NU1がVendlerの事象分類を想定しているのであれば、
mu'e : achievement
pu'u : accomplishment (process)
za'i : state
zu'o : activity
と対応するはず。
となれば、NU1は暗に、これらの上位分類である nu がこの4種において不定であるということを意味しているんではなかろうか。
これはすなわち、{nu BRIDI} で表すだけでは、その事象がはたして達成的なのか到達的なのか状態的なのか活動的なのかが定まっていないということだと思う。
そうであれば、ロジバンのbridi (単純にいえば、文)というのは、本質的に、達成的・到達的・状態的・活動的について不定である、すなわち、一般的に bridi はこの4つのどの解釈も可能であるような表現体であると捉えられる。もし1通りの解釈しか可能でないような表現体であるならば、NU1の存在意義がないからである。
・・・・・というのが、ちょっとした極論。どのあたりが極論かというと、
「一般的に bridi はこの4つのどの解釈も可能であるような表現体であると捉えられる」
ここですね。本当にこうでないと、NU1の存在意義はなくなるのかどうか。
これは多分間違いで、まず1つ目は「4つ全てにおいて解釈可能である必要はない」ということ。つまり、例えば、達成的なのか活動的なのかという2つの解釈が可能である表現があったとして、意図する読みを明示する役割としてNU1は存在意義がある。
nu bajra
zu'o bajra
pu'u bajra
nu bajra はそれが目標点のある走りかどうかを規定しないが、zu'o/pu'u bajra ではその走りに目標点がない/あることを明示できる。この点で、NU1はしっかりと意義がある。
認識すべきは、NU1は取り込んだその述語の振る舞いではなく、取り込んだ文の表す事象の種類の規定だということである。vendlerは動詞を4分類したが、厳密には事象を4分類すべきで、つまり、これらは動詞固有の性質ではない(その動詞が使われているからといって必ずしも1つの事象タイプに定まるとは限らない)。
もちろん、(現代の人間の認知様式では)1つの読みに定まる表現ももちろん存在していい。わざわざ、不定だからといって4つすべての解釈がありうると考える必要はないのである。不定であるというのは、ありうる全てを表しうるということではあるが、その全てを表しうる高位概念を表しているというわけではない。多くにおいて、その不定は収束する不定であって、包括する不定ではない。
・・・・・いずれにせよ、NU1が生きてくるのは、複数の事象タイプの読みが可能であるときである。おそらくいちばん登場してくるのが「達成」と何かであろう。
ロシア語などで見られる定動詞・不定動詞というのは、活動と達成の語レベルでの区別と言えそうで、これはpu'u/zu'oの対と似ている。また、状態と達成の区別もありうる。
この2パターンは、完了の暗示である。完了の存在しえない活動・状態に完了という概念が表れるようなファクターを取り入れることで、その事象タイプを達成とすることができる。しかしながら、根底に流れているのは変換前の活動・状態であるから、nu では不定となってしまう場合があるはずである。
しかしながら、到達だけは、よくわからん。到達と見まごうような他の事象タイプを表しうる表現というのは無い気がする。