2015/08/09

アスペクトの2カテゴリー

アスペクトとは?と聞けば、大体の人が 「述語が表す事象の完成度を表す」 だとか 「事象の進捗具合を表す」 だとか 「事象がどの段階にあるのかを表す」 とか言ってくれます。

Wave lessons の言葉を借りれば、"event contour" 「事象線」 に関する諸々がアスペクトだと言えます。「事象局面」とか、僕はときどき使います。

しかし、完結相や習慣相、経験相のことを考えると、アスペクトの定義として「事象局面」は十分ではなさそうです。たとえば、完結相をwikipediaで引いてみると:
完結相(かんけつそう、英語Perfective aspect)とは言語学で、一回限りの事象を時間経過と無関係に(点として)表現する相をいう。
とか、「出来事を全体としてとらえる」と説明されています。ううん、完結相というのはむしろ「事象の段階」に触れずに出来事に言及する態度です。

完結相はロジバンでは co'i で表されます(関連記事)。瞬時相とも呼ばれます。別に、その出来事が実際に瞬時に起こったというわけではなく、その出来事に対する話者の態度が「瞬時的」ということです。「点として」とか「時間軸上に幅をもたない」とかとも形容されますが、要は発話時点にその事象が覆い被さる心配がないってことを意味しています。

ロジバンのテンスというのは、時間軸上の言及している部分以外での成立の是非を含意しません。

ti pu crino / これは過去において緑だった。(=これは緑色だった。)

は、「今現在は緑ではない」を含意しません。過去の1点に目を向ければ、そいつは緑だったよ、しか言っておらず、現在においてそれがどうなのかについては言っていないわけです。日本語訳からは、そのような印象は受けないはずです。むしろ、今は緑ではないと思うのではないでしょうか。

ロジバンと日本語の違いはどこにあるかといえば、まさにこの表現の相にあります。ロジバンでは相は不定ですが、日本語では完結相が想定されています(たぶん)。つまり、日本語においては、その事象(これが緑であること)が発話時点に覆いかぶさっているかどうかを心配しなくていいわけです。被さってない!

・・・・と、完結相について簡単に説明しましたが、とりあえず、開始相や、進行・継続相、完了相といったような、事象の局面を表したものとはまるで異なります。

というわけで、個人的には、アスペクトには2つのカテゴリがまずあると思うわけです:

・ 事象局面系
・ 事象分布系

事象局面系はいわずもがな、いわゆるよくいわれるアスペクトのことです。事象分布系というのは、「時間軸上のある範囲に、表現される事象がどのように分布しているか」を表します。完結相はどちらかといえば、この事象分布系のアスペクトです。着目している時間軸上の1点(これはテンスで表されます)に1点だけぽつんと事象があるよ、ということを表すのが完結相です。

習慣相や経験相は事象分布系に属すると考えると理解しやすいです。この2つも、時間軸上で事象がどのように分布しているかを表します。習慣相では、事象1つ1つ(この1つ自体は完結相的な態度でみるべきです)が習慣的な間隔をもって時間軸上に配置されているさまを表します。経験相は、注目している時間軸上の1点よりも前の範囲において、事象が少なくとも1つはあることを表します。

事象分布系のアスペクトは事象局面系のアスペクトよりもマクロな視点であることに注意してください。事象局面系のアスペクトは事象の内部に視点を向けていますが、事象分布系のアスペクトはむしろ内部には目を向けず、その事象全体を1つとし、それら(いくつかの事象全体)がどのように分布しているかを表します。この視点のシフトがどうにも重要そうです。

-----------------  以下、ロジバン ---------------

事象局面系は ZAhO なのは明らかですが、事象分布系はというと、TAhE や ROI に相当します。しかしながら、BPFKやCLLでは、TAhE はどちらかというとテンスの方に含んでいるようです。日本のwikibooks ではなぜか TAhE を相制詞としており、その影響もあってか、日本語辞書では、TAhEは相制詞です。

そのこともあって、ロジバンでは「アスペクト」といえば「事象局面を表す語のことだ」となるので、まあそれはそれでありがたいわけではあります。

実際、たしかに ta'e や su'oroi はそれぞれ習慣相、経験相とみなせます。それから、di'i 「規則的に」, na'e「典型的に」 も事象の分布の様子が規則的/典型的であることを表しているので、事象分布系の1つと考えてよさそうです。しかしながら、事象分布系という視点でTAhEを見ると、ru'i だけは少し妙です。ru'i は、指定された時間軸上の範囲において「ずっと」「継続的に」その事象があるということを意味します。他のTAhE cmavo は co'i 的な事象を時間軸上の指定範囲にバラまいて(いや、もっと丁寧に!配置して)いましたが、ru'i だけはそのような挙動を示しません。 co'i の「点な感じ」と、ru'i の「幅広い感じ」が見事にミスマッチしているわけです。

ですが、これらを併用することは可能です。むしろ、ru'i はデフォルトで co'i 相でさえあると思われます。一見矛盾しているように見えますが、ru'i は co'i 相の「全体性」というところを上手く使うわけです。たとえば、

mi ru'i bajra

では、相が不定なため、もしかすると

mi ru'i pu'o bajra / 私は指定された時間範囲中ずっと、走ろうとしていた。

とか

mi ru'i ba'o bajra / 私は指定された時間範囲中ずっと、既に走り終わっていた。

というようなことも意味できないことはないわけです。おそらくは、

mi ru'i ca'o bajra / 私はずっと走っていた。

がほとんどのケースで意図されるとは思われます。しかしこれが「走り始めと走り終わりはこの時間範囲の中にはなかった」ということをも意味していることには注意すべきです。つまり、走ろうとしているところ、走り始めたところ、走り終わったところといった「走り全体の一部」は指定された時間範囲から漏れでています。結局、そういった、走り全体の一部をもその中に詰め込んで、きっかりちょうど、その時間範囲内で「走り全体」が完結する(そして、それは継続的なものだった)とするには、

mi ru'i co'i bajra / 私は指定された時間範囲中で走った。

とするしかないのです。そう考えると、確かに ru'i は他のTAhEと比べると事象分布系から常軌を逸したものとなっていますが、co'i的な事象を使っているということを踏まえれば、『引き延ばした事象分布』としてなんとか受け入れられるように思います。

ちなみに、TAhEを単にテンスの一部として扱うことへの抵抗感というのは、TAhE と ZAhO を併用したときにおこります。

mi ta'e co'a bajra / 私は習慣的に走りだす。

…? ふつう、ランニングの習慣があるときに、私たちはランニングの過程の一部(たとえば、開始点)が習慣的に分布している、だなんて言わないわけです。

mi ta'e co'i bajra / 私は習慣的に走っている。

こっちのほうが断然自然な物言いです。しかしながら、この不自然さが自然言語では表現できなかったがゆえのものかもしれないことは十分に注意しておくべきで、もっと言えば、事象分布系がアスペクトに属しているのは、単に自然言語での文法形式がたまたま事象局面のものと同一であったからにすぎなく、それ以外に根拠はない(実際にはまったく独立した文法形式をとれうる)可能性だってあります。…が、この話はここまでにしておきましょう・・・。

少なくとも、自然言語的な間相制観、すなわち、あるテンス表現に対して想定されやすい相というのが自然言語レベルでは存在するということは頭に入れておくべきでしょう。それが、因果的なものであるか、単なる傾向性でしかないかは、それこそロジバニストの使用傾向で明らかになってくるかもしれません。

僕としては、まあやはり、BPFK様に逆らわずにテンス表現の1つとして受け入れたほうが楽かなと思いますw

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