2015/07/06

BPFK sections - noi/poi と少しの考察付け

今後書く記事のために、いまいちど該当箇所を訳しておく

# noi (NOI)
 付随的(非制限的)関係節マーカー。

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象についての追加情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「非制限的(non-restrictive)」は、noi節の情報が、先行sumtiが参照する物々の集合を制限するのに用いられないということを意味している。noi bridiは先行sumtiの指示対象について追加的な情報を与える。

noi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

論理スコープの観点からみると、noi節のスコープはそれが含まれる言明のスコープの完全に外側にある。すなわち、そのスコープはnoi節を含んでいるスコープが終了した直後に発生する。noi節は、スコープの観点からは、noi節を含む文と、それと論理接続されている全ての言明の後に、それ自身の事実上の文(技術的には、形式文法でいうところの、それ自身の『statement』部)において生じるとみなされるべきである。

noi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、noi節は kuの内部にあるとみなされる。


# poi (NOI)
制限的関係節マーカー

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象について特定するような(specifying)情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「制限的(restrictive)」は、poi節の情報が先行sumtiが参照する物々の集合を制限するために用いられるということを意味している。換言すると、poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている。

poi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

非量化sumtiでは、poi節はそのsumtiの指示対象すべてから、それを満たすもののみを選り抜く。内部量化詞があるとき、その量化詞はpoi節を満たす指示対象がいくつあるのかを示す。量化sumtiでは、量化はその節を満たすsumtiの指示対象の上で行われる。

poi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、poi節は kuの内部にあるとみなされる。

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このBPFKsectionsの定義で一番悩むのが、「先行sumtiの参照する物々」のところなんですよね。そして、noiの「集合を制限しない」というところ。それから(これが一番の悩みの種なんですが)「poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている」の部分。

個人的には、おそらく、poiの説明は非xorlo的であると考えています。だって、「たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる」というのは xorloっぽくないんだもの。

この "for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed" というときの "can be" は「誰にとって」の可能性なんでしょうね?…というところが焦点です。

xorlo では lo broda = zo'e noi ke'a broda の等式が成り立つわけですが、もし {lo dacti} が実に大量の物々でありうるのであれば、{zo'e}はそりゃもう、{lo dacti}以上に大量の対象を指しうるはずです。しかしながら、そうであるにも拘らず、lo broda の定義には noi が使われています。

ここで立てられるひとつの推測は、xorlo以降のロジバンで使われる(非量化的な場合の)「制限的」というのは、聴者のためにあるのではなく、もっぱら、話者のためにのみぞある、ということです。もし、「制限的」、すなわち、「先行sumtiの参照する物々の集合を制限する」 poi が聴者のためにあるのなら、lo broda = zo'e poi ke'a broda でないとおかしいでしょう、と思うわけです。

先行詞それだけでは具体的に何を指しているか分からないから、制限的な関係節によって、その候補を狭めてやる、というのは、英語において言えることではありますが、思うに、英語の名詞は形式論理に書き写すとき、すべて外部量化詞の形(すなわち PA da)で写されるはずなので、同じ論理を xorlo世代ロジバンに適用することができません。

次に、zo'e は代詞であって、だから、poiとnoiの使い分けが『普通のsumti』とは変わってくるんではないか?という反論も期待できます。しかしながら、多くのロジバニストが同じく代詞である ti, ta, tu においては臆面なく poi を使っている場面が散見されることをみるに、おそらく代詞だから云々という主張は退けられます。

結局、zo'eのような話者以外(場合には話者にとっても)にとって実に様々なものを指しうるsumtiに対して noi を使える事実を踏まえれば、poi の役目というのが自然と見えてきます。

