2015/12/04

あくつぃおんすあると!と頭の整理

「意味ってなに?: 形式意味論入門」 にて、語彙的アスペクト(アクツィオンスアルトでも、事象タイプでも、色々と呼び名はあるが)が触れられていたのでメモ代わりに。

概ね広くで合意されている事象タイプは事象を4つに分類する:状態、活動、達成、到達ですね。これはヴェンドラーの動詞分類とさして変わりません。

重要なのは、活動、達成、到達の上位概念として出来事(event)があり、さらに、出来事と状態の上位概念として事象類 (eventuality)がある、ということです。本書では、

・ 出来事:なんらかの変化が時間を追って起こるようなこと
・ 状態:単にそうなっているという状況、本質的な変化は進行しない

みたいに2つを説明している。出来事は動的な事象類であって、状態は静的な事象類だ、ということだということ、でしょう。多分。もう少しきちんというなら、本質的に動的か、静的(というより、動的でない)か。

※ ここでまずひとつ気をつけておくべきなのは、文表現は必ずしも事象類の具体表現であるとは限らない、ということでしょう。確かに、「アカシアは男である」という表現を、状態表現(持続性のパラメータの値の差異のみが属性表現の差異だ)とみなすこともできましょうが、こういう個体属性の表現を完全に健全にそこに押し込んでしまえるかどうかというのは一考の価値があるでしょう。ここで言いたいのは、文表現は事象類以外にも表現している事柄があるだろうということです。遍く還元するのはとりあえずマテということで。

で、状態と活動は atelic であり、達成と到達は telic です。これは「終端の有無」の話です。実際に終端があるかどうかではなく、その表現で示唆される認識状態において、内在的に終端が考慮されているかどうか、という話でしょう。

telic な出来事には、あらかじめ決まった終端がある。これはつまり、「完遂されたかどうかの決め手になる状態と結びついているもの」のことです。…! これって味噌煮込みアスペクト論の言ってることじゃん!その表現で示唆される認識状態において、その事象類は完遂されるものとして認識されている、ということでしょう。では、「完遂」はどこに拠ればよいのかというときに、1つの手がかりとして、「決め手になる状態」というものがあるということです。「完遂性」にはそれを示す「完遂インジケータ」なるものが必要で、それの代表的な(直観的な)ものが 「キー状態」(決め手になる状態)なのでしょう(「代表的」とか「直観的」とか言って、ユニークであることをぼかしましたが、確実にユニークでないかどうかも定かではありません。少なくとも僕にはこの、完遂インジケータとしてのキー状態が完遂性には不可欠だというのは受け入れやすいものです)。

…この記事は、僕以外の人間が、telic について、「完遂されたかどうかの決め手になる状態と結びついているもの」 と言っているのを見つけたよ!ということを報告したいだけの記事なので、もう書くことがありません!

あ、そうだ。まだもうちょっとだけいうことがあった。

nu は "generalized event" や 「事象抽象」 と辞書では説明されているけれど、nu の下位概念として za'i, zu'o, pu'u, mu'e があるのなら、nu は(動的な事象類という意味での)出来事を抽象するわけではないということには気をつけるべきですね。nu は事象類抽象詞です。"generalized event" と英語では説明されていますが、これが要するに "eventuality" に相当するのでしょう。

個人的には、NU1 za'i, zu'o, pu'u, mu'e はそれぞれ上の4分類に相当する抽象詞であってほしい。左から、状態、活動、達成、到達の抽象詞であってほしい。そしてさらに、nuは事象類抽象詞なので、「出来事抽象詞」、つまり、活動、達成、到達の上位概念の抽象詞も欲しいなと思う。

NU1で引き出せるものは、nuで引き出せるものと変わりなく、結局のところ、NU1は nu が引き出した事象類に明示的にラベルを貼ったものでしかないと解釈するのが一番でしょう。

と、考えると、僕のロジバンのアスペクト観で修正に迫られる部分が実は出てくるんですね。それはデフォルトアスペクトのところで、絶対アスペクトとか言ってたところです。僕はあのアスペクト論で、「ロジバンはca'oがデフォルトの相だ」と少しの心もとない根拠とともに述べていたわけですが、それをどうやら修正しなくてはならない。

