2015/07/06

BPFK sections - noi/poi と少しの考察付け

今後書く記事のために、いまいちど該当箇所を訳しておく

# noi (NOI)
 付随的(非制限的)関係節マーカー。

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象についての追加情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「非制限的(non-restrictive)」は、noi節の情報が、先行sumtiが参照する物々の集合を制限するのに用いられないということを意味している。noi bridiは先行sumtiの指示対象について追加的な情報を与える。

noi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

論理スコープの観点からみると、noi節のスコープはそれが含まれる言明のスコープの完全に外側にある。すなわち、そのスコープはnoi節を含んでいるスコープが終了した直後に発生する。noi節は、スコープの観点からは、noi節を含む文と、それと論理接続されている全ての言明の後に、それ自身の事実上の文(技術的には、形式文法でいうところの、それ自身の『statement』部)において生じるとみなされるべきである。

noi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、noi節は kuの内部にあるとみなされる。


# poi (NOI)
制限的関係節マーカー

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象について特定するような(specifying)情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「制限的(restrictive)」は、poi節の情報が先行sumtiが参照する物々の集合を制限するために用いられるということを意味している。換言すると、poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている。

poi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

非量化sumtiでは、poi節はそのsumtiの指示対象すべてから、それを満たすもののみを選り抜く。内部量化詞があるとき、その量化詞はpoi節を満たす指示対象がいくつあるのかを示す。量化sumtiでは、量化はその節を満たすsumtiの指示対象の上で行われる。

poi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、poi節は kuの内部にあるとみなされる。

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このBPFKsectionsの定義で一番悩むのが、「先行sumtiの参照する物々」のところなんですよね。そして、noiの「集合を制限しない」というところ。それから(これが一番の悩みの種なんですが)「poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている」の部分。

個人的には、おそらく、poiの説明は非xorlo的であると考えています。だって、「たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる」というのは xorloっぽくないんだもの。

この "for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed" というときの "can be" は「誰にとって」の可能性なんでしょうね?…というところが焦点です。

xorlo では lo broda = zo'e noi ke'a broda の等式が成り立つわけですが、もし {lo dacti} が実に大量の物々でありうるのであれば、{zo'e}はそりゃもう、{lo dacti}以上に大量の対象を指しうるはずです。しかしながら、そうであるにも拘らず、lo broda の定義には noi が使われています。

ここで立てられるひとつの推測は、xorlo以降のロジバンで使われる(非量化的な場合の)「制限的」というのは、聴者のためにあるのではなく、もっぱら、話者のためにのみぞある、ということです。もし、「制限的」、すなわち、「先行sumtiの参照する物々の集合を制限する」 poi が聴者のためにあるのなら、lo broda = zo'e poi ke'a broda でないとおかしいでしょう、と思うわけです。

先行詞それだけでは具体的に何を指しているか分からないから、制限的な関係節によって、その候補を狭めてやる、というのは、英語において言えることではありますが、思うに、英語の名詞は形式論理に書き写すとき、すべて外部量化詞の形(すなわち PA da)で写されるはずなので、同じ論理を xorlo世代ロジバンに適用することができません。

次に、zo'e は代詞であって、だから、poiとnoiの使い分けが『普通のsumti』とは変わってくるんではないか?という反論も期待できます。しかしながら、多くのロジバニストが同じく代詞である ti, ta, tu においては臆面なく poi を使っている場面が散見されることをみるに、おそらく代詞だから云々という主張は退けられます。

結局、zo'eのような話者以外(場合には話者にとっても)にとって実に様々なものを指しうるsumtiに対して noi を使える事実を踏まえれば、poi の役目というのが自然と見えてきます。

聴者の立場から文を眺めることをやめ、発話者の立場から文を眺めることにすれば(個人的には xorloではこっちのスタンスなのだと考えている)、lo broda と、それを還元した zo'e は全く同じ対象を指示しているはずなので、「指示対象の集合を制限する」という発想はおかしいわけです。 強いてすることがあるとすれば、他者がこの文を(つまり、zo'eが何を指しているのかを)自分の意図した通りに理解してくれるよう注釈をつけることくらいです。発話者の立場からすると、lo broda を zo'e noi ke'a broda とするのは至極もっともらしく理解できます。彼にとって、 lo broda とは zo'e であり、この zo'e は厳密に lo broda なのです。

