2015/02/23

BAIについての雑記

「そのselbriに言いたいことを入れる位置がなければ、タグによって追加することができる」

まあ大体、BAIのsumtcita用法としては、こんな感じのことが書かれている。

多分に、BAIをきれいに解釈できることはより一層ロジバンを使うに当たって意義深いことだろう・・・。

この前は、zi'oとBAIを両極端に置いて、すなわち、BAIというのは項位置生成変換子だとか言ったけれど、これはあまり意味論的に功を奏さない(で、結局どうなるんだよとなる)ので、まあもう少し地に足つけて考えていかんといけん。

・・・じゃあ、地に足つけるってどういうことだ。とりあえずBPFKでも見ておこうという感じ。なのと、そもそもBAIはどのような要請によって導入されたのかを考えると、少しは見通しがたつかもしれん。

BPFKではBAI類をさらに意味論的に分類している。

サブクラスと呼ぶことにするが、BAI1~6の6種あって、

1. causation; 因果関係
2. epistemology; 認識論
3. case; 事例
4. tense; テンス
5. relational; 関係
6. quantity; 量

…まあいいや…。5とか「その他」とほとんど変わらん気もするけど…(全部関係やんけね)

とりあえずの仮説。

①ckini的という概念
これは、タグの元となるbrivla(以下、タグ元とでも呼ぶ)のx_2に抽象節項が来るかどうかによる。
BPFKの意味論をみていると概ね(ほとんど?)その傾向を見せている。

つまり、rinka, djuno, cusku とかはx_2に抽象節項がくるが、そのために、事実上こんな形式が得られる:

selbri BAI X = selbri ije X [BAI] lo su'u go'i

ここで[BAI]はタグ元。つまり、その文が意味上、BAIのタグ元のx_2にくるように解釈される。
これを非ckini的と呼んでる。では、ckini的はというと、こうでないときのことで、このときは、

"is associated with"

がきまって、意味論定義に現れる。つまり、その文と「関連がある」という意味に留まる。なので ckini 的と呼んでる。

もっぱら重要なのはckini的よりも非ckini的なほうなのだけど、マジョリティはckini的な方なので、こう名づけてある。非ckini的なタグというのは、この段階でもその重要性が分かってるので後で書く。

② 根拠系との重複
これはもっぱらBAI2に当てはまると思う。「~によれば」「~の知る所によれば」「~の言うところによると」といったようなことがBAIによって表せられるかもしれない。が、大きく異なるのは、その根拠系の内容自身も真偽にさらされるということだろう。

 たとえば、「彼によれば、あなたが犯人だ」というときに、この「彼によれば」がBAIによって表されていた場合、実際は「彼はそうであると思ってなかった」ら、偽になるだろうけれど、根拠系による表現なら偽にはならないだろう(メタに偽にはなるかもしれん)ということ。

③ タグのタグ元の他位置の意味上の充足
たとえば、

mi tavla do se pi'o ti

とするとき、タグ元のpilnoのx_2というのは特定されていないが、大体の人の中では、x_2に当てはまるのは文中に出てきた誰かだと思っているはず。というかそう解釈されることが多いはず。

これは多分だけれど、タグの前置詞的な側面が現れている。

I talk to you by this.

といえば、「これを用いた」のは I だろう。ロジバンではmiかdoに定まらないのは、もっぱら、x_1とx_2は等価(SEによって容易に転換される)からだと思う。

mi tavla do se pi'o ti pi'o vo'a

と言えば、明確に 私が使ったのだとわかる。

ともかく、意味上の項の当てはめが行われている傾向は間違いなくあるはず。これはどういうことかといえば、①のckini的タグの少し踏み込んだ意味論といえる。

ckini的タグは、「その文内容と関係がある」としか言わないはずであるが、この傾向は、文の中のいずれかの項と関係がある、と焦点を文から項にシフトしている。これは

mi pe sepi'o ti tavla do

と恐らく同義だろう。とすると、これは単に語用論かも?


とりとめないな・・・・。とりあえずここまで。当たるも八卦当たらぬも八卦

2015/02/21

cmavo マラソン 1枚目

気になったのだけピックアップ、

a'a
attentive, 謹聴, 注目, jundi といった感情。たぶん相槌に使える。
「うんうん」とか「なるほど」とか。会話ならかなり使いそうだよね。

a'acu'i は「あーはいはい」「あー、うんー」という上の空な感じで、
a'anai は耳が痛いときの「あーもうわかってるって!」「もう言わんでよ!」みたいな感じで。

a'e
alertness, 警戒, 注意, sanji といった感情。ううん。
とりあえず言えることは「注意!」みたいに、他の人に注意を促すわけではないんだよね。
何かに集中してますよ、気づいてますよ。という感じ。

「ん、誰か来た」 {a'e da klama} とかかな?

MMORPGとかでよくあるボディランゲージでいうと、頭の上に「!」ってつくような感情。
「!」には ua の意味合いのときもあるだろうけど、a'eのときもあるだろうし。

a'enai は tatpi らしい。「うんざり」。
多分だけど、 a'e が長時間続くと「またかよ・・・」になるよね。たぶんそれが a'enai だと思う。

「また誰かきた・・・・・」{a'e nai da klama}みたいな。

「XXくん、これも今日中にお願いね」って言われたときは心のなかで{a'enai}と叫ぼう(?)

a'i
これはeffort, 努力, camtoi (carmi troci)といった感情。「努力」より「奮闘」のがよさそう。

なんか頑張ってる感を感じましょう。ヒィヒィ言ってる感じでもいいかもしれない。

{a'i tavla fo lo lojbo}

うってかわって、a'icu'i は「簡単~♪」という感じ。 frili な感情。

a'inai はむしろ、くつろいでいる感じ。repose, surla, 休息している感じ。
くつろいでいるということを悪く言って、「怠けている」感じでもあるのかな。

{a'inai gasnu calo bavlamdei} 「あ~明日やるよぉ~」

ainai
たしかこれはBPFKだと少し意味が変わって、「する気がない」というより「想定外」というか「そんなつもりはなかった」という感じになるっぽい。 snuti な感じ。

ai のほうは zukte な感じ。志向してる感じ。

ba'acu'i
経験, I experience, lifri といった感じ。これは UI2 なので、根拠系。つまり、「その発言のきっかけ/出所となるもの」。「経験的に」とかかな。「俺もなったことあるけど」とか。

