2015/12/04

あくつぃおんすあると!と頭の整理

「意味ってなに?: 形式意味論入門」 にて、語彙的アスペクト(アクツィオンスアルトでも、事象タイプでも、色々と呼び名はあるが)が触れられていたのでメモ代わりに。

概ね広くで合意されている事象タイプは事象を4つに分類する:状態、活動、達成、到達ですね。これはヴェンドラーの動詞分類とさして変わりません。

重要なのは、活動、達成、到達の上位概念として出来事(event)があり、さらに、出来事と状態の上位概念として事象類 (eventuality)がある、ということです。本書では、

・ 出来事:なんらかの変化が時間を追って起こるようなこと
・ 状態:単にそうなっているという状況、本質的な変化は進行しない

みたいに2つを説明している。出来事は動的な事象類であって、状態は静的な事象類だ、ということだということ、でしょう。多分。もう少しきちんというなら、本質的に動的か、静的(というより、動的でない)か。

※ ここでまずひとつ気をつけておくべきなのは、文表現は必ずしも事象類の具体表現であるとは限らない、ということでしょう。確かに、「アカシアは男である」という表現を、状態表現(持続性のパラメータの値の差異のみが属性表現の差異だ)とみなすこともできましょうが、こういう個体属性の表現を完全に健全にそこに押し込んでしまえるかどうかというのは一考の価値があるでしょう。ここで言いたいのは、文表現は事象類以外にも表現している事柄があるだろうということです。遍く還元するのはとりあえずマテということで。

で、状態と活動は atelic であり、達成と到達は telic です。これは「終端の有無」の話です。実際に終端があるかどうかではなく、その表現で示唆される認識状態において、内在的に終端が考慮されているかどうか、という話でしょう。

telic な出来事には、あらかじめ決まった終端がある。これはつまり、「完遂されたかどうかの決め手になる状態と結びついているもの」のことです。…! これって味噌煮込みアスペクト論の言ってることじゃん!その表現で示唆される認識状態において、その事象類は完遂されるものとして認識されている、ということでしょう。では、「完遂」はどこに拠ればよいのかというときに、1つの手がかりとして、「決め手になる状態」というものがあるということです。「完遂性」にはそれを示す「完遂インジケータ」なるものが必要で、それの代表的な(直観的な)ものが 「キー状態」(決め手になる状態)なのでしょう(「代表的」とか「直観的」とか言って、ユニークであることをぼかしましたが、確実にユニークでないかどうかも定かではありません。少なくとも僕にはこの、完遂インジケータとしてのキー状態が完遂性には不可欠だというのは受け入れやすいものです)。

…この記事は、僕以外の人間が、telic について、「完遂されたかどうかの決め手になる状態と結びついているもの」 と言っているのを見つけたよ!ということを報告したいだけの記事なので、もう書くことがありません!

あ、そうだ。まだもうちょっとだけいうことがあった。

nu は "generalized event" や 「事象抽象」 と辞書では説明されているけれど、nu の下位概念として za'i, zu'o, pu'u, mu'e があるのなら、nu は(動的な事象類という意味での)出来事を抽象するわけではないということには気をつけるべきですね。nu は事象類抽象詞です。"generalized event" と英語では説明されていますが、これが要するに "eventuality" に相当するのでしょう。

個人的には、NU1 za'i, zu'o, pu'u, mu'e はそれぞれ上の4分類に相当する抽象詞であってほしい。左から、状態、活動、達成、到達の抽象詞であってほしい。そしてさらに、nuは事象類抽象詞なので、「出来事抽象詞」、つまり、活動、達成、到達の上位概念の抽象詞も欲しいなと思う。

NU1で引き出せるものは、nuで引き出せるものと変わりなく、結局のところ、NU1は nu が引き出した事象類に明示的にラベルを貼ったものでしかないと解釈するのが一番でしょう。

と、考えると、僕のロジバンのアスペクト観で修正に迫られる部分が実は出てくるんですね。それはデフォルトアスペクトのところで、絶対アスペクトとか言ってたところです。僕はあのアスペクト論で、「ロジバンはca'oがデフォルトの相だ」と少しの心もとない根拠とともに述べていたわけですが、それをどうやら修正しなくてはならない。

実はこの契機を生み出してくれたのは上の話だけでなくて、並行してやっていたトキポナとアイヌ語でもある。アイヌ語で「大きい」は poro だけれど、poro は「大きくなる」という意味もある。僕はロジバンが命題を語る言語だから、という点を以って、基本的な文表現は状態表現(あるいは属性表現)だと考えたわけですが、上で僕自身が指摘した通り、これは言語としてのロジバンを把握するには極めて乏しい認識だと言わざるを得ないわけです。出来事の表現を軽視しすぎている。というわけで、僕は、「ロジバンの述語はデフォルトにおいて、事象類やそれとは異なるものたち、それらの上位概念に当たるものを示す」くらいの壮大さで語らないといけなくなりました。これはトキポナにも通ずる述語認識だと思われまして、相や時制がオプショナルなロジバンにおいては「一皮むけた」解釈だということになります。

そうすると、なるほど、NU1 はかなり有意義な抽象詞になってくれます。(凡人にとっては)過度に一般化された述語が用いられた文表現から事象類を抽象したところで、それがそもそも状態なのか出来事なのかが分かりません。そこで NU1 で、もっと砕けていえば「ラベル付き事象類抽象詞」で抽象してやれば、その区別がつきます。

この「ラベル付け」という発想は実のところ、他のところでも応用できるんじゃないかと思っています。下位概念のラベリングによって、一般化されている述語が、その概念レベル(のちょっと上)にまで同定されるわけです。これは、「省略されている」という説明とは次元が違うと僕は思っていて、「省略」の発想では述語の概念レベルは変わらないのだけれど、「ラベル付け」の発想では、そのラベルの種類によって述語の概念レベルが適宜上がり下がり(ふつうは下がるだろうけど)する。ここのところはもう少し言葉を吟味してまた論じたいですけども。

例えばの話、{mo'u}を完遂ラベリングとしてみてやると、{mo'u}がついているという時点で、その文表現は事象類の中でも出来事、の、さらにtelicなもの(達成か到達)を表しているということが分かるわけです。

一般化された述語概念ツリーを、ラベル付けを頼りにして、述語が下っていくイメージ。この観点でアスペクトについて再考してみたいかもしれない。ひとつ言えるのは、ZAhOが付いているという事実それのみによって、一般化された述語概念ツリーを、述語は少なくとも事象類のところくらいまでは下ってくるということです。つまり、ZAhOに言及することこそが、ロジバンの全体について議論することを不可能にしていて、逆にいえば、ZAhOの議論というのは事象類以下においてで整合すればよく、それ以外のところで適用できなくてもOKということになる。

上の述語の一般化という修正は、要するに、dasni は「着ている」だけでなく「着る」も表すということを引き戻すことにほかならない。これによるアスペクトの混乱というのは…、以前に十二分に味わったので、さて、どうしたものか!!

2015/08/29

FAhA4

FAhA4 について BPFK sectionsに倣ってまとめ

fa'a :


to'o :
{fardukti}。{fa'a} が指す様子の真反対を指す。{fa'a} と {to'o} は、然々の出来事が指定した方向線上のどこかにあることを示す。

da sance fa'a lo panka // 公園の方で音がした。
da sance to'o lo panka // 公園の反対の方で音がした。

to'o ← ----- ● ----- ■ → fa'a

ze'o:
英語で "beyond"。「基準点を超えたところ」

da sance ze'o lo panka // 公園の向こう側で音がした。

● ----- ■ =====

zo'a:
"alongside"。「基準点に沿ったところ」

● ----- ■|| -----

zo'i:
英語で"nearer than"。おそらく "within"。「基準点を超えないところ」

da sance zo'i lo panka // 公園までのところで(公園よりこっち側で)音がした。

● ===== ■ -----


zo'i, zo'a, ze'o はそれぞれ {se tolragve}, {se noryragve}, {se ragve}。

ragve:
x1 は x2 (境界)の x3 の反対側にある

● | 口

こういう感じ。だので、tolragve は

● 口 |

こうなる。noryragve は…

● 中

こんな感じだろうか…。でもこれだと {va} と違わないような。



2015/08/18

nu と ce'u

# nu と ce'u

 一昔前の私は、「lo nu ce'u broda で ce'u に焦点がおけるよ~!」みたいなことを言っていたのだけれど、BPFKが「ce'u は自由変項やで」みたいなことを宣ったので、過去の自分と対立した立場に今はいる。

 えっと、{nu} というのは、それが取り込む文によって表されるような事象を引っ張ってくるわけですが、事象を表す文というのはふつう閉文です。なので、nu節に自由変項(ce'u)があるのはあまり好ましい状況ではないわけです。実際、CLLでは{nu}と{ce'u}を併用している表現は見当たりません。

 ふつう、開文を使いたいなら、{ka}を使えというのが主流のようです。 Lojban Wave Lessons 30章 では、まさにそのようで、英語辞書では kakne_2 は(事)なのに、{lo ka} 使おうね!と言っています。多くのgismuで {lo nu vo'a broda} を志向するようなものが多いのは確かです。言い換えれば、「意味上の主語」というものですね。結構なbrivlaで、nu節の省略された1位 zo'e は vo'a を意味します。

 それでもやはり違和感はあって、{mi nelci lo nu vo'a bajra} と {mi nelci lo ka ce'u bajra} だと結構感じ方が違いますよね。上の話は、一般論にまでは広げられなさそうなんですよね。ちなみに、{mi nelci lo nu vo'a ckaji lo ka ce'u bajra} として、無理やり ka節 を使うことは可能です。

 いずれにせよ、nu と ce'u の併用に関する意味論は現在フリー(なはず)なので、

{lo nu ce'u broda} = {lo nu zo'e ckaji lo ka ce'u broda}

としてやると、直観的にも受け入れやすそうですね。

2015/08/15

レテシミ語

レテシミ語の文法(語法?)の個人的なアイデア
https://sites.google.com/site/moyacilang/letesimigo

# 文構造

V O S (, M)

項(O, S, M) は必ず(?)"u"(人), "e"(物), "o"(道具)で始まる。

M は S, O以外の格で表されるような項もとい述語もとい文。

後置修飾。


# 否定・質問・命令

否定は、"a" を使う。

ti a / 話さない。

質問は、聞きたい述語 X と a を使い、"X a X" という述語によって表す。

ke a ke / できますか?

「何」などに該当する疑問文は "ki a i ki" 「良いもの?悪いもの?」で表す。

ki a i ki / 何?

命令は、命令したい述語 X を3回反復する。

ko ko ko! / 見ろ!


# 複合語
## 公式
pu pu pu / すべて
i ki / 悪い(良くない)
ya su / 赤い(口の色)

他にもある(面倒いから省略)

## 非公式

u ti / 私(話す人)
u i ti / あなた(聴く人)

ni ti! または ni ko! または単に ni! / こんにちは(話し始める、見始める)
he ti! または単に he! / さようなら(話し終える)
※ 挨拶のとき、1音節目を伸ばすとよい。(「ニーティ!」「ニーコ!」「ニー!」「ヘーティ!」「ヘー!」)

e ye / これ、それ、あれ(前にある物)

o ko / 目、眼鏡、望遠鏡(見るための道具)

e su le / 果実、野菜(植物な食べ物)

su e (su) le u ti. / 私は果実を食べる。

ki a i ki e ye? / これは何ですか?

le ya su e. / それはリンゴ(~赤い植物/果実)です。

le ya su to e ye. / これは大きなリンゴです。

le a le ya su e ye, wa u i ti? / これはあなたのリンゴですか?

le ya su e, wa u ti. / これは私のリンゴです(これはリンゴ、私と共にある)。

ki su e le ya su, te pu. / 一般的にリンゴは甘い(多くの場合、リンゴは良い味だ)。


味噌煮込みアスペクト論(追記その1)

http://misonikomilojban.blogspot.jp/2015/08/xao.html の追記。

以前はこのようなアスペクト図を提案した。
このアスペクト観では事象は2つある:当該文が焦点を当てている中心事象と、natural point を創出するための背景事象(図のState A, B, C, Dが該当)である。

natural point は、背景事象の切り替わりによって中心事象に生じるものである。背景事象の切り替わり後の状態(遷移後状態)はふつう、強弱はあれど、中心事象を終わらせる(始めさせる)傾向をもつ。"end" や "beginning" はそのことを意味している。

一般に、ある事が完了するためには、何かが変わらなければならない。その何かこそが背景事象である。このとき、背景事象の遷移後状態とはほとんどの場合で「中心事象の目的である状態」である。しかしながら、ロジバンではより一般的に背景事象を考えることができる。つまり、背景事象は遷移後状態が必ずしも目的である必要はない。重要なのは、中心事象の他に、それと並行するような事象を想定しているかどうかである。たとえば、{co'u sipna} と {mo'u sipna}では、前者は単に「座り」が終わったことを意味しているが、後者では「座り」の他にそれと関連するような(そして「座り」を終わらせるような)状態が始まったことを意味する。

以上が、この前の記事で書いたことである。以下はもう少し網羅度を埋めるための話をする。

さきほどの図では、co'u点はmo'u点より後にあった(そのために、za'o線があった)。ではその順序が逆であるような場合はどうなるであろう?
この図はまさにそのような図である。mo'u点とco'u点の間の範囲はどのような表現で表されるだろうか(もちろん、順序が逆であるならば、za'oで表される)。このスキームでは、背景事象の2状態遷移が起こる前に中心事象が終わってしまったことを意味している。

まず、このスキームが成り立つには、中心事象の進展が背景事象の進展と独立していなければならない。たとえば、「マラソンを走る」とき、途中で棄権してしまえば、その時点で完走が起こることはありえない。これは、「走る」ことが「マラソンの完走」の実現と直結しているからである。一方で、「映画が終わるまで座っている」とき、「座り」をやめても、映画は流れ続け、やがて終わるはずである。このように、中心事象と背景事象が独立である場合に上のスキームは成り立ちうる。今の例でいえば、映画が終わるまでに痺れを切らして座るのをやめてしまったのである。

ここの「???」にあたる部分は、{ba'o}で表すのが筋である。つまり、{ba'o}には基本事象線の{co'u}の後という基本的な意味と、{mo'u}とそれより早い{co'u}の間の範囲という背景事象と関連する意味があることになる。このことはこれまでの{ba'o}の用法となんら矛盾はせず、むしろ「既に~してしまっている」というニュアンスの1つとして使われている意味である。「映画が終わる前に、既に座るのをやめてしまっている」の「既に」である。ここでは、遷移後状態になれば終わるはずだということの裏返しの期待として、遷移前状態の間は終わらないはずだという気持ちが隠れている。「失敗のba'o」とでも言えそうである。