こう考えたときに、では、「指示対象の集合を制限する」とはどういうことかといえば、話者が想定している然々の指示対象をさらに縮小していくという操作に他なりません。つまり、「~のうち...であるもの」という表現に使われるのが poi ということになります。このとき、 zo'e poi broda は、「zo'eの指示対象が漠然としているから、brodaによって縛っている」のではなく、「zo'eの指示する対象のうち、brodaなものをさらに選り抜いている」ことになります。BPFK sectionsのformal definitionsに倣うと

zo'e poi broda = zo'e noi me zo'e je broda ≒ zo'e noi ke'a me zo'e gi'e broda

です。ここで、noi前のzo'eとme後のzo'eは(ほとんどの場合)別ものです。前者をzo'e1, 後者をzo'e2とすれば、 zo'e1 me zo'e2 の関係ですから、zo'e1 のほうが指示対象をより絞りこまれていることになります。量化項とちがって、定項ではその指示範囲が定まっているという点がキモです。

例として
ti noi blanu cu se zbasu mi

ti poi blanu cu se zbasu mi
を比較してみます。



こんな感じで話者の近くに3つの玉があったとし、青い玉は話者が作ったとします。(他の玉は別の人が作った)

noi のほうでは、 ti は を指していて、他者への気遣いとして noi 節によって、「tiで指しているものは青いよ」と伝えています。
一方、poiでは次のようなことが考えられます。たとえば、tiでのすべてを指示して、「そのうちの青いやつ」として最終的にを指示する方法です。最終的にどちらも「青い玉は私が作った」という意味になりますが、注意したいのは、noi文では ti だけで 青い玉を指示していますが、 poi文では ti poi blanu の句を以って初めて青い玉を指示しています。言い換えれば、noi節の有無は文の内容を変えませんが、poi節の有無は文の内容を変えることがあります。実際、上の指示の具合を固定したまま {poi blanu} を消し去ると、ti はを指しているのですから、この文は正しくなくなります。

…というのは実は前々からずっと書いてきたことです。本当に書きたいのはここから!

上の分析が合っていたとして、ほとんどのロジバニストはそれでもやはり noi を使うべきところで poi を使っているようにみえます。これを救済する解釈はないものかとずっと悩んでいました。

さっきの理屈でいくと、

lo gerku poi bajra / 走っている犬

というのはまず{lo gerku}で(おそらくは)複数の犬を指しておいて、そのうち、走っているやつ、と対象を絞るのがこの表現と取れます。しかしながら、大体の人はこのようには使っていないはずで、実際のところは poi節によって {lo gerku}自体の範囲を制限しようとして使っているはずです。これはあれです、英語ライクな「制限」で、つまりは他者視点からみた「制限」です。これを上手いこと、xorloの「制限」と矛盾なく説明できたらいいのだけど…というのが実のところこの記事で書きたい事柄です(前置き長いな)

今回救済できるのは描写sumtiに関してのみです。描写sumtiでないsumti…まあ要は代項については少し救済できません。とはいえ、代項についてはそんなにトラブルは起きないかなと思っています(なぜかというと、内部量化詞がないからです!)。

救済にあたって着目する点は、「描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる」です。

そして、noiの説明:

selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

と、poiの説明:

selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

がキーです。また、noi節とkuの位置関係による意味の違いとして、BPFK sectionsのNotesにある:

{pa lo ci gerku noi zvati ku} は「そこにいる3匹の犬のうちの1匹」であり、{pa lo ci gerku ku noi zvati}は「3匹のうちのそこにいる1匹の犬」

