2015/02/23

BAIについての雑記

「そのselbriに言いたいことを入れる位置がなければ、タグによって追加することができる」

まあ大体、BAIのsumtcita用法としては、こんな感じのことが書かれている。

多分に、BAIをきれいに解釈できることはより一層ロジバンを使うに当たって意義深いことだろう・・・。

この前は、zi'oとBAIを両極端に置いて、すなわち、BAIというのは項位置生成変換子だとか言ったけれど、これはあまり意味論的に功を奏さない(で、結局どうなるんだよとなる)ので、まあもう少し地に足つけて考えていかんといけん。

・・・じゃあ、地に足つけるってどういうことだ。とりあえずBPFKでも見ておこうという感じ。なのと、そもそもBAIはどのような要請によって導入されたのかを考えると、少しは見通しがたつかもしれん。

BPFKではBAI類をさらに意味論的に分類している。

サブクラスと呼ぶことにするが、BAI1~6の6種あって、

1. causation; 因果関係
2. epistemology; 認識論
3. case; 事例
4. tense; テンス
5. relational; 関係
6. quantity; 量

…まあいいや…。5とか「その他」とほとんど変わらん気もするけど…(全部関係やんけね)

とりあえずの仮説。

①ckini的という概念
これは、タグの元となるbrivla(以下、タグ元とでも呼ぶ)のx_2に抽象節項が来るかどうかによる。
BPFKの意味論をみていると概ね(ほとんど?)その傾向を見せている。

つまり、rinka, djuno, cusku とかはx_2に抽象節項がくるが、そのために、事実上こんな形式が得られる:

selbri BAI X = selbri ije X [BAI] lo su'u go'i

ここで[BAI]はタグ元。つまり、その文が意味上、BAIのタグ元のx_2にくるように解釈される。
これを非ckini的と呼んでる。では、ckini的はというと、こうでないときのことで、このときは、

"is associated with"

がきまって、意味論定義に現れる。つまり、その文と「関連がある」という意味に留まる。なので ckini 的と呼んでる。

もっぱら重要なのはckini的よりも非ckini的なほうなのだけど、マジョリティはckini的な方なので、こう名づけてある。非ckini的なタグというのは、この段階でもその重要性が分かってるので後で書く。

② 根拠系との重複
これはもっぱらBAI2に当てはまると思う。「~によれば」「~の知る所によれば」「~の言うところによると」といったようなことがBAIによって表せられるかもしれない。が、大きく異なるのは、その根拠系の内容自身も真偽にさらされるということだろう。

 たとえば、「彼によれば、あなたが犯人だ」というときに、この「彼によれば」がBAIによって表されていた場合、実際は「彼はそうであると思ってなかった」ら、偽になるだろうけれど、根拠系による表現なら偽にはならないだろう(メタに偽にはなるかもしれん)ということ。

③ タグのタグ元の他位置の意味上の充足
たとえば、

mi tavla do se pi'o ti

とするとき、タグ元のpilnoのx_2というのは特定されていないが、大体の人の中では、x_2に当てはまるのは文中に出てきた誰かだと思っているはず。というかそう解釈されることが多いはず。

これは多分だけれど、タグの前置詞的な側面が現れている。

I talk to you by this.

といえば、「これを用いた」のは I だろう。ロジバンではmiかdoに定まらないのは、もっぱら、x_1とx_2は等価(SEによって容易に転換される)からだと思う。

mi tavla do se pi'o ti pi'o vo'a

と言えば、明確に 私が使ったのだとわかる。

ともかく、意味上の項の当てはめが行われている傾向は間違いなくあるはず。これはどういうことかといえば、①のckini的タグの少し踏み込んだ意味論といえる。

ckini的タグは、「その文内容と関係がある」としか言わないはずであるが、この傾向は、文の中のいずれかの項と関係がある、と焦点を文から項にシフトしている。これは

mi pe sepi'o ti tavla do

と恐らく同義だろう。とすると、これは単に語用論かも?


とりとめないな・・・・。とりあえずここまで。当たるも八卦当たらぬも八卦

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