一般に、背景事象を引き合いに出して中心事象のアスペクトを述べるとき、なんらかの「裏切られ」を話者が感じていることになる。つまり、「背景事象の状態が然々であるのにも拘らず、中心事象が終わらない(始まらない)」という、中心事象が期待はずれの挙動をしていることに対するギャップへの態度である。もしこの態度が無いのであれば、xa'o と za'o の範囲は中心事象のみで、つまり ca'o によって語られるはずである。

同様に、"opposite" な {xa'o} と {co'a} についても考えてみる。


natural beginning point がさっきとは異なり、co'a よりも早く登場しているスキームである。

これは実はさっきよりも素直に考えることができて、「中心事象を始めさせる傾向をもつ遷移後状態になってもまだ中心事象が始まっていない」という状況を表している。これも先ほどと対照してみれば、{pu'o}を使うのが筋であり、{ba'o}と同様、{pu'o}には基本事象線の{co'a}の前という基本的な意味と、"natural beginning point" とそれより遅い {co'a}の間の範囲という背景事象と関連する意味があることになる。「遅延のpu'o」とでも言えばいいかもしれない。

mo'u と natural beginning point は対照的である。が、xa'o と za'o も対照的であるかどうは一考の価値がある。なぜなら、そのような意味での pu'o と  ba'o がいるからである。

「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもつにも拘らず、中心事象はそのよう(開始/終了)でない」 という状況を表しているのは、pu'o と za'o である。一方で、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもち、それゆえ、逆に遷移前状態ではそう(開始/終了)でない傾向があるにも拘らず、中心事象はその(開始/終了)ようである」という状況を表しているのは xa'o と ba'o である。

そのため、pu'o や za'o では「まだ」という副詞が、 xa'o や ba'o では「既に」「もう」という副詞が使われる。この点でも、それぞれでの共通点が見える。

この共通点のことを念頭において、もう少し探ってみる。


この図では broda な中心事象と na broda な中心事象の2本の中心事象線を引いている。これらは排他的な関係であり、一方が真/偽のときもう一方はそうでない事象であるとする。

このとき、少し面白いことがおこる。 natural point と 中心事象のON/OFF点の間の範囲を見てみると、{broda}な事象ではそれは za'o であり、{na broda}な事象ではそれは pu'o である。両方とも訳すときに「まだ」を使っているのは、za'o と pu'o が、中心事象のON/OFFの構造の違いにすぎないからなのだろう。もちろん、xa'o と ba'o でも同じである。

つまり、次のような等式が類推できる:

za'o broda = pu'o na broda ・・・ ①
xa'o broda = ba'o na broda ・・・ ②

ちなみに、基本事象線上の ba'o と pu'o の意味を使うと、次のような等式もえられる:

za'o broda = na ba'o broda ・・・ ③
xa'o broda = na pu'o broda ・・・ ④

①と②で broda を na broda に置き換えると、

za'o na broda = pu'o broda ・・・ ①’
xa'o na broda = ba'o broda ・・・ ②’

①’、②’の右辺をそれぞれ④、③の右辺に代入すれば、

za'o broda = na xa'o na broda
xa'o broda = na za'o na broda

が得られる。この等式は
https://groups.google.com/forum/#!msg/lojban/anpbQH1pFHw/jkP7B5hEFeMJ
において、la xorxes が述べているものと一致している。

ちなみに、この等式自体は、味噌煮込みアスペクト論でなくても導くことができる。味噌煮込み論が提唱しているのは、"natural point" の起源(すなわち、背景事象)である。味噌煮込み論は今までのアスペクトを破壊するものではなく、今までのアスペクト体系の基盤を(理論によって裏付けられた)確固たるものにするためのものである。

先ほど述べた、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもつにも拘らず、中心事象はそのよう(開始/終了)でない」 という状況と、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもち、それゆえ、逆に遷移前状態ではそう(開始/終了)でない傾向があるにも拘らず、中心事象はその(開始/終了)ようである」という状況の2つ、そしてこの2つであることだけが 「まだ」 "yet" と 「既に」 "already" の意味ではなかろうか。つまり、日本語では「裏切られ」の態度の種類としてこの2つが、中心事象の構造と関係なく捉えられているのではないだろうか。「そうあるべきところでそうでない」という裏切られ(yetな裏切られ)と、「そうあるべきでないところでそうである」という裏切られ(alreadyな裏切られ)の2つがあるのだろう。


最後に、 "natural beginning point" について追記しておく。ロジバンでは "natural end point" には {mo'u} が割り当てられているが、 "natural beginning point" には相当する語句がない。私は試験的cmavoとして暫定的に{xo'u}を割り当てたが、案の定、現在の理論基盤のない状況ではコメントとして「それは{co'a}と何が違うのか」というものしか得られなかった。味噌煮込み論では、{xo'u}はどのような状況を表すのか(そして、より重要なのが「どのように訳せるのか」)を見てみたい。

とはいえ、上のスキームを見れば、想定される状況の把握は容易である。mo'u点が、背景事象の終了志向の遷移後状態への遷移を表しているのだから、xo'u点は、背景事象の開始志向の遷移後状態への遷移を表している。mo'u点は「終わるべき点」なのだから、xo'u点は「始まるべき点」である。つまり、「(ある状態変化によって)中心事象が始まるべきときがきた」というのが {xo'u} の意味するところである。実際、mo'u点も「中心事象が終わるべきときがきた」と訳すのが最も一般的で良いはずであるが、実際には co'u点とmo'u点が一致しているような物言い(「~し終える」)が主流である。英語でいえば "It's time for XXX to end/start" とかだろうか。

「もう行かなくては」という表現はふつう {ei mi cliva} を使うだろうが、これを {mi xo'u cliva} としてもいいという話。

実はこの{ei}を使う文と xo'u や mo'u を使う文というのは結構互換が効く。

ei do sipna / 君は寝なければならない。
do xo'u sipna / 君が眠るのを始めるべきときがきた。
do mo'u cikna (=na sipna) / 君が起きるのを終えるべきときがきた。

xo'u broda = mo'u na broda であることに注意。

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mo'u や za'o, xa'o, xo'u といった、背景事象を伴うアスペクトのことを相対的アスペクトと呼べば、それに pu'o や ba'o も含まれるだろう、というのが今回の話。もちろん、pu'o、ba'o には絶対的アスペクト(基本事象線のアスペクトのこと)的意味もある。

2015/08/13

凛花文字体系


凛花という草木をイメージした文字体系を創っていて、あらかた形になってきたのでまとめます。
ロジバンでの使用を想定していますが、他の言語でも使えると思います。

見ての通りですが、一応特徴を。
  • 無声子音と有声子音は上下逆転
  • 唇音はウネウネ、軟口蓋/後部歯茎音はカクカク、歯茎音はグルグル、非阻害音は葉っぱ。
  • 摩擦音は大体、破裂音の形になんか付いてる。
  • 母音は子音文字の右上辺りに付ける。
  • 母音単独で使う場合は、∅(形式子音)に母音を付ける。
  • 二重母音は、ロジバン以外の言語への適用のために一般的に作ってある。
  • 単語間には中黒を打つ
  • 文の開始・終点には、双葉を結ぶ。
  • 続け書きでは適宜小さなターンを入れる。
こんな感じですかね。

適宜小さなターンを入れることについて触れておきます。

凛花文字は始端・終端が上向き、横向き、下向きがあります。
終端上向きは p,f、下向きは b,v、横向きは 上以外です。
そして、終端の向きと始端の向きが異なる場合、小さくターンさせます。
具体的にいえば、pfとbv、pfbvとその他 でターンさせます。
逆にターンさせない場合は、pとf、bとv、唇音以外同士です。

ウムラウトとかブレーヴェとかアキュートは、子音文字の下につけてください。


2015/08/09

アスペクトの2カテゴリー

アスペクトとは?と聞けば、大体の人が 「述語が表す事象の完成度を表す」 だとか 「事象の進捗具合を表す」 だとか 「事象がどの段階にあるのかを表す」 とか言ってくれます。

Wave lessons の言葉を借りれば、"event contour" 「事象線」 に関する諸々がアスペクトだと言えます。「事象局面」とか、僕はときどき使います。

しかし、完結相や習慣相、経験相のことを考えると、アスペクトの定義として「事象局面」は十分ではなさそうです。たとえば、完結相をwikipediaで引いてみると:
完結相(かんけつそう、英語Perfective aspect)とは言語学で、一回限りの事象を時間経過と無関係に(点として)表現する相をいう。
とか、「出来事を全体としてとらえる」と説明されています。ううん、完結相というのはむしろ「事象の段階」に触れずに出来事に言及する態度です。

完結相はロジバンでは co'i で表されます(関連記事)。瞬時相とも呼ばれます。別に、その出来事が実際に瞬時に起こったというわけではなく、その出来事に対する話者の態度が「瞬時的」ということです。「点として」とか「時間軸上に幅をもたない」とかとも形容されますが、要は発話時点にその事象が覆い被さる心配がないってことを意味しています。

ロジバンのテンスというのは、時間軸上の言及している部分以外での成立の是非を含意しません。

ti pu crino / これは過去において緑だった。(=これは緑色だった。)

は、「今現在は緑ではない」を含意しません。過去の1点に目を向ければ、そいつは緑だったよ、しか言っておらず、現在においてそれがどうなのかについては言っていないわけです。日本語訳からは、そのような印象は受けないはずです。むしろ、今は緑ではないと思うのではないでしょうか。

ロジバンと日本語の違いはどこにあるかといえば、まさにこの表現の相にあります。ロジバンでは相は不定ですが、日本語では完結相が想定されています(たぶん)。つまり、日本語においては、その事象(これが緑であること)が発話時点に覆いかぶさっているかどうかを心配しなくていいわけです。被さってない!

・・・・と、完結相について簡単に説明しましたが、とりあえず、開始相や、進行・継続相、完了相といったような、事象の局面を表したものとはまるで異なります。

というわけで、個人的には、アスペクトには2つのカテゴリがまずあると思うわけです:

・ 事象局面系
・ 事象分布系

事象局面系はいわずもがな、いわゆるよくいわれるアスペクトのことです。事象分布系というのは、「時間軸上のある範囲に、表現される事象がどのように分布しているか」を表します。完結相はどちらかといえば、この事象分布系のアスペクトです。着目している時間軸上の1点(これはテンスで表されます)に1点だけぽつんと事象があるよ、ということを表すのが完結相です。

習慣相や経験相は事象分布系に属すると考えると理解しやすいです。この2つも、時間軸上で事象がどのように分布しているかを表します。習慣相では、事象1つ1つ(この1つ自体は完結相的な態度でみるべきです)が習慣的な間隔をもって時間軸上に配置されているさまを表します。経験相は、注目している時間軸上の1点よりも前の範囲において、事象が少なくとも1つはあることを表します。

事象分布系のアスペクトは事象局面系のアスペクトよりもマクロな視点であることに注意してください。事象局面系のアスペクトは事象の内部に視点を向けていますが、事象分布系のアスペクトはむしろ内部には目を向けず、その事象全体を1つとし、それら(いくつかの事象全体)がどのように分布しているかを表します。この視点のシフトがどうにも重要そうです。

-----------------  以下、ロジバン ---------------

事象局面系は ZAhO なのは明らかですが、事象分布系はというと、TAhE や ROI に相当します。しかしながら、BPFKやCLLでは、TAhE はどちらかというとテンスの方に含んでいるようです。日本のwikibooks ではなぜか TAhE を相制詞としており、その影響もあってか、日本語辞書では、TAhEは相制詞です。

そのこともあって、ロジバンでは「アスペクト」といえば「事象局面を表す語のことだ」となるので、まあそれはそれでありがたいわけではあります。

実際、たしかに ta'e や su'oroi はそれぞれ習慣相、経験相とみなせます。それから、di'i 「規則的に」, na'e「典型的に」 も事象の分布の様子が規則的/典型的であることを表しているので、事象分布系の1つと考えてよさそうです。しかしながら、事象分布系という視点でTAhEを見ると、ru'i だけは少し妙です。ru'i は、指定された時間軸上の範囲において「ずっと」「継続的に」その事象があるということを意味します。他のTAhE cmavo は co'i 的な事象を時間軸上の指定範囲にバラまいて(いや、もっと丁寧に!配置して)いましたが、ru'i だけはそのような挙動を示しません。 co'i の「点な感じ」と、ru'i の「幅広い感じ」が見事にミスマッチしているわけです。

ですが、これらを併用することは可能です。むしろ、ru'i はデフォルトで co'i 相でさえあると思われます。一見矛盾しているように見えますが、ru'i は co'i 相の「全体性」というところを上手く使うわけです。たとえば、

mi ru'i bajra

では、相が不定なため、もしかすると

mi ru'i pu'o bajra / 私は指定された時間範囲中ずっと、走ろうとしていた。

とか

mi ru'i ba'o bajra / 私は指定された時間範囲中ずっと、既に走り終わっていた。

というようなことも意味できないことはないわけです。おそらくは、

mi ru'i ca'o bajra / 私はずっと走っていた。

がほとんどのケースで意図されるとは思われます。しかしこれが「走り始めと走り終わりはこの時間範囲の中にはなかった」ということをも意味していることには注意すべきです。つまり、走ろうとしているところ、走り始めたところ、走り終わったところといった「走り全体の一部」は指定された時間範囲から漏れでています。結局、そういった、走り全体の一部をもその中に詰め込んで、きっかりちょうど、その時間範囲内で「走り全体」が完結する(そして、それは継続的なものだった)とするには、

mi ru'i co'i bajra / 私は指定された時間範囲中で走った。

とするしかないのです。そう考えると、確かに ru'i は他のTAhEと比べると事象分布系から常軌を逸したものとなっていますが、co'i的な事象を使っているということを踏まえれば、『引き延ばした事象分布』としてなんとか受け入れられるように思います。

ちなみに、TAhEを単にテンスの一部として扱うことへの抵抗感というのは、TAhE と ZAhO を併用したときにおこります。

mi ta'e co'a bajra / 私は習慣的に走りだす。

…? ふつう、ランニングの習慣があるときに、私たちはランニングの過程の一部(たとえば、開始点)が習慣的に分布している、だなんて言わないわけです。

mi ta'e co'i bajra / 私は習慣的に走っている。

こっちのほうが断然自然な物言いです。しかしながら、この不自然さが自然言語では表現できなかったがゆえのものかもしれないことは十分に注意しておくべきで、もっと言えば、事象分布系がアスペクトに属しているのは、単に自然言語での文法形式がたまたま事象局面のものと同一であったからにすぎなく、それ以外に根拠はない(実際にはまったく独立した文法形式をとれうる)可能性だってあります。…が、この話はここまでにしておきましょう・・・。