というのもヒントとして救済していきます。

poiのほうが説明しやすいのでpoiでまず説明していきます。poi節はkuの前に置いた場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示します。言い換えれば、内部量化詞は selbri-poi節複合体に対して勘定を行なっています。例を挙げると、

lo ci gerku ku poi blabi
lo ci gerku poi blabi ku

では、前者がku外に、後者がku内にpoi節が存在しています。このとき、前者では「[sumti] poi ...」の形式がそのまま成り立っているので、

[lo ci gerku ku] poi blabi = lo me [lo ci gerku ku] je blabi

の等式の通りに書き下せます。前者では「白い犬は3匹以下である」ということです。

一方で、後者では、定義通り、ku内にpoi節がある場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示すわけですから、「白い犬は3匹である」ということになります。分かる通り、後者(ku内)の構造は前者のような等式に落とし込めません。ここがミソです!BPFK sections では書かれていませんが、formal definitions を書くとすれば恐らくこうできます。

lo [selbri] poi broda ku = zo'e noi ke'a [selbri] gi'e broda ≒ lo [selbri] je broda ku

{lo [selbri] ku}というsumtiが介在しないことに注意してください。ku内にpoi broda が入りこんでいるとき、ロジバンのpoiは実に英語の制限節らしい振る舞いをするわけです。

私の考えた救済案というのはたったこれだけです。すなわち、もうひとつ formal definition を追加しよう、という非常に単純なアイデアです。

こうすれば、lo ci gerku poi blabi ku が「3匹の白い犬」となるのが、形式定義からもわかります。

lo ci gerku poi blabi ku = lo ci gerku je blabi ku

この、selbri-poi節複合体を仮想的に1つの大きなselbri構造として捉えるという見方によって、(何回も同じことを言っているだけですが)現在のpoiの使われ方を正常なものとして捉えることができます。

noiの場合はどうでしょう?まず、formal definition を見てみますと、

[sumti] noi ke'a broda  = [sumti] to rixirau broda toi

となっております。noi節がただの注釈付である(取り払っても文意が損なわれない)ことがわかりますね。

noi節がkuの外にある場合は、上のformal definition がそのまま適用できます。

lo ci gerku ku noi blabi = lo ci gerku ku to ri xi rau blabi toi

問題は ku内に noi節がある場合です。

lo ci gerku noi blabi ku = lo ci gerku to ri xi rau blabi toi ku

ここでは、lo ci gerku ... ku の構造は noi 節時点でまだ完成していないので、 ri xi rau によって照応できない気がします。多分これも追加でformal definition を入れてやるほうがいい気がします。

lo PA [selbri] noi broda ku = lo ro me lo PA [selbri] ku noi broda ku 

こういう周りくどい定義をしたのは、外部量化のことを考えてです。

PA1 lo PA2 [selbri] noi broda ku = PA1 lo ro me lo PA2 [selbri] ku noi broda ku
PA1 lo PA2 [selbri] ku noi broda = PA1 lo PA2 [selbri] ku to ri xi rau broda toi


後者は {PA1 lo PA2 [selbri] ku} という sumti に noi broda が係っているので、従来の定義式が使えます。
前者は、{PA1 lo PA2 [selbri] .. ku}と未完成な構造の時点で noi broda が入っているので、提案した定義式によって、一旦 {lo PA2 [selbri] ku}というsumtiの構造を完成させ、ソレに対して noi節を修飾させます。そしてそのsumtiを使って、少しまどろっこしいですが PA1 lo ro me [sumti] noi broda ku という変形前と同意(なはずです)の複合体を形成することで、ku内外におけるnoi節の修飾具合を説明できます。

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noiのほうは少し迂遠な定義式になりましたが、poiのほうが比較的簡潔です。今回特に論じたかったのはpoiの救済ですので、まあこんな感じでいいかなと思います。


2015/07/04

タンルの解釈の傾向を考察する

 タンルはいくらその意味が緩いと言われようと、実際の使用の場をみると、文脈から切り離しても意味が分かるくらいには統一感を以ってその解釈がなされているように思う。

 そこで、あまりに突飛なことをしない範疇で、できる限りその実際の解釈の傾向を法則化してみたいと思う。注意したいのは、これはロジバンの話であるということである!ロジバンの外の現象をロジバンの法則にあまり持ち込みたくないので、できる限りロジバンの中だけで動こうとしている。

