2015/04/06

アスペクト(とテンス)の備忘録、もといロジバンの考察

wikipedia - grammatical tensewikipedia - grammatical aspect
wikipedia - Lexical aspect

をつらつらと読んでいた。これは備忘録であって、あまり内容は保証されない。

テンスは「その文の表す事態が発話時点から見て、時間軸のどの方向にあるのか」を表す文法要素で、「過去か今か未来か」を表す要素。もう少し言えば、「その文の表す命題が真である時間軸上の舞台はどこか」を表すもの。「時間軸上の舞台がどこか」というのはつまるところ「それが真であるのはいつか」ということ。

 アスペクトは、「テンスによって表された時間軸上の舞台で、その事態がどのようであるか」を表す文法要素。この「どのようであるか」というのが若干厄介で、曖昧がゆえに、多彩。どのようであるかというのはその事態をどう捉えるのかということであり、それを外からただ眺めるだけなのか、内部構造をもったものとしてみてやるのかがまずある。それから、内部構造をもったものとしてみたなら、その時間軸上の舞台において、言及事態がどのような段階にあるのかという話ができる。また外からただ眺めるだけでも、時間軸上の舞台に幅があるなら、その中でどのように事態が分布しているのか、ということも「どのようであるか」という話に含まれる。
 アスペクトを把握する上で重要なのは、アスペクトの要素はすべてが並列的ではないということを理解することだと思う。アスペクトの中でも上位カテゴリ、下位カテゴリがあったりするし、そもそも事態の分類の仕方が独立なときもある。

また、ふつう言われる「アスペクト」とは異なるアスペクトが存在するらしい。Lexical aspectとか、aktionsartとか言われるらしく、ここによれば、「語彙的アスペクト」とか「行為タイプ」とかと訳せるらしい。とりあえず分かりやすいので「行為タイプ」で通したいと思う。

行為タイプというのは、英文法である「動作動詞」と「状態動詞」というような分類のこと。エスペラントでいうところの「点動詞」と「線動詞」だろう。Vendlerの動詞分類というのがメジャーらしく、それによれば、述語は

  • 達成(accomplishment)
  • 活動(activity)
  • 到達(achievement)
  • 状態(state)
の4つに分類できるらしい。Bernerd Comrie(1976)はこれに semelfactive を加えている。これの訳語が見つからないのだけど、とりあえずはこのままで。

上の5つは3つの二択な項目によって分類される。
  • 動的か静的か
  • 瞬時的(no duration/punctual)か継続的(has duration/durative)か
  • 内在的終了点の有無(telic か atelic か)
下の図はwikipediaからの引用。

No durationHas duration
TelicAchievementAccomplishment
realisedrown
AtelicSemelfactiveActivity
knockwalk
telic/atelic とは、内在的終了点(natural endpoint)があるかないかを表す語であり、その事態に予め決まった終了点があるかどうかを表す。「リンゴを食べる」のはtelicであり、「歩く」のはatelic。

まず、静的なものは状態である。静的なものは状態のみであり、状態は継続的であり、atelicである。

動的なものは残り4種で、先に継続的な2つから説明する。継続的な2つとは達成(accomplishment)と活動(activity)であって、これらは telic か atelic かで区別される。すなわち、達成的な事態は内在的終了点が存在するが、活動的な事態は内在的終了点が存在しない。たとえば、前者は「1枚の絵を塗る」、後者は「歩く」がある。

 ここで注意すべきは、継続的でかつtelicであるということは、達成的な事態というのは「だんだんと仕上がっていく様子」が想像可能ということである。達成的な事態は、だんだんと内在的終了点に近づいていくような事態である。

次に、瞬時的な2つだが、これは到達(achievement)とsemelfactiveが該当し、この2つはtelicかatelicかでやはり区別される。前者は「気付く」とか「発見する」とかで、後者は「叩く」とかがある。

同じことの言い換えだけれど、達成と到達の違いは継続的か瞬時的かの違いであり、「だんだんと内在的終了点に近づいていくような事態かどうか」の違いである。時間経過を横軸に、進捗度を縦軸にプロットするとすれば、右肩上がりのグラフができるのが達成的事態で、グラフが飛び値になるのが到達的事態といえる。

はたまた、活動とsemelfactiveの違いは継続的か瞬時的かの違いで、内在的な終了点が存在しない(原理的には延々と続けることができる)ことは共通で、違いはその述語が連続的な動きの流れを表しているのか、ある瞬間の事態を表しているのかである。「歩く」は連続的な動きの流れであり、「叩く」は瞬間的な事態である。

ロジバンに応用することを考えれば、semelfactiveは正直なくてもいい。まあ、一応こんなのもあるよってことで。

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さてさて。またまたアスペクトに話を戻す。と同時にロジバンではどうであるかも書いていく。

