F を用いて、
(D,F), μ |= ∃X. P(la .mik., X)
に相当するはずである。ここで X は複数変項である。たとえば、D={a, b} として、
F(lo vi zvati)=...
① a
② b
③ 「a, b」
の3通りの解釈がありうるわけだが、これは複数定項 X について
μ(X)=...
① a
② b
③ 「a, b」
とされるのと意味上変わらない。このことから、zo'e は話者の態度の具合によって、複数量化の代行ができそうである。
※ 話者の態度の話になればこっちのもので、新しい心態詞を何か定義すればよい。
3. は微妙なところである。これは ro'oi による量化に相当し、
∀F. ((D,F) |= P(la .mik. , lo vi zvati))
に相当する(ただし少し微妙で、ここではFの{lo vi zvati}に対する挙動に関してのみ∀である)。
これはおそらく理論上は可能だが、滅多に使われることがないと思われる。というか、そもそも、ro'oiの日常における使用頻度はほとんどないだろう。
2. 3. によって、zo'e が su'oi でも ro'oi でもありうるので、これはある意味「量化の保留」を意味している。
そして、4.は特定の複数解釈の想定であるが、あわよくば、総称文の解釈がこれになるかもしれない。
さらに、
5. いくつかの特定の複数解釈を想定し、それにおいて真であるために一般化し、むしろFについて何もしない
これは解釈関数の自由変数化となり、複数定項のメタレベルでの自由変項化が実現できる。
ここで重要なのは、解釈関数は1個でも複数個でも特定なものを想定できるし、特定のものを想定せずに量化の形を想定してもよいということである。
束縛変項との違いはメタレベルでの要素の特定具合の影響の程度による。
束縛変項は、モデルMのドメインDが定まってしまえば評価が可能であるが、
複数定項は、解釈関数Fによって解釈され、しばしばFよりもDのほうが文脈から定まりやすいことから、
複数定項のほうが「自由変項っぽい」感じになるのである。
これは、guskantさんの変項と定項執筆時代の「zo'eは自由変項である」という解釈説を幾ばくか救済できるかもしれない。つまり、guskantさんの抱いていた「zo'eの自由変項らしさ」というのは、zo'eそれ自体に備わっているのではなく、メタレベルでのモデル(の特に解釈関数)の不特定性によって呈するのではなかろうか。
gadri の論理学的観点からの解説の 4.3 ではこのことについて少し述べてある。欠点として、
{zo'e} が文脈によって自由変項だったり、束縛複数変項だったり、複数定項だったりするので、単一のbridiからは、その中の項がどのような項であるかを判断できず、文の真理値を判断することができない。と書かれてあるが、「文の真理値が一般には文脈に依存する」というのは、つまるところ「文の真理値を定めるためのモデルの特定には文脈が必要である」ということであろうから、この記事で書いてきたことと適合する。
ただし、このように、文の真理値が一般には文脈に依存するという側面は、あらゆる自然言語が共有する性質である。
また、 {zo'e} が複数定項だけを表すという現行解釈を取るにしても、「何らかの議論領域が与えられている」ということが判断出来るだけで、文脈がわからなければ、どんな議論領域かを判断できないのだから、文脈無しでは文の真理値を判断できないという問題が解消されるわけではない。
今後、zo'eは複数定項であるという状況では「素粒子を lo で表すことができない」ということについて、モデルの不特定性からなんとかできないものか、というのを考えたい。
2015/03/09
アスペクトとNU1
BPFK sectionsでは、アスペクトはすべて次のような形式で定義されています:
XXXXX aspect. It indicates that a situation is XXXXX
まとめてみると、
| aspect | it indicates that a situation … | |
| pu'o | Prospective | is about to take place, not yet realized. |
| co'a | Initiative | is at its outset, just beginning. |
| ca'o | Progressive/imperfective | is in progress, ongoing. |
| co'u | Cessative | is at its termination, ending. |
| ba'o | Perfect/retrospective | is over, no longer taking place. |
となります。
無相表現から何が抽出できるかを考えてみましょう。ここでNU1の登場です。
| mu'e | point event | an event that is considered a single point in time, devoid of internal structure. |
| pu'u | process | an event having a beginning, an internal structure and an end. |
| za'i | continuous state | an event that has sharply defined natural boundaries dividing when the state exists and when it doesn't. |
| zu'o | activity | an event that is considered extended in time and is cyclic or repetitive. |
NUというのは bridi を取り込んで、そのbridiによって表すことのできる抽象を引き出します。ここでは nu とその細分化したものだけを扱います。
nu [bridi] は、「x_1 は 取り込んだbridiによって表せるような状況/事象/事態 である」というPSを有します。そして、事態/事象にはお分かりの通り、様々な種類があるため、それを明示した NU1 が活躍するわけです。
まず、mu'e は点事象、すなわち、co'iの相を引き出します。事象の時間的流れを完全に無視するってことですね。これはちょっとイメージが付きにくいかもしれませんが、
mi co'a sipna pu lo nu do sipna / あなたが眠る前に私は眠る。
では、{do sipna}のどの段階の前時点で{mi sipna}なのかは明確ではありません。「眠りはじめ」「眠っている最中」「眠り終わり」のどこより前の時点でなのかが指示されていないわけです。ふつうは
mi co'a sipna pu lo nu do co'a sipna / あなたが眠り始める前に私は眠る。
としたいでしょうが、これは「日本語→日本語翻訳」を通した結果の文で、日本語も変わっていて、あまりキレイではないですね。ここでは、{do sipna}という事象がある程度の時間を持っているということが最大の原因になります。なので、点相 co'i が登場します。
mi co'a sipna pu lo nu do co'i sipna / あなたが眠る(という一連の事象の)前に私は眠る。
{do co'i sipna}は、「はじめ」「最中」「終わり」といった内部構造を無視し、あたかも時間軸上の1点であるように{do sipna}を見つめたものになります。つまり、{do sipna}の全体を1点と見ているわけです。
これと全く同じ働きをしているのが、mu'e です。
mi co'a sipna pu lo mu'e do sipna / あなたが眠る前に私は眠る。
ここでは、mu'e によって、{do sipna}で表される事象全体を1点として抽出し、「それより前」と言ってやることで、日本語で想定している意味と同等の表現が実現されています。
次、pu'u。これは「過程」を表す。引き出した事象が「始まり」「終わり」とその間にあるいくつかの段階からなることを示すわけですが、これは mu'e の対極にあるような引き出し方です。
ko catlu lo pu'u mi pilno ti / 私がこれを使っている過程を見ていてください。
/ 私がこれを使い始めて使い終わるまでを見てください。
/ 私がこれを使い始めて使い終わるまでを見てください。
pu'u は「はじめから終わりまで」の一部始終的な意味合いが出てくると思います。「始まって、こうやって、こうして、こうなって、ああなって、終わる」といった、サブ事象の連結としての事象であることを表す、と思えばいいと思います。一部始終という意味では mu'e と似ていますが、内部構造を勘案した一部始終であるという点が異なります。
次、za'i。これは「状態」を表す。つまり、引き出した事象に明確な境界線があることを示すわけです。これはたぶん、アルカの継続相の部分の事象を表しているのだと思います。
za'i sanli / 立っている状態だ。
za'i は continuous な状態を表すということに注意。「立っている」様子や「座っている」様子は、1秒でも2分でもその様子に変わりないですが、「走っている」様子や「歩いている」様子は時間の取り幅によってはそうではありません。これはzu'oとの対比でよく分かるかと思います。
zu'o は activity、動作/活動を表します。動作というのは周期的・反復的であり、その時間を引き伸ばすことのできるような事象のことです。「走っている」様子や「歩いている」様子は「状態」ではなく、まさにこの「動作」なのです。
{za'i sanli}は、まさに立っている様子、直立している様子を表しますが、{zu'o sanli}は、何度も立ち上がっている様子、着席と起立を繰り返す様子を表しているはずです。
※ zu'o はアルカでいうところの -and に相当するんでしょうね。もちろん、zu'oは相でなくて、抽象詞ですので、かなり別物ですが。