実はこの契機を生み出してくれたのは上の話だけでなくて、並行してやっていたトキポナとアイヌ語でもある。アイヌ語で「大きい」は poro だけれど、poro は「大きくなる」という意味もある。僕はロジバンが命題を語る言語だから、という点を以って、基本的な文表現は状態表現(あるいは属性表現)だと考えたわけですが、上で僕自身が指摘した通り、これは言語としてのロジバンを把握するには極めて乏しい認識だと言わざるを得ないわけです。出来事の表現を軽視しすぎている。というわけで、僕は、「ロジバンの述語はデフォルトにおいて、事象類やそれとは異なるものたち、それらの上位概念に当たるものを示す」くらいの壮大さで語らないといけなくなりました。これはトキポナにも通ずる述語認識だと思われまして、相や時制がオプショナルなロジバンにおいては「一皮むけた」解釈だということになります。

そうすると、なるほど、NU1 はかなり有意義な抽象詞になってくれます。(凡人にとっては)過度に一般化された述語が用いられた文表現から事象類を抽象したところで、それがそもそも状態なのか出来事なのかが分かりません。そこで NU1 で、もっと砕けていえば「ラベル付き事象類抽象詞」で抽象してやれば、その区別がつきます。

この「ラベル付け」という発想は実のところ、他のところでも応用できるんじゃないかと思っています。下位概念のラベリングによって、一般化されている述語が、その概念レベル(のちょっと上)にまで同定されるわけです。これは、「省略されている」という説明とは次元が違うと僕は思っていて、「省略」の発想では述語の概念レベルは変わらないのだけれど、「ラベル付け」の発想では、そのラベルの種類によって述語の概念レベルが適宜上がり下がり(ふつうは下がるだろうけど)する。ここのところはもう少し言葉を吟味してまた論じたいですけども。

例えばの話、{mo'u}を完遂ラベリングとしてみてやると、{mo'u}がついているという時点で、その文表現は事象類の中でも出来事、の、さらにtelicなもの(達成か到達)を表しているということが分かるわけです。

一般化された述語概念ツリーを、ラベル付けを頼りにして、述語が下っていくイメージ。この観点でアスペクトについて再考してみたいかもしれない。ひとつ言えるのは、ZAhOが付いているという事実それのみによって、一般化された述語概念ツリーを、述語は少なくとも事象類のところくらいまでは下ってくるということです。つまり、ZAhOに言及することこそが、ロジバンの全体について議論することを不可能にしていて、逆にいえば、ZAhOの議論というのは事象類以下においてで整合すればよく、それ以外のところで適用できなくてもOKということになる。

上の述語の一般化という修正は、要するに、dasni は「着ている」だけでなく「着る」も表すということを引き戻すことにほかならない。これによるアスペクトの混乱というのは…、以前に十二分に味わったので、さて、どうしたものか!!

2015/08/29

FAhA4

FAhA4 について BPFK sectionsに倣ってまとめ

fa'a :


to'o :
{fardukti}。{fa'a} が指す様子の真反対を指す。{fa'a} と {to'o} は、然々の出来事が指定した方向線上のどこかにあることを示す。

da sance fa'a lo panka // 公園の方で音がした。
da sance to'o lo panka // 公園の反対の方で音がした。

to'o ← ----- ● ----- ■ → fa'a

ze'o:
英語で "beyond"。「基準点を超えたところ」

da sance ze'o lo panka // 公園の向こう側で音がした。

● ----- ■ =====

zo'a:
"alongside"。「基準点に沿ったところ」

● ----- ■|| -----

zo'i:
英語で"nearer than"。おそらく "within"。「基準点を超えないところ」

da sance zo'i lo panka // 公園までのところで(公園よりこっち側で)音がした。

● ===== ■ -----


zo'i, zo'a, ze'o はそれぞれ {se tolragve}, {se noryragve}, {se ragve}。

ragve:
x1 は x2 (境界)の x3 の反対側にある

● | 口

こういう感じ。だので、tolragve は

● 口 |

こうなる。noryragve は…

● 中

こんな感じだろうか…。でもこれだと {va} と違わないような。



2015/08/18

nu と ce'u

# nu と ce'u

 一昔前の私は、「lo nu ce'u broda で ce'u に焦点がおけるよ~!」みたいなことを言っていたのだけれど、BPFKが「ce'u は自由変項やで」みたいなことを宣ったので、過去の自分と対立した立場に今はいる。