①完結相(perfective)か非完結相(imperfective)か
これは言及事態を「外から眺めた感じ」なのか「内部構造に着目した感じ」なのかの違い(多分)。「外から眺めた感じ」というのは、その事態を包括的に捉えているということ。もう少し砕けていえば、「時間軸上において点的に扱う」ということ(点的に扱えば、内部構造は見えないからね)。

ロジバンでは{co'i}が完結相に相当するが、これは「punctual (perfective) aspect」で、「時間軸上において点的に扱う」という理解で十分。

①-1. 完結相(perfective)のサブタイプ
サブタイプというか、「これを指定するなら、完結相が前提だろう」というような話。たとえば、{puze'a co'i broda}は{ze'a}「時間幅があること」と {co'i}「事態が点的であること」があまり調和していないように感じる。おそらくこれは、「過去のある程度の時間幅のどこかでその事態が起こった」くらいの意味だろうけれど。

TAhE と roi はまさに完結相(co'i)が想定されるはず。TAhEはテンスが定めた時間軸上の舞台において、「事態の分布」を指定し、roiは「事態の回数」を指定する。これらは内部構造に着目するようなアスペクトとあまり調和しなさそうであり、それはおそらく「分布」や「回数」というのが、結構「俯瞰的」なものだからだろう。喩えるなら、街の建物の分布をヘリコプターで上空から調べるときに、わざわざ建物の玄関を探すようなことはしないでしょと。

ちなみに、TAhEの中の ru'i(継続的)だけは co'i と相性が悪そう。これだけは「分布」でなく、指定した時間幅全体においてその事態が生じているということを表すので、…たしかに「分布」であるが、離散的でないので『点』である co'i と相性が悪いんだろう。ru'i だけは co'inai、非完結相と相性がよさそうだ。

ちなみに相性がいいというのでは、{PU ZA co'i broda}は相性がいいはず。というより、英語のsimple tense というのはふつう完結相が想定されているはずなので、「自然言語らしい」という意味で相性がいい。逆に、多くのロジバニストは {PU ZA broda} において、ZAhO として co'i を暗黙に想定しているはず。

①-2. 非完結相(imperfective)のサブタイプ
 imperfective は {ca'o} らしいが、{ca'o}はそれだけでなく progressive でもある。以前は、「continuitive」と定義されていたらしいが、これは間違いだろう(この用語は{za'o}を表す)ということでBPFK sections では progressiveに変更された。でも wikipedia を見ていると、たぶん言いたかったのは continuitive でなく、 continuous だったのではと思う。 continuous は imperfective のサブタイプであり、 progressive と stative の上位カテゴリなのです。progressive は "ongoing and evolving" であって、 stative は "ongoing and not evolving" であるので、前者はもっぱら行為タイプでいうと、達成で、後者はもっぱら状態でしょう。ロジバンはその述語が達成的か状態的かを区別しませんので、ca'o は progressive より、stativeも含んでいる、それらの上位概念である continuous であるとしたほうがベターでしょうね。

 いずれにせよ、imperfective と continuous が同じ語で表されるということは注意しておこう。まあ注意するほどでもなさそうだけれど。っていうか、imperfective は co'inai になすりつければいいんでは…。

② 内部構造に着目したアスペクト
①ではその事態を外から眺めるか否かの話だった(ca'o が continuous なので、一部②の話もしたけれど)。その事態が「どのようであるか」を指定するのには、その内部構造に着目して、テンスが定めた時間軸上の舞台において、事態はどんな段階にあるかを示す方法もある。これは「事象局面」とか「event contour」とかって呼べばいいのかもしれない。

ここでひとつ注意なのが、co'i もたしかに ZAhO ではあるけれど、②には属していないということ。②は横軸に時間経過、縦軸に進捗度をプロットしたグラフで表せるのだけれど、しばしばこのグラフに無理やり co'i を突っ込もうとしているのがみられるので、そんなグラフは見かけても睨めっこしないほうがいいと思う。

②-1. prospective
訳語は「将然」とか「前望」とからしい。「今にも~しそうだ」という感じ。これはロジバンでは{pu'o}。割とそれだけ。

②-2. initiative/inchoative/inceptive/ingressive
訳としては「開始」とか「起動」とか。ロジバンでは{co'a}。BPFK sections では initiative と言っているのだけど、そんなメジャーな用語ではなさそう。inceptive,ingressive は 動的な事態の開始を表すのに対して、inchoative は静的な事態(状態; state)の開始を表すらしい。おそらく、BPFK sections が採用した initiative というのはこの3つ(inceptive, ingressive, inchoative)の上位カテゴリ的な相(さっきのprogressive, stativeに対する continuousみたいな)を想定しているのだろう。