{ba'acu'i ti cafne} 「これよく起こるんだよね(俺もなったわ)」(機器故障とか)

ba'anai は「そういえば」って感じ。回想、I remember, morji。

be,bei
日本語定義が貧弱な気がするのであとでもう少し、英語定義を取り入れよう…。

be'u
これは、日本語定義だと、「apathy」になってるけど、BPFK・英語定義だと、lack/need で、「何かが欠けている/必要になっている」ことを表すらしい。

ちなみに、be'u は UI5 で、いわゆる「modifier」に属する。ので、 UI be'u とすると、「何かが必要/欠けているということによってUIである」という意味になるそうな。

uinaibe'u とかは「おなかへったぁ・・・・」に使えるかも?

bi'i, bi'o
これいいよね、from A to B みたいな。非論理接続詞。だけど、JOIではなくてBIhIという特別なselma'oに属しているので、構文を少し見ておく必要はありそうだ。

bi'u
これも良く使えそう。新情報、newly introduced information, nindatniな感じ。談話系だね。
「こういう件があるんですが」もいいけど、もっとよく使うフレーズとしては「実は」じゃないかな。

{bi'u mi ninmu} 「実は私女の子なの」

ウェウェウェッ!て感じで驚いてやるといいかもしれない。くだらねえ

bi'unai は「~ということはよく知られている」とかでいいかも。論文とかで使えそうだね。

ca'e
定義しようとする態度。根拠系。つまり、この発言の出所は、この発言を言おうとしたのが、それが定義だからだ。というような感じ。「ソースは?」「いや、これが定義なので」。

数学で使えそうだよね。「Xを集合とする」とかね。プログラミングでいうところの宣言に近いよね。

原理的には、だから、ca'eのついた文は必ず真になる。そう取り決めてるんだからそうだろう。

日常でいえば、結婚式とか。命名の儀式とか?

{ca'e zo sen cmene do} 「お前の名前はセンだ」


cmavoマラソン

やることは簡単!

http://guskant.github.io/lojbo/gismu-cmavo.html

ma'oste をひたすら上から眺めていく苦行です。

ぼちぼちやっていきます。

僕は、ma'osteをpdf印刷、4つ組両面印刷して読んでますので、
記事に書くときも「枚目」という表記を使うかもしれません。

2015/02/17

lo ka [broda] を属性としてみれば

lo ka [broda] はまあよく「性質」と訳されているが、たぶん「属性」の間違い。

めちゃくちゃ大雑把にいえば、 lo ka [broda] というのは「1項述語」のことだと思うし、もしかするとそういう風に割り切ったほうが変なことを考えずにさくさく使えるかも。

まず間違いなく、lo ka [文] の文は開文であることが明らかに、当たり前に、至極当然に感じられる。だって、1項述語だもの。一個穴が空いてなきゃ、それは1項述語でないもんね。なので、最早の無記述な項位置にはce'uが想定されて当然なのです。述語だもの。

ほんじゃ、たとえば、

ckaji
-kai-
x_1 には x_2 の性質がある

とか。これはどういう意味なんだっていえば、

ko'a ckaji lo ka ce'u blabi

は、「ko'aは『xは白い』を満たす」くらいに捉えることができる。要は、白いんだよ!今回の場合は

ko'a blabi

とほとんど、まったく?同じ意味になると思われる。

「なんのためにこんな回りくどいことを」と思うかもしれないし、僕もずっと思ってたけど、一個使い道があった。というのも、loka句はちょっとばかし本文から「浮いている」ので、

mi ckaji loka ce'u nelci lo gerku

は実に「私は犬が好きだ」を意味できるはず。・・・これはちょっと背景を知らないと関心しないかも。 lo broda は、xorloでは zo'e、つまり定項と同じなので、

mi nelci lo gerku

というのは、「総称の犬が好き」くらいの意味よりは、「犬であるようないくつかの個体が好き」になってしまって、若干意味合いが異なってくる。それじゃあ、

mi nelci ro gerku

とすればいいのかと言われると、総称文は全称文のときもあるが、そうでないときもあるので、必ずしも一辺倒にそう訳すことはできない。

 しかーし! loka句は「ちょっと浮いている」のだ。言い換えると、loka句の文、「xは犬が好きだ」の議論領域は、主文とは違うものを用意できるので、まあ、総称文的な使い方ができるかな?とちょっと考えていた。

mutceとかはどうだろ?

mutce
-tce-
x_1 は x_2 (性質)に関して、 x_3 (極性)に対して凄い; x_1 はとても x_2

これは、まあ多分だけど、「その述語がめちゃくちゃ当てはまる」ってことなんだろうか。個人的にはこれには量が絡んでいるとは思う。

mi mutce lo ka ce'u blabi / ワイはめっちゃ白い

というのは、「ce'u blabi」に適合するために必要な諸量(今回は、白の度合い、白み?)がめっちゃあるってことだと思う。属性を始点にして、そこから、関連する量を間接的に x1 に押し付けてる感じかな。

zmadu や mleca もそんな臭いのする単語だね。

んまあ、ともかくとして、lo ka [文] は「1項述語に似たなんか」と考えておけば、割と混乱することはないかなあと思ったり。

zi'o と sumtcita sumtiを対とみる

 今までは sumtcita をおおよそこんな感じに解釈していた:

broda BAI ko'a = BAI ko'a zo'u broda

 事実上、タグ付きsumtiは浮いているとみていた。bridi中のタグ付きsumtiはもっぱら話題部にもっていけるわけで、selbriが規定する項枠に入るsumti(裸のsumtiやFAタグ付きsumti)と比べると、若干ぶらぶらしているというか、ひとつお高いところから見下ろしている感じがする。というか、そのように捉えていた。

 ところで、zi'o というのは selbri演算子だと僕は考えている。雰囲気としては、述語 F, G があるとして、

G = ZIhO{xk}(F)