少なくとも、自然言語的な間相制観、すなわち、あるテンス表現に対して想定されやすい相というのが自然言語レベルでは存在するということは頭に入れておくべきでしょう。それが、因果的なものであるか、単なる傾向性でしかないかは、それこそロジバニストの使用傾向で明らかになってくるかもしれません。

僕としては、まあやはり、BPFK様に逆らわずにテンス表現の1つとして受け入れたほうが楽かなと思いますw

2015/08/07

ロジバンのアスペクト観 - xa'o を 『論理的に』 再定義する

タイトルの「論理的に」は皮肉です。

ロジバンのアスペクト観(独自考察)をまとめておきます。

ロジバンの最も基本となる事象線は次の5相からなると考えられます:



これは(少しズレますが)いわゆる「活動(activity)」「状態(state)」と相性のいい相体系です。
atelic な事象ですね。目的のない(達成したい状態がない)事象は大体これです。

さて、mo'u と za'o というのは、端的に言って、別の事象線との相対的な関係によって定まる相です。
別の事象線というのは、目的の(達成すべき)事象の事象線です。

この関係を示しているであろうのが zukte です:

x1 は x2 (行動内容)を x3 (目的/目標)のために行為/実行する

lo se zukte を行うことで、lo te zukte を成就しようとするわけです。
ここで、中心となる事象線を selzu'e線、目的の事象の事象線を terzu'e線 と呼ぶことにします。


selzu'e線の構造はほとんど全くさっきの基本事象線であることに注意してください。
これに対してterzu'e線が平行しているところがさっきと違うところです。
terzu'e線の構造も基本線ですが、もっぱらフォーカスは前半部分に当てられます。

このterzu'e線が平行しているときに、「何かを達成する」という観点が生じます。
「何かを達成する」とは、ある状態を成就するということで、terzu'e線の事象を開始させるということです。

ですので、terzu'e線の構造でいうところの co'a 点に対応するところが mo'u 点になりえます。
ふつうは、ある状態を成就するために行動していたのですから、ある状態が成就してしまえば、行動は止まります。しかしながら、selzu'e線とterzu'e線は半ば独立していますから、mo'u点に延続してselzu'e線のca'o部を維持することは不可能ではありません。この mo'u と正味の終了点 co'u の間が za'o です。

mo'u と za'o は terzu'e線と関連することで初めて出てくる観点であることに注意してください。

それから、もちろん、mo'u と co'u が同一点であることがしばしばあります。つまり、za'o段階が無いわけですが、さっきも言ったように、ふつうは成就してしまえば行動を止めるはずですから、za'o の段階はふつうそんなに生じません。すなわち、大体において、mo'u と co'u は同一点です。

さて、これを踏まえて、xa'o を『論理的に』再定義してみたいと思います。xa'o の現行の意味としては「自然な開始時点(natural beginning point)より前に開始してしまっている」「早すぎるスタートだ」くらいで、いうなれば「フライング」を意味します。辞書的には、xa'o は za'o の正反対として定義されています。この「自然な開始時点」というのを上手く定義してやろうというのが今回の目標です。

少し(かなり)視点をがらっと変えてみます。

natural な point というのは、「2状態間の遷移点を、中心事象に結びつけた」ものです。natural end point でいうと、非terzu'eからterzu'eへの状態遷移の点(さっきまでは terzu'e の co'a点と言っていたもの)を、中心事象と結びつけたものが mo'u に他ならなかったわけです。ではなぜこれが "end" なのかといえば、それはもっぱら、大体その遷移点を以って中心事象は終わりを迎える(ことが多い)からです。つまり、その遷移点が中心事象に対して終了志向をもっているわけです。

じゃあ、これを beginning にそのままもってくるとどうなるかというと、「開始志向の2状態間の遷移点を、中心事象に結びつける」、すなわち、ある状態Aからある状態Bへの状態遷移点が、それを以って中心事象が大体始められるようなものである、ということになります。図を見たほうが早いですね。


mo'u の点が、ある2状態間遷移点であり、中心事象をしばしば終わらせる点であることと対応して、natural beginning pointも、何らかの2状態間遷移点であり、中心事象をしばしば始める点であると定義できます。そうしたときに、xa'o は co'a と natural beginning point の間の段階としてかなり素直に定義できます。これは「開始志向をもつ遷移点に対応する点に先立って既にそうである」ということを表しており、まさに現行の「フライング」の意味です。

mo'u とパラレルであることを示すために、natural end point のほうも書きなおしてみます:


結局、俯瞰図としては次のようなものが得られます:


他の状態間遷移と相対的に定められる相として、mo'u, xa'o, za'o を統一的に定義することができました。個人的にはこれが一番しっくり来ます。

形式上はかなり対称性があってキレイですが、捉え方に少し注意が必要です。natural end point では、中心事象によって状態間遷移が起こると普通は捉えます。しかしながら、natural beginning point ではその逆で、状態間遷移が起こることによって中心事象が起こると捉えられることが多いわけです。大雑把にいえば、因果が逆なわけです。でも、この因果関係の逆転は、beginning と end が対であることと関係があるかもしれません。

いずれにせよ、この「開始/終了と関連する傾向のある状態遷移点」というのはかなり抽象的に収まってくれており、mo'u の使い方をより一層豊かにしてくれるかもしれません。この見方では、いわゆる「完了」というのは「目的」だけでなく「目処」によっても生じることができます。つまり、進捗が上がらなくても、完了しうるわけです。たとえば、「15時まで正座をする」とき、正座をすることそれ自体が時間を進めるわけではありません。しかしながら、その事象になんらかの目処があることを想定していれば、それは完了することができるわけです。「映画が終わるまで席を立たないでいる」のほうが分かりやすいかもしれません。このとき、「席を立たないでいる」ことそれ自体は「映画の進展」に影響しません。もし、「マラソンを完走するために走る」というような構造をこの退屈な映画鑑賞に適用するとすれば、たとえば、座椅子がボタンになっていて、そこに人が座っていないと映画が止まってしまうような状況が考えられます。このときは、座り続けることがそのまま映画の進展に影響するわけですから、事象の様子が少し異なっていることが分かるかと思います。

この観点の優秀なところは、状態の維持もまた完了することができる点にあると思います。ロジバンでは、実際のところ、活動と状態(動的事象と静的事象)を文法的に区別しませんから、このような見方は非常に心強いかと思われます。

最初は「目的事象線の存在がmo'uを生起させうる」と言っていましたが、それをより一般化して、中心事象に平行した(終了志向の)2状態遷移が意識されていることが mo'u には重要であるということになりました。


最後に、少し話はそれますが、まともな相の訳語を考えたので載せておきます:

・ pu'o : 将然・未然相
・ xa'o : 早発相
・ co'a : 開始相
・ ca'o : 継続相
・ mo'u : 達成相
・ za'o : 延続相
・ co'u : 終了相
・ ba'o : 已然相

2015/08/06

zo judri

{judri}という単語が結構色々と使えそう。

judri
x_1 は x_2 の、 x_3 (体系)における住所/宛先
「Eメールアドレス」も。このとき、x3は「インターネット」など。

日本語辞書には、メアドやURLにも使えると親切な記述がありますが、ロジバン定義を見てみると

judri
x_1 sinxa lo du'u ma kau stuzi x_2 kei ma'i x_3

とあります。「x1 は x2 が x3 の観点でどこにあるのかを示す記号」くらいの意味ですね。

ロジバン定義の語義の中で、{judri}を使っているものを探してみると、意外と面白い。

detri
x_1 noi nanca jo'u masti jo'u djedi sinxa cu judri x_2 noi fasnu kei x_3

tcika
x_1 noi cacra jo'u mentu jo'u snidu sinxa cu judri x_2 noi fasnu kei x_3

なるほど。確かに、日付や時刻というのは出来事の「住所」ですね!
この定義を書いたのはおそらく xorxes氏なので、彼的には「住所」は「何らかの構造下での場所を表す記号」となるようです。

時間は数直線で描けますから、逆輸入的に、3次元(に別に限りませんが)のユークリッド空間の座標点も judri で表現できそうですね。

li no ce'o li pa ce'o li re cu judri py. noi  mokca
/ (0, 1, 2) は点Pの座標だ。

meksoが好きなら、

li jo'i noboi paboi reboi te'u cu judri py. noi mokca
/ (0, 1, 2) は点Pの座標だ。

としてもOKですね。「場所に対する記号のマッピング」です。

ただ、そもそものロジバン定義の問題点として、tcika や detri の x1 は数だけれど、数それ自体は記号なのかどうか?というのがありように思われます。しかしながらこれは、「記号を狭く見すぎている」ということで話がつきます。たとえば、「鳩は平和の象徴」として、つまり、「鳩は平和を表す記号」としてしばしば見られますし、必ずしも文字列だけが記号として(すなわち sinxa1として)働くわけではありません。数がある場所を象徴したっていいわけです。

2015/07/27

"bridi" と "sumti"

参考
[1]:https://groups.google.com/forum/#!topic/bpfk-list/yChr3cGT1_Q/discussion
[2] :
http://mw.lojban.org/papri/gadri_%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6%E7%9A%84%E8%A6%B3%E7%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC#.E8.A4.87.E6.95.B0.E9.87.8F.E5.8C.96

色んなところで、ロジバンには独自の文法用語が存在すると言われています。事実、ロジバンには基本単語レベルで色々な文法用語を備えており、ロジバニストはその用語を使っています。

その独自用語のほぼすべてが gismu や、lujvo 由来のものであり、その用語の正確な意味はPSによって裏付けられます。最近はPSも大分洗練されてきており(年月がある程度経つことで使用の傾向が明確になってきた、という方が正しいかもしれません)、これは各独自用語の意味を明確に捉える足がかりができたとも言えます。そこで、基本的なロジバン文法用語を見直してみよう、というのがこの記事の主旨です。

この整理において重要なポイントは、それぞれの用語の項位置の型です。最もしばしば考えられるのは、そこに入るのは文字列なのか、もっと別のものなのかでしょう。

# bridi
{bridi} はもっともよく使われるロジバン用語です。現時点で、PSは次のように定義されています。

x1 (du'u) is a predicate relationship with relation x2 among arguments (sequence/set) x3.

ポイントは、「bridiのx1は命題(閉文の内包)が入ること」です。[1]において、selpa'i氏の例文:

 .i lo du'u mi prami do cu bridi lo ka ce'u prami ce'u kei mi ce'o do

が示すところによれば、

・ lo bridi : 命題(lo du'u [命題文] に相当するもの)
・ lo se bridi : 属性・関係 (lo ka [属性/関係文] に相当するもの)
・ lo te bridi : その命題の属性・関係で結ばれている対象の集合列

となります。selpa'i氏、guskant氏がこの例文に同意し、xorxes氏はツッコミを入れていないということを見る限り、これは現在のロジバンで合意が取れた事実と考えてよさそうです。

selbri や terbri は bridi を単に転換したものとして(少なくともロジバン定義では)定義されているので、 selbri は属性・関係を表すのことでなく、命題の構成要素である属性・関係そのものを表すということがわかります。

つまり、

.i lo du'u ko'a broda ko'e cu bridi lo ka ce'u broda ce'u kei ko'a ce'o ko'e

となります。命題文 「ko'a broda ko'e」 の selbri は {ce'u broda ce'u}によって表される関係のことであり、zo broda ("broda"という語)のことではありません。

関連して、最近登録された lujvo に selbrisle があります:

x1 selci lo sinxa be lo selbri

これは、selbri の記号(つまり、ある命題の関係/属性を表す語句)の最小単位(いわゆる、tanru-unit)として定義されており、{lo selbrisle} は語句/文字列のことを指します

# sumti
これもかなりよく出てくる用語ですね。これは、

x1 is a/the argument of predicate/function x2 filling place x3 (kind/number).

と定義されており、x1, x2 は文字列であるという注釈があります。[1]を見ても、{lo sumti} は「話題にする対象を指す記号、あるいはその記号を代入できる記号」と定義されており、たしかに x1 は文字列だろうということが伺えます。

一方で、jbo定義によると、

x1 se tisna x3 no'u pa lo te bridi be x2

でありますが、この時点で食い違いが生じています。 x2 は selbri に相当するので、これは記号ではなく、関係/属性の場所です。{se tisna} は 「を満たす」という意味なので、 「x1 という記号は x3 (terbriの1つ)を満たす」 となるのですが、微妙ですね。

とりあえず、lo sumti が記号であるということを前提に話をするなら、 sumti という語が表す関係性というのは、bridi と違って、統語論的な(つまり語と語の)関係を表していそうです。

となると、少なくとも no'u 以下の部分は

... no'u pa lo te bridi be la'e x2

とすべきでしょう。しかしながら、そうしたところで、{pa lo te bridi} は terbri のうちの1つを指すわけですから、記号ではなく、関係/属性(la'e x2)に取り結ばれた対象を指すことになります。たとえば、

zo mi sumti zo prami lo pamoi

は、「"prami"の表す関係性によって取り結ばれる対象たちのうちの1番目は "mi" によって満たされる」 となります。より良い定義として、

x1 sinxa x3 no'u lo pa me lo te bridi be la'e x2

を提案したいと思います。これで解釈すれば上の文は、「"mi" は "prami"によって表される関係性が取り結ぶ対象たちのうちの1番目のものを指示する」となります。

bridi が [1] で命題を表すことになったことで、完全に統語論的な役割を表す言葉(今までの selbri に相当するもの)がなくなってしまったように思います。

少し取り留めがなくなってきたので、一旦ここで締めます。


2015/07/22

体系的な相システムの草案

自作言語でこしらえていた相システムをこっち(ロジバン)に持ってこれないかなと思い、記事。

とりあえず、ロジバンの記号を与える前に、自作言語の語で説明します。(発音はロジバンと同じ)

まず、基本となる語が

・ le- : 開始点
・ ce- : 終了点
・ mu- : 開始点と終了点の間

です。ロジバンで対応させれば、{co'a}, {co'u}, {ca'o} ですね。

で、次の方向を表す語を導入します。

・ ne- : より前段階
・ tse- : より後段階

自作言語ではこれにより、"lene-"で「開始点より前段階」、つまり{pu'o}(未然の意味)に相当する語を作ったり、"cetse-"で「終了点より後段階」、つまり{ba'o}に相当する語を作っています。

で、さらに(これが結構大事)、距離を表す語として、

・ -ib- : 参照点近傍/付近

を導入することで "lenibe-" で 「開始点より少し前段階」、つまり {pu'o}(将然の意味)に相当する語を、"cetibe-" で「終了点より少し後段階」、つまり 「つい~したばかりだ」に相当する語を作れます。自作言語では定義してませんでしたが、「とっくに~してしまっている」も便利そうなので、

・ -ip- : 参照点から離れた

も作っておくといいかもしれません。

方向、距離 というのはロジバンの間制の常套パターンなわけですが、それに事象段階点を加え、それを参照点にすることで、柔軟な相システムができあがるってわけです。

Q. 「これは時制をハイブリッドしていないか?」
A. してないと思います。あくまで、事象線の上での範囲指定なので、事象局面をなぞってます。たとえば、日本語で「とっくの昔に食べちゃったよ」というとき、相システム内のみで「完了点から離れた事象段階」が表せないので、時制と相のハイブリッド系、すなわち、「{puzu}の時点で {mo'u}した」という他ないわけです。しかしながら、相システムが柔軟であれば、「{ca}の時点で{mo'u}の後段階遠くだ」と言えます。個人的には、基本的に会話は{ca}に軸を据えておいて、大体のことを相で表してやるほうが好きなので(多分日本語がそうなのかな)、そっちに特化した表現もあっていいと思うんです。

このシステムの事象段階点は ZAhO によって {co'a}{co'u}{de'a}{di'a}{mo'u}{co'i}が用意されているので、導入すべきは「前段階」「後段階」を表す範囲方向の語と、「参照点付近」「参照点から離れた」を表す距離の語かと思います。距離の語はZI, VAをリスペクトすればいいわけですが、範囲方向が少し問題です。PUとZEhAがないまぜになったようなものですから。

とりあえず、XIhEI を導入します:

xi'ei: XIhEI; 事象段階がZAhOによって示される参照点の近くにあることを示す。
xu'ei: XIhEI; 事象段階がZAhOによって示される参照点の遠くにあることを示す。

これによって、

mi co'a xi'ei bajra : 私は走りだしたばかりだ/走りだそうとしている。

となります。おそらくこれは使い勝手が悪くてですね、やっぱり方向範囲あってのものですね。
で、実際問題、方向範囲というのは{pu'o}と{ba'o}のことですが、念のため作っておきましょう。

pu'ei: PUhEI; 事象段階がZAhOによって示される参照点より前段階にあることを示す。
bu'ei: PUhEI; 事象段階がZAhOによって示される参照点より後段階にあることを示す。

これより、peg としては、

interval-property <- number ROI-clause NAI-clause? / TAhE-clause NAI-clause? / ZAhO-clause NAI-clause?