いずれにせよ、「事態の開始」を表す。

②-3. cessative/terminative
terminative は weblio によれば 「終結」 と訳すらしい。wikibooksでは cessative を「停止」と訳している。ロジバンでは {co'u}。重要なのは、これは「その事態が内在的終了点にある」ことを必ずしも意図しないということ。もっと広い意味で「終わる」「止まる」ということ。

ロジバンでは行為タイプを区別しないので、{co'u}みたいな汎用的な終了を表す語が不可欠だよね。

②-4. completive
訳としては「完了」らしいけど、さてこの辺りからね、訳語にブレがね、出てくるよね。"perfect aspect"も「完了相」と訳されるけれど、この2つは違うアスペクトですから。completive はここでは「事態が内在的終了点にある」という意味です。ロジバンでは{mo'u}。「完了点」であり、「完了している」ではないことに注意。

個人的には「完了相」と訳したいですが、歴史が深すぎて誤解が生じる気しかしないので、「完成相」くらいで訳しましょう…。ちなみに、wikibooks では {ba'o}のことを「完成相」と言っているのでまたまたややこしいのですけど。「仕上がり相」とか「内在的終了相」とかのほうが分かりやすくていいかもしれない。

重要なのは、completive相は内在的終了点があるような事態でないと使えないということです。行為タイプでいえば、telicな事態、つまり、達成か到達な事態でしか completive相は使えません。逆にいえば、ロジバンは行為タイプが不定ですから、mo'u を使ったということは、その行為タイプが達成か到達であるということを暗に意味することになります。

②-5. perfect/retrospective
perfect はおなじみの「完了」です。retrospective は prospectiveの対極という意味で使っている用語なんでしょう。「回顧」とか「既往」とかかなあ。「将然」と対応させるなら、「既然」とかがいいのかもしれない。perfect は completive の結果生じている事態を示していて、retrospective は単に co'u の後であることを示しているんでしょう。「既に~し終わっている/止めている」ですね。ロジバンでは {ba'o}です。

②-6. continuative
wikibooksでは「延続」と訳されているので、ここでもこれを採用しましょう。ロジバンでは {za'o} です。これは、「内在的終了点を超えてなお事態が続いている」ということで、ちょっと奇妙なアスペクトです。「1個のリンゴを食べる」ことの内在的終了点は「食べきる」ときですが、それを超えてリンゴを食べることはできません(無いもの!)。延続相で想定されている行為タイプはtelic と atelic の間のようなものだと思います。最も使われるであろうのが、「目標のある活動」です。目標があるという点で telic ですが、それ自体は活動ですから、内在的終了点をすぎても、atelic として活動を続けることができます。

マラソンを想像してみると、「彼はゴールしたのにまだ走っている」というのは、目標のある活動という達成的な事態が完成(completive)し、目標のない atelic な活動がまだ行われているという状況です。

延続相が使える telic というのは、atelic的なtelic事態なわけです。活動やsemelfactiveに「目標点」を貼り付けてできた達成、到達ですね。

ちなみに、状態(state)は必ず atelic かという話もしておきます。たとえば、「座っている」は静的ですから状態で、ふつうはatelicです。しかしながら、「校長先生の話が終わるまで座っている」というような状況では、「目標が達成されるまで状態を維持する」という達成的な事態に変わります。これを状態にもtelicな場合があるととるか、もうこれは既に状態ではなくて、達成であるとみなすかはさておいて、さきほどの atelic的な事態をtelicにしたような事態という構図がそのまま表れているので、za'oが使える状況です。

②-7. pausative
訳は「中断」とか「休止」とか。{de'a}。一時的な終了にあるということですね。co'uとの違いは、話者が再開を見込んでいるかどうかだと思います。

②-8. resumptive
「再開」。pausative で一時的に取りやめられていた事態が再開することを表す。{di'a}。

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さて、ロジバンの述語は行為タイプが不定ということで話を進めてきたが、果たしてそうなのかという話。

反例は簡単に見つかる。{dasni}は "put on" ではなく "wear" の意味である、というのは、述語ごとに行為タイプの傾向があるということだろう。{sanli}や{zutse}ももっぱら状態(state)タイプである。

一方で、{citka}は動的なので状態タイプではない。また瞬時的でもないので、活動か達成タイプのどちらかだろう。

・・・本当か?{citka}は動詞的でもあれば、形容詞的でもあるはず。"is-an-eater"という意味もあるのだから、静的な事態も表し得るのでは。たとえば、

ra co'a citka lo plise

は、静的な関係、つまり、「リンゴを食べれるようになった」くらいの意味にできるのでは。

いずれにせよ、述語がtelicかatelicかということについては、話者の態度によるところが大きいだろうから、不定として問題ない。そして、述語はすべて動的でもあり静的でもあるからこれについても不定で問題ない。残るはno durationか has duration か、つまり、瞬時的か継続的かの違いである。

詳しくは別記事で。

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