のように、zi'oを述語Fのk項目に入れることは、その位置をズィホった(zi'o演算子を適用した)述語Gをつくることに等しい。と、僕は考えている。

 もっとも、「もっとフランクに使おうぜ!」というようなzi'oの意味論というか語用論もあって、その意味論はだいたい「zi'oの位置については今回何も話者は指示対象を想定していない」というような感じ。ちょっとかっこうよくいえば、zo'eの不特定用法をzi'oに委託しようという感じ。zi'oの本来の意味はどこいったんだ。

 このフランクzi'o用法だと、たとえば、単に「私は彼を知っている」と言いたいときに

mi djuno zi'o ko'a

みたいに言える。つまり、「彼について知っている」と言いたいのであって、今回の主張では「彼についてどうこうといった命題を知っている」と言いたいわけではないですよ、という意味合いになる。

 ありっちゃあありなんだが、brivlaのPSはそのbrivlaの概念にとって不可欠なものが揃っているわけで、「それについて言及しないなら、それはもう別の概念のbrivlaだろ」と思うわけで。

 そんなこんなで、僕はフランクなzi'o意味は好きじゃない。たとえば gleki氏はロジバンを結構簡単にしたがっている人だけれど、彼の改良案では、「無記述の項位置には zo'e か zi'o が想定される」としていて、おそらくこれはフランクなzi'o意味のほうなんだろうと思う。

 結構な人がこんなフランクな感じで使っているので、もしかして公式の意味論がそうなのか?と思ってCLLを覗いてみたらそんなことはなかった:

zi'o は、存在しない値(話者が表現したい関係に関与しない場所)を示す。例 えば、zbasu (主体 x1 が x2 を x3 から作る)を使って、 
7.2) loi jmive cu se zbasu [zo'e] fi loi selci
~の群れ 生物 作られる [何かによって] ~から ~の群れ 細胞
生物は細胞から作られる。 
とは言えない。なぜなら、zo'e は以前として「制作主」が存在していることを 仮定するからである。解決法は、異なるセルブリを使うか、該当するところに zi'o を入れるかである。 
7.3) loi jmive cu se zbasu zi'o loi selci
~の群れ 生物 作られる [制作主無しに] ~の群れから 細胞 
7.4) mi zbasu le dinju loi mudri
I make the building from-some-of-the-mass-of wood.
I make the building out of wood. 
7.5) zi'o zbasu le dinju loi mudri
[without-maker] makes the building
from-some-of-the-mass-of wood.
The building is made out of wood. 
7.6) mi zbasu zi'o loi mudri
I make [without-thing-made]
from-some-of-the-mass-of wood.
I build using wood. 
7.7) mi zbasu loi mudri zi'o
I make the building [without-material].
I make the building. 
zi'o によってセルブリのある場所をブロックするのは、ことなる場所構造を持つ新しいセルブリを作り出すのと同じである。 例7.4 が正しければ、例7.5~7.7 は全て正しいが、例7.3は、通常の(zi'oの無い)いかなるスムティとも対応しない。
BPFKでもこんな記述があるので、まあフランクな意味論は誤用(御用だ御用だ)とみていいのかもしれない:
cmavo: zi'o (KOhA7) 
Proposed Definition of zi'o
Nonexistent argument place. zi'o is gramatically a pro-sumti, meaning it fills a sumti place, but unlike other pro-sumti zi'o actually removes the place it fills from the bridi it is in entirely. A bridi with zi'o in it actually represents a completely different relationship, one with one less element being related. 

そんで。zi'oというのはselbriを別のselbriに変換する演算子とみれる。場の量子論のオマージュで消滅演算子とでもいえばちょっとはカッコいいかもしれない。仮にそうとでも名づけておけば、みんなこう思うはずなのだよ。「消滅があるなら生成があるだろ?」と。つまり、

G = Gen_{s}(F)

というような、述語Fに新たな項位置、もとい追加規則をぶちこむような演算子を想定できよう。・・・・・ううん。たとえば数学なら、

F(x,y) = x+y

があって、

G = Gen_{λz.(F-z)}(F) = x+y-z

みたいな感じで、新しい引数が1つ増えた関数が作れるようなことができそうだ。(生成演算子の引数(?)である追加規則をどう書くかは解らない。とりあえずはガバガバだけどラムダ式でかいておいた)

Haskellもガバガバの素人だけど、

f x y = x + y

として

g = \x,y,z -> f x y - z

みたいな感じの挙動を起こすような(項位置)生成演算子があってもいいじゃない。

 結局のところ言いたいのは、sumtcitaってそれじゃね?ということです。つまり、

broda BAI ko'a = BAI ko'a zo'u broda

というのは、今のところたまたまそう解釈されているだけで、実のところの意味としては、zi'oの真逆のことをしているのではないかと。つまり、「項を追加する」というのはかなり表面上の説明でしかなくて、実のところ sumtcita付きsumtiは、そのselbriに然々の項規則を新たに追加したような新しい概念を表す全く別もののselbriをつくりだす演算子なのではないかと。

 こうすると、zi'oの概念と対の概念が生まれて、対称性が上がって、ハッピー!gleki!.ui.ui.ui!

 じゃあこの意味論で行くとして、具体的に理解が深まるところがあるのかは、もうちょっと考える時間をください。

2015/02/16

pixra

今日(昨日か)のロジバン勉強会で、pixra のすごさを知った。

pixra
x_1 は x_2 (主題)・ x_3 (作者)・ x_4 (媒体)の絵/画/写真/造形; x_3 は x_2 を描いて x_1 を創る
広義で「彫刻」も。 ・大意: 絵 ・関連語: {ciska}, {cinta}, {prina}, {mupli}, {barna}, {skina}

x_1 is a picture/illustration representing/showing x_2, made by artist x_3 in medium x_4.
Also (adjective:) x_1 is pictorial/illustrative; drawing (= {xraselci'a}), x_1 draws x_2 (= xraci'a/xraci'a), image (= {xratai}), photo (= {kacmyxra}), take a photo (= {kacmyterxra}, {kacmyxragau}, {kacmyxrazu'e}); sculpture, relief (= {blixra}). See also {ciska}, {cinta}, {prina}, {mupli}, {barna}, {skina}.

pixra の一番しっくりくる大意は「造形」なんじゃないかと思う。なお、「形」というのは2次元・3次元を問わないので、その意味のままの「造形」。つまり、絵も造形に含む。