さて、当初の目的は、無相からどんな様子が引き出せるか、でしたが、「点」「状態」「過程」「動作」の4種を無相で表せることが分かりました。点はともかくとして、「状態」「動作」「過程」なる事態を無相で表せると分かったのはいいかんじだ。とはいえ、「状態」「動作」というのは、アルカでいうところの、継続相と反復相に相当し、つまり、状態動詞と不定動詞に相当するという、この前の話からも分かることではあります。
「過程」。これも無相で表せる事態のひとつですが、何があるでしょうね。
ti pu'u jmive / これが生きるということだ。
とかでしょうか。命がはじまり、そして朽ちていく様子を
jmive
と一言で表すことができるということです。でもこれは割と当たり前ではありますね、たとえば
ti pu'u citka
の意味で
citka
といい、食べ物を口にやり、むしゃむしゃして、食べ物を食べ終わる様子と紐付けるのは、たとえば直接教授法でロジバンの動画をみることを考えてみてください。なるほど、確かにありそうだ。
「座らせようとする」{gasnu lo nu zutse}、
ti pu'u gasnu lo nu zutse
の「終わり」というのは、対象がzutseしはじめるところでしょう。ここでは、無相、
gasnu lo nu zutse
は、状態でも動作でもなく、その過程を表しているはずです。
※ 継続相と経過相は状態じゃないのかという疑問がずっと頭の中にあるんですよね。多分、経過相も状態だと思うんですよ。「駅へ向かっている状態」というのは変ではないでしょう。「歩きで駅に向かっていることを考えれば、歩きは動作であって、状態ではないから、これは状態ではないのでは?」とか「リンゴを食べることを考えると、リンゴを咀嚼し、飲み込み、また口にするという動作の繰り返しであって、それゆえに状態ではないのでは?」みたいなことが頭によぎるのですが、これはちょっと紛らわしい罠に引っかかっていそうです。たとえ、その手段(「歩き」や「咀嚼、飲み込み、口にする」)は動作であっても、「駅に向かう」「リンゴを減らしていく」というのはどんな時間でも一貫しているので、状態だと思うわけです。「複数回の動作を用いて、1つの目標に向かっている状態」というのが今言った例における経過相でしょうから、これは累積でも反復でもないんですよ。
※ そう考えると、{gasnu lo nu zutse}で、その状態(つまり経過相)を指示するのはなんら奇妙でないですね。
----
なんかとりとめのない記事になってしまった
なんかとりとめのない記事になってしまった
2015/03/08
アルカから学ぶ述語分析~動詞の定/不定と単位/非単位~ その2
これの前の記事の続き。
[1] アスペクト考:
http://conlang.echo.jp/arka/study_yulf_138.html
おさらい。
アルカだと色々と動詞が分けられる。
①行為動詞と状態動詞
基本的には行為動詞(つまり無相で行為部分のアスペクトを指示する)だけれど、一部(例外動詞というらしい)では状態動詞(つまり無相で状態部分のアスペクトを指示する)。
②定動詞と不定動詞
アルカでいうところの完了相がつけられる場合が定動詞。言い方を換えれば、不定動詞は原理的には完了することがない。
多分、アルカはほとんどすべての動詞が定動詞だと思う。なぜそう思うのかは、アスペクトのおさらいで後述する。
③単位動詞と非単位動詞(単発モデルと連発モデル)
あまりすきじゃないネーミング。定動詞は単発モデルと連発モデルの双方が可能だが、不定動詞は連発モデルのみ可能。文法的には -and 付加によって、連発モデルに移行する。「歩く(luk)」は、定動詞・不定動詞の両方の用法が可能なので、不定動詞用法で用いたいときは lukand にすればよろし。
定動詞の連発モデルは「反復」で、不定動詞の連発モデルは「累積」。連発モデルは何らかの事象が連発しているモデルなわけで、「反復」では定動詞で表される事象それ自体が繰り返し起こっていることを表す。一方で「累積」では不定動詞で表される事象を構成する下位事象が繰り返し起こっていることを表す(と僕は思っている)。
※ あれ、じゃあ、定動詞 luk の反復は?多分やっぱり lukand だろなあ。「私は3年間この橋を通って学校に歩いて通っている」は多分 "lukand" 使うんじゃないだろうか。
てなかんじで、次にアスペクト。アルカのアスペクトは、
将然→開始→経過→完了→継続→終了→影響
の7相。
それぞれ多分こんな感じ:
将然:~しようとする
開始:~しはじめる
経過:~している
完了:~することを完了する/~することによって得られた状態が始まる
継続:~することによって得られた状態が続いている
終了:~することによって得られた状態が終わる
影響:~した結果が残っている/~することによって得られた状態の影響が残っている
アスペクトもその粗さによって色々と分けられる
① 行為段階と状態段階
「将然・開始・経過」が行為段階で、「継続・終了・影響」が状態段階。
※ [1] だとこの2つを「行為動詞」「状態動詞」と言ってるのだけど、個人的にここで「~動詞」というのは気持ち悪いので、「段階」にした。
② 事前段階、実行段階、事後段階
こんな感じ:
将然、開始、経過:事前段階
経過、完了、継続:実行段階
継続、終了、影響:事後段階
経過と継続がそれぞれの段階で重複してることに注意。なお、実行段階を内相、それ以外を外相という場合もあり。
③ 未完了と完了
こんな感じ:
~経過:未完了
完了~:完了
という大雑把な分け方。だけど、「完了」「行為の成立」は大事らしいので、この分類も捨てたもんじゃない。
てな感じ。アルカはアスペクトを7相、つまり、行為と状態をうまいこと連結させて、1つの語で表現することに成功したなって感じがする。「なんらかの行為をしようとし、それが始まり、少しの持続があり、成立することでなんらかの状態が生まれ、それがある程度持続し、終わり、なんらかの跡を残す」。これを元にして動詞は定義されているので、大体の動詞は他動詞なのは多分これによる(実際は逆か。他動詞中心の言語だから、こんな相概念ができたのかな)。
単発→連発モデル変換子(-and)の逆がないのは、定動詞的解釈のできうる不定動詞がないということである。これは恣意的なもので、合理的に組むなら、「定動詞解釈のできる不定動詞」はすべて定動詞で定義してしまえばいいわけで、これによって、そのような不定動詞が排せ、連発→単発モデル変換子を定義しなくて済む。
たとえば、luk を本来的には不定動詞であるとし、連発→単発モデル変換子として -ahend みたいなものがあったとすれば、 lukahend は「solはyulを通ってaに行く」という実際のアルカの luk と同じ意味にできる。この仮想アルカでの luk は実際のアルカの lukand に等しい。この例から、本来的に不定動詞であり定動詞的解釈のできるものを完全に排せることが分かる。
じゃあ、定動詞的解釈が事実上できなく、不定動詞と振る舞うことしかできないようなものはどうすればいいか。これは、形式上の定動詞を作っておいて、「実際は and付加形で使うことがほとんど」とするのが統一がとれていいと思う。そんな動詞があるなら、の話だけどね。
はてさて、ここからはロジバン。
ロジバンは動詞・形容詞・(繋辞+)名詞の区別がないことに注意する。「繋辞+名詞」を形容詞と統合するのはそこまで苦ではないが、形容詞と動詞を統合するのはそのままでは難しい。というのも、動詞には行為動詞と状態動詞の2つがあって、行為動詞は動詞特有であるからである。しかしながら、状態動詞は、その性質上、形容詞に近いので比較的簡単に統合が可能である。そのため、状態動詞はロジバンと相性がよく、アルカの例外動詞にあたる述語はおそらくそのままロジバンにもあるはず。
問題は、それ以外の動詞をどうするか、ということになるが、まずは不定動詞からはじめよう。不定動詞は割と対処しやすい。というのも、不定動詞は、連発モデルであるがゆえに、状態動詞と結構似ているからだ。たとえば、「走っている」(累積)というのは、人によれば「状態」と解釈されてもそこまでおかしくはないだろう。というわけで、不定動詞は累積の形ですんなりロジバンで定義できる。
最後に、定動詞のうち行為動詞である。「食べる」とか「行く」といった動詞である。たとえばアルカでは、無相に指向性(特定の相の想定しやすさ)をもうけていて、『vatなど、経過相の長い動詞は経過相に指向性を持つ。sedoなどの瞬間動詞は経過相がほとんどないので完了相に指向性を持つ。』としている。"kui"(食べる)や "ke"(行く)は、無相で経過相「~している」が想定される。経過相は、状態動詞における継続相と似て、そのような状態を表しているととれるから、行為動詞は、経過相の形でロジバンに取り込める。
ロジバンにおいて一環しているのは、その述語のデフォルトの相で、ある程度の時間範囲をとることができるという点だと思う。いわゆる点のアスペクトというのは、一瞬であるため、真か偽かというのを論じにくい。クワインのいう刺激係数を比較的長くとれるのは、継続相、反復相、経過相であり、言語習得においても、述語のあてはめのほとんどはこれらの相に対して行われるはずである。ロジバン(ログラン)の述語1語文を観察文として解釈しようとしていたことも考えると、やはり、継続相、反復相、継続相の3相がロジバンではデフォルトになってくるだろうと思う。
以上のことから分かるとおり、ロジバンの述語は基本的に状態動詞的である。ロジバンの主なアスペクトは次のようになっている:
pu'o:~しようとする/まだ~していない(prospective)(cfapru)
co'a:~し始める(Initiative)(cfari)
ca'o:~している(Progressive/imperfective)(faurmidju)
co'u:~し終わる(Cessative)(tolcfa)
ba'o:~し終わっている(perfective/retrospective)(tolcfabalvi)
wikibooksやwikipediaやCLL日本語抄訳等、それぞれで相の名前がまちまちなのがなんとも…。
これに加えて、重要なのが、
mo'u:~し終わる(Completive)(mulfa'o)
であり、これはアルカの完了相とおそらく同じ。さて、ここからが少しややこしい。
①状態動詞
このとき、対応関係は次のようになる(右がアルカ相)。
pu'o:~経過相
co'a:完了相
ca'o:継続相
co'u:終了相