 法則は至ってシンプルである。セルタウの項をA1, A2, ... とし、テルタウの項を B1, B2, ... としたとき、ある項 A_n, B_m において、

A_n = B_m

を満たすような解釈がほとんどである。表記上の注意として、これをn=m タイプと書くことにする。また、同じ番号が等しいときをホモタイプ、異なる番号の項が等しいときをヘテロタイプとよぶことにする。

 特によく見られるのが1=1タイプである。 melbi nanmu や kukte plise、 blanu tsani、 barda gerku などがある。例をみても分かるように、この 1=1 タイプはいわゆる「形容詞 名詞」タイプでもある。

 ヘテロタイプの典型例としては gerku zdani がある。これは往々にして、「犬の家」と訳されるだろうから、A_1 = B_2 タイプ、すなわち 1=2 タイプである。「ベビーシッター」を直訳した、 cifnu kurji も同様に 1=2 タイプである。1=2タイプは、PSの傾向として、x2に「~の」や「~を」がくるので、「目的語 動詞」タイプや「所有 名詞」タイプが該当する。 cmana cpare (≒山登りをする)もここに当てはまる。

 あまり見られないと思うが、他のヘテロタイプもある。 karce klama はしばしば「車で行く」となるだろうが、これは 1=5タイプになる。lojbo tavla も恐らく 1=4 タイプだろう。

 さて、この法則は実は原理上のタンルに比べるとかなり束縛した法則である。なぜかというと、タンルは理想的にはセルタウの項とテルタウの項がとある関係Rによって結ばれてさえいればよいからである。しかしながら、ここではとある関係Rとして同一関係(=)を定めてしまっている。この点でこの法則の前提条件は少し厳しい。たとえば、この条件下では

gerku zdani ~ 犬が作った家

という解釈は生起しえないことになる。この記事の焦点は解釈の傾向であり、gerku zdani を「犬が作った家」と解釈する傾向より「犬小屋」と解釈する傾向が強いということを述べるだけにすぎない。よって、もちろん「犬が作った家」も可能性として秘めている。それを認めた上で、「では何と解釈されやすいか」を考えているのがこの記事である。

 ここで、あるタンルがホモタイプかヘテロタイプかを見分ける方法はあるだろうか?恐らく、純粋にロジバン的な答えは用意できない。なぜ、gerku zdani を 1=1(もしくは 2=2)と解釈しないのかという問いに対して、「犬は往々にして家ではないから」としか答えられない。タイプの見極めにまで話を進めることができないのは、この辺りでロジバンの外に出なければならないからである(たとえば、犬や牛の皮を使ってヒトの住まいを作る民族がいたとしよう。彼らにとって gerku zdani はホモタイプである可能性は十分高い)。しかしながら、ごくごくおおよその傾向として、まず我々は(無意識かも分からないが)ホモタイプな読みを試すかもしれない。

 n=m則に加えて、もう一つ、さらに少し強い(しかしごくシンプルな)傾向を加える:

1=m であることが多い

たとえば、これによれば、次の2文のタンルの解釈の違いが説明できる:

do prami ninmu
do se prami ninmu

SE類は述語の項の順番を入れ替えるのみであり、その意味を全く変えない。n=m則において、prami と se prami はまったく同じ項を有しているのだから、傾向に差異は出てこないはずである。しかしながら、実際は出ている。そのための法則が 1=m 則である。

 1=m則が妥当である理由のひとつにPS走査の負担がある。たとえば n=m タイプでは、それぞれ項の数が3つずつの述語からなるタンルだとすれば、9つの可能性がありうる。しかしながら、1=m則の下では、可能性は3つにまで少なくなる。その場で可能な解釈の数を減らすことで、話者・聴者両方の思考の負担を減らせるメリットがある。また、

ko'a broda brode



ko'a FA lo broda ku brode

とロジバンの文法上、非常に簡潔な操作で 1=m タイプの書き下しが可能である点も、1=m則の妥当な根拠の一つになるかもしれない(個人的にはこちらのほうがずっとロジバン的なので、こちらを採用したい)。