これをいじりまして、

interval-property <- .... / ((ZAhO-clause NAI-clause? PUhEI-clause? XIhEI-clause?) / ((ZAhO-clause NAI-clause?)? PUhEI-clause XIhEI-clause?) / ((ZAhO-clause NAI-clause?)? PUhEI-clause? XIhEI-clause))

とすれば多分OKです。えっと、ややこしいですが要は

(ZAhO-clause NAI-clause?) .a (PUhEI-clause) .a (XIhEI-clause)

ということと、併立する場合はこの順に並ぶということです。

mi mo'u bu'ei xu'ei citka / とっくの昔に食べちゃった。
mi co'a bu'ei xi'ei bajra / 私は走りだしたばかりだ。
do mo'u pu'ei xi'ei finti lo pixra / 君は今にも絵を描き終えそうだ。

Q. 冗長では?
A. おっしゃりとおりで。何が問題かというと、全く完全にシステムを輸入してしまったことにあります。

では、以下に既存のシステムに組み込む形でできないか…を考えるべきですね。実際、先ほども言ったとおり、pu'ei, bu'ei というのは pu'o, ba'o で代用できます。

do pu'o mo'u finti lo pixra / 君は今にも絵を描き終えそうだ。

一応、相の連続表現について書いておくと、この用法はCLL10.21にもあって、
21.2)  la djordj. ca'o co'a ciska
       ジョージ [進行相] [開始相] 書く
       ジョージは書き始め続ける。
ですので、意味的には (ZAhO (ZAhO SELBRI)) と捉えてOKなわけですね。
ZAhOのキモはPUと違って、ZEhAをすでに包含している語があるということです。唯一ないのがZIに相当するものなので、XIhEIさえあればいいということになります。どうせなら、{zi}{zu}をリスペクトして、ZIhEIにしましょう:

zi'ei: ZIhEI; 事象段階が直前のZAhOによって示される参照範囲の境界から近い。
zu'ei: ZIhEI; 事象段階が直前のZAhOによって示される参照範囲の境界から離れている。

もっぱらこれらは、pu'o や ba'o に使われることを想定しています。

do pu'o zi'ei mo'u finti lo pixra /  君は今にも絵を描き終えそうだ。

do pu'o zu'ei mo'u finti lo pixra / 君は絵を描き終えるまでまだかかる。

「参照範囲の境界」とは、pu'o でいうところの co'a点、 ba'o でいうところの co'u点です。絵を描くと、

pu'o: ----|
ba'o:                    |----

の "|" の部分です。分かる通り、{pu'o}, {ba'o} 以外での意味がこれでは定まりません。

まずは{ca'o}ですが、これは、参照範囲の境界が2つあります。

ca'o: ... |----------| ...

この場合はどちらの境界から近いのかは不定であることにしておきます。
そのため、{ca'o zi'ei}「始まったばかりか終わる直前だ」はあまり使えないかもしれませんが、{ca'o zu'ei}はきっと「真っ最中だ」という意味で使えるかと思います。

次に段階点的アスペクト {co'a}{co'u}などですが、これらはそもそも参照「範囲」がなさそうです。しかしながら、「ゼロ距離」の概念をロジバンはよく使うのでそれをここでも適用します。つまり、

{co'a}: ...--|--......
{co'u}:          ......--|--

とします。これらは{cazi}と{cazu}がそこまで大きく意味が変わらないのと同様、{zi'ei}と{zu'ei}でそこまで大きく意味が変わらない語群です。

mi ba'o zu'ei citka / とっくの昔に食べてしまった。

2015/07/16

CLLに書かれた tanru内接続についての考察

参考:http://ponjbogri.github.io/cll-ja/chapter14.html

論じるところを引用する。

(引用ここから)

別々のブリディに展開する法則は、タンル接続の場合必ずしも成り立たない。 例えば、アリスが、青い家に住んでいる人であるとすると、

12.6)  la .alis. cu blanu je zdani prenu
       アリスは ( 青く、かつ、家 ) タイプの 人だ。

は正しいであろう。(jek は、タンルのまとめあげより優先順位が高い)しかし、

12.7)  la .alis. cu blanu prenu .ije la .alis. cu zdani prenu
       アリスは 青い人 かつ アリスは 家の 人

は、「青さ」を持つのは家であってアリスではないため正しくないであろう(アリスが「青い 人」であるというのはどういう意味かというのをさしおいても。青チームに所属しているかもしれないし、青い服を着ているかもしれない)。タンルは意味的に曖昧であるため、こういった論理操作ができないのである。

(引用ここまで)

さて、論点は「12.7は本当に正しくないのか」ということです。CLLでは「「青さ」を持つのは家であって、アリスではないため正しくないだろう」と書いてありますが、はて、どうしてアリスが「青さ」を持つ必要があるのでしょう?アリスは「青さ」と関係があればよいのであって、アリス自身が「青さ」を持つ必要はないでしょう。

仮に、

la .alis. cu blanu je prenu

であれば、確かにアリスが青さをもつ必要はありますが、ここでは blanu は seltau です。

blanu prenu では、blanu の位置のどこかと prenuの位置のどこかがある関係Rで繋がっていることになります。それぞれ b1, p1 とすれば、

b1 co'e p1

なる命題がなにかあれば(要は co'e に具体的になにかがあれば、ということでもいいですが)、12.7 は特段変ではありません。

ここで、 b1 zdani p1 なる関係 {zdani} を想定することは可能です。そしてそれはまさしく

12.6)  la .alis. cu blanu je zdani prenu

が意図するものと同じではないですか。というわけで、12.7 は別に正しくないことはないんですよね。

つまり、12.7 の前文は「アリスは青的人だ」ですが、この解釈として、「アリスは自らの家が青い的な人だ」はまったく健全です。

tanru は意味が曖昧だからこういった論理操作ができない、とのことですが、むしろ、意味が曖昧だからこそこういった論理操作に頑健なんではないでしょうか…。

2015/07/07

gismuの母音の頻出度合

http://misonikomilojban.blogspot.jp/2015/07/blog-post_7.html

直前の「字面ダサさ改善記事」を作るに当たって、語末母音の頻出度合を調べたんですが、こしらえたプログラムで色々調べられそうだったので、ついでに記事にします。

まず、gismuの母音のペアですが、こうなります

{'a': {'a': 91, 'e': 58, 'o': 45, 'i': 197, 'u': 123},
 'e': {'a': 48, 'e': 4, 'o': 30, 'i': 72, 'u': 33},
 'o': {'a': 19, 'e': 9, 'o': 17, 'i': 32, 'u': 16},
 'i': {'a': 115, 'e': 55, 'o': 44, 'i': 82, 'u': 64},
 'u': {'a': 67, 'e': 34, 'o': 16, 'i': 69, 'u': 17}}

辞書型で少しみにくいかもですが、たとえば、ボールド体の58は(a,e)を意味しています。
つまり、CaCCe か CCaCe の語形のものの数ですね。

ここからもう少し要約していきます。

まず、語末母音の頻出度合はこうなります。

{'a': 340, 'e': 160, 'o': 152, 'i': 452, 'u': 253}

前記事でも述べた通り、 i > a > u > e > o となります。

一方で、非語末母音の頻出度合はこうなります。

{'a': 514, 'e': 187, 'o': 93, 'i': 360, 'u': 203}

こっちでは、a > i > u > e > o となります。 a がダントツですね…!

で、この2つのリストを足したものが、gismu全体での母音の頻出度合となります。

{'a': 854, 'e': 347, 'o': 245, 'i': 812, 'u': 456}

グラフにするとこんな感じ:



totalでみると a と i はそんな変わらないんですね。ただ、語末と非語末での局在の仕方がそれぞれ反対なので、語末では iが優勢、非語末では a が優勢という結果になっているようです。

一応、こしらえたソースコードも置いておきます。pythonです。

https://github.com/cogas/cogas.github.io/blob/master/article/code/gismu_karsna_kancu.py

ロジバンの字面のダサさを改善する

題の通りです。

今回の方法は、「ロジバンの字面のダサさの原因って語末母音の単語が多いからじゃね?」という推測から興りました。

一方で、基本的にダイアクリティカルマークというのは格好いいですよね!!!

なので、語末母音の情報をダイアクリティカルマークとして持ってこようというのが今回のアイデアです。

ダイアクリティカルマークにもいろいろありますが、とりあえずはアキュート(´)ウムラウト(¨)を使うことにします。そして、cmavo, lujvo, fu'ivla については形を保存しておいて、gismuの語末にだけターゲットを絞ります。

一応、gismuの語末でどの母音が頻出してるかを調べてみますと、

{'a': 340, 'e': 160, 'o': 152, 'i': 452, 'u': 253}

となり、順番的には i > a > u > e > o となります。
ちなみに割合的には、33.3% > 25.1% > 18.6% > 11.8% > 11.2% となっています。
(語末のiが3割というのは結構驚きですね…)

この調査を踏まえて、次のような規則を以って、語末の母音を消し去ります!

1. gismu の語末母音 "e", "o" は消去しない。 "i", "a", "u" は消去する。
2. 消した母音が "a" のとき、残った母音(つまり後ろから2つ目)にアキュートをつける。
3. 消した母音が "u" のとき、残った母音にウムラウトをつける。
4. cmene, cmavo, fu'ivla, lujvo には適用しない。
5. lujvoであっても、最後のrafsiが5文字rafsiであるときはgismuと同じように処理する。

試しに、 o'i mu xagji sofybakni cu zvati le purdi でやってみると、

.o'i mu xagj sofybakn cu zvat le purd

と、確かになんか前よりは格好良くなってませんかね!…ってこのパングラム全部 iで終わるやないか

なんか悔しいので、korporaから適当にもってきました

i e'u se lo banzu certu jbopre tezu'e lo nu casnu bau lo lojbo po'o

i e'u se lo bänz cërt jbopre tezu'e lo nu cäsn bau lo lojbo po'o

今度は u と o と eしかないやないか!!!!!!!

mi pacna lo nu lo so'i prenu cu pilno ti noi lerfu ciste

mi pácn lo nu lo so'i prën cu pilno ti noi lërf ciste

個人的には、もう少しだけ規則を増やしたいです:

6. {cu} は ç とする
7. {LE nu},{LE ka},{LE du'u},{LE ni}は各々、{LËn},{LÉk},{LËd'},{LEn} にする

これを使うと、結構サマになると思うんですよ

mi pácn lön lo so'i prën ç pilno ti noi lërf ciste

どうでしょうか。個人的にはかなりイイ線いってると思います。
なお、

8. {na} は ń とする

というのも考えました。

あとは完全に好みですが、cmavo や lujvo についても変化を与える規則として、

9. 二重母音の (a/e/o) i について、iを落として、サーカムフレックスをつける(â / ê / î )

10. au は ä とする。

11. V'V についても同様の規則を適用する。このとき、アポストロフィーをhとしてもよい(ウムラウト、アキュートとアポストロフィーの連続が読みにくいので)

というのも考えました。どこまでやるかは好みですね。使ってみた感じだと、11はかなり視認性が低いので、

11'. V'i は i を落とす。

くらいにするのがいいかもしれません。9, 10 は割といけるなという感じを持ちました。

mi pácn lön lo so' prën ç pilno ti nô lërf ciste

ki'e jund be mi

2015/07/06

NAhEについて少し

BPFK sections を読みながら、NAhEについてメモ。

今のところ、NAhEには je'a, na'e, to'e, no'e がある。
いずれも NAhE というのは 述なれ語(selbrisle)を別の述なれ語に変換するコンバータの役目がある。


je'a は恒等変換である。例えるなら「×1」。変換前後で意味を変えない。
…が!大体の人は「実に」とか「本当に」とかで変換前後を訳し分けている。

to'e は意味を反対にする。例えるなら「×(-1)」。要は反意語・対義語を作る。

no'e は意味を中立にする。BPFK sections 的にいえば、「neutral meaning between the original meaning and its opposite」で、「原義と反意の間の中立の意味」。多分、足して2で割ればよく、「×(1 + (-1)) / 2」であり、つまるところ例えるなら 「×0」です!