現行の定義は日本語のものも英語のものも、二次元造形を推してるけど、今回のロジバン勉強会で作った calxra を理解するには、次元を規定しない意味での「造形」を意味することを理解しないといけないと思うので、きちんと変えたほうがいいような気がするよね。ちなみに、calxra は「3次元的造形」くらいの意味なので、日本語の「造形」に近い語かもしれない。

2015/02/11

zo'eの不特定性の救済に関する試案

2015.02.11

[1] BPFK Section: Grammatical Pro-sumti
http://www.lojban.org/tiki/BPFK+Section%3A+Grammatical+Pro-sumti#cmavo:_zo_e_KOhA7_

 BPFKによる最新の公式意味論では、zo'eは複数定項として定義される。zo'eは、新しいgadriの意味論、xorloにおいても、描写sumtiのほとんどがzo'eに還元される(すなわち、描写sumtiは定項である)という点でも重要な代sumtiとなっている。

 BPFKによるzo'eの定義は次のようなものとなっている:
Unspecif it. zo'e is a pro-sumti (meaning it takes the place of a fully-specified sumti). It represents an elliptical or unspecified value. It has some value which is irrelevant or obvious in the current context. All empty places in Lojban are implicitely filled with zo'e, making it (by far) the most-used word in the language, in a sense. zo'e can represent just about anything. The important exceptions are no da, which is equivalent to putting na in front of the selbri of the bridi in question and hence alters the meaning completely, zi'o, which utterly changes the nature of the bridi to one which has a different place structure, and ma, which turns a statement into a question. zo'e can represent a referant of any complexity. To fully specify the thing represented by zo'e may require very complex Lojban, including abstractions, relative clauses, relative sumtcita, and combinations thereof.
簡単に日本語に訳しておく。
「不特定なそれ。zo'e は代sumtiであり、省略的(elliptical)あるいは不特定(unspecified)な値を表す。そのときの文脈において、その指示対象が何であるかについてあまり重要でない/無関係(irrelevant)であったり、明らか(obvious)であったりするような値を有する。ロジバンにおける空位置(empty places)にはすべてzo'eが暗黙に想定され、その意味で、いまのところ、ロジバンで最も多用される語である。zo'eは実におおよそ何でも表すことができるが、重要な例外として noda がある。これは、当該のbridiのselbriの前にnaを置くのに等しく、それゆえ、その意味を完全に変えてしまう。zo'eはどんな複雑性を有する対象をも表せる。zo'eによって表されているものを完全に特定するにはかなり複雑なロジバン(抽象節、関係節、関係sumtcita、それらを組み合わせたものを含むような句)が要求される。」

(ところどころ、不必要な(そして間違いが含まれていそうな)箇所は訳していない。)

 今回のテーマとなるのは、定義の前半部分、「不特定なそれ。zo'e は代sumtiであり、省略的(elliptical)あるいは不特定(unspecified)な値を表す。そのときの文脈において、その指示対象が何であるかについてあまり重要でない/無関係(irrelevant)であったり、明らか(obvious)であったりするような値を有する」である。このzo'eの意味の定義は、どちらかといえば語用論である。つまり、zo'e が複数定項であるというところから、省略的用法、不特定用法が出てくるとみるべきである。

 定項について理解するために、典型的な一階述語論理の意味論について簡単に触れておく。それによれば、その論理式(文)の意味付けとして、空でない集合 D と、非論理記号全体の集合を定義域とする解釈関数 F の組 (D, F) を考え、これを構造という。Dはつまるところ議論領域であり、解釈関数は主に定項とその指示対象のリンク、述語記号の意味付け(集合論的には、n項述語記号はD^nの部分集合にリンクされる。つまり、その述語記号が表す述語に適合する組の集合とリンクされる)を担う。述語の解釈(ロジバンでいえば selbriの解釈)は一定であるとして、解釈関数の多様性とは定項への指示対象の対応付けの多様性とする。

 たとえば、 a を単数(単称)定項とし、議論領域として、D = {s, t, u} を選ぶとする(記号が嫌なのであれば、{Sally, Tom, Ulf}とでもしよう)。このとき、解釈関数 F は、aについて、

F (a) =
1. s
2. t
3. u

の3通りが存在する。

 zo'e のために、次は A を複数定項とし、同じ議論領域を選ぶとすれば、解釈関数は A について、

F (A) =
1. s 
2. t
3. u
4. 「s, t 」
5. 「s, u」
6. 「u, t」
7. 「s, t, u」

の7通りがある。ここで 「・」 は複数定項に関する外延表記である(Mckayは「・」でなくこれを上下反転したものを用いていたが、見やすさのため通常のカギ括弧で表記する)

 さて、zo'e が複数定項であるということは、それが特定の構造の下で、その指示が1通りに定まることを意味している。同じ議論領域において、

zo'e blanu

と言い、F(zo'e) = 「s, t」 なる解釈関数をもつ構造の下で解釈すれば、これは、

sとtは青い

という意味になる。

※ ここで、定項の指示について「1つ」といわず「1通り」と言ったのは、それが複数定項だからである。単称定項であれば、定項の指示が1通りに定まるというのはその指示対象が1つに定まることに等しいが、複数定項ではそうではない。

束縛変項は、特定の構造の下でも指示対象は1通りに定まらないことに注意しよう。たとえば、

su'o da blanu

は先ほどと同じ構造の下で解釈しても、

青いものが少なくとも1つある

であり、{su'o da}は特定のものを指示しない。「指示対象は1通りに定まらない」という文言は奇妙であって、そもそも束縛変項はその走る範囲(たいていは議論領域D)が定められることはあっても、その中のどれかを1通りに指すことはない。束縛変項は特定の構造の下でもその指示は不特定である(何かを指示すると考えることはおかしい)。


 それではようやく、zo'eの意味について入ろう。zo'eには省略的代項と不特定的代項の2種類の用法があるので、それぞれをみていくことにする。

 省略的代項の用法では、話者にとってそのzo'eが何を指示しているのかは把握されている。これはしばしば照応の形で出てくる。というのも、照応というのは話者と聴者の間で共有された文脈によって行われるからである。

la .djan. cu prami mi .iku'i mi xebni [zo'e]
ジョンは私のことを愛している。しかし、私は嫌いだ。

このとき、 zo'e = la .djan. であることは想像がつく。もちろん、テキストにおける文脈だけでなく、

[zo'e] jelca
燃えてる!