 以上では n=m則(1=m則)について話してきたが、実はもう少し拡張せねばならない。例えば次のタンルは n=m 則に当てはまらない:

mi sipna djica / 私は眠りたい

mi が sipna djica それぞれで位置するところを考えてみよう。 mi = djica1 は当然である。 mi = sipna1 もここでは妥当であるが、これを 1=1 とすることは早計だろう。なぜならば、ここでは 1=1タイプであれば正しい書き下し、

mi sipna gi'e djica

は合っておらず、むしろ

mi djica lo nu mi sipna

のほうが正しいからである。一見 1=1 に見えたのは、 djica_1 と、 djica_2 の抽象節内の sipna_1 が等しいからである。このように、n=m則で述べられた「項と項の同一関係」の「項」には抽象節内の項も含まれなければならないように思える。これはかなりややこしい。無理やり書くなら、

sipna djica

B_1 = B_2[A_1]

こうだろうか。しかしながら、次のタンルを考えてみるとこの推察は怪しくなる。

catra minde (ko'a minde fi lo nu .. catra ..)

ここでは、mindeのどの項も、必ず catra のどこかの位置に入るとは限らない(「私は私を殺せと命じた」など、特別な例では当てはまる)。確かに、抽象節内の項も n=m では含まれなければならないかもしれないが、そう考えるよりはむしろ、 セルタウ自体がテルタウの項として働くような場合があるとして処理したほうが理解しやすい。つまり、次のような法則が得られる。

しばしば、いずれかの抽象体(lo su'u broda)がもう一方の項に当てはまりうる

この場合、抽象体となる方を * で表して、

*=m

と表すことができる。たとえば、 sipna djica では *=2 であり、 catra minde では *=3 である。

この解釈が起こりやすい理由のひとつとして、やはりロジバンの文法上、簡易な操作でこの形式に書き下せることがありえそうである。すなわち、

ko'a broda brode

ko'a FA lo NU broda ku brode

と、先ほどと同じくらいシンプルな操作で書き換えが可能であることが理由のひとつかもしれない。

ちなみに、この捉え方では、mi sipna djica の sipna 1 と djica 1 が同一であることまで述べられていない。しかし、*=2タイプで書き換えてみると、これは

mi sipna djica = mi djica lo nu sipna

であり、sipna_1 と djica_1 が同一であるかどうかというのはタンル側の解釈の範疇ではなく、むしろ抽象節側のzo'eの解釈の範疇である。(往々にして、抽象節内の1位のzo'e は本節の1位と同じであることが多いので、ここから sipna_1 = djica_1 が導かれる。しかしながらこれは、抽象節の解釈傾向の話であるので、わざわざタンルの法則に組み込む必要はないだろう。実際、 catra minde でこれが成り立たないのは、minde_3 のとる抽象節のx1は多くの場合 minde_1とは異なるからであり、これはmindeの(つまり抽象節の)解釈の話である。

 n=m則と*=m則のハイブリッドな感じの事例がある。

sutra bajra : 速く走る ~ ko'a sutra lo nu bajra kei gi'e bajra

mutce blanu : とても青い ~ ko'a mutce lo ka blanu kei gi'e blanu

これがさっきと違うのは、x1 は実際に走っていたり、青かったりするところである。つまり、bajra や blanu は抽象体として sutra, mutce の位置に入る一方で、それ自身 x1 に当てはまるのである。これは、

2=* かつ 1=1

として記述できる。短く書くなら、 2,1=*,1 と順序列で書くこともできる。

 これは新しい解釈というよりは、単に複数の解釈が偶然矛盾なく両立しているにすぎない。たとえば、

ra slabu pendo mi / 彼は私の久しい友人だ

では、1=1 であると共に、2=2も成り立っている。このことを、1,2=1,2 と書けば、これは先ほどのものがさして特別なものでないことと感じさせてくれる。実際、多くのlujvoでこのように複数の箇所で連関することはよく起こっている。