 えっと、{nu} というのは、それが取り込む文によって表されるような事象を引っ張ってくるわけですが、事象を表す文というのはふつう閉文です。なので、nu節に自由変項(ce'u)があるのはあまり好ましい状況ではないわけです。実際、CLLでは{nu}と{ce'u}を併用している表現は見当たりません。

 ふつう、開文を使いたいなら、{ka}を使えというのが主流のようです。 Lojban Wave Lessons 30章 では、まさにそのようで、英語辞書では kakne_2 は(事)なのに、{lo ka} 使おうね!と言っています。多くのgismuで {lo nu vo'a broda} を志向するようなものが多いのは確かです。言い換えれば、「意味上の主語」というものですね。結構なbrivlaで、nu節の省略された1位 zo'e は vo'a を意味します。

 それでもやはり違和感はあって、{mi nelci lo nu vo'a bajra} と {mi nelci lo ka ce'u bajra} だと結構感じ方が違いますよね。上の話は、一般論にまでは広げられなさそうなんですよね。ちなみに、{mi nelci lo nu vo'a ckaji lo ka ce'u bajra} として、無理やり ka節 を使うことは可能です。

 いずれにせよ、nu と ce'u の併用に関する意味論は現在フリー(なはず)なので、

{lo nu ce'u broda} = {lo nu zo'e ckaji lo ka ce'u broda}

としてやると、直観的にも受け入れやすそうですね。

2015/08/15

レテシミ語

レテシミ語の文法(語法?)の個人的なアイデア
https://sites.google.com/site/moyacilang/letesimigo

# 文構造

V O S (, M)

項(O, S, M) は必ず(?)"u"(人), "e"(物), "o"(道具)で始まる。

M は S, O以外の格で表されるような項もとい述語もとい文。

後置修飾。


# 否定・質問・命令

否定は、"a" を使う。

ti a / 話さない。

質問は、聞きたい述語 X と a を使い、"X a X" という述語によって表す。

ke a ke / できますか?

「何」などに該当する疑問文は "ki a i ki" 「良いもの?悪いもの?」で表す。

ki a i ki / 何?

命令は、命令したい述語 X を3回反復する。

ko ko ko! / 見ろ!


# 複合語
## 公式
pu pu pu / すべて
i ki / 悪い(良くない)
ya su / 赤い(口の色)

他にもある(面倒いから省略)

## 非公式

u ti / 私(話す人)
u i ti / あなた(聴く人)

ni ti! または ni ko! または単に ni! / こんにちは(話し始める、見始める)
he ti! または単に he! / さようなら(話し終える)
※ 挨拶のとき、1音節目を伸ばすとよい。(「ニーティ!」「ニーコ!」「ニー!」「ヘーティ!」「ヘー!」)

e ye / これ、それ、あれ(前にある物)

o ko / 目、眼鏡、望遠鏡(見るための道具)

e su le / 果実、野菜(植物な食べ物)

su e (su) le u ti. / 私は果実を食べる。

ki a i ki e ye? / これは何ですか?

le ya su e. / それはリンゴ(~赤い植物/果実)です。

le ya su to e ye. / これは大きなリンゴです。

le a le ya su e ye, wa u i ti? / これはあなたのリンゴですか?

le ya su e, wa u ti. / これは私のリンゴです(これはリンゴ、私と共にある)。

ki su e le ya su, te pu. / 一般的にリンゴは甘い(多くの場合、リンゴは良い味だ)。


味噌煮込みアスペクト論(追記その1)

http://misonikomilojban.blogspot.jp/2015/08/xao.html の追記。

以前はこのようなアスペクト図を提案した。
このアスペクト観では事象は2つある:当該文が焦点を当てている中心事象と、natural point を創出するための背景事象(図のState A, B, C, Dが該当)である。

natural point は、背景事象の切り替わりによって中心事象に生じるものである。背景事象の切り替わり後の状態(遷移後状態)はふつう、強弱はあれど、中心事象を終わらせる(始めさせる)傾向をもつ。"end" や "beginning" はそのことを意味している。

一般に、ある事が完了するためには、何かが変わらなければならない。その何かこそが背景事象である。このとき、背景事象の遷移後状態とはほとんどの場合で「中心事象の目的である状態」である。しかしながら、ロジバンではより一般的に背景事象を考えることができる。つまり、背景事象は遷移後状態が必ずしも目的である必要はない。重要なのは、中心事象の他に、それと並行するような事象を想定しているかどうかである。たとえば、{co'u sipna} と {mo'u sipna}では、前者は単に「座り」が終わったことを意味しているが、後者では「座り」の他にそれと関連するような(そして「座り」を終わらせるような)状態が始まったことを意味する。