といった、共有している外界の様子から、zo'eの指示が定まるようなときにも用いられる。この意味で、 zo'e というのは英語の "the" に近いかもしれない。

 ここで押さえておくべきなのは、省略的代項の用法においては、zo'eの指示は特定されているということである。少なくとも話者にとって、それが何を指示しているのかは1通りに定まっているはずである。そのため、この用法は、zo'eが複数定項を意味することとなんら矛盾しない。


 しかしながら、おそらく(省略されているのも含めば)zo'e の大半は2つ目の不特定的代項の用法で用いられている。この用法は zo'e が定項であることと一見矛盾している。たとえば、

la djan cu prami zo'e

というのを、zo'eの指示を特定せずに発言するというようなことはよく行われているが、zo'eは複数定項であるから、本来、指示が1通りに定まっているはずである。となると、これは、第三者からみれば、話者はこのzo'eの指示を特定しているという読みしかできないはずである。

 これは、「任意の定数C」というような、定数であるのに任意であるというパラドキシカルな定数とよく似ている。これらに共通しているのは、それが「定」であるのは、ある特定の解釈・構造の下においてであるということである。

 つまり、たしかに zo'e は複数定項であるが、それは「特定の構造の下で」そうなのであって、構造が1つに特定されていない状態ではzo'eの指示は不確定でいられるのである。

 zo'eは定項であるから、議論領域Dは一定だったとして、影響を受けるのはその解釈関数Fの在り方である。上の場合でいえば、あの7通りの解釈関数のうちのどれであるかを確定しない間は、zo'eもその指示対象が1通りには定まらない。つまり、zo'eの不特定性というのは、解釈保留から生じる不特定性であるとみれば、矛盾しない。

 今までは、話者は何らかの特定な構造を携えてその文を発すると考えていたわけだが、その前提をやや否定するのである。そうすると、定項を含む文への話者の態度をどう見るかによって、その文が述べようとすることはかなり豊かになる。たとえば、さっきの議論領域D={s,t,u} を想定し、発言された文には定項が1つ含まれていたとしよう。そのとき、話者は

1.  ひとつの特定の解釈を想定している
2. それを充足するような解釈関数があることを主張している(特定の解釈を想定していない)
3. どの解釈関数であっても充足することを主張している(特定の解釈を想定していない)
4. 複数の特定の解釈を想定している

のいずれかの態度をとることができるかもしれない(4は少し厳しいかもしれない)。
1. はもっとも素直な態度であり、2. は不特定なzo'eの用法において最も取られている態度であろう。
3. はあまり取られる態度ではないかもしれないが、

do nelci ma
zo'e

というような、消極的全称表現(「それ」と特定しないことから連想されるという意味で消極的)としてありうるかもしれない(要検討)。

こう考えると、zo'eの解釈の不定性によって、メタレベル(構造レベル)での複数変項の量化をロジバンは備えているとみることもできそうである。少なくとも、よく使われる、zo'eに対する2.の態度というのは、su'oi と実質遜色ない意味合いになるはずである。


 さらに、この立場では、le にも有用性が出てくる。le broda もlo broda も確かにどちらも定項であり、zo'eと変わりえないが、le と lo の違いはむしろ構造レベルでの話者の態度の違いといえそうである。つまり、lo はそれに対する解釈関数の振る舞いについてなんら規定しないが、le はそれに対して話者が特定の解釈関数を想定していることを明示しているとみなすことができる。

 もうひとつ、noi の意味論もこのオブジェクトレベルと構造レベル(メタレベル)の2つを考えることでよりわかりやすく捉えられそうである。すなわち、poiというのはオブジェクトレベルでの限定であって、noiというのはメタレベルでの限定なのである。つまり、

zo'e noi broda

というのは、たしかに、オブジェクトレベルでは zo'e の指示を変えることはないが、zo'eの解釈関数を推定する際に、よりメタな基準として zo'e の解釈先が broda_1 を満たすようであれ、と限定するのである。


2015/02/09

BPFKによる関係節について(備忘録)

もっぱら備忘録であって、論理が不明瞭、記述が煩雑。

[1-2] CLL8-2: http://lojban.github.io/cll/8/2/
[2] BPFK section: subordinators : http://www.lojban.org/tiki/BPFK+Section%3A+Subordinators

ここでは、BPFKによって意味の再定義された(と思われる)関係節 poi/noi とそれから派生する pe/ne, po/no, po'u/no'u について考える。ほとんどがcogas個人の意見で、もっぱら非公式である。

まず、再定義されたと考えられる理由から述べる。主な変更点は「制限(限定)的」「非制限(非限定)的」の意味合いが変わっているところである。[1-1]では、たとえば次のような記述がみられる:
However, even with the assistance of a pointing finger, or pointing lips, or whatever may be appropriate in the local culture, it is often hard for a listener to tell just what is being pointed at. Suppose one is pointing at a person (in particular, in the direction of his or her face), and says: 
1.1)   ti cu barda
       This-one is-big. 
What is the referent of “ti”? Is it the person? Or perhaps it is the person’s nose? Or even (for “ti” can be plural as well as singular, and mean “these ones” as well as “this one”) the pores on the person’s nose?
(英語CLLは改訂版を引用するが、日本語訳として差し支えなければ旧版を引用する)
 しかし、指(あるいは唇など文化によってさまざまだが)で指したとしても、何を指しているかを正確には言えないことがある。誰かが目のまえの人を指してこう言ったとする。

1.1) ti cu barda
     これ(ら)は大きい。 
ti は何を指すのだろうか。その人だろうか。もしかするとその人の鼻かもしれない。あるいは、ti には複数、単数の区別がなく「これら」と「これ」の両方を表せるので、その人の鼻の毛穴を指すのかもしれない。
ここまでは分かる。そこから、関係節の概念の導入があり、この例文が続く:
1.2) ti poi ke'a prenu ku'o cu barda
     この人は大きい。
1.3) ti poi ke'a nazbi ku'o cu barda
     この鼻は大きい。
1.4) ti poi ke'a nazbi kapkevna ku'o cu barda
     これらの鼻の毛穴は大きい。 
この時点で、「poi節は先行sumtiが何を指しているのかが不明確であるときに、その指示対象を明確化するために付け加えられる」と捉えることができる。

