[1] BPFK Section: Grammatical Pro-sumti
http://www.lojban.org/tiki/BPFK+Section%3A+Grammatical+Pro-sumti#cmavo:_zo_e_KOhA7_
BPFKによる最新の公式意味論では、zo'eは複数定項として定義される。zo'eは、新しいgadriの意味論、xorloにおいても、描写sumtiのほとんどがzo'eに還元される(すなわち、描写sumtiは定項である)という点でも重要な代sumtiとなっている。
BPFKによるzo'eの定義は次のようなものとなっている:
Unspecif it. zo'e is a pro-sumti (meaning it takes the place of a fully-specified sumti). It represents an elliptical or unspecified value. It has some value which is irrelevant or obvious in the current context. All empty places in Lojban are implicitely filled with zo'e, making it (by far) the most-used word in the language, in a sense. zo'e can represent just about anything. The important exceptions are no da, which is equivalent to putting na in front of the selbri of the bridi in question and hence alters the meaning completely, zi'o, which utterly changes the nature of the bridi to one which has a different place structure, and ma, which turns a statement into a question. zo'e can represent a referant of any complexity. To fully specify the thing represented by zo'e may require very complex Lojban, including abstractions, relative clauses, relative sumtcita, and combinations thereof.簡単に日本語に訳しておく。
「不特定なそれ。zo'e は代sumtiであり、省略的(elliptical)あるいは不特定(unspecified)な値を表す。そのときの文脈において、その指示対象が何であるかについてあまり重要でない/無関係(irrelevant)であったり、明らか(obvious)であったりするような値を有する。ロジバンにおける空位置(empty places)にはすべてzo'eが暗黙に想定され、その意味で、いまのところ、ロジバンで最も多用される語である。zo'eは実におおよそ何でも表すことができるが、重要な例外として noda がある。これは、当該のbridiのselbriの前にnaを置くのに等しく、それゆえ、その意味を完全に変えてしまう。zo'eはどんな複雑性を有する対象をも表せる。zo'eによって表されているものを完全に特定するにはかなり複雑なロジバン(抽象節、関係節、関係sumtcita、それらを組み合わせたものを含むような句)が要求される。」
(ところどころ、不必要な(そして間違いが含まれていそうな)箇所は訳していない。)
今回のテーマとなるのは、定義の前半部分、「不特定なそれ。zo'e は代sumtiであり、省略的(elliptical)あるいは不特定(unspecified)な値を表す。そのときの文脈において、その指示対象が何であるかについてあまり重要でない/無関係(irrelevant)であったり、明らか(obvious)であったりするような値を有する」である。このzo'eの意味の定義は、どちらかといえば語用論である。つまり、zo'e が複数定項であるというところから、省略的用法、不特定用法が出てくるとみるべきである。
定項について理解するために、典型的な一階述語論理の意味論について簡単に触れておく。それによれば、その論理式(文)の意味付けとして、空でない集合 D と、非論理記号全体の集合を定義域とする解釈関数 F の組 (D, F) を考え、これを構造という。Dはつまるところ議論領域であり、解釈関数は主に定項とその指示対象のリンク、述語記号の意味付け(集合論的には、n項述語記号はD^nの部分集合にリンクされる。つまり、その述語記号が表す述語に適合する組の集合とリンクされる)を担う。述語の解釈(ロジバンでいえば selbriの解釈)は一定であるとして、解釈関数の多様性とは定項への指示対象の対応付けの多様性とする。
たとえば、 a を単数(単称)定項とし、議論領域として、D = {s, t, u} を選ぶとする(記号が嫌なのであれば、{Sally, Tom, Ulf}とでもしよう)。このとき、解釈関数 F は、aについて、
F (a) =
1. s
2. t
3. u
の3通りが存在する。
zo'e のために、次は A を複数定項とし、同じ議論領域を選ぶとすれば、解釈関数は A について、
F (A) =
1. s
2. t3. u
4. 「s, t 」
5. 「s, u」
6. 「u, t」
7. 「s, t, u」
の7通りがある。ここで 「・」 は複数定項に関する外延表記である(Mckayは「・」でなくこれを上下反転したものを用いていたが、見やすさのため通常のカギ括弧で表記する)
さて、zo'e が複数定項であるということは、それが特定の構造の下で、その指示が1通りに定まることを意味している。同じ議論領域において、
zo'e blanu
と言い、F(zo'e) = 「s, t」 なる解釈関数をもつ構造の下で解釈すれば、これは、
sとtは青い
という意味になる。
※ ここで、定項の指示について「1つ」といわず「1通り」と言ったのは、それが複数定項だからである。単称定項であれば、定項の指示が1通りに定まるというのはその指示対象が1つに定まることに等しいが、複数定項ではそうではない。
束縛変項は、特定の構造の下でも指示対象は1通りに定まらないことに注意しよう。たとえば、
su'o da blanu
は先ほどと同じ構造の下で解釈しても、
青いものが少なくとも1つある
であり、{su'o da}は特定のものを指示しない。「指示対象は1通りに定まらない」という文言は奇妙であって、そもそも束縛変項はその走る範囲(たいていは議論領域D)が定められることはあっても、その中のどれかを1通りに指すことはない。束縛変項は特定の構造の下でもその指示は不特定である(何かを指示すると考えることはおかしい)。
それではようやく、zo'eの意味について入ろう。zo'eには省略的代項と不特定的代項の2種類の用法があるので、それぞれをみていくことにする。
省略的代項の用法では、話者にとってそのzo'eが何を指示しているのかは把握されている。これはしばしば照応の形で出てくる。というのも、照応というのは話者と聴者の間で共有された文脈によって行われるからである。
la .djan. cu prami mi .iku'i mi xebni [zo'e]
ジョンは私のことを愛している。しかし、私は嫌いだ。
このとき、 zo'e = la .djan. であることは想像がつく。もちろん、テキストにおける文脈だけでなく、
[zo'e] jelca
燃えてる!