そして、一番理解しにくいのが na'e。これだけは数字の演算で表わせないのでイメージしにくい。BPFK sections では "a complementary meaning, such that they can't both be true at the same time." 「同時に真になりえないような、相補的な意味」 なので、補集合の元のようなイメージをもてばいいんでしょうかね。あえて書くとすれば、「x ∈ S ー {a}」とか。

ここのところは少し確信がもてませんが、おそらく、 na'e na'e broda ≠ broda です。 na'e broda は broda 以外のどこかであり、na'e na'e broda は na'e broda 以外のどこか、つまり broda 以外のどこか以外のどこかですので、broda 以外でもありえます。この辺りが na'e の面倒なところです。

基本的に、NAhEを考えるときは、broda (あえて書くなら je'a broda)を 1とし、 to'e broda を -1 とするような数直線を考えることが多いです。このとき、0 が no'e broda になるのはわかりますね。この数直線のことを僕はスケールとか概念スケールとか brodaスケールとか、いろいろと呼びます。

NAhEで気をつけるべきは、broda を 1 とするスケールは往々にして複数ありえるはずだ、ということでしょう。簡単にいえば、brodaの反意語というのはいろいろ考えられうるということです。成犬の反対は…、子犬、かもしれませんし、ある人にとっては、成猫かもしれません。ここにNAhEの面白みとリスクがあるわけです。

milxe や mutce は NAhE のように使われることが多いですね。試験的cmavoに rei'e や sai'e というものがあります。例えるならそれぞれ、「×0.5」と「×2」とかでしょうか?

なお、na'e と na の違いはどこにあるかといえば、na'e は brodaスケールの broda 以外のところ、と言うのに対して、na ではそもそも broda スケール上に然るべき点がないことも意味しえます。

ti na'e nanmu / これは非男だ。
ti na nanmu / これは男であるというのは真でない。

ここで to'e nanmu = ninmu となるような nanmuスケールを取ることにすると、前者では、「これ」は男ではないが、少なくとも性別という概念(中性もそこに含めるとして)には乗っかっているというニュアンスになります。つまり、「これは男以外の性だ」くらいに訳せます。一方で、後者の文では「これは石ころなんだから、性別とかないよ」と続けることもできます。つまり、そもそも性別のスケール上で ti が論じれるものでない、ということを意味しうるのが na の文です。もちろん、大体の使用において na = na'e だとは思います。

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追記:
NAhEが重ね掛けされているとき、それぞれのNAhEが同じスケール上の話をしているとは限らない(人間の性向から、ほとんどの場合、同じスケール上の操作だとは思うが)。確かに、同じスケールでの操作ならば、to'e to'e broda は broda と等しくなるが、to'e broda の点で2つのスケールが考えられるときはそうは行かなくなる。

かなり単純な例として、broda = (1, 0) とし、x軸方向のスケールで to'e をとると、 to'e broda = (-1, 0) となる。これを brode とする。このbrodeはy軸方向のスケールが考えられ、このスケールの中心が (-1, 1) とすると、 to'e brode = (-1, 2) となる。

結果として、 to'e (to'e broda) = (-1, 2) ≠ (1, 0) = broda となる。わざわざ座標を設けてまでする話ではないけれども…。

BPFK sections - noi/poi と少しの考察付け

今後書く記事のために、いまいちど該当箇所を訳しておく

# noi (NOI)
 付随的(非制限的)関係節マーカー。

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象についての追加情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「非制限的(non-restrictive)」は、noi節の情報が、先行sumtiが参照する物々の集合を制限するのに用いられないということを意味している。noi bridiは先行sumtiの指示対象について追加的な情報を与える。

noi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

論理スコープの観点からみると、noi節のスコープはそれが含まれる言明のスコープの完全に外側にある。すなわち、そのスコープはnoi節を含んでいるスコープが終了した直後に発生する。noi節は、スコープの観点からは、noi節を含む文と、それと論理接続されている全ての言明の後に、それ自身の事実上の文(技術的には、形式文法でいうところの、それ自身の『statement』部)において生じるとみなされるべきである。

noi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、noi節は kuの内部にあるとみなされる。


# poi (NOI)
制限的関係節マーカー

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象について特定するような(specifying)情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「制限的(restrictive)」は、poi節の情報が先行sumtiが参照する物々の集合を制限するために用いられるということを意味している。換言すると、poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている。

poi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

非量化sumtiでは、poi節はそのsumtiの指示対象すべてから、それを満たすもののみを選り抜く。内部量化詞があるとき、その量化詞はpoi節を満たす指示対象がいくつあるのかを示す。量化sumtiでは、量化はその節を満たすsumtiの指示対象の上で行われる。

poi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、poi節は kuの内部にあるとみなされる。

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このBPFKsectionsの定義で一番悩むのが、「先行sumtiの参照する物々」のところなんですよね。そして、noiの「集合を制限しない」というところ。それから(これが一番の悩みの種なんですが)「poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている」の部分。

個人的には、おそらく、poiの説明は非xorlo的であると考えています。だって、「たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる」というのは xorloっぽくないんだもの。

この "for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed" というときの "can be" は「誰にとって」の可能性なんでしょうね?…というところが焦点です。

xorlo では lo broda = zo'e noi ke'a broda の等式が成り立つわけですが、もし {lo dacti} が実に大量の物々でありうるのであれば、{zo'e}はそりゃもう、{lo dacti}以上に大量の対象を指しうるはずです。しかしながら、そうであるにも拘らず、lo broda の定義には noi が使われています。

ここで立てられるひとつの推測は、xorlo以降のロジバンで使われる(非量化的な場合の)「制限的」というのは、聴者のためにあるのではなく、もっぱら、話者のためにのみぞある、ということです。もし、「制限的」、すなわち、「先行sumtiの参照する物々の集合を制限する」 poi が聴者のためにあるのなら、lo broda = zo'e poi ke'a broda でないとおかしいでしょう、と思うわけです。

先行詞それだけでは具体的に何を指しているか分からないから、制限的な関係節によって、その候補を狭めてやる、というのは、英語において言えることではありますが、思うに、英語の名詞は形式論理に書き写すとき、すべて外部量化詞の形(すなわち PA da)で写されるはずなので、同じ論理を xorlo世代ロジバンに適用することができません。

次に、zo'e は代詞であって、だから、poiとnoiの使い分けが『普通のsumti』とは変わってくるんではないか?という反論も期待できます。しかしながら、多くのロジバニストが同じく代詞である ti, ta, tu においては臆面なく poi を使っている場面が散見されることをみるに、おそらく代詞だから云々という主張は退けられます。

結局、zo'eのような話者以外(場合には話者にとっても)にとって実に様々なものを指しうるsumtiに対して noi を使える事実を踏まえれば、poi の役目というのが自然と見えてきます。

聴者の立場から文を眺めることをやめ、発話者の立場から文を眺めることにすれば(個人的には xorloではこっちのスタンスなのだと考えている)、lo broda と、それを還元した zo'e は全く同じ対象を指示しているはずなので、「指示対象の集合を制限する」という発想はおかしいわけです。 強いてすることがあるとすれば、他者がこの文を(つまり、zo'eが何を指しているのかを)自分の意図した通りに理解してくれるよう注釈をつけることくらいです。発話者の立場からすると、lo broda を zo'e noi ke'a broda とするのは至極もっともらしく理解できます。彼にとって、 lo broda とは zo'e であり、この zo'e は厳密に lo broda なのです。

こう考えたときに、では、「指示対象の集合を制限する」とはどういうことかといえば、話者が想定している然々の指示対象をさらに縮小していくという操作に他なりません。つまり、「~のうち...であるもの」という表現に使われるのが poi ということになります。このとき、 zo'e poi broda は、「zo'eの指示対象が漠然としているから、brodaによって縛っている」のではなく、「zo'eの指示する対象のうち、brodaなものをさらに選り抜いている」ことになります。BPFK sectionsのformal definitionsに倣うと

zo'e poi broda = zo'e noi me zo'e je broda ≒ zo'e noi ke'a me zo'e gi'e broda

です。ここで、noi前のzo'eとme後のzo'eは(ほとんどの場合)別ものです。前者をzo'e1, 後者をzo'e2とすれば、 zo'e1 me zo'e2 の関係ですから、zo'e1 のほうが指示対象をより絞りこまれていることになります。量化項とちがって、定項ではその指示範囲が定まっているという点がキモです。

例として
ti noi blanu cu se zbasu mi

ti poi blanu cu se zbasu mi
を比較してみます。



こんな感じで話者の近くに3つの玉があったとし、青い玉は話者が作ったとします。(他の玉は別の人が作った)

noi のほうでは、 ti は を指していて、他者への気遣いとして noi 節によって、「tiで指しているものは青いよ」と伝えています。
一方、poiでは次のようなことが考えられます。たとえば、tiでのすべてを指示して、「そのうちの青いやつ」として最終的にを指示する方法です。最終的にどちらも「青い玉は私が作った」という意味になりますが、注意したいのは、noi文では ti だけで 青い玉を指示していますが、 poi文では ti poi blanu の句を以って初めて青い玉を指示しています。言い換えれば、noi節の有無は文の内容を変えませんが、poi節の有無は文の内容を変えることがあります。実際、上の指示の具合を固定したまま {poi blanu} を消し去ると、ti はを指しているのですから、この文は正しくなくなります。

…というのは実は前々からずっと書いてきたことです。本当に書きたいのはここから!

上の分析が合っていたとして、ほとんどのロジバニストはそれでもやはり noi を使うべきところで poi を使っているようにみえます。これを救済する解釈はないものかとずっと悩んでいました。

さっきの理屈でいくと、

lo gerku poi bajra / 走っている犬

というのはまず{lo gerku}で(おそらくは)複数の犬を指しておいて、そのうち、走っているやつ、と対象を絞るのがこの表現と取れます。しかしながら、大体の人はこのようには使っていないはずで、実際のところは poi節によって {lo gerku}自体の範囲を制限しようとして使っているはずです。これはあれです、英語ライクな「制限」で、つまりは他者視点からみた「制限」です。これを上手いこと、xorloの「制限」と矛盾なく説明できたらいいのだけど…というのが実のところこの記事で書きたい事柄です(前置き長いな)

今回救済できるのは描写sumtiに関してのみです。描写sumtiでないsumti…まあ要は代項については少し救済できません。とはいえ、代項についてはそんなにトラブルは起きないかなと思っています(なぜかというと、内部量化詞がないからです!)。

救済にあたって着目する点は、「描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる」です。

そして、noiの説明:

selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

と、poiの説明:

selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

がキーです。また、noi節とkuの位置関係による意味の違いとして、BPFK sectionsのNotesにある:

{pa lo ci gerku noi zvati ku} は「そこにいる3匹の犬のうちの1匹」であり、{pa lo ci gerku ku noi zvati}は「3匹のうちのそこにいる1匹の犬」

というのもヒントとして救済していきます。

poiのほうが説明しやすいのでpoiでまず説明していきます。poi節はkuの前に置いた場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示します。言い換えれば、内部量化詞は selbri-poi節複合体に対して勘定を行なっています。例を挙げると、

lo ci gerku ku poi blabi
lo ci gerku poi blabi ku

では、前者がku外に、後者がku内にpoi節が存在しています。このとき、前者では「[sumti] poi ...」の形式がそのまま成り立っているので、

[lo ci gerku ku] poi blabi = lo me [lo ci gerku ku] je blabi

の等式の通りに書き下せます。前者では「白い犬は3匹以下である」ということです。

一方で、後者では、定義通り、ku内にpoi節がある場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示すわけですから、「白い犬は3匹である」ということになります。分かる通り、後者(ku内)の構造は前者のような等式に落とし込めません。ここがミソです!BPFK sections では書かれていませんが、formal definitions を書くとすれば恐らくこうできます。

lo [selbri] poi broda ku = zo'e noi ke'a [selbri] gi'e broda ≒ lo [selbri] je broda ku

{lo [selbri] ku}というsumtiが介在しないことに注意してください。ku内にpoi broda が入りこんでいるとき、ロジバンのpoiは実に英語の制限節らしい振る舞いをするわけです。

私の考えた救済案というのはたったこれだけです。すなわち、もうひとつ formal definition を追加しよう、という非常に単純なアイデアです。

こうすれば、lo ci gerku poi blabi ku が「3匹の白い犬」となるのが、形式定義からもわかります。

lo ci gerku poi blabi ku = lo ci gerku je blabi ku

この、selbri-poi節複合体を仮想的に1つの大きなselbri構造として捉えるという見方によって、(何回も同じことを言っているだけですが)現在のpoiの使われ方を正常なものとして捉えることができます。

noiの場合はどうでしょう?まず、formal definition を見てみますと、

[sumti] noi ke'a broda  = [sumti] to rixirau broda toi

となっております。noi節がただの注釈付である(取り払っても文意が損なわれない)ことがわかりますね。

noi節がkuの外にある場合は、上のformal definition がそのまま適用できます。

lo ci gerku ku noi blabi = lo ci gerku ku to ri xi rau blabi toi

問題は ku内に noi節がある場合です。

lo ci gerku noi blabi ku = lo ci gerku to ri xi rau blabi toi ku

ここでは、lo ci gerku ... ku の構造は noi 節時点でまだ完成していないので、 ri xi rau によって照応できない気がします。多分これも追加でformal definition を入れてやるほうがいい気がします。

lo PA [selbri] noi broda ku = lo ro me lo PA [selbri] ku noi broda ku 

こういう周りくどい定義をしたのは、外部量化のことを考えてです。

PA1 lo PA2 [selbri] noi broda ku = PA1 lo ro me lo PA2 [selbri] ku noi broda ku
PA1 lo PA2 [selbri] ku noi broda = PA1 lo PA2 [selbri] ku to ri xi rau broda toi


後者は {PA1 lo PA2 [selbri] ku} という sumti に noi broda が係っているので、従来の定義式が使えます。
前者は、{PA1 lo PA2 [selbri] .. ku}と未完成な構造の時点で noi broda が入っているので、提案した定義式によって、一旦 {lo PA2 [selbri] ku}というsumtiの構造を完成させ、ソレに対して noi節を修飾させます。そしてそのsumtiを使って、少しまどろっこしいですが PA1 lo ro me [sumti] noi broda ku という変形前と同意(なはずです)の複合体を形成することで、ku内外におけるnoi節の修飾具合を説明できます。

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noiのほうは少し迂遠な定義式になりましたが、poiのほうが比較的簡潔です。今回特に論じたかったのはpoiの救済ですので、まあこんな感じでいいかなと思います。


2015/07/04

タンルの解釈の傾向を考察する

 タンルはいくらその意味が緩いと言われようと、実際の使用の場をみると、文脈から切り離しても意味が分かるくらいには統一感を以ってその解釈がなされているように思う。

 そこで、あまりに突飛なことをしない範疇で、できる限りその実際の解釈の傾向を法則化してみたいと思う。注意したいのは、これはロジバンの話であるということである!ロジバンの外の現象をロジバンの法則にあまり持ち込みたくないので、できる限りロジバンの中だけで動こうとしている。

 法則は至ってシンプルである。セルタウの項をA1, A2, ... とし、テルタウの項を B1, B2, ... としたとき、ある項 A_n, B_m において、

A_n = B_m

を満たすような解釈がほとんどである。表記上の注意として、これをn=m タイプと書くことにする。また、同じ番号が等しいときをホモタイプ、異なる番号の項が等しいときをヘテロタイプとよぶことにする。