[1-2]ではIncidental relative clausesが導入される:
There are two basic kinds of relative clauses: restrictive relative clauses introduced by “poi”, and incidental (sometimes called simply “non-restrictive”) relative clauses introduced by “noi”. The difference between restrictive and incidental relative clauses is that restrictive clauses provide information that is essential to identifying the referent of the sumti to which they are attached, whereas incidental relative clauses provide additional information which is helpful to the listener but is not essential for identifying the referent of the sumti. All of the examples in Section 1 are restrictive relative clauses: the information in the relative clause is essential to identification. (The title of this chapter, though, uses an incidental relative clause.)
Consider the following examples: 
2.1)   le gerku poi blanu cu barda
       The dog which is-blue is-large.
       The dog which is blue is large. 
2.2)   le gerku noi blanu cu barda
       The dog incidentally-which is-blue is-large.
       The dog, which is blue, is large. 
In Example 2.1, the information conveyed by “poi blanu” is essential to identifying the dog in question: it restricts the possible referents from dogs in general to dogs that are blue. This is why “poi” relative clauses are called restrictive. In Example 2.2, on the other hand, the dog which is referred to has presumably already been identified clearly, and the relative clause “noi blanu” just provides additional information about it. (If in fact the dog hasn’t been identified clearly, then the relative clause does not help identify it further.)
関係節には基本的なふたつの種類がある。 poi ではじまる限定関係節と noi ではじまる非限定関係節である。限定関係節はスムティが指すものを決めるために必要な情報を提供する。それに対して、非限定関係節は聞き手の役には立つがスムティが指すものを決めるためには必要ではない追加の情報を提供する。第1節の例文はすべて限定関係節であり、関係節の情報は指すものを決めるために必要不可欠である。
以下の例文について考えてみよう。 
2.1) le gerku poi blanu cu barda
     その青い犬は大きい。 
2.2) le gerku noi blanu cu barda
     その犬、それは青いのだが、は大きい 
例文 2.1では poi blanu で表される情報は当該の犬を同定するのに不可欠だ。この関係節があることで、候補となる犬がすべての犬から青い犬に限定される。だから poi 関係節は限定関係節と呼ばれる。それに対して、例文 2.2ではおそらくどの犬を話題とするのかはすでに明らかであり、関係節 noi blanu はその犬についての追加の情報を提供するだけだ(たとえ実際にはどの犬を話題にするのかが明らかではなかったとしても、ここでの関係節はそれをより明確にすることはない)。 
このことから分かる通り、CLLの「制限的」「非制限的」は英語におけるそれらと同じ意味合いである。つまり、CLLでは「制限的関係節」は先行sumtiが指しうる範囲を限定するのに使われる。その一方で、「非制限的関係節」は先行sumtiの指示範囲を変えるといったことはない。単に補足の情報である。

さて、BPFKではそのあたりがどうなっているかというと、[2]によれば、
noi 
The "non-restrictive" part means that the information in the noi clause is not used to restrict the set of things that the sumti noi is attached to refers to. The noi bridi gives additional information about the referents of the sumti noi is attached to. 
poi 
The "restrictive" part means that the information in the poi clause is used to restrict the set of things that the sumti poi is attached to refers to. In other words, out of the referents of the sumti that poi is attached to (which, for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed) the sumti is actually intended by the speaker to refer only to those things for which the bridi in the poi clause is also true. 
For unquantified sumti, the clause selects from all the referents of the sumti just those that satisfy it; when an inner quantifier is present it indicates how many those referents are. For quantified sumti, the quantification is over just those referents of the sumti that satisfy the clause.
noiはCLLとさほど変わらない定義である。すなわち、「その節は、先行sumtiが指すものの集合を限定するのに使われず、先行sumtiの指示対象についての追加的情報を与える」のがnoi節である。

 一方で、poiは非量化項と量化項で振る舞い方が異なることに注意すべきである。量化項に関しては、CLLと同様、「先行sumtiの指すものの集合を限定するのに使われる」。しかしながら、非量化項では、「先行sumtiの指示対象すべてから、その節を満たすものだけを選びとる」。さて、何が違うのか。見るべきは、量化項の記述では「集合(set)」という語が出てくるのに対して、非量化項のほうではそれが出てこないというところである。(ちなみに、内部量化はpoiによって限定された結果の指示対象の個数を示すらしいが、個人的には辻褄の合っていないように思われる。というのは先行sumtiはそれ自体で定項であり、れっきとした指示対象をもっているべきだからである。)

formal definitionは、
noi sumti noi ke'a broda sumti to ri xi rau broda toi
poi + PA sumti PA sumti poi broda PA da poi ge me sumti gi broda
poi + sumti (no PA) sumti poi broda lo me sumti je broda
poi + ro da ro da poi broda cu brode ro da zo'u ganai da broda gi da brode
poi + su'o da su'o da poi broda cu brode su'o da zo'u ge da broda gi da brode 
となっており、 上で見たとおり、poiの振る舞いが先行sumtiの様子によっていくらか異なることが分かる。

(ところで、BPFKのpoiの記述にはところどころ食い違っている箇所もあると思われる。たとえば、" for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed" では、lo dacti が例にあげられているが、これは非量化項であるのだから、例としては不適であろう。ro dacti なら良い。すなわち、「ro dacti は議論領域のほとんどすべてのものの上を走査してしまうので、poi節によって縛ってやる必要がある」ということである。これが lo dacti なら話はまったく変わってくる。なぜなら、後述するが、lo dacti の指示対象は話者が任意に決めることができるからである。)

 さて、問題は「なぜ限定的/非限定的の意味が変わったのか」であるが、これは恐らく xorlo案の採用による。すなわち、デフォルト外部量化詞の撤廃に起因すると思われる。

 言い換えれば、デフォルト量化詞の撤廃とは、(複数)定項の誕生である。定項は議論領域すべてを走査することはなく、議論領域のうちの何か特定のものを指示している。この特性がnoiとpoiの使用方法に大きな影響を与えている。