 以上をまとめると、タンルの解釈は n=m則(1=m則)と*=m則の2種に分けることができ、しばしばその複合的解釈もなされる。ほとんどのタンルの解釈でこの法則が成り立っていると思う。

2015/06/22

流浪vlaste - 抽象機械といろんな公共の場

夜中(27時)に書いております。

今日もやはり recent changes は spheniscine殿がはりきってますね。
まあでもあまり面白いなと思うのはなかったです。Wuzzyさんのでいくつか。

turing zei sucyskami
sk1 is a Turing machine for purpose sk2.
sk1 は sk2(目的)のためのチューリングマシン

こういうのって、この人が今何を表現しようとしてるかが分かって面白いですよね。オートマトン系の執筆してるのかな。

mur zei sucyskami
sk1 is a Moore machine for purpose sk2.
sk1 は sk2(目的)のためのムーアマシン

やっぱりこの辺りの語彙を増やしてますねw

sucyskami
sk1 is an abstract machine for purpose sk2.
sk1 は sk2(目的)のための抽象機械

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うってかわって。totusさんが panka系lujvoを結構つくっているみたいですね。
今回 recent change でみつけたのがこれ:

zdipanka
p1 is a park managed by polity/community p2 for use by z2, with amenities/amusements z1
p1 は p2(行政団体/共同体)によって管理された z2 (使用者)の使う z1(アメニティ/アミューズメント)のある広場

直訳すれば「愉しい公共の場」って感じですかね。ディズニーランドとか図書館とか該当するのかしら?
あーでも図書館はふつうの人にとっては zdile ではないのか(zdile mi なんですけども)

kelpanka
p1 is a playground managed by community/polity/organization p2.
p1 は p2(共同体/行政団体/組織)によって管理されている運動場/行楽地/遊び場

直訳は「遊ぶ公共の場」。

kagnypanka
p1 is a business park managed by community/polity/company p2 for businesses/firms/corporations of type k3
p1 は p2(共同体/行政団体/組織)によって管理されている k3(形態)の事業/企業/会社のためのオフィス地区/オフィスパーク

よく知らないのでノーコメで。

fanrypanka
p1 is an industrial park managed by community/polity/company p2 for factories/plants producing f2
p1 はp2(共同体/行政団体/組織)によって管理されている f2 を生産する工場/プラントのための産業地区/インダストリアルパーク

zacpanka
p1=z1 is a market place/square/area managed by p2 for selling/trading z2 by traders z3
p1=z1 は p2 によって管理されている z2(取引品) を取り扱っている z3(営者)の集まっている市場/マーケット

これは元の語である zarci が営まれている場所を指していることに注意されたし。


今回はこんな感じで

「抽象化」

つい最近まで、NU類、英語でいえば abstractorの日本語訳が「抽象詞」であることに少しだけ違和感を感じていました:

どちらかといえば、「抽出詞」なんでは?出来事とか命題とか属性とか、確かに抽象的なものを引き出すという意味ではわかるけれど、むしろ命題表現(bridi)からそういった諸々を「引き出す」方に注目したほうがいいのでは。

と。まあこんな感じに思ってたんですけれど、ふとwikipedia-抽象化を見てましたところ、
 抽象化(ちゅうしょうか、AbstractionAbstraktion)とは、思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は無視する方法である。
とあり、自分の無知っぷりを発揮していたことが分かりました。NU類というのは、

対象(bridi, 命題表現, 文)から注目すべき要素(事象, 性質, 命題)を重点的に抜き出す機能語

だったわけですね~。いや、そのこと自体は知っていましたが、「抽象」の表す意味を履き違えていました(なんか「ぼんやりしたもの」くらいのイメージしかなかった(アホ))。

2015/06/20

流浪vlaste 6/19 - jei'uとか

新たなラベルとして「流浪vlaste」を追加(語呂が少しだけ「ジュボヴラステ」に似てる)
主に recent changes を眺めながら、気になった単語をピックアップする感じ(不定期)