ba'o:影響相
アルカでは、状態動詞(状態段階)は行為段階完了からであり、アルカは行為中心であるので、状態開始点は行為の終了点に等しく、すなわち、完了相となる。
②不定動詞(連発モデル)
このときの対応関係は次のようになる:
pu'o:将然相
co'a:開始相
ca'o:反復相
co'u:終了相
ba'o:影響相
多分、3つの中でもっとも当てはまりがよいのが連発モデル。"lukand" と {cadzu}はきっと大体同じ意味。
③行為動詞
このときの対応関係は次のようになる:
pu'o:将然相
co'a:開始相
ca'o:経過相
mo'u:完了相
ba'o:継続相~
co'u じゃなくて mo'u にしていることに注意。思うに、mo'uは③の場合でのみ使える。この場合での co'u は何相だろう…というのは少し気になるけれど、多分、完了未完了を問わない中止/停止だろう。
-----
述語を3つに分けたわけだが、実際はロジバンの述語はこんな分類がなされていないので、ではある述語は一体どこに属するのかをどう判断すればいいんでしょ。
ひとつの目安は、「その述語が当てはめやすい状況を想像してみる」ことだと思います。小さい子どもが語の当てはめを練習している風景を想像してもいいでしょう。
{citka}ならふつうは「食べ終わり」「食べたあと」よりは「食べている最中」(アルカの経過相)でしょうし(それゆえに{citka}は③)、
{vofli}ならやはり「上昇飛行中」(経過相)よりは「空を飛んでいるとこ」(反復相)でしょうし(ゆえに{vofli}は②)、
{dasni}なら「服に袖を通そうとしているとこ」(経過相)よりは「服を着てあるとこ」(継続相)でしょう(ゆえに①)。
・・・という風に(公式には曖昧ですが)、なんだかんだで分類を見極めることは多分可能です。
ロジバンはアルカの7相よりも少ないですから、というか、3分類中で、たとえば ca'o なんかは経過、反復、継続相の3つの役割があります。
ほんじゃあ、たとえば、"kui"の終了相(食べきったあとの状態が終わる)や、アルカの状態動詞の将然、開始、経過に相当する表現はどうしよう?となります。ちなみに②については一番当てはまりがよいので、このようなズレは生じていない。
まず、①。ここでは、pu'oは「~経過相」を指示するが、「将然、開始、経過」をきちんと言いわけるためにはどうすればいいか。
これは、{gasnu}を使えばいいんじゃないですかね。{gasnu}は③に属する述語だと思うので、{gasnu lonu ~(状態動詞)}とすることで、あたかも状態動詞の行為部分を記述していることになると思われます。
pu'o gasnu lo nu djuno:知ろうとする(将前)
co'a gasnu lo nu djuno:知るために動きはじめる(開始)
ca'o gasnu lo nu djuno:知るために動いている(経過)
mo'u gasnu lo nu djuno (= co'a djuno):知ろうとするのが完了する/知る(完了)
ca'o djuno:知っている(継続)
co'u djuno:知り終わる/忘れる(終了)
ba'o djuno:既に忘れている/覚えてはいたがもう知らない(影響)
のように、{djuno}の7相を網羅できるかと思います。なお、{ba'o gasnu lo nu djuno}は状態段階(継続、終了、影響)を表している。
そして③。ここでは、たとえば、{mo'u citka}のあと、つまり、{ba'o citka}の細分化をはからないといけない。どうしたものか。
ひとつの方法は、{jalge}ですかね。「x1はx2の結果」くらいの意味なので、
jalge lo nu [mo'u] citka
は、「食べきりの結果」くらいになりそう。一応これを使ってみると、
pu'o citka:食べようとする(将然)
co'a citka:食べ始める(開始)
ca'o citka:食べている(経過)
mo'u citka / co'a jalge lo nu citka:食べきる/食べることの結果が生じ始める(完了)
ca'o jalge lo nu citka:食べたことの結果が生じている(継続)
co'u jalge lo nu citka:食べたことの結果が終わる(終了)
ba'o jalge lo nu citka:食べたことの結果が既に終わっている(影響)
くらいになる。けれど、まああんまり使いたくないな…。
※ 実際は、{lo jalge lo nu citka ZAhO fasnu}くらいにすべきかもしれない。
さて、これで一応、7相と互換を持たせられたが、新たな述語を持ちだしたのはあまり美しくない。ここで、相表現の精度は若干落ちるかもしれないが、純粋に相の語だけを用いて頑張ってみる。ロジバンは入れ子相が可能だからね!
①。{djuno}の行為段階全体は{pu'o djuno}で描写可能。なので、
pu'o pu'o djuno:行為段階以前だ(≒将然)
co'a pu'o djuno:行為段階が始まる(≒開始)
ca'o pu'o djuno:行為段階中だ(≒経過)
co'u pu'o djuno (= co'a djuno):行為段階が終わる(≒完了)
と、pu'o pu'o はちょっと怪しいけれど、概ねいけてるでしょう。
③。{citka}の状態段階全体は{ba'o citka}で描写可能。なので、
co'a ba'o citka:状態段階が始まる(≒完了)
ca'o ba'o citka:状態段階中である(≒継続)
co'u ba'o citka:状態段階が終わる(≒終了)
ba'o ba'o citka:状態段階が終わってしまっている(≒影響)
と、こっちもなんとなくいけそうな気もする。
-----
ロジバンにある{za'o}について。これは「完了点を超えて尚やってる」という「まだ~している」という意味を表す。…が、完了点って超えようなくない?と思いません?「リンゴを食べきった上で、さらに食べる」なんかできるのか。
・その1の考え
おそらくここでいう「完了点」(natural ending point)は、原理的な終了点のことではなくて、「当初想定されている目標点」というべきでしょう。たとえば、「今から10分走ってくる」っていってたのに20分経っても走っているとか。「7時には眠りから覚める」ってことだったのに、7:15時点でまだ寝てるとか。原理的な終了点はそれ以降の行為継続がありえないけれど、状態をやめる目標点のことを言っているなら、そこで状態をやめないことができるので、za'oは有意義。
・その2の考え
注意すべきは、{za'o}は{citka}がまだ行われているといっているのであって、{citka lo plise}「リンゴを食べる」がまだ行われているとはいっていないという点。za'o citka は、{citka}の延続であって、すなわち、{za'o citka lo plise}は「リンゴを食べ終わったのにまだ他のものを食べてる」ということになるかもしれない。
・その3の考え
ここでいう「完了点」は「完了点がきそうな時点」のことを言っている。たとえば、「リンゴを食べ始めて、5分後には食べきりそうだな」と思うとする。このとき、ここでいう「完了点」は5分後に設定されて、それを超えた時に「まだ食べてんのかよ」という意味で{za'o citka lo plise}ということができる。大事なのは、「完了点」は行為の進捗の点ではなくて、行為の進捗を参考にして決められる時間軸の点だということである。
個人的には「その2」はあまりすきじゃない。今までは「その3」で通してた。「その1」もありかな。でも、「その1」だと、行為動詞への適用ができない。多分、「その1」と「その3」がないまぜに使われていそう。というくらいで留めておく。
-----
多分これで最後。「相はどの範囲にかかるか」という話。
たとえば、"luk" 「歩く」は移動動詞としてみれば、明らかに行為動詞で③、「テキトーに歩く」というのは不定動詞なので②。ここまではわかる。では、マラソンとか距離があらかじめ定められたウォーキングとかはどうだろ。マラソンは順路があるので、「テキトー」感がない。けれど、単に距離を決めただけのウォーキング(たとえば、「今日は10km歩くぞ」とか)では、移動の観点からすればなかなかに「テキトー」だよね。
今まで散々、「目的の有無」が述語の定/不定をきめる、といったけれど、「目標の有無」というのも視野にいれていいと思う。
そうなると、距離・時間を決めたただの散歩が定的になりうる。たとえば「10歩歩く」は累積のようで、きちんと完了点が存在するような動作だと思うんよ。たとえば、「リハビリで10歩頑張って歩いてみてください」というのに完了点がないのは寂しいでしょ。
「目標の有無」を視野に入れると、累積的・反復的な動詞に対して「完了」という概念を考えることができるので、これはさきほどの延続にもつながってくる。
[1]では、動詞1語のみの相の意味論を論じていたわけだけれど、実際には相は動詞句にかかっているとみるべきなんだろう。つまり、「何を1枠とするか」。まあアタリマエの話か
-----
アルカの7相システムは、行為動詞と状態動詞を統合しているという点でいいシステムだと思う。じゃあ「真似すべきか」という話になるが、まあしなくてもいいんじゃないとは思う。みたように、7相システムは「行為動詞と状態動詞を連結するような考え」の元で有意義なのであって、そうでないような言語を作るなら、別に7相システムはいらんのかなと思う。たとえば、「座らせる」と「座っている」を別の言葉で表現するような言語をつくるなら、ことさら7相もいらない気もする。
「なんらかの行為をしようとし、それが始まり、少しの持続があり、成立することでなんらかの状態が生まれ、それがある程度持続し、終わり、なんらかの跡を残す」という認識背景を元にしたのが7相システムでしょうけど、すべての現象をこの背景で捉えようとするのはそんなに直観的なものではないと思う(行為の成立によって生じる状態が何か、というのは文化依存的というか、人によってバラバラだと思う)。えっと、つまり、「新種の文化」だと思うので、徹底的な7相システムを考えているなら、辞書には動詞それぞれの7相での様子を書いておくべきだと思う。
ともあれ、アルカのアスペクトシステムのおかげで、ロジバンにもいいことがありました。やったね!