 特によく見られるのが1=1タイプである。 melbi nanmu や kukte plise、 blanu tsani、 barda gerku などがある。例をみても分かるように、この 1=1 タイプはいわゆる「形容詞 名詞」タイプでもある。

 ヘテロタイプの典型例としては gerku zdani がある。これは往々にして、「犬の家」と訳されるだろうから、A_1 = B_2 タイプ、すなわち 1=2 タイプである。「ベビーシッター」を直訳した、 cifnu kurji も同様に 1=2 タイプである。1=2タイプは、PSの傾向として、x2に「~の」や「~を」がくるので、「目的語 動詞」タイプや「所有 名詞」タイプが該当する。 cmana cpare (≒山登りをする)もここに当てはまる。

 あまり見られないと思うが、他のヘテロタイプもある。 karce klama はしばしば「車で行く」となるだろうが、これは 1=5タイプになる。lojbo tavla も恐らく 1=4 タイプだろう。

 さて、この法則は実は原理上のタンルに比べるとかなり束縛した法則である。なぜかというと、タンルは理想的にはセルタウの項とテルタウの項がとある関係Rによって結ばれてさえいればよいからである。しかしながら、ここではとある関係Rとして同一関係(=)を定めてしまっている。この点でこの法則の前提条件は少し厳しい。たとえば、この条件下では

gerku zdani ~ 犬が作った家

という解釈は生起しえないことになる。この記事の焦点は解釈の傾向であり、gerku zdani を「犬が作った家」と解釈する傾向より「犬小屋」と解釈する傾向が強いということを述べるだけにすぎない。よって、もちろん「犬が作った家」も可能性として秘めている。それを認めた上で、「では何と解釈されやすいか」を考えているのがこの記事である。

 ここで、あるタンルがホモタイプかヘテロタイプかを見分ける方法はあるだろうか?恐らく、純粋にロジバン的な答えは用意できない。なぜ、gerku zdani を 1=1(もしくは 2=2)と解釈しないのかという問いに対して、「犬は往々にして家ではないから」としか答えられない。タイプの見極めにまで話を進めることができないのは、この辺りでロジバンの外に出なければならないからである(たとえば、犬や牛の皮を使ってヒトの住まいを作る民族がいたとしよう。彼らにとって gerku zdani はホモタイプである可能性は十分高い)。しかしながら、ごくごくおおよその傾向として、まず我々は(無意識かも分からないが)ホモタイプな読みを試すかもしれない。

 n=m則に加えて、もう一つ、さらに少し強い(しかしごくシンプルな)傾向を加える:

1=m であることが多い

たとえば、これによれば、次の2文のタンルの解釈の違いが説明できる:

do prami ninmu
do se prami ninmu

SE類は述語の項の順番を入れ替えるのみであり、その意味を全く変えない。n=m則において、prami と se prami はまったく同じ項を有しているのだから、傾向に差異は出てこないはずである。しかしながら、実際は出ている。そのための法則が 1=m 則である。

 1=m則が妥当である理由のひとつにPS走査の負担がある。たとえば n=m タイプでは、それぞれ項の数が3つずつの述語からなるタンルだとすれば、9つの可能性がありうる。しかしながら、1=m則の下では、可能性は3つにまで少なくなる。その場で可能な解釈の数を減らすことで、話者・聴者両方の思考の負担を減らせるメリットがある。また、

ko'a broda brode



ko'a FA lo broda ku brode

とロジバンの文法上、非常に簡潔な操作で 1=m タイプの書き下しが可能である点も、1=m則の妥当な根拠の一つになるかもしれない(個人的にはこちらのほうがずっとロジバン的なので、こちらを採用したい)。


 以上では n=m則(1=m則)について話してきたが、実はもう少し拡張せねばならない。例えば次のタンルは n=m 則に当てはまらない:

mi sipna djica / 私は眠りたい

mi が sipna djica それぞれで位置するところを考えてみよう。 mi = djica1 は当然である。 mi = sipna1 もここでは妥当であるが、これを 1=1 とすることは早計だろう。なぜならば、ここでは 1=1タイプであれば正しい書き下し、

mi sipna gi'e djica

は合っておらず、むしろ

mi djica lo nu mi sipna

のほうが正しいからである。一見 1=1 に見えたのは、 djica_1 と、 djica_2 の抽象節内の sipna_1 が等しいからである。このように、n=m則で述べられた「項と項の同一関係」の「項」には抽象節内の項も含まれなければならないように思える。これはかなりややこしい。無理やり書くなら、

sipna djica

B_1 = B_2[A_1]

こうだろうか。しかしながら、次のタンルを考えてみるとこの推察は怪しくなる。

catra minde (ko'a minde fi lo nu .. catra ..)

ここでは、mindeのどの項も、必ず catra のどこかの位置に入るとは限らない(「私は私を殺せと命じた」など、特別な例では当てはまる)。確かに、抽象節内の項も n=m では含まれなければならないかもしれないが、そう考えるよりはむしろ、 セルタウ自体がテルタウの項として働くような場合があるとして処理したほうが理解しやすい。つまり、次のような法則が得られる。

しばしば、いずれかの抽象体(lo su'u broda)がもう一方の項に当てはまりうる

この場合、抽象体となる方を * で表して、

*=m

と表すことができる。たとえば、 sipna djica では *=2 であり、 catra minde では *=3 である。

この解釈が起こりやすい理由のひとつとして、やはりロジバンの文法上、簡易な操作でこの形式に書き下せることがありえそうである。すなわち、

ko'a broda brode

ko'a FA lo NU broda ku brode

と、先ほどと同じくらいシンプルな操作で書き換えが可能であることが理由のひとつかもしれない。

ちなみに、この捉え方では、mi sipna djica の sipna 1 と djica 1 が同一であることまで述べられていない。しかし、*=2タイプで書き換えてみると、これは

mi sipna djica = mi djica lo nu sipna

であり、sipna_1 と djica_1 が同一であるかどうかというのはタンル側の解釈の範疇ではなく、むしろ抽象節側のzo'eの解釈の範疇である。(往々にして、抽象節内の1位のzo'e は本節の1位と同じであることが多いので、ここから sipna_1 = djica_1 が導かれる。しかしながらこれは、抽象節の解釈傾向の話であるので、わざわざタンルの法則に組み込む必要はないだろう。実際、 catra minde でこれが成り立たないのは、minde_3 のとる抽象節のx1は多くの場合 minde_1とは異なるからであり、これはmindeの(つまり抽象節の)解釈の話である。

 n=m則と*=m則のハイブリッドな感じの事例がある。

sutra bajra : 速く走る ~ ko'a sutra lo nu bajra kei gi'e bajra

mutce blanu : とても青い ~ ko'a mutce lo ka blanu kei gi'e blanu

これがさっきと違うのは、x1 は実際に走っていたり、青かったりするところである。つまり、bajra や blanu は抽象体として sutra, mutce の位置に入る一方で、それ自身 x1 に当てはまるのである。これは、

2=* かつ 1=1

として記述できる。短く書くなら、 2,1=*,1 と順序列で書くこともできる。

 これは新しい解釈というよりは、単に複数の解釈が偶然矛盾なく両立しているにすぎない。たとえば、

ra slabu pendo mi / 彼は私の久しい友人だ

では、1=1 であると共に、2=2も成り立っている。このことを、1,2=1,2 と書けば、これは先ほどのものがさして特別なものでないことと感じさせてくれる。実際、多くのlujvoでこのように複数の箇所で連関することはよく起こっている。

 以上をまとめると、タンルの解釈は n=m則(1=m則)と*=m則の2種に分けることができ、しばしばその複合的解釈もなされる。ほとんどのタンルの解釈でこの法則が成り立っていると思う。

2015/06/22

流浪vlaste - 抽象機械といろんな公共の場

夜中(27時)に書いております。

今日もやはり recent changes は spheniscine殿がはりきってますね。
まあでもあまり面白いなと思うのはなかったです。Wuzzyさんのでいくつか。

turing zei sucyskami
sk1 is a Turing machine for purpose sk2.
sk1 は sk2(目的)のためのチューリングマシン

こういうのって、この人が今何を表現しようとしてるかが分かって面白いですよね。オートマトン系の執筆してるのかな。

mur zei sucyskami
sk1 is a Moore machine for purpose sk2.
sk1 は sk2(目的)のためのムーアマシン

やっぱりこの辺りの語彙を増やしてますねw

sucyskami
sk1 is an abstract machine for purpose sk2.
sk1 は sk2(目的)のための抽象機械

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うってかわって。totusさんが panka系lujvoを結構つくっているみたいですね。
今回 recent change でみつけたのがこれ:

zdipanka
p1 is a park managed by polity/community p2 for use by z2, with amenities/amusements z1
p1 は p2(行政団体/共同体)によって管理された z2 (使用者)の使う z1(アメニティ/アミューズメント)のある広場

直訳すれば「愉しい公共の場」って感じですかね。ディズニーランドとか図書館とか該当するのかしら?
あーでも図書館はふつうの人にとっては zdile ではないのか(zdile mi なんですけども)

kelpanka
p1 is a playground managed by community/polity/organization p2.
p1 は p2(共同体/行政団体/組織)によって管理されている運動場/行楽地/遊び場

直訳は「遊ぶ公共の場」。

kagnypanka
p1 is a business park managed by community/polity/company p2 for businesses/firms/corporations of type k3
p1 は p2(共同体/行政団体/組織)によって管理されている k3(形態)の事業/企業/会社のためのオフィス地区/オフィスパーク

よく知らないのでノーコメで。

fanrypanka
p1 is an industrial park managed by community/polity/company p2 for factories/plants producing f2
p1 はp2(共同体/行政団体/組織)によって管理されている f2 を生産する工場/プラントのための産業地区/インダストリアルパーク

zacpanka
p1=z1 is a market place/square/area managed by p2 for selling/trading z2 by traders z3
p1=z1 は p2 によって管理されている z2(取引品) を取り扱っている z3(営者)の集まっている市場/マーケット

これは元の語である zarci が営まれている場所を指していることに注意されたし。


今回はこんな感じで

「抽象化」

つい最近まで、NU類、英語でいえば abstractorの日本語訳が「抽象詞」であることに少しだけ違和感を感じていました:

どちらかといえば、「抽出詞」なんでは?出来事とか命題とか属性とか、確かに抽象的なものを引き出すという意味ではわかるけれど、むしろ命題表現(bridi)からそういった諸々を「引き出す」方に注目したほうがいいのでは。

と。まあこんな感じに思ってたんですけれど、ふとwikipedia-抽象化を見てましたところ、
 抽象化(ちゅうしょうか、AbstractionAbstraktion)とは、思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は無視する方法である。
とあり、自分の無知っぷりを発揮していたことが分かりました。NU類というのは、

対象(bridi, 命題表現, 文)から注目すべき要素(事象, 性質, 命題)を重点的に抜き出す機能語

だったわけですね~。いや、そのこと自体は知っていましたが、「抽象」の表す意味を履き違えていました(なんか「ぼんやりしたもの」くらいのイメージしかなかった(アホ))。

2015/06/20

流浪vlaste 6/19 - jei'uとか

新たなラベルとして「流浪vlaste」を追加(語呂が少しだけ「ジュボヴラステ」に似てる)
主に recent changes を眺めながら、気になった単語をピックアップする感じ(不定期)

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なんか最近は la sfenicin がすごい勢いで登録してますね。方言の1つを作ってるようです。
個人的には方言のためにcmavo空間を無駄遣いすることだけはやめてほしいなという感じです。

jei'u
evidential: I intuit... / I suspect...
根拠系: 直感/感付き

「そんな気がする」ってやつですかね。


uei'e
attitudinal: excited encouragement
Used to show excited encouragement, e.g. "Let's play!". = ue'i + e'e. See fizbu, talsa

でた!「ウェーイ」!「~やろうぜ!」って感じの。まさにウェイじゃねえか。
例文は是非 {uei'e lojbo} で。


さて、語源となる

ue'i
attitudinal: excitement - lack of excitement - boredom
Used to express excitement (enthusiasm, exhilaration). The opposite expresses boredom (dullness), while the cu'i-form expresses "indifference".

これはこれで「ウェーイ」感が。こっちのが「ウェーイwww」かな?


tcigaso
x1 is a quantity of gasoline/petrol

ガソリン。確かになかったかもしれない。中国語と英語のないまぜで作ってるのがクール


nai'o
discursive: I don't know - I know!

i'uじゃアカンのか


ie'i
attitudinal: disgust - attraction

a'unai じゃイカンのか。と思ったら、これは {trina}の範疇らしい。いや、うーん、しかし。










2015/06/17

Tag まとめ

tag を集中的にまとめた記事です。

# まず訳語をどうするか

tag は sumtcita としても、 selbritcita としても、 はたまた(sumtcitaの一部に勘定されそうな気はするが)独立の項としても使えるオールマイティー(?)な語群です。

現行文法では、いわゆる法制と間制と相制に属するものであって、

FIhO SELBRI
BAI
FAhA, VA, VEhA
PU, ZI, ZEhA
VIhA
MOhI
TAhE, PA ROI
ZAhO

くらいのセルマホが該当する。とはいえ、ふつう tag と言われて想起されるのは BAI, FAhA, PU あたりでしょう。

tag は「何かしらの語にたいていはくっついている語」ですので、訳語としては付詞とか添詞とかがいいのかもしれません。ここではひとまず、添詞としておきます。

添詞はロジバンにしては結構珍しい、いくつかの根本的に異なる用法があるとみなせます。添詞を1つの大きな源から掴もうとすると、結構しんどくてですね、それならいっそいくつかの幹があるとみなしたほうが楽に理解できるかもしれません。もっとも、究極的にはいくつかの幹をしっかりと掴めば、その根本に自ずと導かれるだろう、という目論見もあります。

とりあえず、添詞の「語に添える語」という機能だけに注目して、その意味論を頭を一旦まっさらにして捉え直してみましょう。

# 佇まいから区別する

添詞を文中での佇まいから見てみると、大きく3つに分けられます。

1. sumti の頭に佇む(sumtcita)
2. selbri の頭に佇む(selbritcita)
3. 孤独に佇む(スタンドアロンtcita)

1. は恐らく最もよく見る佇まい方ですね。2. は SE や NAhE とその佇まい方が似ているように思いますが、文法的には添詞は真に頭にしか佇みません。

3. は、普通は 1. の特別な場合として取り扱われます。すなわち、孤独に佇む添詞は、その後ろに「隠されたsumti」を持っていて、実際的には sumtcita だと解されます。しかしながら、佇まい方そのものに着目するのであれば、雰囲気の違うものとして取り扱ってもいいでしょう。