以上が、この前の記事で書いたことである。以下はもう少し網羅度を埋めるための話をする。

さきほどの図では、co'u点はmo'u点より後にあった(そのために、za'o線があった)。ではその順序が逆であるような場合はどうなるであろう?
この図はまさにそのような図である。mo'u点とco'u点の間の範囲はどのような表現で表されるだろうか(もちろん、順序が逆であるならば、za'oで表される)。このスキームでは、背景事象の2状態遷移が起こる前に中心事象が終わってしまったことを意味している。

まず、このスキームが成り立つには、中心事象の進展が背景事象の進展と独立していなければならない。たとえば、「マラソンを走る」とき、途中で棄権してしまえば、その時点で完走が起こることはありえない。これは、「走る」ことが「マラソンの完走」の実現と直結しているからである。一方で、「映画が終わるまで座っている」とき、「座り」をやめても、映画は流れ続け、やがて終わるはずである。このように、中心事象と背景事象が独立である場合に上のスキームは成り立ちうる。今の例でいえば、映画が終わるまでに痺れを切らして座るのをやめてしまったのである。

ここの「???」にあたる部分は、{ba'o}で表すのが筋である。つまり、{ba'o}には基本事象線の{co'u}の後という基本的な意味と、{mo'u}とそれより早い{co'u}の間の範囲という背景事象と関連する意味があることになる。このことはこれまでの{ba'o}の用法となんら矛盾はせず、むしろ「既に~してしまっている」というニュアンスの1つとして使われている意味である。「映画が終わる前に、既に座るのをやめてしまっている」の「既に」である。ここでは、遷移後状態になれば終わるはずだということの裏返しの期待として、遷移前状態の間は終わらないはずだという気持ちが隠れている。「失敗のba'o」とでも言えそうである。

一般に、背景事象を引き合いに出して中心事象のアスペクトを述べるとき、なんらかの「裏切られ」を話者が感じていることになる。つまり、「背景事象の状態が然々であるのにも拘らず、中心事象が終わらない(始まらない)」という、中心事象が期待はずれの挙動をしていることに対するギャップへの態度である。もしこの態度が無いのであれば、xa'o と za'o の範囲は中心事象のみで、つまり ca'o によって語られるはずである。

同様に、"opposite" な {xa'o} と {co'a} についても考えてみる。


natural beginning point がさっきとは異なり、co'a よりも早く登場しているスキームである。

これは実はさっきよりも素直に考えることができて、「中心事象を始めさせる傾向をもつ遷移後状態になってもまだ中心事象が始まっていない」という状況を表している。これも先ほどと対照してみれば、{pu'o}を使うのが筋であり、{ba'o}と同様、{pu'o}には基本事象線の{co'a}の前という基本的な意味と、"natural beginning point" とそれより遅い {co'a}の間の範囲という背景事象と関連する意味があることになる。「遅延のpu'o」とでも言えばいいかもしれない。

mo'u と natural beginning point は対照的である。が、xa'o と za'o も対照的であるかどうは一考の価値がある。なぜなら、そのような意味での pu'o と  ba'o がいるからである。

「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもつにも拘らず、中心事象はそのよう(開始/終了)でない」 という状況を表しているのは、pu'o と za'o である。一方で、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもち、それゆえ、逆に遷移前状態ではそう(開始/終了)でない傾向があるにも拘らず、中心事象はその(開始/終了)ようである」という状況を表しているのは xa'o と ba'o である。

そのため、pu'o や za'o では「まだ」という副詞が、 xa'o や ba'o では「既に」「もう」という副詞が使われる。この点でも、それぞれでの共通点が見える。

この共通点のことを念頭において、もう少し探ってみる。


この図では broda な中心事象と na broda な中心事象の2本の中心事象線を引いている。これらは排他的な関係であり、一方が真/偽のときもう一方はそうでない事象であるとする。

このとき、少し面白いことがおこる。 natural point と 中心事象のON/OFF点の間の範囲を見てみると、{broda}な事象ではそれは za'o であり、{na broda}な事象ではそれは pu'o である。両方とも訳すときに「まだ」を使っているのは、za'o と pu'o が、中心事象のON/OFFの構造の違いにすぎないからなのだろう。もちろん、xa'o と ba'o でも同じである。