といった、共有している外界の様子から、zo'eの指示が定まるようなときにも用いられる。この意味で、 zo'e というのは英語の "the" に近いかもしれない。
ここで押さえておくべきなのは、省略的代項の用法においては、zo'eの指示は特定されているということである。少なくとも話者にとって、それが何を指示しているのかは1通りに定まっているはずである。そのため、この用法は、zo'eが複数定項を意味することとなんら矛盾しない。
しかしながら、おそらく(省略されているのも含めば)zo'e の大半は2つ目の不特定的代項の用法で用いられている。この用法は zo'e が定項であることと一見矛盾している。たとえば、
la djan cu prami zo'e
というのを、zo'eの指示を特定せずに発言するというようなことはよく行われているが、zo'eは複数定項であるから、本来、指示が1通りに定まっているはずである。となると、これは、第三者からみれば、話者はこのzo'eの指示を特定しているという読みしかできないはずである。
これは、「任意の定数C」というような、定数であるのに任意であるというパラドキシカルな定数とよく似ている。これらに共通しているのは、それが「定」であるのは、ある特定の解釈・構造の下においてであるということである。
つまり、たしかに zo'e は複数定項であるが、それは「特定の構造の下で」そうなのであって、構造が1つに特定されていない状態ではzo'eの指示は不確定でいられるのである。
zo'eは定項であるから、議論領域Dは一定だったとして、影響を受けるのはその解釈関数Fの在り方である。上の場合でいえば、あの7通りの解釈関数のうちのどれであるかを確定しない間は、zo'eもその指示対象が1通りには定まらない。つまり、zo'eの不特定性というのは、解釈保留から生じる不特定性であるとみれば、矛盾しない。
今までは、話者は何らかの特定な構造を携えてその文を発すると考えていたわけだが、その前提をやや否定するのである。そうすると、定項を含む文への話者の態度をどう見るかによって、その文が述べようとすることはかなり豊かになる。たとえば、さっきの議論領域D={s,t,u} を想定し、発言された文には定項が1つ含まれていたとしよう。そのとき、話者は
1. ひとつの特定の解釈を想定している
2. それを充足するような解釈関数があることを主張している(特定の解釈を想定していない)
3. どの解釈関数であっても充足することを主張している(特定の解釈を想定していない)
4. 複数の特定の解釈を想定している
のいずれかの態度をとることができるかもしれない(4は少し厳しいかもしれない)。
1. はもっとも素直な態度であり、2. は不特定なzo'eの用法において最も取られている態度であろう。
3. はあまり取られる態度ではないかもしれないが、
do nelci ma
zo'e
というような、消極的全称表現(「それ」と特定しないことから連想されるという意味で消極的)としてありうるかもしれない(要検討)。
こう考えると、zo'eの解釈の不定性によって、メタレベル(構造レベル)での複数変項の量化をロジバンは備えているとみることもできそうである。少なくとも、よく使われる、zo'eに対する2.の態度というのは、su'oi と実質遜色ない意味合いになるはずである。
さらに、この立場では、le にも有用性が出てくる。le broda もlo broda も確かにどちらも定項であり、zo'eと変わりえないが、le と lo の違いはむしろ構造レベルでの話者の態度の違いといえそうである。つまり、lo はそれに対する解釈関数の振る舞いについてなんら規定しないが、le はそれに対して話者が特定の解釈関数を想定していることを明示しているとみなすことができる。
もうひとつ、noi の意味論もこのオブジェクトレベルと構造レベル(メタレベル)の2つを考えることでよりわかりやすく捉えられそうである。すなわち、poiというのはオブジェクトレベルでの限定であって、noiというのはメタレベルでの限定なのである。つまり、
zo'e noi broda
というのは、たしかに、オブジェクトレベルでは zo'e の指示を変えることはないが、zo'eの解釈関数を推定する際に、よりメタな基準として zo'e の解釈先が broda_1 を満たすようであれ、と限定するのである。
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