[1] アスペクト考:
http://conlang.echo.jp/arka/study_yulf_138.html
おさらい。
アルカだと色々と動詞が分けられる。
①行為動詞と状態動詞
基本的には行為動詞(つまり無相で行為部分のアスペクトを指示する)だけれど、一部(例外動詞というらしい)では状態動詞(つまり無相で状態部分のアスペクトを指示する)。
②定動詞と不定動詞
アルカでいうところの完了相がつけられる場合が定動詞。言い方を換えれば、不定動詞は原理的には完了することがない。
多分、アルカはほとんどすべての動詞が定動詞だと思う。なぜそう思うのかは、アスペクトのおさらいで後述する。
③単位動詞と非単位動詞(単発モデルと連発モデル)
あまりすきじゃないネーミング。定動詞は単発モデルと連発モデルの双方が可能だが、不定動詞は連発モデルのみ可能。文法的には -and 付加によって、連発モデルに移行する。「歩く(luk)」は、定動詞・不定動詞の両方の用法が可能なので、不定動詞用法で用いたいときは lukand にすればよろし。
定動詞の連発モデルは「反復」で、不定動詞の連発モデルは「累積」。連発モデルは何らかの事象が連発しているモデルなわけで、「反復」では定動詞で表される事象それ自体が繰り返し起こっていることを表す。一方で「累積」では不定動詞で表される事象を構成する下位事象が繰り返し起こっていることを表す(と僕は思っている)。
※ あれ、じゃあ、定動詞 luk の反復は?多分やっぱり lukand だろなあ。「私は3年間この橋を通って学校に歩いて通っている」は多分 "lukand" 使うんじゃないだろうか。
てなかんじで、次にアスペクト。アルカのアスペクトは、
将然→開始→経過→完了→継続→終了→影響
の7相。
それぞれ多分こんな感じ:
将然:~しようとする
開始:~しはじめる
経過:~している
完了:~することを完了する/~することによって得られた状態が始まる
継続:~することによって得られた状態が続いている
終了:~することによって得られた状態が終わる
影響:~した結果が残っている/~することによって得られた状態の影響が残っている
アスペクトもその粗さによって色々と分けられる
① 行為段階と状態段階
「将然・開始・経過」が行為段階で、「継続・終了・影響」が状態段階。
※ [1] だとこの2つを「行為動詞」「状態動詞」と言ってるのだけど、個人的にここで「~動詞」というのは気持ち悪いので、「段階」にした。
② 事前段階、実行段階、事後段階
こんな感じ:
将然、開始、経過:事前段階
経過、完了、継続:実行段階
継続、終了、影響:事後段階
経過と継続がそれぞれの段階で重複してることに注意。なお、実行段階を内相、それ以外を外相という場合もあり。
③ 未完了と完了
こんな感じ:
~経過:未完了
完了~:完了
という大雑把な分け方。だけど、「完了」「行為の成立」は大事らしいので、この分類も捨てたもんじゃない。
てな感じ。アルカはアスペクトを7相、つまり、行為と状態をうまいこと連結させて、1つの語で表現することに成功したなって感じがする。「なんらかの行為をしようとし、それが始まり、少しの持続があり、成立することでなんらかの状態が生まれ、それがある程度持続し、終わり、なんらかの跡を残す」。これを元にして動詞は定義されているので、大体の動詞は他動詞なのは多分これによる(実際は逆か。他動詞中心の言語だから、こんな相概念ができたのかな)。
単発→連発モデル変換子(-and)の逆がないのは、定動詞的解釈のできうる不定動詞がないということである。これは恣意的なもので、合理的に組むなら、「定動詞解釈のできる不定動詞」はすべて定動詞で定義してしまえばいいわけで、これによって、そのような不定動詞が排せ、連発→単発モデル変換子を定義しなくて済む。
たとえば、luk を本来的には不定動詞であるとし、連発→単発モデル変換子として -ahend みたいなものがあったとすれば、 lukahend は「solはyulを通ってaに行く」という実際のアルカの luk と同じ意味にできる。この仮想アルカでの luk は実際のアルカの lukand に等しい。この例から、本来的に不定動詞であり定動詞的解釈のできるものを完全に排せることが分かる。
じゃあ、定動詞的解釈が事実上できなく、不定動詞と振る舞うことしかできないようなものはどうすればいいか。これは、形式上の定動詞を作っておいて、「実際は and付加形で使うことがほとんど」とするのが統一がとれていいと思う。そんな動詞があるなら、の話だけどね。
はてさて、ここからはロジバン。
ロジバンは動詞・形容詞・(繋辞+)名詞の区別がないことに注意する。「繋辞+名詞」を形容詞と統合するのはそこまで苦ではないが、形容詞と動詞を統合するのはそのままでは難しい。というのも、動詞には行為動詞と状態動詞の2つがあって、行為動詞は動詞特有であるからである。しかしながら、状態動詞は、その性質上、形容詞に近いので比較的簡単に統合が可能である。そのため、状態動詞はロジバンと相性がよく、アルカの例外動詞にあたる述語はおそらくそのままロジバンにもあるはず。
問題は、それ以外の動詞をどうするか、ということになるが、まずは不定動詞からはじめよう。不定動詞は割と対処しやすい。というのも、不定動詞は、連発モデルであるがゆえに、状態動詞と結構似ているからだ。たとえば、「走っている」(累積)というのは、人によれば「状態」と解釈されてもそこまでおかしくはないだろう。というわけで、不定動詞は累積の形ですんなりロジバンで定義できる。
最後に、定動詞のうち行為動詞である。「食べる」とか「行く」といった動詞である。たとえばアルカでは、無相に指向性(特定の相の想定しやすさ)をもうけていて、『vatなど、経過相の長い動詞は経過相に指向性を持つ。sedoなどの瞬間動詞は経過相がほとんどないので完了相に指向性を持つ。』としている。"kui"(食べる)や "ke"(行く)は、無相で経過相「~している」が想定される。経過相は、状態動詞における継続相と似て、そのような状態を表しているととれるから、行為動詞は、経過相の形でロジバンに取り込める。
ロジバンにおいて一環しているのは、その述語のデフォルトの相で、ある程度の時間範囲をとることができるという点だと思う。いわゆる点のアスペクトというのは、一瞬であるため、真か偽かというのを論じにくい。クワインのいう刺激係数を比較的長くとれるのは、継続相、反復相、経過相であり、言語習得においても、述語のあてはめのほとんどはこれらの相に対して行われるはずである。ロジバン(ログラン)の述語1語文を観察文として解釈しようとしていたことも考えると、やはり、継続相、反復相、継続相の3相がロジバンではデフォルトになってくるだろうと思う。
以上のことから分かるとおり、ロジバンの述語は基本的に状態動詞的である。ロジバンの主なアスペクトは次のようになっている:
pu'o:~しようとする/まだ~していない(prospective)(cfapru)
co'a:~し始める(Initiative)(cfari)
ca'o:~している(Progressive/imperfective)(faurmidju)
co'u:~し終わる(Cessative)(tolcfa)
ba'o:~し終わっている(perfective/retrospective)(tolcfabalvi)
wikibooksやwikipediaやCLL日本語抄訳等、それぞれで相の名前がまちまちなのがなんとも…。
これに加えて、重要なのが、
mo'u:~し終わる(Completive)(mulfa'o)
であり、これはアルカの完了相とおそらく同じ。さて、ここからが少しややこしい。
①状態動詞
このとき、対応関係は次のようになる(右がアルカ相)。
pu'o:~経過相
co'a:完了相
ca'o:継続相
co'u:終了相
ba'o:影響相
アルカでは、状態動詞(状態段階)は行為段階完了からであり、アルカは行為中心であるので、状態開始点は行為の終了点に等しく、すなわち、完了相となる。
②不定動詞(連発モデル)
このときの対応関係は次のようになる:
pu'o:将然相
co'a:開始相
ca'o:反復相
co'u:終了相
ba'o:影響相
多分、3つの中でもっとも当てはまりがよいのが連発モデル。"lukand" と {cadzu}はきっと大体同じ意味。
③行為動詞
このときの対応関係は次のようになる:
pu'o:将然相
co'a:開始相
ca'o:経過相
mo'u:完了相
ba'o:継続相~
co'u じゃなくて mo'u にしていることに注意。思うに、mo'uは③の場合でのみ使える。この場合での co'u は何相だろう…というのは少し気になるけれど、多分、完了未完了を問わない中止/停止だろう。
-----
述語を3つに分けたわけだが、実際はロジバンの述語はこんな分類がなされていないので、ではある述語は一体どこに属するのかをどう判断すればいいんでしょ。
ひとつの目安は、「その述語が当てはめやすい状況を想像してみる」ことだと思います。小さい子どもが語の当てはめを練習している風景を想像してもいいでしょう。
{citka}ならふつうは「食べ終わり」「食べたあと」よりは「食べている最中」(アルカの経過相)でしょうし(それゆえに{citka}は③)、
{vofli}ならやはり「上昇飛行中」(経過相)よりは「空を飛んでいるとこ」(反復相)でしょうし(ゆえに{vofli}は②)、
{dasni}なら「服に袖を通そうとしているとこ」(経過相)よりは「服を着てあるとこ」(継続相)でしょう(ゆえに①)。
・・・という風に(公式には曖昧ですが)、なんだかんだで分類を見極めることは多分可能です。
ロジバンはアルカの7相よりも少ないですから、というか、3分類中で、たとえば ca'o なんかは経過、反復、継続相の3つの役割があります。
ほんじゃあ、たとえば、"kui"の終了相(食べきったあとの状態が終わる)や、アルカの状態動詞の将然、開始、経過に相当する表現はどうしよう?となります。ちなみに②については一番当てはまりがよいので、このようなズレは生じていない。
まず、①。ここでは、pu'oは「~経過相」を指示するが、「将然、開始、経過」をきちんと言いわけるためにはどうすればいいか。
これは、{gasnu}を使えばいいんじゃないですかね。{gasnu}は③に属する述語だと思うので、{gasnu lonu ~(状態動詞)}とすることで、あたかも状態動詞の行為部分を記述していることになると思われます。
pu'o gasnu lo nu djuno:知ろうとする(将前)
co'a gasnu lo nu djuno:知るために動きはじめる(開始)
ca'o gasnu lo nu djuno:知るために動いている(経過)
mo'u gasnu lo nu djuno (= co'a djuno):知ろうとするのが完了する/知る(完了)
ca'o djuno:知っている(継続)
co'u djuno:知り終わる/忘れる(終了)
ba'o djuno:既に忘れている/覚えてはいたがもう知らない(影響)
のように、{djuno}の7相を網羅できるかと思います。なお、{ba'o gasnu lo nu djuno}は状態段階(継続、終了、影響)を表している。
そして③。ここでは、たとえば、{mo'u citka}のあと、つまり、{ba'o citka}の細分化をはからないといけない。どうしたものか。
ひとつの方法は、{jalge}ですかね。「x1はx2の結果」くらいの意味なので、
jalge lo nu [mo'u] citka
は、「食べきりの結果」くらいになりそう。一応これを使ってみると、
pu'o citka:食べようとする(将然)
co'a citka:食べ始める(開始)
ca'o citka:食べている(経過)
mo'u citka / co'a jalge lo nu citka:食べきる/食べることの結果が生じ始める(完了)
ca'o jalge lo nu citka:食べたことの結果が生じている(継続)
co'u jalge lo nu citka:食べたことの結果が終わる(終了)
ba'o jalge lo nu citka:食べたことの結果が既に終わっている(影響)
くらいになる。けれど、まああんまり使いたくないな…。
※ 実際は、{lo jalge lo nu citka ZAhO fasnu}くらいにすべきかもしれない。
さて、これで一応、7相と互換を持たせられたが、新たな述語を持ちだしたのはあまり美しくない。ここで、相表現の精度は若干落ちるかもしれないが、純粋に相の語だけを用いて頑張ってみる。ロジバンは入れ子相が可能だからね!