つまり、次のような等式が類推できる:

za'o broda = pu'o na broda ・・・ ①
xa'o broda = ba'o na broda ・・・ ②

ちなみに、基本事象線上の ba'o と pu'o の意味を使うと、次のような等式もえられる:

za'o broda = na ba'o broda ・・・ ③
xa'o broda = na pu'o broda ・・・ ④

①と②で broda を na broda に置き換えると、

za'o na broda = pu'o broda ・・・ ①’
xa'o na broda = ba'o broda ・・・ ②’

①’、②’の右辺をそれぞれ④、③の右辺に代入すれば、

za'o broda = na xa'o na broda
xa'o broda = na za'o na broda

が得られる。この等式は
https://groups.google.com/forum/#!msg/lojban/anpbQH1pFHw/jkP7B5hEFeMJ
において、la xorxes が述べているものと一致している。

ちなみに、この等式自体は、味噌煮込みアスペクト論でなくても導くことができる。味噌煮込み論が提唱しているのは、"natural point" の起源(すなわち、背景事象)である。味噌煮込み論は今までのアスペクトを破壊するものではなく、今までのアスペクト体系の基盤を(理論によって裏付けられた)確固たるものにするためのものである。

先ほど述べた、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもつにも拘らず、中心事象はそのよう(開始/終了)でない」 という状況と、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもち、それゆえ、逆に遷移前状態ではそう(開始/終了)でない傾向があるにも拘らず、中心事象はその(開始/終了)ようである」という状況の2つ、そしてこの2つであることだけが 「まだ」 "yet" と 「既に」 "already" の意味ではなかろうか。つまり、日本語では「裏切られ」の態度の種類としてこの2つが、中心事象の構造と関係なく捉えられているのではないだろうか。「そうあるべきところでそうでない」という裏切られ(yetな裏切られ)と、「そうあるべきでないところでそうである」という裏切られ(alreadyな裏切られ)の2つがあるのだろう。


最後に、 "natural beginning point" について追記しておく。ロジバンでは "natural end point" には {mo'u} が割り当てられているが、 "natural beginning point" には相当する語句がない。私は試験的cmavoとして暫定的に{xo'u}を割り当てたが、案の定、現在の理論基盤のない状況ではコメントとして「それは{co'a}と何が違うのか」というものしか得られなかった。味噌煮込み論では、{xo'u}はどのような状況を表すのか(そして、より重要なのが「どのように訳せるのか」)を見てみたい。

とはいえ、上のスキームを見れば、想定される状況の把握は容易である。mo'u点が、背景事象の終了志向の遷移後状態への遷移を表しているのだから、xo'u点は、背景事象の開始志向の遷移後状態への遷移を表している。mo'u点は「終わるべき点」なのだから、xo'u点は「始まるべき点」である。つまり、「(ある状態変化によって)中心事象が始まるべきときがきた」というのが {xo'u} の意味するところである。実際、mo'u点も「中心事象が終わるべきときがきた」と訳すのが最も一般的で良いはずであるが、実際には co'u点とmo'u点が一致しているような物言い(「~し終える」)が主流である。英語でいえば "It's time for XXX to end/start" とかだろうか。

「もう行かなくては」という表現はふつう {ei mi cliva} を使うだろうが、これを {mi xo'u cliva} としてもいいという話。

実はこの{ei}を使う文と xo'u や mo'u を使う文というのは結構互換が効く。

ei do sipna / 君は寝なければならない。
do xo'u sipna / 君が眠るのを始めるべきときがきた。
do mo'u cikna (=na sipna) / 君が起きるのを終えるべきときがきた。

xo'u broda = mo'u na broda であることに注意。

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mo'u や za'o, xa'o, xo'u といった、背景事象を伴うアスペクトのことを相対的アスペクトと呼べば、それに pu'o や ba'o も含まれるだろう、というのが今回の話。もちろん、pu'o、ba'o には絶対的アスペクト(基本事象線のアスペクトのこと)的意味もある。