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なんか最近は la sfenicin がすごい勢いで登録してますね。方言の1つを作ってるようです。
個人的には方言のためにcmavo空間を無駄遣いすることだけはやめてほしいなという感じです。

jei'u
evidential: I intuit... / I suspect...
根拠系: 直感/感付き

「そんな気がする」ってやつですかね。


uei'e
attitudinal: excited encouragement
Used to show excited encouragement, e.g. "Let's play!". = ue'i + e'e. See fizbu, talsa

でた!「ウェーイ」!「~やろうぜ!」って感じの。まさにウェイじゃねえか。
例文は是非 {uei'e lojbo} で。


さて、語源となる

ue'i
attitudinal: excitement - lack of excitement - boredom
Used to express excitement (enthusiasm, exhilaration). The opposite expresses boredom (dullness), while the cu'i-form expresses "indifference".

これはこれで「ウェーイ」感が。こっちのが「ウェーイwww」かな?


tcigaso
x1 is a quantity of gasoline/petrol

ガソリン。確かになかったかもしれない。中国語と英語のないまぜで作ってるのがクール


nai'o
discursive: I don't know - I know!

i'uじゃアカンのか


ie'i
attitudinal: disgust - attraction

a'unai じゃイカンのか。と思ったら、これは {trina}の範疇らしい。いや、うーん、しかし。










2015/06/17

Tag まとめ

tag を集中的にまとめた記事です。

# まず訳語をどうするか

tag は sumtcita としても、 selbritcita としても、 はたまた(sumtcitaの一部に勘定されそうな気はするが)独立の項としても使えるオールマイティー(?)な語群です。

現行文法では、いわゆる法制と間制と相制に属するものであって、

FIhO SELBRI
BAI
FAhA, VA, VEhA
PU, ZI, ZEhA
VIhA
MOhI
TAhE, PA ROI
ZAhO

くらいのセルマホが該当する。とはいえ、ふつう tag と言われて想起されるのは BAI, FAhA, PU あたりでしょう。

tag は「何かしらの語にたいていはくっついている語」ですので、訳語としては付詞とか添詞とかがいいのかもしれません。ここではひとまず、添詞としておきます。

添詞はロジバンにしては結構珍しい、いくつかの根本的に異なる用法があるとみなせます。添詞を1つの大きな源から掴もうとすると、結構しんどくてですね、それならいっそいくつかの幹があるとみなしたほうが楽に理解できるかもしれません。もっとも、究極的にはいくつかの幹をしっかりと掴めば、その根本に自ずと導かれるだろう、という目論見もあります。

とりあえず、添詞の「語に添える語」という機能だけに注目して、その意味論を頭を一旦まっさらにして捉え直してみましょう。

# 佇まいから区別する

添詞を文中での佇まいから見てみると、大きく3つに分けられます。

1. sumti の頭に佇む(sumtcita)
2. selbri の頭に佇む(selbritcita)
3. 孤独に佇む(スタンドアロンtcita)

1. は恐らく最もよく見る佇まい方ですね。2. は SE や NAhE とその佇まい方が似ているように思いますが、文法的には添詞は真に頭にしか佇みません。

3. は、普通は 1. の特別な場合として取り扱われます。すなわち、孤独に佇む添詞は、その後ろに「隠されたsumti」を持っていて、実際的には sumtcita だと解されます。しかしながら、佇まい方そのものに着目するのであれば、雰囲気の違うものとして取り扱ってもいいでしょう。

BPFK sections では、BAIについて(おそらくこれは添詞全般についての言及でしょうが)、

selbritcita はすべて selbriの直前にくる スタンドアロンtcita と等価である

とされています。さて、スタンドアロンtcita、すなわち{TAG ku}の形のものは

TAG ku = TAG zo'e

と明確に述べられています。ということですので、この3種のタグはすべてsumtcitaに還元されるという点で、本質的に sumtcitaだと言えます。

sumtcita-sumti複合体(以下SS複合体)の意味は端的にいえば、英語や日本語でいうところの「副詞」です。もう少しきちんと言えば、SS複合体は自分の存在するbridiを修飾します。

一方で、tcitaというのはほとんどすべてが fi'o SELBRI の形で書き直されます(というか定義されます)。なので、添詞にはすべてその意味合いの原始となるselbriをもちます。これを添詞の原始とか、タグ原始とか呼ぶことにします。

