2015/12/04

あくつぃおんすあると!と頭の整理

「意味ってなに?: 形式意味論入門」 にて、語彙的アスペクト(アクツィオンスアルトでも、事象タイプでも、色々と呼び名はあるが)が触れられていたのでメモ代わりに。

概ね広くで合意されている事象タイプは事象を4つに分類する:状態、活動、達成、到達ですね。これはヴェンドラーの動詞分類とさして変わりません。

重要なのは、活動、達成、到達の上位概念として出来事(event)があり、さらに、出来事と状態の上位概念として事象類 (eventuality)がある、ということです。本書では、

・ 出来事:なんらかの変化が時間を追って起こるようなこと
・ 状態:単にそうなっているという状況、本質的な変化は進行しない

みたいに2つを説明している。出来事は動的な事象類であって、状態は静的な事象類だ、ということだということ、でしょう。多分。もう少しきちんというなら、本質的に動的か、静的(というより、動的でない)か。

※ ここでまずひとつ気をつけておくべきなのは、文表現は必ずしも事象類の具体表現であるとは限らない、ということでしょう。確かに、「アカシアは男である」という表現を、状態表現(持続性のパラメータの値の差異のみが属性表現の差異だ)とみなすこともできましょうが、こういう個体属性の表現を完全に健全にそこに押し込んでしまえるかどうかというのは一考の価値があるでしょう。ここで言いたいのは、文表現は事象類以外にも表現している事柄があるだろうということです。遍く還元するのはとりあえずマテということで。

で、状態と活動は atelic であり、達成と到達は telic です。これは「終端の有無」の話です。実際に終端があるかどうかではなく、その表現で示唆される認識状態において、内在的に終端が考慮されているかどうか、という話でしょう。

telic な出来事には、あらかじめ決まった終端がある。これはつまり、「完遂されたかどうかの決め手になる状態と結びついているもの」のことです。…! これって味噌煮込みアスペクト論の言ってることじゃん!その表現で示唆される認識状態において、その事象類は完遂されるものとして認識されている、ということでしょう。では、「完遂」はどこに拠ればよいのかというときに、1つの手がかりとして、「決め手になる状態」というものがあるということです。「完遂性」にはそれを示す「完遂インジケータ」なるものが必要で、それの代表的な(直観的な)ものが 「キー状態」(決め手になる状態)なのでしょう(「代表的」とか「直観的」とか言って、ユニークであることをぼかしましたが、確実にユニークでないかどうかも定かではありません。少なくとも僕にはこの、完遂インジケータとしてのキー状態が完遂性には不可欠だというのは受け入れやすいものです)。

…この記事は、僕以外の人間が、telic について、「完遂されたかどうかの決め手になる状態と結びついているもの」 と言っているのを見つけたよ!ということを報告したいだけの記事なので、もう書くことがありません!

あ、そうだ。まだもうちょっとだけいうことがあった。

nu は "generalized event" や 「事象抽象」 と辞書では説明されているけれど、nu の下位概念として za'i, zu'o, pu'u, mu'e があるのなら、nu は(動的な事象類という意味での)出来事を抽象するわけではないということには気をつけるべきですね。nu は事象類抽象詞です。"generalized event" と英語では説明されていますが、これが要するに "eventuality" に相当するのでしょう。

個人的には、NU1 za'i, zu'o, pu'u, mu'e はそれぞれ上の4分類に相当する抽象詞であってほしい。左から、状態、活動、達成、到達の抽象詞であってほしい。そしてさらに、nuは事象類抽象詞なので、「出来事抽象詞」、つまり、活動、達成、到達の上位概念の抽象詞も欲しいなと思う。

NU1で引き出せるものは、nuで引き出せるものと変わりなく、結局のところ、NU1は nu が引き出した事象類に明示的にラベルを貼ったものでしかないと解釈するのが一番でしょう。

と、考えると、僕のロジバンのアスペクト観で修正に迫られる部分が実は出てくるんですね。それはデフォルトアスペクトのところで、絶対アスペクトとか言ってたところです。僕はあのアスペクト論で、「ロジバンはca'oがデフォルトの相だ」と少しの心もとない根拠とともに述べていたわけですが、それをどうやら修正しなくてはならない。

実はこの契機を生み出してくれたのは上の話だけでなくて、並行してやっていたトキポナとアイヌ語でもある。アイヌ語で「大きい」は poro だけれど、poro は「大きくなる」という意味もある。僕はロジバンが命題を語る言語だから、という点を以って、基本的な文表現は状態表現(あるいは属性表現)だと考えたわけですが、上で僕自身が指摘した通り、これは言語としてのロジバンを把握するには極めて乏しい認識だと言わざるを得ないわけです。出来事の表現を軽視しすぎている。というわけで、僕は、「ロジバンの述語はデフォルトにおいて、事象類やそれとは異なるものたち、それらの上位概念に当たるものを示す」くらいの壮大さで語らないといけなくなりました。これはトキポナにも通ずる述語認識だと思われまして、相や時制がオプショナルなロジバンにおいては「一皮むけた」解釈だということになります。

そうすると、なるほど、NU1 はかなり有意義な抽象詞になってくれます。(凡人にとっては)過度に一般化された述語が用いられた文表現から事象類を抽象したところで、それがそもそも状態なのか出来事なのかが分かりません。そこで NU1 で、もっと砕けていえば「ラベル付き事象類抽象詞」で抽象してやれば、その区別がつきます。

この「ラベル付け」という発想は実のところ、他のところでも応用できるんじゃないかと思っています。下位概念のラベリングによって、一般化されている述語が、その概念レベル(のちょっと上)にまで同定されるわけです。これは、「省略されている」という説明とは次元が違うと僕は思っていて、「省略」の発想では述語の概念レベルは変わらないのだけれど、「ラベル付け」の発想では、そのラベルの種類によって述語の概念レベルが適宜上がり下がり(ふつうは下がるだろうけど)する。ここのところはもう少し言葉を吟味してまた論じたいですけども。

例えばの話、{mo'u}を完遂ラベリングとしてみてやると、{mo'u}がついているという時点で、その文表現は事象類の中でも出来事、の、さらにtelicなもの(達成か到達)を表しているということが分かるわけです。

一般化された述語概念ツリーを、ラベル付けを頼りにして、述語が下っていくイメージ。この観点でアスペクトについて再考してみたいかもしれない。ひとつ言えるのは、ZAhOが付いているという事実それのみによって、一般化された述語概念ツリーを、述語は少なくとも事象類のところくらいまでは下ってくるということです。つまり、ZAhOに言及することこそが、ロジバンの全体について議論することを不可能にしていて、逆にいえば、ZAhOの議論というのは事象類以下においてで整合すればよく、それ以外のところで適用できなくてもOKということになる。

上の述語の一般化という修正は、要するに、dasni は「着ている」だけでなく「着る」も表すということを引き戻すことにほかならない。これによるアスペクトの混乱というのは…、以前に十二分に味わったので、さて、どうしたものか!!

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