BPFK sections では、BAIについて(おそらくこれは添詞全般についての言及でしょうが)、

selbritcita はすべて selbriの直前にくる スタンドアロンtcita と等価である

とされています。さて、スタンドアロンtcita、すなわち{TAG ku}の形のものは

TAG ku = TAG zo'e

と明確に述べられています。ということですので、この3種のタグはすべてsumtcitaに還元されるという点で、本質的に sumtcitaだと言えます。

sumtcita-sumti複合体(以下SS複合体)の意味は端的にいえば、英語や日本語でいうところの「副詞」です。もう少しきちんと言えば、SS複合体は自分の存在するbridiを修飾します。

一方で、tcitaというのはほとんどすべてが fi'o SELBRI の形で書き直されます(というか定義されます)。なので、添詞にはすべてその意味合いの原始となるselbriをもちます。これを添詞の原始とか、タグ原始とか呼ぶことにします。

SS複合体の解釈は実はその添詞の原始がどうであるかで大きく2つに分けることができそうです。その分け方というのは、添詞原始のx2に抽象項(すなわち、lo NU BRIDI)が適合するかどうかというものです。

理由は単純です。SS複合体はbridiを修飾するわけですが、これはSS複合体のsumtiとbridiに関係を持たせるということでもあります。添詞はその関係性に色をつける役割があるわけです。では、その色はどのようにして付けるのかということになりますが、それはもっぱら添詞原始のPSに依るといえます。たとえば、

fi'o SELBRI SUMTI BRIDI

とあったときに、SUMTIは意味上はSELBRI_1に位置しています。SUMTIとBRIDIに何か関係性がある、と言い、それをSELBRIが担っているとするのであれば、おおよそ直感的に BRIDI(をLE NUで包んだ抽象項)がSELBRI_2にくると考えるのは妥当です。

たとえば、cu'uはその原始がcuskuですが、x2にBRIDIが入りえます。ですので、

cu'u mi tu catra le mlatu

というのは、

mi cusku lodu'u tu catra le mlatu

を示唆します。

しかしながら、fi'eのように、原始のx2にどうもBRIDIが適合しないような添詞もあります。もっと一般にいえば、すべての添詞はSEがつけれますから、たとえば、se cu'u はやはり原始(se cusku)のx2にBRIDIが適合しません。ということで、結構な数の添詞が上で述べたようには簡単に解釈できないことになっています。

BPFK sectionsでは、そのような添詞については、意味を " be associated with ..." とだけ書いてあります。つまり、そのBRIDIは原始のどの位置に入るかは明確には言えないが、とにかく関連はしている、くらいに留めてあります。いうなれば、

fi'o SELBRI SUMTI BRIDI ~ SUMTI SELBRI do'e LE NU BRIDI
or ~ LE NU BRIDI cu srana le nu SUMTI SELBRI

くらいに読み下せるだろうと言っています。ここに添詞の難しさのひとつがあります。一様に解釈することがちょっとできないんですね。

※もっといえば、fi'eはその使われ方をみると、副詞のようですらなさそうです。まるで、新しくPSを追加したかのような、擬似項としての機能があるように思います。実際、いくつかの添詞はそのように使われることを想定して開発されたようにも思えますが、統一感がないので個人的には余り好きではないです。

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もう一つ、添詞が出てくるところというのが peやneの直後です。構文的にいえば、pe/neの後ろにはterm(sumsmi)がとれるので、cu'u mi とか fi'e ra といったものも取れるというだけのことですが、これらは副詞のようには振る舞わないと考えたほうが頭にやさしいです。

詳細は省きますが、pe/neの直後にくる添詞はpe の漠然とした関係性を縛る機能があると考えたほうがよさげです。たとえば、

le cukta pe fi'e mi というのは、イメージとしては le cukta | pe | fi'e mi と分けるのでなく、le cukta | pe fi'e | mi と分けて解釈すべきということです。

そうすれば、CLLと適合します。

※時間の都合上最後のほうがすっごい雑いので、また今度きちんと描く

無視できぬ虫たち

twitterで蚊(ckuliki)を見つけたので、他の”似たような”虫たちを探してみようと思い記事。

ckuliki
x1 は x2 (種類)のカ科

jalra
x1 は x2 (種類)のバッタ目昆虫(バッタ/キリギリス/コオロギ/ケラ/カマドウマ/カマキリ/ナナフシ/ゴキブリ/ガロアムシ/イナゴ/スズムシ等)

(ゴキブリ辺りだけを指す語は今のところないのかしら?「ゴミ沸きバッタ」とかで作れそう)

sfani
x1 は x2 (種類)のハエ目(もく)昆虫

jukni
x1 は x2 (種類)のクモ属昆虫


蚊、ゴキブリ、蝿、蜘蛛… 文字を見るだけでも {ii} となる人がいそうですが、4語とりあえずまとめて覚えよう

2015/05/09

NU1の意味するところ

NU1がVendlerの事象分類を想定しているのであれば、

mu'e : achievement
pu'u : accomplishment (process)
za'i : state
zu'o : activity

と対応するはず。

となれば、NU1は暗に、これらの上位分類である nu がこの4種において不定であるということを意味しているんではなかろうか。

これはすなわち、{nu BRIDI} で表すだけでは、その事象がはたして達成的なのか到達的なのか状態的なのか活動的なのかが定まっていないということだと思う。

そうであれば、ロジバンのbridi (単純にいえば、文)というのは、本質的に、達成的・到達的・状態的・活動的について不定である、すなわち、一般的に bridi はこの4つのどの解釈も可能であるような表現体であると捉えられる。もし1通りの解釈しか可能でないような表現体であるならば、NU1の存在意義がないからである。

・・・・・というのが、ちょっとした極論。どのあたりが極論かというと、

「一般的に bridi はこの4つのどの解釈も可能であるような表現体であると捉えられる」

ここですね。本当にこうでないと、NU1の存在意義はなくなるのかどうか。

これは多分間違いで、まず1つ目は「4つ全てにおいて解釈可能である必要はない」ということ。つまり、例えば、達成的なのか活動的なのかという2つの解釈が可能である表現があったとして、意図する読みを明示する役割としてNU1は存在意義がある。

nu bajra
zu'o bajra
pu'u bajra

nu bajra はそれが目標点のある走りかどうかを規定しないが、zu'o/pu'u bajra ではその走りに目標点がない/あることを明示できる。この点で、NU1はしっかりと意義がある。

認識すべきは、NU1は取り込んだその述語の振る舞いではなく、取り込んだ文の表す事象の種類の規定だということである。vendlerは動詞を4分類したが、厳密には事象を4分類すべきで、つまり、これらは動詞固有の性質ではない(その動詞が使われているからといって必ずしも1つの事象タイプに定まるとは限らない)。

もちろん、(現代の人間の認知様式では)1つの読みに定まる表現ももちろん存在していい。わざわざ、不定だからといって4つすべての解釈がありうると考える必要はないのである。不定であるというのは、ありうる全てを表しうるということではあるが、その全てを表しうる高位概念を表しているというわけではない。多くにおいて、その不定は収束する不定であって、包括する不定ではない。


・・・・・いずれにせよ、NU1が生きてくるのは、複数の事象タイプの読みが可能であるときである。おそらくいちばん登場してくるのが「達成」と何かであろう。

ロシア語などで見られる定動詞・不定動詞というのは、活動と達成の語レベルでの区別と言えそうで、これはpu'u/zu'oの対と似ている。また、状態と達成の区別もありうる。

この2パターンは、完了の暗示である。完了の存在しえない活動・状態に完了という概念が表れるようなファクターを取り入れることで、その事象タイプを達成とすることができる。しかしながら、根底に流れているのは変換前の活動・状態であるから、nu では不定となってしまう場合があるはずである。

しかしながら、到達だけは、よくわからん。到達と見まごうような他の事象タイプを表しうる表現というのは無い気がする。




2015/04/18

備忘録 アスペクトについて今後の方針

色々考えていたのだけど、収集がつかなくなってきたので、考えをまとめる意味も兼ねてメモ。

1. process か state か
参考:https://groups.google.com/forum/?fromgroups=#!topic/lojban-soudan/ZPNfNAD-6Uc

あるbrivlaの語彙的アスペクトは不定か、それとも決まっているか。ヴェンドラーの4分類(達成・到達・状態・動作)は、ある句をつけた表現が自然かどうかをみて判定されるので、ロジバンにも同じことができるかもしれない。これは非文法的であるかどうかをみるわけではないので、おそらくロジバンにも適用できるはず。しかしながら、「自然かどうか」というのが厄介。

個人的には、ロジバンでは内容語は「動態的」と「状態的」の2つのファクターについて考えればいいかなと思っている。基本的に、atelic(非限界的)(「動作」と「状態」)を内容語は表しているとしたい。

動態的であるとき、その事象は「動いて」いるが、動きのまとまりというのが必ずあるはず。それは事象全体で1つの動きのまとまりかもしれないし、事象内に数十個の動きのまとまりがあるかもしれない。いずれにせよ、事象が動態的であるとき、事象は1つ以上の動きのまとまり(動作ユニット)を含んでいるはず。

状態的であるとき、その事象内の任意の部分をとっても、その状態が成立しているはず。いわば、状態的であるとは連続的な様態を表しているということである。

動態的と状態的の2つは、群名詞と物質名詞の違いで喩えることができそう。動態的であるとき、1つの事象は複数の動作ユニット(サブ事象)からなっている。状態的であるとき、その一部でもまたその状態であることが約束される。

ヴェンドラーの4分類、もとい、それに対応する事象タイプというのは、上記2つのコンプレックスとして理解できそう。つまり、事象というのは実際は動態的な事象と状態的な事象の組み合わせであるように思う。

ここで面倒なんだが、動態的な事象のコンプレックスもまた動態的な事象として捉えられるということで、おそらく atelic であるということである。つまり、どんなに巨大な動態的複合体でも、それを非限界的に解釈することは可能である。

コンプレックス中の状態間遷移における後件状態による動態的事象の延続禁制の能力

以下、モデル
A: activity
{S}: state
-o : 動作許容
-x : 動作禁制

[[A]+; [S]] (もしくは、[[A]+; Φ])
// 動作ユニット[A]の連発であり、状態は[S]を維持している(もしくはフォーカス無し)

[[A1] [A2] [A3]; {S1}→{S2}(-x [A1])]
// [A1] [A2] [A3]の3種による動作からなり、状態はS1からS2に遷移し、遷移後のS2は[A1]の動作を禁止する

[[A]+; {S1}→{S2}(-o [A])]
// [A]の連発であり、ある点で状態はS1からS2に遷移するが、遷移後のS2においても[A]の動作は許容される(延続可能)

[Φ; {S1}→{S2}]
// 状態の遷移(到達)

状態遷移を動態的とすることの違和感。まあ、dynamic だから動態的でいいのだ。

※ {Complex} はないんだろうか?つまり、状態のコンプレックス。これは恐らく、今しているような感じではなくて、状態の論理結合によって表されそうだ。たとえば、

{S0} = {{S1}∧{S2}∧¬{S3}}

んな感じ。上でやっているのはもっぱら動態のコンプレックスである。そう考えると、複雑なコンプレックスを形成するのは動態のコンプレックスのみということになりそうだ。

状態が遷移することと、状態を遷移させることの違いはどこにあるのか、それはアスペクト論で取り扱うべきか。

mo'u がつけられるのはおそらく動態だけだと思う。 そして、mo'u の意味するところは、状態遷移点だろう。延続は、遷移後状態が動作を禁止するときのみ許容される。

文法的には状態にmo'uをつけることも可能だし、guskant氏の解釈なら有意味でもある。ひとつの最も荒っぽい方法は、mo'uを二義的にしてしまうことだと思う。つまり、動態と状態とで mo'u の意味論を変える。

状態のmo'uとは、「無事その状態を終える」ということだろうし、この「無事」が重要だと思う。何らかの要因で、状態が目標に至るまでに終わってしまうリスクがあるときに mo'u が使えそう。

このとき、「状態を維持する」、「我慢する」とか「耐える」はdynamicかどうかということになる。「座り続ける」のはstativeな感じがする一方で、底に穴のあいたバケツに水が入っている状態を続けるのはdynamicな感じがする。この差は、動かないことが状態維持に繋がるか、動くことが状態維持に繋がるかの違いだろう。つまり、状態維持はdynamicのときもあれば stative のときもある。

維持はおそらく

{Φ~>[S]; [S1]→[S2]}

[[A]~>[S]; [S1]→[S2]]

で表せる。~> は状態維持のための動作であることを意味せんとす。

「映画が終わるまで座り続ける」というのは、
{Φ~>[座っている]; [上映中]→[上映後]}

「焚き火を燃やし続ける」というのは、
[[薪を加える]~>[焚き火が消えていない]; [焚き火が消えていない]]
かなあ。

状態目的的な継続があって、それは見た目が atelic になる。しかしながらこれは、遷移する状態を意図していないという意味で、状態についてはΦかもしれない。つまり、

[[薪を加える]~>[焚き火がついている]; Φ]

という、atelicな「歩き」 [[一歩歩く]+; Φ]と似たような構造かもしれない。

「大往生する」をモデリングすると、

[[A]~>{健康である}; {生きている}→{死んでいる}]

だろうか。
着目すべきは、「大往生する」は「ある状態を維持したまま状態遷移する」ことであり、それ自体はdynamicであるということである。

これは mo'u jmive で表せそうだが、これは、状態に対するmo'uの意味論が導けそうだ。つまり、

{~>{S1}; {S}}

という構造で、状態の内容語を使えるかもしれないということである。「大往生」とは「状態S1が維持したまま、状態Sが終わる」ということで、「無事」とはつまり「維持されるべき状態が維持されている」ということかもしれない。これを、

{{S1}; {S}}

と書いてもいいかもしれない。もちろんこれは、

{{S1}∧{S}}

と同じ状態ではあるが、フォーカスが違うはず。

一方で、「退屈な映画が終わるまで無事座り終わる」というのは、

{{座っている}; {上映中}→{上映後}}

において、mo'u zutse は「→」を意図する。つまり、状態にたいするza'oは

維持している状態が、フォーカスの状態遷移後も維持されている

となる。結局、za'oはセミコロン以前を見ていることになる。一方で mo'u は

1. フォーカスの状態遷移が起こるまで、維持すべき状態が維持している
2. 維持すべき状態が維持したまま、フォーカスの状態が終了する

の2つの意味があると考えられる。これは構造、

1. {{S1}; {S2}→{S3}}
2. {{S1}; {S2}}

で区別される。2の構造は、{{S1}∧{S2}}と同じだが、違いは mo'u が使えるかどうか、すなわち、「完了を感じることができるか」の差だろう。

jmiveを例にとる。

{za'o jmive} は 「フォーカスの状態遷移後も生きている」(例:{爆発していない}→{爆発してしまった})
{mo'u jmive}は2つの読みが考えられる。
1. フォーカスの状態遷移が起こるまで、生きている。(例:「2015年である」→「2016年である」。また、反復的ではあるが「生きている」→「死んでいる」。これは、「死ぬまで生きている」ということ)
2. 維持すべき状態が維持されたまま、生き終える。(例:「大往生」)

za'o の延続の「the natural endpoint」とはフォーカスの状態遷移のことだろう。つまり、1の意味のmo'u点だろう。


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長いメモだ。あまりにも雑多すぎて、誰も読めない気がする。