SS複合体の解釈は実はその添詞の原始がどうであるかで大きく2つに分けることができそうです。その分け方というのは、添詞原始のx2に抽象項(すなわち、lo NU BRIDI)が適合するかどうかというものです。

理由は単純です。SS複合体はbridiを修飾するわけですが、これはSS複合体のsumtiとbridiに関係を持たせるということでもあります。添詞はその関係性に色をつける役割があるわけです。では、その色はどのようにして付けるのかということになりますが、それはもっぱら添詞原始のPSに依るといえます。たとえば、

fi'o SELBRI SUMTI BRIDI

とあったときに、SUMTIは意味上はSELBRI_1に位置しています。SUMTIとBRIDIに何か関係性がある、と言い、それをSELBRIが担っているとするのであれば、おおよそ直感的に BRIDI(をLE NUで包んだ抽象項)がSELBRI_2にくると考えるのは妥当です。

たとえば、cu'uはその原始がcuskuですが、x2にBRIDIが入りえます。ですので、

cu'u mi tu catra le mlatu

というのは、

mi cusku lodu'u tu catra le mlatu

を示唆します。

しかしながら、fi'eのように、原始のx2にどうもBRIDIが適合しないような添詞もあります。もっと一般にいえば、すべての添詞はSEがつけれますから、たとえば、se cu'u はやはり原始(se cusku)のx2にBRIDIが適合しません。ということで、結構な数の添詞が上で述べたようには簡単に解釈できないことになっています。

BPFK sectionsでは、そのような添詞については、意味を " be associated with ..." とだけ書いてあります。つまり、そのBRIDIは原始のどの位置に入るかは明確には言えないが、とにかく関連はしている、くらいに留めてあります。いうなれば、

fi'o SELBRI SUMTI BRIDI ~ SUMTI SELBRI do'e LE NU BRIDI
or ~ LE NU BRIDI cu srana le nu SUMTI SELBRI

くらいに読み下せるだろうと言っています。ここに添詞の難しさのひとつがあります。一様に解釈することがちょっとできないんですね。

※もっといえば、fi'eはその使われ方をみると、副詞のようですらなさそうです。まるで、新しくPSを追加したかのような、擬似項としての機能があるように思います。実際、いくつかの添詞はそのように使われることを想定して開発されたようにも思えますが、統一感がないので個人的には余り好きではないです。

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もう一つ、添詞が出てくるところというのが peやneの直後です。構文的にいえば、pe/neの後ろにはterm(sumsmi)がとれるので、cu'u mi とか fi'e ra といったものも取れるというだけのことですが、これらは副詞のようには振る舞わないと考えたほうが頭にやさしいです。

詳細は省きますが、pe/neの直後にくる添詞はpe の漠然とした関係性を縛る機能があると考えたほうがよさげです。たとえば、

le cukta pe fi'e mi というのは、イメージとしては le cukta | pe | fi'e mi と分けるのでなく、le cukta | pe fi'e | mi と分けて解釈すべきということです。

そうすれば、CLLと適合します。

※時間の都合上最後のほうがすっごい雑いので、また今度きちんと描く

無視できぬ虫たち

twitterで蚊(ckuliki)を見つけたので、他の”似たような”虫たちを探してみようと思い記事。

ckuliki
x1 は x2 (種類)のカ科

jalra
x1 は x2 (種類)のバッタ目昆虫(バッタ/キリギリス/コオロギ/ケラ/カマドウマ/カマキリ/ナナフシ/ゴキブリ/ガロアムシ/イナゴ/スズムシ等)

(ゴキブリ辺りだけを指す語は今のところないのかしら?「ゴミ沸きバッタ」とかで作れそう)

sfani
x1 は x2 (種類)のハエ目(もく)昆虫

jukni
x1 は x2 (種類)のクモ属昆虫


蚊、ゴキブリ、蝿、蜘蛛… 文字を見るだけでも {ii} となる人がいそうですが、4語とりあえずまとめて覚えよう