2015/08/13

凛花文字体系


凛花という草木をイメージした文字体系を創っていて、あらかた形になってきたのでまとめます。
ロジバンでの使用を想定していますが、他の言語でも使えると思います。

見ての通りですが、一応特徴を。
  • 無声子音と有声子音は上下逆転
  • 唇音はウネウネ、軟口蓋/後部歯茎音はカクカク、歯茎音はグルグル、非阻害音は葉っぱ。
  • 摩擦音は大体、破裂音の形になんか付いてる。
  • 母音は子音文字の右上辺りに付ける。
  • 母音単独で使う場合は、∅(形式子音)に母音を付ける。
  • 二重母音は、ロジバン以外の言語への適用のために一般的に作ってある。
  • 単語間には中黒を打つ
  • 文の開始・終点には、双葉を結ぶ。
  • 続け書きでは適宜小さなターンを入れる。
こんな感じですかね。

適宜小さなターンを入れることについて触れておきます。

凛花文字は始端・終端が上向き、横向き、下向きがあります。
終端上向きは p,f、下向きは b,v、横向きは 上以外です。
そして、終端の向きと始端の向きが異なる場合、小さくターンさせます。
具体的にいえば、pfとbv、pfbvとその他 でターンさせます。
逆にターンさせない場合は、pとf、bとv、唇音以外同士です。

ウムラウトとかブレーヴェとかアキュートは、子音文字の下につけてください。


2015/08/09

アスペクトの2カテゴリー

アスペクトとは?と聞けば、大体の人が 「述語が表す事象の完成度を表す」 だとか 「事象の進捗具合を表す」 だとか 「事象がどの段階にあるのかを表す」 とか言ってくれます。

Wave lessons の言葉を借りれば、"event contour" 「事象線」 に関する諸々がアスペクトだと言えます。「事象局面」とか、僕はときどき使います。

しかし、完結相や習慣相、経験相のことを考えると、アスペクトの定義として「事象局面」は十分ではなさそうです。たとえば、完結相をwikipediaで引いてみると:
完結相(かんけつそう、英語Perfective aspect)とは言語学で、一回限りの事象を時間経過と無関係に(点として)表現する相をいう。
とか、「出来事を全体としてとらえる」と説明されています。ううん、完結相というのはむしろ「事象の段階」に触れずに出来事に言及する態度です。

完結相はロジバンでは co'i で表されます(関連記事)。瞬時相とも呼ばれます。別に、その出来事が実際に瞬時に起こったというわけではなく、その出来事に対する話者の態度が「瞬時的」ということです。「点として」とか「時間軸上に幅をもたない」とかとも形容されますが、要は発話時点にその事象が覆い被さる心配がないってことを意味しています。

ロジバンのテンスというのは、時間軸上の言及している部分以外での成立の是非を含意しません。

ti pu crino / これは過去において緑だった。(=これは緑色だった。)

は、「今現在は緑ではない」を含意しません。過去の1点に目を向ければ、そいつは緑だったよ、しか言っておらず、現在においてそれがどうなのかについては言っていないわけです。日本語訳からは、そのような印象は受けないはずです。むしろ、今は緑ではないと思うのではないでしょうか。

ロジバンと日本語の違いはどこにあるかといえば、まさにこの表現の相にあります。ロジバンでは相は不定ですが、日本語では完結相が想定されています(たぶん)。つまり、日本語においては、その事象(これが緑であること)が発話時点に覆いかぶさっているかどうかを心配しなくていいわけです。被さってない!

・・・・と、完結相について簡単に説明しましたが、とりあえず、開始相や、進行・継続相、完了相といったような、事象の局面を表したものとはまるで異なります。

というわけで、個人的には、アスペクトには2つのカテゴリがまずあると思うわけです:

・ 事象局面系
・ 事象分布系

事象局面系はいわずもがな、いわゆるよくいわれるアスペクトのことです。事象分布系というのは、「時間軸上のある範囲に、表現される事象がどのように分布しているか」を表します。完結相はどちらかといえば、この事象分布系のアスペクトです。着目している時間軸上の1点(これはテンスで表されます)に1点だけぽつんと事象があるよ、ということを表すのが完結相です。

習慣相や経験相は事象分布系に属すると考えると理解しやすいです。この2つも、時間軸上で事象がどのように分布しているかを表します。習慣相では、事象1つ1つ(この1つ自体は完結相的な態度でみるべきです)が習慣的な間隔をもって時間軸上に配置されているさまを表します。経験相は、注目している時間軸上の1点よりも前の範囲において、事象が少なくとも1つはあることを表します。