①。{djuno}の行為段階全体は{pu'o djuno}で描写可能。なので、
pu'o pu'o djuno:行為段階以前だ(≒将然)
co'a pu'o djuno:行為段階が始まる(≒開始)
ca'o pu'o djuno:行為段階中だ(≒経過)
co'u pu'o djuno (= co'a djuno):行為段階が終わる(≒完了)
と、pu'o pu'o はちょっと怪しいけれど、概ねいけてるでしょう。
③。{citka}の状態段階全体は{ba'o citka}で描写可能。なので、
co'a ba'o citka:状態段階が始まる(≒完了)
ca'o ba'o citka:状態段階中である(≒継続)
co'u ba'o citka:状態段階が終わる(≒終了)
ba'o ba'o citka:状態段階が終わってしまっている(≒影響)
と、こっちもなんとなくいけそうな気もする。
-----
ロジバンにある{za'o}について。これは「完了点を超えて尚やってる」という「まだ~している」という意味を表す。…が、完了点って超えようなくない?と思いません?「リンゴを食べきった上で、さらに食べる」なんかできるのか。
・その1の考え
おそらくここでいう「完了点」(natural ending point)は、原理的な終了点のことではなくて、「当初想定されている目標点」というべきでしょう。たとえば、「今から10分走ってくる」っていってたのに20分経っても走っているとか。「7時には眠りから覚める」ってことだったのに、7:15時点でまだ寝てるとか。原理的な終了点はそれ以降の行為継続がありえないけれど、状態をやめる目標点のことを言っているなら、そこで状態をやめないことができるので、za'oは有意義。
・その2の考え
注意すべきは、{za'o}は{citka}がまだ行われているといっているのであって、{citka lo plise}「リンゴを食べる」がまだ行われているとはいっていないという点。za'o citka は、{citka}の延続であって、すなわち、{za'o citka lo plise}は「リンゴを食べ終わったのにまだ他のものを食べてる」ということになるかもしれない。
・その3の考え
ここでいう「完了点」は「完了点がきそうな時点」のことを言っている。たとえば、「リンゴを食べ始めて、5分後には食べきりそうだな」と思うとする。このとき、ここでいう「完了点」は5分後に設定されて、それを超えた時に「まだ食べてんのかよ」という意味で{za'o citka lo plise}ということができる。大事なのは、「完了点」は行為の進捗の点ではなくて、行為の進捗を参考にして決められる時間軸の点だということである。
個人的には「その2」はあまりすきじゃない。今までは「その3」で通してた。「その1」もありかな。でも、「その1」だと、行為動詞への適用ができない。多分、「その1」と「その3」がないまぜに使われていそう。というくらいで留めておく。
-----
多分これで最後。「相はどの範囲にかかるか」という話。
たとえば、"luk" 「歩く」は移動動詞としてみれば、明らかに行為動詞で③、「テキトーに歩く」というのは不定動詞なので②。ここまではわかる。では、マラソンとか距離があらかじめ定められたウォーキングとかはどうだろ。マラソンは順路があるので、「テキトー」感がない。けれど、単に距離を決めただけのウォーキング(たとえば、「今日は10km歩くぞ」とか)では、移動の観点からすればなかなかに「テキトー」だよね。
今まで散々、「目的の有無」が述語の定/不定をきめる、といったけれど、「目標の有無」というのも視野にいれていいと思う。
そうなると、距離・時間を決めたただの散歩が定的になりうる。たとえば「10歩歩く」は累積のようで、きちんと完了点が存在するような動作だと思うんよ。たとえば、「リハビリで10歩頑張って歩いてみてください」というのに完了点がないのは寂しいでしょ。
「目標の有無」を視野に入れると、累積的・反復的な動詞に対して「完了」という概念を考えることができるので、これはさきほどの延続にもつながってくる。
[1]では、動詞1語のみの相の意味論を論じていたわけだけれど、実際には相は動詞句にかかっているとみるべきなんだろう。つまり、「何を1枠とするか」。まあアタリマエの話か
-----
アルカの7相システムは、行為動詞と状態動詞を統合しているという点でいいシステムだと思う。じゃあ「真似すべきか」という話になるが、まあしなくてもいいんじゃないとは思う。みたように、7相システムは「行為動詞と状態動詞を連結するような考え」の元で有意義なのであって、そうでないような言語を作るなら、別に7相システムはいらんのかなと思う。たとえば、「座らせる」と「座っている」を別の言葉で表現するような言語をつくるなら、ことさら7相もいらない気もする。
「なんらかの行為をしようとし、それが始まり、少しの持続があり、成立することでなんらかの状態が生まれ、それがある程度持続し、終わり、なんらかの跡を残す」という認識背景を元にしたのが7相システムでしょうけど、すべての現象をこの背景で捉えようとするのはそんなに直観的なものではないと思う(行為の成立によって生じる状態が何か、というのは文化依存的というか、人によってバラバラだと思う)。えっと、つまり、「新種の文化」だと思うので、徹底的な7相システムを考えているなら、辞書には動詞それぞれの7相での様子を書いておくべきだと思う。
ともあれ、アルカのアスペクトシステムのおかげで、ロジバンにもいいことがありました。やったね!
アルカから学ぶ述語分析~動詞の定/不定と単位/非単位~
参考:
[1] アルカのアスペクト考:http://conlang.echo.jp/arka/study_yulf_138.html
[2] ロシア語-不定動詞と定動詞-:
http://www1.odn.ne.jp/xenom/russian.box/hutei_tei.html
[3] ロシア語概説 > 移動の動詞:
http://rossia.web.fc2.com/pc/yazyk/vvedenie/glagol_dvizhenia.html
[4] 日本語動詞文分析における「有界性」の有効性 : 意味的要件としての複数性をめぐって
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=83&item_id=5983&item_no=1
ひょんなことから、アルカのアスペクト考を読み、述語の概念分析(?)の綿密さにすげえと思っていました(語彙力)。 i'e zabna
ロジバンキチガイなので、そうなると、じゃあロジバンはどうなるんよとなるので雑記。
とりあえず、定動詞・不定動詞、単位動詞・非単位動詞というのがあるらしいのでそこから。
アルカのアスペクト考[1]でいってる「定・不定」というのは多分素朴な意味(目的地の有無)かなと勝手に考えている。「書く」にも定/不定用法があるらしいので、もっといえば、目的の有無かな。「目的が定まっているか、定まっていないか」かしら。
ロジバンだとどうでしょうね。まあそもそも述語の定/不定で語形が変わることがないので、「定/不定について不定」(ややこしい)なんでしょう。ですが、ありがたいことに、すべてのbrivlaにはPSが定義されている(はず)なので、そう考えると、おおよそのところでは定/不定はPS次第となりそう。
{cadzu}は「目的地」がないので不定述語だし、{klama}や{muvdu}は「目的地」があるので、本来的には定述語なのだろう。そもそもは{klama}や{muvdu}に往復の意味合いはないし、多分、まさに定動詞の定部分を抽出しているような述語なんじゃなかろうか。
[1] アルカのアスペクト考:http://conlang.echo.jp/arka/study_yulf_138.html
[2] ロシア語-不定動詞と定動詞-:
http://www1.odn.ne.jp/xenom/russian.box/hutei_tei.html
[3] ロシア語概説 > 移動の動詞:
http://rossia.web.fc2.com/pc/yazyk/vvedenie/glagol_dvizhenia.html
[4] 日本語動詞文分析における「有界性」の有効性 : 意味的要件としての複数性をめぐって
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=83&item_id=5983&item_no=1
ひょんなことから、アルカのアスペクト考を読み、述語の概念分析(?)の綿密さにすげえと思っていました(語彙力)。 i'e zabna
ロジバンキチガイなので、そうなると、じゃあロジバンはどうなるんよとなるので雑記。
とりあえず、定動詞・不定動詞、単位動詞・非単位動詞というのがあるらしいのでそこから。
# 定動詞/不定動詞
ロシア語だとなんかこんな感じらしい[3]:«移動の動詞» は «運動の動詞» などとも呼ばれるが、日本語訳の違いでしかない。使い分けのリストは、
移動の動詞とは、対応する完了体を持たない総計30ほどの不完了体動詞の総称である。その特徴は、行為主体の場所の移動を意味すること、しかも語義的に同じ意味を持つふたつの動詞がペアを組んでいることにある。このペアには法則性があり、一方を «定動詞(定方向動詞)»、他方を «不定動詞(不定方向動詞)» と呼ぶ。
- 方向
- 目的地あり
- 片道 : 定動詞
- 往復 : 不定動詞
- 目的地なし : 不定動詞
- 目的地あり
- 時間
- ある時/1回 : 定動詞
- 不特定/反復 : 不定動詞
- その他
- 特性・能力 : 不定動詞
アルカのアスペクト考[1]でいってる「定・不定」というのは多分素朴な意味(目的地の有無)かなと勝手に考えている。「書く」にも定/不定用法があるらしいので、もっといえば、目的の有無かな。「目的が定まっているか、定まっていないか」かしら。
{cadzu}は「目的地」がないので不定述語だし、{klama}や{muvdu}は「目的地」があるので、本来的には定述語なのだろう。そもそもは{klama}や{muvdu}に往復の意味合いはないし、多分、まさに定動詞の定部分を抽出しているような述語なんじゃなかろうか。
# 単位動詞・非単位動詞
これはアルカの記事[1]以外に見当たらなかったんだけど、アルカのオリジナル用語かしら?