 定項の誕生というのは、zo'eが定項として在ることに起因する。xorloでは外部量化詞のない描写sumtiはすべて zo'e に還元される。ここで少し厄介なのがzo'eの意味論であるが、zo'eはただただ「複数定項」であるのみであって、それ以上でも以下でもない。すなわち、かなり自由度が高く、使い勝手がよい。裏を返せば、使い勝手がよすぎるため、解釈や考察がしにくい。

 ここでは、zo'eの意味論を、つまりzo'eが何を指すのかというのを、「話者の自在に尽くす」とする。たとえば、議論領域に「A, B, C」の3つのものがあったとして、zo'eは、「A」、「B」、「C」、「A,B」、「A,C」、「B,C」、「A,B,C」の7通りのいずれを指すとしてよい。注意したいのは、zo'eはそれ自体で既に指示対象が決まっているとみなすいうことである。

(注:さて、では「誰がzo'eの指示対象を決めるのか」。おそらくは話者であるが、コーパス、そして経験上、話者がその指示対象を決めずに(さきの例でいえば、7通りのどれであるかを決めずに)zo'eを言うこともよくある。これは「daに近いzo'eの用法」と言えそうである。この用法も含むためには、指示対象を決めるのは「真理関数」とでも言わざるを得ない。変な話ではあるが、「話者はどれと指示対象を特定してはいないが、それと特定している」とみる。そもそもの話、定項がどれを指示しているのかというのは、解釈によるのだから、このことは甚だ杞憂にすぎない。話者は、この「解釈の不確定性」を逆に利用することで、「daライクなzo'eの用法」を実現できると言える。)

 同様に、ti/ta/tuといった直接指示語も、定項となる。CLLでは、「ti は何を指すのだろうか。その人だろうか。もしかするとその人の鼻かもしれない。あるいは、ti には複数、単数の区別がなく「これら」と「これ」の両方を表せるので、その人の鼻の毛穴を指すのかもしれない。」ということから、poiによってtiが実際は何を指すのか縛る必要があるとしたが、tiは定項であるのだから、tiそれ自体でやはり指示対象は明確である。つまり、「その人」「その人の鼻」「その人の鼻の毛穴」の3通りの解釈が可能であったとして、それは「解釈の余地」であって、tiの指示の余地ではないことに注意する。tiはどれか1通りに定まっている。

 ああ!いい言葉だ。そう、「指示の余地」と「解釈の余地」というのをごっちゃにしてはいけない。

 結局、定項に指示の余地はないのだから、それを量化項と同じような意味でpoiで縛るというのはおかしい。


話を戻して、量化項に限っていえば、poi/noiの用法はなんら変わっていない。たとえば、

ro prenu noi xamgu cu klama
ro prenu poi xamgu cu klama

では、{noi xamgu}はro prenu の指示範囲(というべきか、走査範囲というべきか、ドメインと言うべきか)を変えない(そのため、来るのは議論領域の人々全員である)。ここでは、ro prenu は想定されている議論領域の「prenu」すべてからなる集合を指示範囲としており、noi xamgu は、その指示範囲の人々(つまり議論領域に含まれる人全員)が「良い」と言っている。一方で{poi xamgu}は ro prenu の指示範囲(ドメイン)を変えている。ここでは、「議論領域に含まれる人のうち、「良い」人だけが来る」という意味になる。

これは、さきほどの ti の議論にもそのまま当てはまる。tiが量化されるCLLでは、「ti」というのは、「指差す、私の近くのあるもの」くらいの意味でしかなく、そこには指示の余地がある。つまり、CLLのtiでは、そのドメインに「その人」「その人の鼻」「その人の鼻の毛穴」の3つが含まれうる。であるから、CLLではpoiによってtiのドメインをきちんと定めよ、と言っているのである。

いましがた、量化項のpoiに「指示範囲に含まれる XXX のうち、~だけ」というフレーズを使ったが、このフレーズを非量化項、すなわち定項にそのまま流用しようと考えれば、どうなるかは明らかである。すなわち、「定項の指示対象のうち、~だけ」となる。つまり、tiの指示対象が「A,B,C」で、BとCが黒色だったとして、

ti poi ke'a xekri

は、tiの指示対象「A,B,C」のうち、黒色のもの、つまり「B,C」を指示対象とすることになる。

「指示を限定する」という意味では、量化項も定項も変わらないように思われるが、定項にpoiを使うのは暗黙に「複数の指示対象を持っている」ことを意味する。たとえば、次の2つを考えてみる。

① ti poi ke'a xekri
② ti noi ke'a xekri

◯◯●

①のtiの指示対象はおそらく白い玉を含むはずである。たとえば、

◯[◯●] とか [◯]◯[●] とか [◯◯●]

である。そして、その指示対象のうち、黒いものに限定することで、

◯◯[●]

を指すことになる。
一方、②では、tiの指示対象はこの時点で既に黒い玉のみである。

◯◯[●]

そして、そのことを分からせるために、noi ke'a xekri と続けている。重要なのは、定項の指示対象はnoiによって何ら変わっていないということである。つまり、「XXの指示対象は~かも、~かも、~かもしれない」というような文言は定項にとっては全く無意味である。その心配が生じるのは、量化項が述語によって縛られるのみで、どうしても1つの述語だけでは縛りきれない(指示の余地が生じる)ことによる。そして、最も重要なのは「~かもしれない」という心配は聴者のためになされるのではなく、真偽判定のためになされるのである。たとえば、CLL解釈で、

ti nanmu

といったとき、tiの指示範囲に「その人」「その人の鼻」「その人の鼻の毛穴」があったとしよう。そうすると、CLL文法ではtiの暗黙の量化詞はroであるから、

その人は男であり、その人の鼻は男であり、その人の鼻の毛穴は男である

という意味の命題に相当してしまう。「想定しないものを指すかもしれない」というのはこれを防ぐための心配であって、「聴者が他のものを想定してしまうかもしれない」というものではない。あれ?となると、そもそも英語と意味合いが違っているのでは?