聴者の立場から文を眺めることをやめ、発話者の立場から文を眺めることにすれば(個人的には xorloではこっちのスタンスなのだと考えている)、lo broda と、それを還元した zo'e は全く同じ対象を指示しているはずなので、「指示対象の集合を制限する」という発想はおかしいわけです。 強いてすることがあるとすれば、他者がこの文を(つまり、zo'eが何を指しているのかを)自分の意図した通りに理解してくれるよう注釈をつけることくらいです。発話者の立場からすると、lo broda を zo'e noi ke'a broda とするのは至極もっともらしく理解できます。彼にとって、 lo broda とは zo'e であり、この zo'e は厳密に lo broda なのです。

こう考えたときに、では、「指示対象の集合を制限する」とはどういうことかといえば、話者が想定している然々の指示対象をさらに縮小していくという操作に他なりません。つまり、「~のうち...であるもの」という表現に使われるのが poi ということになります。このとき、 zo'e poi broda は、「zo'eの指示対象が漠然としているから、brodaによって縛っている」のではなく、「zo'eの指示する対象のうち、brodaなものをさらに選り抜いている」ことになります。BPFK sectionsのformal definitionsに倣うと

zo'e poi broda = zo'e noi me zo'e je broda ≒ zo'e noi ke'a me zo'e gi'e broda

です。ここで、noi前のzo'eとme後のzo'eは(ほとんどの場合)別ものです。前者をzo'e1, 後者をzo'e2とすれば、 zo'e1 me zo'e2 の関係ですから、zo'e1 のほうが指示対象をより絞りこまれていることになります。量化項とちがって、定項ではその指示範囲が定まっているという点がキモです。

例として
ti noi blanu cu se zbasu mi

ti poi blanu cu se zbasu mi
を比較してみます。



こんな感じで話者の近くに3つの玉があったとし、青い玉は話者が作ったとします。(他の玉は別の人が作った)

noi のほうでは、 ti は を指していて、他者への気遣いとして noi 節によって、「tiで指しているものは青いよ」と伝えています。
一方、poiでは次のようなことが考えられます。たとえば、tiでのすべてを指示して、「そのうちの青いやつ」として最終的にを指示する方法です。最終的にどちらも「青い玉は私が作った」という意味になりますが、注意したいのは、noi文では ti だけで 青い玉を指示していますが、 poi文では ti poi blanu の句を以って初めて青い玉を指示しています。言い換えれば、noi節の有無は文の内容を変えませんが、poi節の有無は文の内容を変えることがあります。実際、上の指示の具合を固定したまま {poi blanu} を消し去ると、ti はを指しているのですから、この文は正しくなくなります。

…というのは実は前々からずっと書いてきたことです。本当に書きたいのはここから!

上の分析が合っていたとして、ほとんどのロジバニストはそれでもやはり noi を使うべきところで poi を使っているようにみえます。これを救済する解釈はないものかとずっと悩んでいました。

さっきの理屈でいくと、

lo gerku poi bajra / 走っている犬

というのはまず{lo gerku}で(おそらくは)複数の犬を指しておいて、そのうち、走っているやつ、と対象を絞るのがこの表現と取れます。しかしながら、大体の人はこのようには使っていないはずで、実際のところは poi節によって {lo gerku}自体の範囲を制限しようとして使っているはずです。これはあれです、英語ライクな「制限」で、つまりは他者視点からみた「制限」です。これを上手いこと、xorloの「制限」と矛盾なく説明できたらいいのだけど…というのが実のところこの記事で書きたい事柄です(前置き長いな)

今回救済できるのは描写sumtiに関してのみです。描写sumtiでないsumti…まあ要は代項については少し救済できません。とはいえ、代項についてはそんなにトラブルは起きないかなと思っています(なぜかというと、内部量化詞がないからです!)。

救済にあたって着目する点は、「描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる」です。

そして、noiの説明:

selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

と、poiの説明:

selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

がキーです。また、noi節とkuの位置関係による意味の違いとして、BPFK sectionsのNotesにある:

{pa lo ci gerku noi zvati ku} は「そこにいる3匹の犬のうちの1匹」であり、{pa lo ci gerku ku noi zvati}は「3匹のうちのそこにいる1匹の犬」