不定動詞「歩く」は一歩歩いても千歩歩いても歩いたことになるという特徴を持つ。
一歩歩くという最小単位の累積が不定動詞になっている。
一歩歩くというのはそれだけで終始する一回性のある運動である。
これを○で表すと、不定動詞は任意の個数の○、すなわち……○○○○○○○○……で表せる。
定動詞が有界であるのに比べ、こちらは非有界である。
しかし現実の行為は無限ではない。始まりも終わりもある。
始まりと終わりを|で示すと、不定動詞のモデルはこうなる。
|○○○○|
任意の個数の○が|の間にある。
また、|にいたるまでの過程と、|からの未来を――で表すと、モデルはこうなる。
――|○○○○|――
これは定動詞のアスペクトのモデルと異なっている。
――○――○――○――モデルを単位動詞と呼ぶ。
――|○○○○|――モデルを非単位動詞と呼ぶ。
単位動詞は定動詞しか来ないが、非単位動詞は定動詞の場合は反復で不定動詞の場合は累積となり、両方来る。
有界と非有界はよくわかんないんだけど、多分「原理的な終点(完了点・臨界点?)が存在するかどうか」ってことかなと。「歩く」の定動詞用法は「歩いてドコソコに行く」という意味合いになるが、これはドコソコに着いた時点で「歩いてドコソコに行く」ことはできなくなってしまうので、その意味で「歩く」ことができなくなる。なので有界。一方で、不定動詞の用法(ロジバンの{cadzu}はこっち)では、目的地が存在しない(ぶらぶら歩いてるだけ)ので、原理的な終点が存在しない。なので、非有界。まあこんな感じかな、と勝手に納得している。
※ 不定動詞用法の「歩く」でも、「体力の限界」とか「飽きる」とかそういった制限による終点がある(それゆえに、非有界的である)ように思うけれど、ここでいう「原理的な終点」というのは、多分「目的」のことだと思う。アルカ的には「~をするために○○する」というのが結構暗黙の内にあって、「~をする」に向かって「○○する」が行われているという光景が定動詞用法で表現されるのかもしれない。「ドコソコに歩いて行く」というのは、「ドコソコにいるために歩く」ってことで、「歩くこと」はここでは目的達成(どこそこにいること)のための手段である。
一方で、体力の限界によって歩くことが終わるようなとき、体力の限界は目的ではなく、単に原因。飽きも同様で、飽きるために歩くことは、まあ通常の人間はしないだろう。でも、たとえば、ダイエットがしたくて、「体力の限界まで歩こう!」としていたときは、体力の限界は目的になるし、このときの「歩く」は(この説明が正しければ)定動詞になるような気もする。それに、たとえ目的地はないが、「10km歩く」というのは、定動詞になりそう。もちろん、「歩く」にとっての標準的な目的(「XXXにいること」)といった話があるはずなので、その目的が標準的か否かで定/不定の判定も変わりそうだし、アルカでは実際にその通りだろう。
転じて、「目的があるから完了できる」といえそう。
『一歩歩くという最小単位の累積が不定動詞になっている。一歩歩くというのはそれだけで終始する一回性のある運動である。』[1]について。多分これはむしろ、「動詞が不定的でありえるためには、その動作の最小単位が自然に認識/理解できることが必要」ということなんだろう。「歩く」に不定動詞用法があるのは、「歩く」の最小単位が自然に理解できるからということなんだろう。この構造をどこかで見たことある気がするのだけど、思いつかない。
※
[1]では、一歩歩いても千歩歩いても「歩く」だ、とあるけれど、個人的には、ある事象の最小単位に対してその述語が適用できなくてもいいのではと思ったりする。つまり、累積すれば確かにその述語が適用できるが、その最小単位についてもそうであるとは限らないかもしれない。
少し懐疑的になって、「一歩歩いても千歩歩いても」で登場する「歩く」は「一歩前に出る」の意味であって、実際にここで議論している「歩く」とは違う意味かもしれないと考えてみる。そして、「一歩前に出ても千歩前に出ても、それは「歩く」である」と言い換えると、さっきより容認しがたくなりそうだ。ここにはそういったトリックがあるような気がする。ので、僕は最小単位の述語適用性を不定動詞に要請しない。つまり、厳密には、不定的な「歩く」とは「一歩前に出る」という一回性の運動の(ある程度の)累積であるといえる。
難しく言えば、僕は、不定動詞は離散的だが還元的ではないということが言いたいのかもしれない(といいながら、砂山のパラドックスが頭に浮かんだ)。
/※
そこで、不定動詞のモデルは ――|○○○○|―― らしい。ここで、○はその事象を構成する部分的な事象の最小単位で、「――」はそこにいたるまでの過程と、そこからの未来を表す。「|」はその述語が適用できる最大部分の境界、といったところ。(もし、「一歩前に出ること」を「歩き」に含めるなら、○は「一歩の歩き」に等しい)
そして、『――○――○――○――モデルを単位動詞と呼び、――|○○○○|――モデルを非単位動詞と呼ぶ』らしい。けれど、個人的に、モデルのことを「~動詞」で呼びたくないので、多分適宜「単位/非単位動詞モデル」っていうことになる。ヘタすると「単位/非単位モデル」「単位/非単位的(モデル)」って呼ぶ。
アルカでは、「単位動詞すなわち定動詞」であり、このとき事象の最小単位(○)は、アルカでは多分、開始から終了の部分。ロジバンでいえば、co'iの相。
「反復」と「累積」の言葉の使い分けの違いは、「最小単位に対する述語への適用の容認さ」によるらしい。「叩く」はふつう1回だけでも十分「叩く」だがが、「歩く」はふつう1回だけではあまり「歩く」としにくい。なので、「叩く」では反復、「歩く」では累積となる。
※
実はこのために、最小単位の述語適用性を不定動詞に要請しないでおきたかった。動詞Xがあったとして、「反復」されるのはXで表される事象だが、「累積」されるのはXを構成する、より小さな事象(Xの構成単位)であるとすれば、2つの概念がきれいに分離する。しかし、XがXによって構成されるという構図もありえる。たとえば、「書く」はそれに該当するはず。「書く」の不定的意味は文字の羅列をただただ書くことだが、これは「1文字書く」ことの繰り返しであるから、「書く」の累積によって「書く」ができあがる構図となっている。
でも、屁理屈をいえば、「1文字書く」ことが既に「書く」ことであるなら、それを繰り返すことは、累積でなくて反復ではないかと思える。しかしながら、厳密には、「1文字書く」ことで「文字列を書く」のであって、「叩く」とはちがう状況になっているのが分かる。「Aを叩く」の反復は純粋に「Aを叩く」ことが繰り返されるだけだが、「書く」で起こっているのは、「文字を書く」ことによる「文字列を書く」の実現であり、「書く」の対象が異なっていることに注意すべきである。つまり、不定の「書く」とは、「文字を書く」というより小さな事象の累積による「文字列を書く」である。
ここで、「一歩前に出る」や「文字を書く」という「歩く」「書く」を構成する最小単位の動作自体は定的だと僕は思う。反復と累積の決定的な違いは、その繰り返しが同一の事象か、より下位の事象かの違いだと思う。「叩いている」も「歩いている」もどちらもある定的な動詞によって表される事象の繰り返しが生じており、2つの違いは、その繰り返し起こる事象がそれ自身なのか、下位な事象なのかということである。
/※
なんでこれら2つのモデルを「単位」という言葉を使って表そうとしたのかはよくわからない。「単発モデル/連発モデル」のほうが分かりやすい気もする。まあ名前なんてどうつけたっていいんだけど。「単位」と言われると、非単位モデルのほうが構成単位があるって分、「単位的」に思えてくるのであまり嬉しくないかな。
にしても、アルカはこんなちゃんとした考察記事が日本語であっていいなあと思う。ロジバンもあればいいのに!