2015/04/06

アスペクト(とテンス)の備忘録、もといロジバンの考察

wikipedia - grammatical tensewikipedia - grammatical aspect
wikipedia - Lexical aspect

をつらつらと読んでいた。これは備忘録であって、あまり内容は保証されない。

テンスは「その文の表す事態が発話時点から見て、時間軸のどの方向にあるのか」を表す文法要素で、「過去か今か未来か」を表す要素。もう少し言えば、「その文の表す命題が真である時間軸上の舞台はどこか」を表すもの。「時間軸上の舞台がどこか」というのはつまるところ「それが真であるのはいつか」ということ。

 アスペクトは、「テンスによって表された時間軸上の舞台で、その事態がどのようであるか」を表す文法要素。この「どのようであるか」というのが若干厄介で、曖昧がゆえに、多彩。どのようであるかというのはその事態をどう捉えるのかということであり、それを外からただ眺めるだけなのか、内部構造をもったものとしてみてやるのかがまずある。それから、内部構造をもったものとしてみたなら、その時間軸上の舞台において、言及事態がどのような段階にあるのかという話ができる。また外からただ眺めるだけでも、時間軸上の舞台に幅があるなら、その中でどのように事態が分布しているのか、ということも「どのようであるか」という話に含まれる。
 アスペクトを把握する上で重要なのは、アスペクトの要素はすべてが並列的ではないということを理解することだと思う。アスペクトの中でも上位カテゴリ、下位カテゴリがあったりするし、そもそも事態の分類の仕方が独立なときもある。

また、ふつう言われる「アスペクト」とは異なるアスペクトが存在するらしい。Lexical aspectとか、aktionsartとか言われるらしく、ここによれば、「語彙的アスペクト」とか「行為タイプ」とかと訳せるらしい。とりあえず分かりやすいので「行為タイプ」で通したいと思う。

行為タイプというのは、英文法である「動作動詞」と「状態動詞」というような分類のこと。エスペラントでいうところの「点動詞」と「線動詞」だろう。Vendlerの動詞分類というのがメジャーらしく、それによれば、述語は

  • 達成(accomplishment)
  • 活動(activity)
  • 到達(achievement)
  • 状態(state)
の4つに分類できるらしい。Bernerd Comrie(1976)はこれに semelfactive を加えている。これの訳語が見つからないのだけど、とりあえずはこのままで。

上の5つは3つの二択な項目によって分類される。
  • 動的か静的か
  • 瞬時的(no duration/punctual)か継続的(has duration/durative)か
  • 内在的終了点の有無(telic か atelic か)
下の図はwikipediaからの引用。

No durationHas duration
TelicAchievementAccomplishment
realisedrown
AtelicSemelfactiveActivity
knockwalk
telic/atelic とは、内在的終了点(natural endpoint)があるかないかを表す語であり、その事態に予め決まった終了点があるかどうかを表す。「リンゴを食べる」のはtelicであり、「歩く」のはatelic。

まず、静的なものは状態である。静的なものは状態のみであり、状態は継続的であり、atelicである。

動的なものは残り4種で、先に継続的な2つから説明する。継続的な2つとは達成(accomplishment)と活動(activity)であって、これらは telic か atelic かで区別される。すなわち、達成的な事態は内在的終了点が存在するが、活動的な事態は内在的終了点が存在しない。たとえば、前者は「1枚の絵を塗る」、後者は「歩く」がある。

 ここで注意すべきは、継続的でかつtelicであるということは、達成的な事態というのは「だんだんと仕上がっていく様子」が想像可能ということである。達成的な事態は、だんだんと内在的終了点に近づいていくような事態である。

次に、瞬時的な2つだが、これは到達(achievement)とsemelfactiveが該当し、この2つはtelicかatelicかでやはり区別される。前者は「気付く」とか「発見する」とかで、後者は「叩く」とかがある。

同じことの言い換えだけれど、達成と到達の違いは継続的か瞬時的かの違いであり、「だんだんと内在的終了点に近づいていくような事態かどうか」の違いである。時間経過を横軸に、進捗度を縦軸にプロットするとすれば、右肩上がりのグラフができるのが達成的事態で、グラフが飛び値になるのが到達的事態といえる。

はたまた、活動とsemelfactiveの違いは継続的か瞬時的かの違いで、内在的な終了点が存在しない(原理的には延々と続けることができる)ことは共通で、違いはその述語が連続的な動きの流れを表しているのか、ある瞬間の事態を表しているのかである。「歩く」は連続的な動きの流れであり、「叩く」は瞬間的な事態である。

ロジバンに応用することを考えれば、semelfactiveは正直なくてもいい。まあ、一応こんなのもあるよってことで。

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さてさて。またまたアスペクトに話を戻す。と同時にロジバンではどうであるかも書いていく。

①完結相(perfective)か非完結相(imperfective)か
これは言及事態を「外から眺めた感じ」なのか「内部構造に着目した感じ」なのかの違い(多分)。「外から眺めた感じ」というのは、その事態を包括的に捉えているということ。もう少し砕けていえば、「時間軸上において点的に扱う」ということ(点的に扱えば、内部構造は見えないからね)。

ロジバンでは{co'i}が完結相に相当するが、これは「punctual (perfective) aspect」で、「時間軸上において点的に扱う」という理解で十分。

①-1. 完結相(perfective)のサブタイプ
サブタイプというか、「これを指定するなら、完結相が前提だろう」というような話。たとえば、{puze'a co'i broda}は{ze'a}「時間幅があること」と {co'i}「事態が点的であること」があまり調和していないように感じる。おそらくこれは、「過去のある程度の時間幅のどこかでその事態が起こった」くらいの意味だろうけれど。

TAhE と roi はまさに完結相(co'i)が想定されるはず。TAhEはテンスが定めた時間軸上の舞台において、「事態の分布」を指定し、roiは「事態の回数」を指定する。これらは内部構造に着目するようなアスペクトとあまり調和しなさそうであり、それはおそらく「分布」や「回数」というのが、結構「俯瞰的」なものだからだろう。喩えるなら、街の建物の分布をヘリコプターで上空から調べるときに、わざわざ建物の玄関を探すようなことはしないでしょと。

ちなみに、TAhEの中の ru'i(継続的)だけは co'i と相性が悪そう。これだけは「分布」でなく、指定した時間幅全体においてその事態が生じているということを表すので、…たしかに「分布」であるが、離散的でないので『点』である co'i と相性が悪いんだろう。ru'i だけは co'inai、非完結相と相性がよさそうだ。

ちなみに相性がいいというのでは、{PU ZA co'i broda}は相性がいいはず。というより、英語のsimple tense というのはふつう完結相が想定されているはずなので、「自然言語らしい」という意味で相性がいい。逆に、多くのロジバニストは {PU ZA broda} において、ZAhO として co'i を暗黙に想定しているはず。

①-2. 非完結相(imperfective)のサブタイプ
 imperfective は {ca'o} らしいが、{ca'o}はそれだけでなく progressive でもある。以前は、「continuitive」と定義されていたらしいが、これは間違いだろう(この用語は{za'o}を表す)ということでBPFK sections では progressiveに変更された。でも wikipedia を見ていると、たぶん言いたかったのは continuitive でなく、 continuous だったのではと思う。 continuous は imperfective のサブタイプであり、 progressive と stative の上位カテゴリなのです。progressive は "ongoing and evolving" であって、 stative は "ongoing and not evolving" であるので、前者はもっぱら行為タイプでいうと、達成で、後者はもっぱら状態でしょう。ロジバンはその述語が達成的か状態的かを区別しませんので、ca'o は progressive より、stativeも含んでいる、それらの上位概念である continuous であるとしたほうがベターでしょうね。

 いずれにせよ、imperfective と continuous が同じ語で表されるということは注意しておこう。まあ注意するほどでもなさそうだけれど。っていうか、imperfective は co'inai になすりつければいいんでは…。

② 内部構造に着目したアスペクト
①ではその事態を外から眺めるか否かの話だった(ca'o が continuous なので、一部②の話もしたけれど)。その事態が「どのようであるか」を指定するのには、その内部構造に着目して、テンスが定めた時間軸上の舞台において、事態はどんな段階にあるかを示す方法もある。これは「事象局面」とか「event contour」とかって呼べばいいのかもしれない。

ここでひとつ注意なのが、co'i もたしかに ZAhO ではあるけれど、②には属していないということ。②は横軸に時間経過、縦軸に進捗度をプロットしたグラフで表せるのだけれど、しばしばこのグラフに無理やり co'i を突っ込もうとしているのがみられるので、そんなグラフは見かけても睨めっこしないほうがいいと思う。

②-1. prospective
訳語は「将然」とか「前望」とからしい。「今にも~しそうだ」という感じ。これはロジバンでは{pu'o}。割とそれだけ。

②-2. initiative/inchoative/inceptive/ingressive
訳としては「開始」とか「起動」とか。ロジバンでは{co'a}。BPFK sections では initiative と言っているのだけど、そんなメジャーな用語ではなさそう。inceptive,ingressive は 動的な事態の開始を表すのに対して、inchoative は静的な事態(状態; state)の開始を表すらしい。おそらく、BPFK sections が採用した initiative というのはこの3つ(inceptive, ingressive, inchoative)の上位カテゴリ的な相(さっきのprogressive, stativeに対する continuousみたいな)を想定しているのだろう。

いずれにせよ、「事態の開始」を表す。

②-3. cessative/terminative
terminative は weblio によれば 「終結」 と訳すらしい。wikibooksでは cessative を「停止」と訳している。ロジバンでは {co'u}。重要なのは、これは「その事態が内在的終了点にある」ことを必ずしも意図しないということ。もっと広い意味で「終わる」「止まる」ということ。

ロジバンでは行為タイプを区別しないので、{co'u}みたいな汎用的な終了を表す語が不可欠だよね。

②-4. completive
訳としては「完了」らしいけど、さてこの辺りからね、訳語にブレがね、出てくるよね。"perfect aspect"も「完了相」と訳されるけれど、この2つは違うアスペクトですから。completive はここでは「事態が内在的終了点にある」という意味です。ロジバンでは{mo'u}。「完了点」であり、「完了している」ではないことに注意。

個人的には「完了相」と訳したいですが、歴史が深すぎて誤解が生じる気しかしないので、「完成相」くらいで訳しましょう…。ちなみに、wikibooks では {ba'o}のことを「完成相」と言っているのでまたまたややこしいのですけど。「仕上がり相」とか「内在的終了相」とかのほうが分かりやすくていいかもしれない。

重要なのは、completive相は内在的終了点があるような事態でないと使えないということです。行為タイプでいえば、telicな事態、つまり、達成か到達な事態でしか completive相は使えません。逆にいえば、ロジバンは行為タイプが不定ですから、mo'u を使ったということは、その行為タイプが達成か到達であるということを暗に意味することになります。

②-5. perfect/retrospective
perfect はおなじみの「完了」です。retrospective は prospectiveの対極という意味で使っている用語なんでしょう。「回顧」とか「既往」とかかなあ。「将然」と対応させるなら、「既然」とかがいいのかもしれない。perfect は completive の結果生じている事態を示していて、retrospective は単に co'u の後であることを示しているんでしょう。「既に~し終わっている/止めている」ですね。ロジバンでは {ba'o}です。

②-6. continuative
wikibooksでは「延続」と訳されているので、ここでもこれを採用しましょう。ロジバンでは {za'o} です。これは、「内在的終了点を超えてなお事態が続いている」ということで、ちょっと奇妙なアスペクトです。「1個のリンゴを食べる」ことの内在的終了点は「食べきる」ときですが、それを超えてリンゴを食べることはできません(無いもの!)。延続相で想定されている行為タイプはtelic と atelic の間のようなものだと思います。最も使われるであろうのが、「目標のある活動」です。目標があるという点で telic ですが、それ自体は活動ですから、内在的終了点をすぎても、atelic として活動を続けることができます。

マラソンを想像してみると、「彼はゴールしたのにまだ走っている」というのは、目標のある活動という達成的な事態が完成(completive)し、目標のない atelic な活動がまだ行われているという状況です。

延続相が使える telic というのは、atelic的なtelic事態なわけです。活動やsemelfactiveに「目標点」を貼り付けてできた達成、到達ですね。

ちなみに、状態(state)は必ず atelic かという話もしておきます。たとえば、「座っている」は静的ですから状態で、ふつうはatelicです。しかしながら、「校長先生の話が終わるまで座っている」というような状況では、「目標が達成されるまで状態を維持する」という達成的な事態に変わります。これを状態にもtelicな場合があるととるか、もうこれは既に状態ではなくて、達成であるとみなすかはさておいて、さきほどの atelic的な事態をtelicにしたような事態という構図がそのまま表れているので、za'oが使える状況です。

②-7. pausative
訳は「中断」とか「休止」とか。{de'a}。一時的な終了にあるということですね。co'uとの違いは、話者が再開を見込んでいるかどうかだと思います。

②-8. resumptive
「再開」。pausative で一時的に取りやめられていた事態が再開することを表す。{di'a}。

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さて、ロジバンの述語は行為タイプが不定ということで話を進めてきたが、果たしてそうなのかという話。

反例は簡単に見つかる。{dasni}は "put on" ではなく "wear" の意味である、というのは、述語ごとに行為タイプの傾向があるということだろう。{sanli}や{zutse}ももっぱら状態(state)タイプである。

一方で、{citka}は動的なので状態タイプではない。また瞬時的でもないので、活動か達成タイプのどちらかだろう。

・・・本当か?{citka}は動詞的でもあれば、形容詞的でもあるはず。"is-an-eater"という意味もあるのだから、静的な事態も表し得るのでは。たとえば、

ra co'a citka lo plise

は、静的な関係、つまり、「リンゴを食べれるようになった」くらいの意味にできるのでは。

いずれにせよ、述語がtelicかatelicかということについては、話者の態度によるところが大きいだろうから、不定として問題ない。そして、述語はすべて動的でもあり静的でもあるからこれについても不定で問題ない。残るはno durationか has duration か、つまり、瞬時的か継続的かの違いである。

詳しくは別記事で。