今までは sumtcita をおおよそこんな感じに解釈していた:
broda BAI ko'a = BAI ko'a zo'u broda
事実上、タグ付きsumtiは浮いているとみていた。bridi中のタグ付きsumtiはもっぱら話題部にもっていけるわけで、selbriが規定する項枠に入るsumti(裸のsumtiやFAタグ付きsumti)と比べると、若干ぶらぶらしているというか、ひとつお高いところから見下ろしている感じがする。というか、そのように捉えていた。
ところで、zi'o というのは selbri演算子だと僕は考えている。雰囲気としては、述語 F, G があるとして、
G = ZIhO{xk}(F)
のように、zi'oを述語Fのk項目に入れることは、その位置をズィホった(zi'o演算子を適用した)述語Gをつくることに等しい。と、僕は考えている。
もっとも、「もっとフランクに使おうぜ!」というようなzi'oの意味論というか語用論もあって、その意味論はだいたい「zi'oの位置については今回何も話者は指示対象を想定していない」というような感じ。ちょっとかっこうよくいえば、zo'eの不特定用法をzi'oに委託しようという感じ。zi'oの本来の意味はどこいったんだ。
このフランクzi'o用法だと、たとえば、単に「私は彼を知っている」と言いたいときに
mi djuno zi'o ko'a
みたいに言える。つまり、「彼について知っている」と言いたいのであって、今回の主張では「彼についてどうこうといった命題を知っている」と言いたいわけではないですよ、という意味合いになる。
ありっちゃあありなんだが、brivlaのPSはそのbrivlaの概念にとって不可欠なものが揃っているわけで、「それについて言及しないなら、それはもう別の概念のbrivlaだろ」と思うわけで。
そんなこんなで、僕はフランクなzi'o意味は好きじゃない。たとえば gleki氏はロジバンを結構簡単にしたがっている人だけれど、彼の改良案では、「無記述の項位置には zo'e か zi'o が想定される」としていて、おそらくこれはフランクなzi'o意味のほうなんだろうと思う。
結構な人がこんなフランクな感じで使っているので、もしかして公式の意味論がそうなのか?と思ってCLLを覗いてみたらそんなことはなかった:
zi'o は、存在しない値(話者が表現したい関係に関与しない場所)を示す。例 えば、zbasu (主体 x1 が x2 を x3 から作る)を使って、
7.2) loi jmive cu se zbasu [zo'e] fi loi selci
~の群れ 生物 作られる [何かによって] ~から ~の群れ 細胞
生物は細胞から作られる。
とは言えない。なぜなら、zo'e は以前として「制作主」が存在していることを 仮定するからである。解決法は、異なるセルブリを使うか、該当するところに zi'o を入れるかである。
7.3) loi jmive cu se zbasu zi'o loi selci
~の群れ 生物 作られる [制作主無しに] ~の群れから 細胞
7.4) mi zbasu le dinju loi mudri
I make the building from-some-of-the-mass-of wood.
I make the building out of wood.
7.5) zi'o zbasu le dinju loi mudri
[without-maker] makes the building
from-some-of-the-mass-of wood.
The building is made out of wood.
7.6) mi zbasu zi'o loi mudri
I make [without-thing-made]
from-some-of-the-mass-of wood.
I build using wood.
7.7) mi zbasu loi mudri zi'o
I make the building [without-material].
I make the building.
zi'o によってセルブリのある場所をブロックするのは、ことなる場所構造を持つ新しいセルブリを作り出すのと同じである。 例7.4 が正しければ、例7.5~7.7 は全て正しいが、例7.3は、通常の(zi'oの無い)いかなるスムティとも対応しない。BPFKでもこんな記述があるので、まあフランクな意味論は誤用(御用だ御用だ)とみていいのかもしれない:
cmavo: zi'o (KOhA7)
Proposed Definition of zi'o
Nonexistent argument place. zi'o is gramatically a pro-sumti, meaning it fills a sumti place, but unlike other pro-sumti zi'o actually removes the place it fills from the bridi it is in entirely. A bridi with zi'o in it actually represents a completely different relationship, one with one less element being related.
そんで。zi'oというのはselbriを別のselbriに変換する演算子とみれる。場の量子論のオマージュで消滅演算子とでもいえばちょっとはカッコいいかもしれない。仮にそうとでも名づけておけば、みんなこう思うはずなのだよ。「消滅があるなら生成があるだろ?」と。つまり、
G = Gen_{s}(F)
というような、述語Fに新たな項位置、もとい追加規則をぶちこむような演算子を想定できよう。・・・・・ううん。たとえば数学なら、
F(x,y) = x+y
があって、
G = Gen_{λz.(F-z)}(F) = x+y-z
みたいな感じで、新しい引数が1つ増えた関数が作れるようなことができそうだ。(生成演算子の引数(?)である追加規則をどう書くかは解らない。とりあえずはガバガバだけどラムダ式でかいておいた)
Haskellもガバガバの素人だけど、
f x y = x + y
として
g = \x,y,z -> f x y - z
みたいな感じの挙動を起こすような(項位置)生成演算子があってもいいじゃない。
結局のところ言いたいのは、sumtcitaってそれじゃね?ということです。つまり、
broda BAI ko'a = BAI ko'a zo'u broda
というのは、今のところたまたまそう解釈されているだけで、実のところの意味としては、zi'oの真逆のことをしているのではないかと。つまり、「項を追加する」というのはかなり表面上の説明でしかなくて、実のところ sumtcita付きsumtiは、そのselbriに然々の項規則を新たに追加したような新しい概念を表す全く別もののselbriをつくりだす演算子なのではないかと。
こうすると、zi'oの概念と対の概念が生まれて、対称性が上がって、ハッピー!gleki!.ui.ui.ui!
じゃあこの意味論で行くとして、具体的に理解が深まるところがあるのかは、もうちょっと考える時間をください。
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