ちょっと長くなったのでとりあえずここで一旦切ります。続きは、ロジバンへの適用がほとんどです。
※ 不定動詞用法の「歩く」でも、「体力の限界」とか「飽きる」とかそういった制限による終点がある(それゆえに、非有界的である)ように思うけれど、ここでいう「原理的な終点」というのは、多分「目的」のことだと思う。アルカ的には「~をするために○○する」というのが結構暗黙の内にあって、「~をする」に向かって「○○する」が行われているという光景が定動詞用法で表現されるのかもしれない。「ドコソコに歩いて行く」というのは、「ドコソコにいるために歩く」ってことで、「歩くこと」はここでは目的達成(どこそこにいること)のための手段である。
一方で、体力の限界によって歩くことが終わるようなとき、体力の限界は目的ではなく、単に原因。飽きも同様で、飽きるために歩くことは、まあ通常の人間はしないだろう。でも、たとえば、ダイエットがしたくて、「体力の限界まで歩こう!」としていたときは、体力の限界は目的になるし、このときの「歩く」は(この説明が正しければ)定動詞になるような気もする。それに、たとえ目的地はないが、「10km歩く」というのは、定動詞になりそう。もちろん、「歩く」にとっての標準的な目的(「XXXにいること」)といった話があるはずなので、その目的が標準的か否かで定/不定の判定も変わりそうだし、アルカでは実際にその通りだろう。
転じて、「目的があるから完了できる」といえそう。
『一歩歩くという最小単位の累積が不定動詞になっている。一歩歩くというのはそれだけで終始する一回性のある運動である。』[1]について。多分これはむしろ、「動詞が不定的でありえるためには、その動作の最小単位が自然に認識/理解できることが必要」ということなんだろう。「歩く」に不定動詞用法があるのは、「歩く」の最小単位が自然に理解できるからということなんだろう。この構造をどこかで見たことある気がするのだけど、思いつかない。
※
[1]では、一歩歩いても千歩歩いても「歩く」だ、とあるけれど、個人的には、ある事象の最小単位に対してその述語が適用できなくてもいいのではと思ったりする。つまり、累積すれば確かにその述語が適用できるが、その最小単位についてもそうであるとは限らないかもしれない。
少し懐疑的になって、「一歩歩いても千歩歩いても」で登場する「歩く」は「一歩前に出る」の意味であって、実際にここで議論している「歩く」とは違う意味かもしれないと考えてみる。そして、「一歩前に出ても千歩前に出ても、それは「歩く」である」と言い換えると、さっきより容認しがたくなりそうだ。ここにはそういったトリックがあるような気がする。ので、僕は最小単位の述語適用性を不定動詞に要請しない。つまり、厳密には、不定的な「歩く」とは「一歩前に出る」という一回性の運動の(ある程度の)累積であるといえる。
難しく言えば、僕は、不定動詞は離散的だが還元的ではないということが言いたいのかもしれない(といいながら、砂山のパラドックスが頭に浮かんだ)。
/※
そこで、不定動詞のモデルは ――|○○○○|―― らしい。ここで、○はその事象を構成する部分的な事象の最小単位で、「――」はそこにいたるまでの過程と、そこからの未来を表す。「|」はその述語が適用できる最大部分の境界、といったところ。(もし、「一歩前に出ること」を「歩き」に含めるなら、○は「一歩の歩き」に等しい)
そして、『――○――○――○――モデルを単位動詞と呼び、――|○○○○|――モデルを非単位動詞と呼ぶ』らしい。けれど、個人的に、モデルのことを「~動詞」で呼びたくないので、多分適宜「単位/非単位動詞モデル」っていうことになる。ヘタすると「単位/非単位モデル」「単位/非単位的(モデル)」って呼ぶ。
アルカでは、「単位動詞すなわち定動詞」であり、このとき事象の最小単位(○)は、アルカでは多分、開始から終了の部分。ロジバンでいえば、co'iの相。
「反復」と「累積」の言葉の使い分けの違いは、「最小単位に対する述語への適用の容認さ」によるらしい。「叩く」はふつう1回だけでも十分「叩く」だがが、「歩く」はふつう1回だけではあまり「歩く」としにくい。なので、「叩く」では反復、「歩く」では累積となる。
※
実はこのために、最小単位の述語適用性を不定動詞に要請しないでおきたかった。動詞Xがあったとして、「反復」されるのはXで表される事象だが、「累積」されるのはXを構成する、より小さな事象(Xの構成単位)であるとすれば、2つの概念がきれいに分離する。しかし、XがXによって構成されるという構図もありえる。たとえば、「書く」はそれに該当するはず。「書く」の不定的意味は文字の羅列をただただ書くことだが、これは「1文字書く」ことの繰り返しであるから、「書く」の累積によって「書く」ができあがる構図となっている。
でも、屁理屈をいえば、「1文字書く」ことが既に「書く」ことであるなら、それを繰り返すことは、累積でなくて反復ではないかと思える。しかしながら、厳密には、「1文字書く」ことで「文字列を書く」のであって、「叩く」とはちがう状況になっているのが分かる。「Aを叩く」の反復は純粋に「Aを叩く」ことが繰り返されるだけだが、「書く」で起こっているのは、「文字を書く」ことによる「文字列を書く」の実現であり、「書く」の対象が異なっていることに注意すべきである。つまり、不定の「書く」とは、「文字を書く」というより小さな事象の累積による「文字列を書く」である。
ここで、「一歩前に出る」や「文字を書く」という「歩く」「書く」を構成する最小単位の動作自体は定的だと僕は思う。反復と累積の決定的な違いは、その繰り返しが同一の事象か、より下位の事象かの違いだと思う。「叩いている」も「歩いている」もどちらもある定的な動詞によって表される事象の繰り返しが生じており、2つの違いは、その繰り返し起こる事象がそれ自身なのか、下位な事象なのかということである。
/※
なんでこれら2つのモデルを「単位」という言葉を使って表そうとしたのかはよくわからない。「単発モデル/連発モデル」のほうが分かりやすい気もする。まあ名前なんてどうつけたっていいんだけど。「単位」と言われると、非単位モデルのほうが構成単位があるって分、「単位的」に思えてくるのであまり嬉しくないかな。
にしても、アルカはこんなちゃんとした考察記事が日本語であっていいなあと思う。ロジバンもあればいいのに!
ちょっと長くなったのでとりあえずここで一旦切ります。続きは、ロジバンへの適用がほとんどです。
2015/03/02
BAIについての雑記 2
BAIについての雑記その2。もう少し踏み込んだ意見。
まず、BAI SUMTI の形をとる項のことをBAI項と呼ぶ。
FA ko'a を broda に部分適用したのを
broda be FA ko'a
とかくことにする。もちろん、FA=feでは
broda be ko'a
であるし、FA=faのときは
se broda be ko'a
と同じ意味である。
もっぱら、FA=faのときに注意すれば良い。
また、タグの語源となるselbriをタグ元とでも呼び、
BAIをタグ、[BAI] をタグ元とする。
たとえば、BAI=pi'oのとき、[pi'o]=pilno である
BAI項は本質的にはseltauであるという説を提唱して吟味する。
この説は次の3つの性質に着目している。
1. associated with、本質的な意味論は「関連する」
2. 項枠拡張による述語の概念変化、親和性
3. 文修飾的、あるいは述語修飾的
まず、BPFK sectionsから、今のところBAIには2つの解釈のされかたがある。
これは概ね、[BAI]のx2に何が暗黙裡に想定されるかに依っている。
1つ目は(これが大多数)、bridiにあるいずれかの項を想定しているものである。
これを項想定的と呼ぼう。
2つ目は、bridiを抽象化したような項を想定しているものである。
これを文想定的と呼ぼう。
これらは述べたように[BAI]のx2に抽象項が入るか入らないかによっておおよそ判別できる。
[BAI]_2 に抽象項が入るとき、そのBAIは文想定的になり、そうでないときは項想定的になる。
ただし、項想定的なタグではタグ元のx2は、必ずしもbridiにある項を想定するわけではなく、
しばしば、「文想定的ではない」という広い意味で項想定的という用語を使うこともあるので注意する。
文想定的なタグでは、そのbridiを抽象化した項がタグ元x2に想定されるように振る舞うが、項想定的なタグでは、そのbridiに現れる項がタグ元x2に想定されうる。
しかしながら、述べたように、項想定的なタグでは、どの項が想定されるかが不明瞭(必ずしもbridiに現れた項が想定されるとも限らないため)である。さらにいえば、bridiとの関係性が文想定的タグと違って明確ではない。そのために、BPFKでは
「そのbridiによって表される出来事は、BAI項と関連がある」
という形でその意味を表している。この「関連」というキーワードは、tanru においても重要である。
---
さて、seltau云々の話にはいる。以下の公式が成り立つと主張する。
broda BAI ko'a = [BAI] be fa ko'a be'o broda
つまり、任意の追加項は、seltauの形でselbriに取り込むことが可能であると主張する。
"associated" な意味づけのされているタグがほとんどであることを考えると、これが本来的な追加項の意味論とすべきである。つまり、副文的タグの規則的に思える意味論は、どちらかというと語用論である。というのも、それらは、tanruにおいて sutra bajra を 「速い走者」と取るよりは、むしろ「速く走る」ととるのと似ている。この傾向性によって、副文的タグの意味論は理解されるべきだと思われる。
たとえば、du'o ([du'o] = djuno)は文想定的タグであるが、その解釈は
djuno be fa ko'a be'o broda
ko'aが知っている的brodaだ
の特殊であって、例外ではない。
---
反論。これは、少し論理が飛躍している。というのも、さきほどは、BAI項というのはそれの現れる文に対して作用すると述べていたのに対し、ここでは、BAI項は述語に作用すると述べているわけである。
しかし、これはtanruの問題ともとれる。たとえば、
ti blanu plise / これは青いリンゴだ
を
ti plise i lo su'u go'i cu srana lo si'o blanu