というのもヒントとして救済していきます。

poiのほうが説明しやすいのでpoiでまず説明していきます。poi節はkuの前に置いた場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示します。言い換えれば、内部量化詞は selbri-poi節複合体に対して勘定を行なっています。例を挙げると、

lo ci gerku ku poi blabi
lo ci gerku poi blabi ku

では、前者がku外に、後者がku内にpoi節が存在しています。このとき、前者では「[sumti] poi ...」の形式がそのまま成り立っているので、

[lo ci gerku ku] poi blabi = lo me [lo ci gerku ku] je blabi

の等式の通りに書き下せます。前者では「白い犬は3匹以下である」ということです。

一方で、後者では、定義通り、ku内にpoi節がある場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示すわけですから、「白い犬は3匹である」ということになります。分かる通り、後者(ku内)の構造は前者のような等式に落とし込めません。ここがミソです!BPFK sections では書かれていませんが、formal definitions を書くとすれば恐らくこうできます。

lo [selbri] poi broda ku = zo'e noi ke'a [selbri] gi'e broda ≒ lo [selbri] je broda ku

{lo [selbri] ku}というsumtiが介在しないことに注意してください。ku内にpoi broda が入りこんでいるとき、ロジバンのpoiは実に英語の制限節らしい振る舞いをするわけです。

私の考えた救済案というのはたったこれだけです。すなわち、もうひとつ formal definition を追加しよう、という非常に単純なアイデアです。

こうすれば、lo ci gerku poi blabi ku が「3匹の白い犬」となるのが、形式定義からもわかります。

lo ci gerku poi blabi ku = lo ci gerku je blabi ku

この、selbri-poi節複合体を仮想的に1つの大きなselbri構造として捉えるという見方によって、(何回も同じことを言っているだけですが)現在のpoiの使われ方を正常なものとして捉えることができます。

noiの場合はどうでしょう?まず、formal definition を見てみますと、

[sumti] noi ke'a broda  = [sumti] to rixirau broda toi

となっております。noi節がただの注釈付である(取り払っても文意が損なわれない)ことがわかりますね。

noi節がkuの外にある場合は、上のformal definition がそのまま適用できます。

lo ci gerku ku noi blabi = lo ci gerku ku to ri xi rau blabi toi

問題は ku内に noi節がある場合です。

lo ci gerku noi blabi ku = lo ci gerku to ri xi rau blabi toi ku

ここでは、lo ci gerku ... ku の構造は noi 節時点でまだ完成していないので、 ri xi rau によって照応できない気がします。多分これも追加でformal definition を入れてやるほうがいい気がします。

lo PA [selbri] noi broda ku = lo ro me lo PA [selbri] ku noi broda ku 

こういう周りくどい定義をしたのは、外部量化のことを考えてです。

PA1 lo PA2 [selbri] noi broda ku = PA1 lo ro me lo PA2 [selbri] ku noi broda ku
PA1 lo PA2 [selbri] ku noi broda = PA1 lo PA2 [selbri] ku to ri xi rau broda toi


後者は {PA1 lo PA2 [selbri] ku} という sumti に noi broda が係っているので、従来の定義式が使えます。
前者は、{PA1 lo PA2 [selbri] .. ku}と未完成な構造の時点で noi broda が入っているので、提案した定義式によって、一旦 {lo PA2 [selbri] ku}というsumtiの構造を完成させ、ソレに対して noi節を修飾させます。そしてそのsumtiを使って、少しまどろっこしいですが PA1 lo ro me [sumti] noi broda ku という変形前と同意(なはずです)の複合体を形成することで、ku内外におけるnoi節の修飾具合を説明できます。

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noiのほうは少し迂遠な定義式になりましたが、poiのほうが比較的簡潔です。今回特に論じたかったのはpoiの救済ですので、まあこんな感じでいいかなと思います。


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