結論としては、定項にpoi節を使うことの意義はほとんどない。これは、定項の指示対象が話者の自在に尽くすからである。(聴者にとってその指示が特定可能かというのは、CLLの頃からまったく要請されていないことに注意。CLLで指示範囲の広さを心配していたのはもっぱら全称量化による不意の偽のためであって、聴者が取り違えてしまうためでは無いのである)

話者の自在にその指示対象が尽くすのであれば、わざわざ poi を使うために定項の指示対象を多めにとっておく必要がないからである。たとえば、「近くのもの」にスイカ、リンゴ、バナナがあって、リンゴを ti によって指示したいとすれば、{ti}でリンゴを指そうとすればいい(それを明確化するためにnoi ke'a plise を使えば良い)のであって、{ti}で一旦スイカ、リンゴ、バナナを指して、そこから poi ke'a plise といって最終的にリンゴを指すようにするのは冗長だろう。

だが、主義として、量化項がとるような指示対象を定項にもデフォルトではとらせるという立場はなんらおかしくはないので、その場合は ti poi ke'a plise というのは受容される。

結果として、その人の主義によって、poi と noi は(定項においては)ほとんど同じ意味合いで使われるのである。

lo re nanba ku pe mi について、BPFKでは、「私のパン」が2個あるということを意味すると定義されているが、lo re nanba ku でひとつの定項をなしているということを考えると、2個あるのは「私のもの」でなく、つまり、pe mi によって限定する前のパンの個数ととるべきではないだろうか。「私のパンが2個」というのは、 lo re nanba ku ne mi とすべきである。そして、 lo re nanba ku pe mi は「2個のパンのうち、私のものの方」としたほうが整合がとれる。

xorloで、lo broda が zo'e noi ke'a broda と定義されているのは、zo'eが「話者の自在に尽くす」ということを意味していると思う。

ちなみに、「zo'eはその指示が不特定であるから、poiによって何かを指しているのかを明らかにしなければならない」というのは定項の指示の量化項的立場とでもいえそうである。これは英語に近い立場だと思う。
「somethingでは何を指しているのかわからないので、関係節によってその指示を明確にする」、というようなことを述べているのであるが、大体、英語での「指示を明確にする」というのは「聴者」による特定のためでありその限りであるから、ロジバンとは目的がかなり異なる(というか、英語のsomethingは普通、zo'eじゃなくて da に訳されるはずで、その時点で筋違いである)。

xorlo時代であるいまのロジバンで、量化項以外でpoiを使う機会は極端に減るべきであるが、「英語的に」「自然言語的に」poiを使っている人が多いのが現状だと思う。ロジバンの定項のほうが簡単な概念であるのに、わざわざ自然言語的に使うのはなんというかモッタイナイ。


最後に、formal definition についてみておく。
noi sumti noi ke'a broda sumti to ri xi rau broda toi
poi + PA sumti PA sumti poi broda PA da poi ge me sumti gi broda
poi + sumti (no PA) sumti poi broda lo me sumti je broda
poi + ro da ro da poi broda cu brode ro da zo'u ganai da broda gi da brode
poi + su'o da su'o da poi broda cu brode su'o da zo'u ge da broda gi da brode 

sumti noi ke'a broda は sumti (to ri xi rau broda toi) となる。つまり、noi節は当該の文から「浮いて」いる。noi節は指示の余地を減らすのではなく、解釈の余地を減らすということに注意。sumtiの指示対象はsumti自身が既に定めている。

poi は様々ある。まずは量化項につく場合をみる。

roda poi broda cu brode = roda zo'u ganai da broda gi da brode
su'oda poi broda cu brode = su'oda zo'u ge da broda gi da brode

となっており、これはふつうの述語論理の定義とまったく同じである。これは、proportionalな量化か否かで異なるだけである。いずれにせよ、量化項に対する broda はその量化項のドメインを再調整することが伺える。

◯▲◯ が議論領域だったときに

roda cu blabi は偽であるが、roda poi cukla cu blabi は真であるのは、 poi cukla によって、da のドメインが、議論領域全体「◯▲◯」から「◯◯」に再調整されたためである。

PA sumti poi broda もまた量化項につくpoi節である。

PA da poi ge me sumti gi broda

この {ge me sumti gi broda} の前半が如実に「sumtiの指示対象のうちの」を表している。

最後に、定項に対するpoi節を見て終わる。

sumti poi broda = lo me sumti je broda = zo'e noi ke'a me sumti je broda
≒ zo'e noi ke'a ge me sumti gi broda

これは少し厄介である。まず、sumti の指示対象を A としよう。そして、poi節は指示対象を変えるので、変わった後、つまり sumti poi broda の指示対象を B としよう。そうすると、

zo'e noi ke'a ge me sumti gi broda

の zo'e の指示対象はB である。たとえば、{lo broda ku poi brode} を考えてみよう。

lo broda ku = zo'e_A noi ke'a broda
lo broda ku poi brode = zo'e_B noi ke'a ge me lo broda ku gi brode
= zo'e_B noi ke'a ge me zo'e_A noi broda ku'o gi brode
= zo'e_B noi ke'a ge me zo'e_A gi brode

となる。2つのzo'eの指示対象が異なることに注意。しかし、これは一見、違和感がある。というのも、

◯▲◯

を sumti が指示していたとして、 sumti poi blabi といったとき、これは、[◯]▲◯ でもなく、 ◯▲[◯] でもなく、 [◯]▲[◯] を指すように思うからである。

むしろ、

SUMTI poi broda
= zo'e noi ro da poi me SUMTI zo'u go da me ke'a gi da broda

とすべきなのかもしれないが、brodaが分配的であるならいいが、非分配的であるときは上手くいかない。
そもそも、SUMTI poi broda はこれ全体でもやはり定項であるのだから、SUMTIからさらに指示対象を狭めるときに、poi broda を純粋に適用するか、やはりヒントの意でしかないか。つまり、ti poi cukla を 「これらのうちの丸いもの」とするか、「これらのうちの丸いそれ」とするかは話者に任せてよいかもしれない。そうすると、やはり BPFKの定義が最良ということになる。

議論領域が ◯▲◯ だとして、

ti poi cukla を「これらのうちの丸いもの」とみなすときは、◯◯の1通りの解釈がありえるし、
「これらのうちの丸いそれ(ら)」とみなすときは、◯、◯(もう一方の)、◯◯の3通りの解釈がありえる。自然言語的にもこれが一番融通がきいてよいきもする。