/ これはリンゴである。直前の文内容は青と関連する。
と解釈するのは妥当かどうかということである。これは共範疇性の考慮も必要であるから、一概にどうであるとは言えないが、これに違和感はあるだろうか。
微妙なところである。やはり、blanuはtertauにかかっているのであって、文全体について言及されるものではないような気もする。
しかしながら、
mi sutra bajra / 私は速く走る
ではどうだろうか。これを
mi bajra i lo su'u go'i cu srana lo si'o sutra
/ 私は走る、このことは速いと関係がある
とするのは、結構うまく捉えられているような気がする。{ti plise}との大きな違いは、seltauが自然言語的には形容詞的か副詞的かのどちらであるかというところである。
となると、少なくとも、BAI項が副詞的であれば、それが文に作用するか、述語に作用するかというのは結構寛容でいられる。
(多分、副詞というのは潜在的に副文構造をとるからかもしれない。)
---
実はトリックがある。以下では「親和性」をまじえていく。
文想定的タグはほぼほぼ、どんな述語に対してもそのように振る舞う。その意味で、副文的タグは述語と親和性について独立的である。
※実は、sutra は文想定的タグ元としてみれる。x2には動作/事が入るからである。おそらく、fi'o sutra は、文想定的タグであり、これは上での例が自然にみえたことと関係がありそうである。つまり、上の分析が自然にみえたのは、 sutra は述語と親和性について独立的であるためではないかと推測できる。
※では、{sutra bajra}と{fi'o sutra fe'u bajra}の違いはなんであろうか。もしくは、{
厄介なのは、非文想定的、すなわち項想定的タグである。これらのタグは述語との親和性によって、副詞的にも、擬本来的にもなる。副詞的とは、純に「関連」であることを意味する。副詞的なタグは、その述語との親和性が低いために、そのような解釈にならざるをえない。
特質すべきは擬本来的なタグである。このタグは、述語との親和性が高いことによって起こる。
de'i li renopapa barda ke tumla desku me'e zo'oi 東日本大震災
では、おそらく「2011年、大きな地震があり、それは東日本大震災と呼ばれる」となるが
ti gerku me'e zo potcin
では、おそらく「これはポチという名の犬だ」となろう。
注目すべきは後者で、ここでは me'e項が gerku と親和性が高いために、擬本来的な項として振舞っている。
------
雑記すぎて読みにくすぎるけれど、とりあえず、ポイントはこの「擬本来的」だと思う。実はこの用法さえなければ、タグはかなりスッキリしている。
なーーーんか、もっとスッキリ出来ると思うので、これはみなさん読まなくていいよ(最初に書け)
多分だけど、方針としては、用法を「副詞的」と「擬本来的」の2つにわければいいのかなと思う。
んで、文想定的タグはもっぱら副詞的。項想定的タグは述語との親和性が大きいと擬本来的な用法が可能となる。そうでないときは(擬本来的な意味合いが上手くつかめないときは)副詞的(~と関連がある)になる。
まず、BAI SUMTI の形をとる項のことをBAI項と呼ぶ。
FA ko'a を broda に部分適用したのを
broda be FA ko'a
とかくことにする。もちろん、FA=feでは
broda be ko'a
であるし、FA=faのときは
se broda be ko'a
と同じ意味である。
もっぱら、FA=faのときに注意すれば良い。
また、タグの語源となるselbriをタグ元とでも呼び、
BAIをタグ、[BAI] をタグ元とする。
たとえば、BAI=pi'oのとき、[pi'o]=pilno である
---
この説は次の3つの性質に着目している。
1. associated with、本質的な意味論は「関連する」
2. 項枠拡張による述語の概念変化、親和性
3. 文修飾的、あるいは述語修飾的
まず、BPFK sectionsから、今のところBAIには2つの解釈のされかたがある。
これは概ね、[BAI]のx2に何が暗黙裡に想定されるかに依っている。
1つ目は(これが大多数)、bridiにあるいずれかの項を想定しているものである。
これを項想定的と呼ぼう。
2つ目は、bridiを抽象化したような項を想定しているものである。
これを文想定的と呼ぼう。
これらは述べたように[BAI]のx2に抽象項が入るか入らないかによっておおよそ判別できる。
[BAI]_2 に抽象項が入るとき、そのBAIは文想定的になり、そうでないときは項想定的になる。
ただし、項想定的なタグではタグ元のx2は、必ずしもbridiにある項を想定するわけではなく、
しばしば、「文想定的ではない」という広い意味で項想定的という用語を使うこともあるので注意する。
文想定的なタグでは、そのbridiを抽象化した項がタグ元x2に想定されるように振る舞うが、項想定的なタグでは、そのbridiに現れる項がタグ元x2に想定されうる。
しかしながら、述べたように、項想定的なタグでは、どの項が想定されるかが不明瞭(必ずしもbridiに現れた項が想定されるとも限らないため)である。さらにいえば、bridiとの関係性が文想定的タグと違って明確ではない。そのために、BPFKでは
「そのbridiによって表される出来事は、BAI項と関連がある」
という形でその意味を表している。この「関連」というキーワードは、tanru においても重要である。
---
さて、seltau云々の話にはいる。以下の公式が成り立つと主張する。
broda BAI ko'a = [BAI] be fa ko'a be'o broda
つまり、任意の追加項は、seltauの形でselbriに取り込むことが可能であると主張する。
"associated" な意味づけのされているタグがほとんどであることを考えると、これが本来的な追加項の意味論とすべきである。つまり、副文的タグの規則的に思える意味論は、どちらかというと語用論である。というのも、それらは、tanruにおいて sutra bajra を 「速い走者」と取るよりは、むしろ「速く走る」ととるのと似ている。この傾向性によって、副文的タグの意味論は理解されるべきだと思われる。
たとえば、du'o ([du'o] = djuno)は文想定的タグであるが、その解釈は
djuno be fa ko'a be'o broda
ko'aが知っている的brodaだ
の特殊であって、例外ではない。
---
反論。これは、少し論理が飛躍している。というのも、さきほどは、BAI項というのはそれの現れる文に対して作用すると述べていたのに対し、ここでは、BAI項は述語に作用すると述べているわけである。
しかし、これはtanruの問題ともとれる。たとえば、
ti blanu plise / これは青いリンゴだ
を
ti plise i lo su'u go'i cu srana lo si'o blanu
/ これはリンゴである。直前の文内容は青と関連する。
と解釈するのは妥当かどうかということである。これは共範疇性の考慮も必要であるから、一概にどうであるとは言えないが、これに違和感はあるだろうか。
微妙なところである。やはり、blanuはtertauにかかっているのであって、文全体について言及されるものではないような気もする。
しかしながら、
mi sutra bajra / 私は速く走る
ではどうだろうか。これを
mi bajra i lo su'u go'i cu srana lo si'o sutra
/ 私は走る、このことは速いと関係がある
とするのは、結構うまく捉えられているような気がする。{ti plise}との大きな違いは、seltauが自然言語的には形容詞的か副詞的かのどちらであるかというところである。
となると、少なくとも、BAI項が副詞的であれば、それが文に作用するか、述語に作用するかというのは結構寛容でいられる。
(多分、副詞というのは潜在的に副文構造をとるからかもしれない。)
---
実はトリックがある。以下では「親和性」をまじえていく。
文想定的タグはほぼほぼ、どんな述語に対してもそのように振る舞う。その意味で、副文的タグは述語と親和性について独立的である。
※実は、sutra は文想定的タグ元としてみれる。x2には動作/事が入るからである。おそらく、fi'o sutra は、文想定的タグであり、これは上での例が自然にみえたことと関係がありそうである。つまり、上の分析が自然にみえたのは、 sutra は述語と親和性について独立的であるためではないかと推測できる。
※では、{sutra bajra}と{fi'o sutra fe'u bajra}の違いはなんであろうか。もしくは、{
厄介なのは、非文想定的、すなわち項想定的タグである。これらのタグは述語との親和性によって、副詞的にも、擬本来的にもなる。副詞的とは、純に「関連」であることを意味する。副詞的なタグは、その述語との親和性が低いために、そのような解釈にならざるをえない。
特質すべきは擬本来的なタグである。このタグは、述語との親和性が高いことによって起こる。
de'i li renopapa barda ke tumla desku me'e zo'oi 東日本大震災
では、おそらく「2011年、大きな地震があり、それは東日本大震災と呼ばれる」となるが
ti gerku me'e zo potcin
では、おそらく「これはポチという名の犬だ」となろう。
注目すべきは後者で、ここでは me'e項が gerku と親和性が高いために、擬本来的な項として振舞っている。
------
雑記すぎて読みにくすぎるけれど、とりあえず、ポイントはこの「擬本来的」だと思う。実はこの用法さえなければ、タグはかなりスッキリしている。
なーーーんか、もっとスッキリ出来ると思うので、これはみなさん読まなくていいよ(最初に書け)
多分だけど、方針としては、用法を「副詞的」と「擬本来的」の2つにわければいいのかなと思う。
んで、文想定的タグはもっぱら副詞的。項想定的タグは述語との親和性が大きいと擬本来的な用法が可能となる。そうでないときは(擬本来的な意味合いが上手くつかめないときは)副詞的(~と関連がある)になる。
登録:
投稿 (Atom)