事象分布系のアスペクトは事象局面系のアスペクトよりもマクロな視点であることに注意してください。事象局面系のアスペクトは事象の内部に視点を向けていますが、事象分布系のアスペクトはむしろ内部には目を向けず、その事象全体を1つとし、それら(いくつかの事象全体)がどのように分布しているかを表します。この視点のシフトがどうにも重要そうです。

-----------------  以下、ロジバン ---------------

事象局面系は ZAhO なのは明らかですが、事象分布系はというと、TAhE や ROI に相当します。しかしながら、BPFKやCLLでは、TAhE はどちらかというとテンスの方に含んでいるようです。日本のwikibooks ではなぜか TAhE を相制詞としており、その影響もあってか、日本語辞書では、TAhEは相制詞です。

そのこともあって、ロジバンでは「アスペクト」といえば「事象局面を表す語のことだ」となるので、まあそれはそれでありがたいわけではあります。

実際、たしかに ta'e や su'oroi はそれぞれ習慣相、経験相とみなせます。それから、di'i 「規則的に」, na'e「典型的に」 も事象の分布の様子が規則的/典型的であることを表しているので、事象分布系の1つと考えてよさそうです。しかしながら、事象分布系という視点でTAhEを見ると、ru'i だけは少し妙です。ru'i は、指定された時間軸上の範囲において「ずっと」「継続的に」その事象があるということを意味します。他のTAhE cmavo は co'i 的な事象を時間軸上の指定範囲にバラまいて(いや、もっと丁寧に!配置して)いましたが、ru'i だけはそのような挙動を示しません。 co'i の「点な感じ」と、ru'i の「幅広い感じ」が見事にミスマッチしているわけです。

ですが、これらを併用することは可能です。むしろ、ru'i はデフォルトで co'i 相でさえあると思われます。一見矛盾しているように見えますが、ru'i は co'i 相の「全体性」というところを上手く使うわけです。たとえば、

mi ru'i bajra

では、相が不定なため、もしかすると

mi ru'i pu'o bajra / 私は指定された時間範囲中ずっと、走ろうとしていた。

とか

mi ru'i ba'o bajra / 私は指定された時間範囲中ずっと、既に走り終わっていた。

というようなことも意味できないことはないわけです。おそらくは、

mi ru'i ca'o bajra / 私はずっと走っていた。

がほとんどのケースで意図されるとは思われます。しかしこれが「走り始めと走り終わりはこの時間範囲の中にはなかった」ということをも意味していることには注意すべきです。つまり、走ろうとしているところ、走り始めたところ、走り終わったところといった「走り全体の一部」は指定された時間範囲から漏れでています。結局、そういった、走り全体の一部をもその中に詰め込んで、きっかりちょうど、その時間範囲内で「走り全体」が完結する(そして、それは継続的なものだった)とするには、

mi ru'i co'i bajra / 私は指定された時間範囲中で走った。

とするしかないのです。そう考えると、確かに ru'i は他のTAhEと比べると事象分布系から常軌を逸したものとなっていますが、co'i的な事象を使っているということを踏まえれば、『引き延ばした事象分布』としてなんとか受け入れられるように思います。

ちなみに、TAhEを単にテンスの一部として扱うことへの抵抗感というのは、TAhE と ZAhO を併用したときにおこります。

mi ta'e co'a bajra / 私は習慣的に走りだす。

…? ふつう、ランニングの習慣があるときに、私たちはランニングの過程の一部(たとえば、開始点)が習慣的に分布している、だなんて言わないわけです。

mi ta'e co'i bajra / 私は習慣的に走っている。

こっちのほうが断然自然な物言いです。しかしながら、この不自然さが自然言語では表現できなかったがゆえのものかもしれないことは十分に注意しておくべきで、もっと言えば、事象分布系がアスペクトに属しているのは、単に自然言語での文法形式がたまたま事象局面のものと同一であったからにすぎなく、それ以外に根拠はない(実際にはまったく独立した文法形式をとれうる)可能性だってあります。…が、この話はここまでにしておきましょう・・・。

少なくとも、自然言語的な間相制観、すなわち、あるテンス表現に対して想定されやすい相というのが自然言語レベルでは存在するということは頭に入れておくべきでしょう。それが、因果的なものであるか、単なる傾向性でしかないかは、それこそロジバニストの使用傾向で明らかになってくるかもしれません。

僕としては、まあやはり、BPFK様に逆らわずにテンス表現の1つとして受け入れたほうが楽かなと思いますw