2015/04/18

備忘録 アスペクトについて今後の方針

色々考えていたのだけど、収集がつかなくなってきたので、考えをまとめる意味も兼ねてメモ。

1. process か state か
参考:https://groups.google.com/forum/?fromgroups=#!topic/lojban-soudan/ZPNfNAD-6Uc

あるbrivlaの語彙的アスペクトは不定か、それとも決まっているか。ヴェンドラーの4分類(達成・到達・状態・動作)は、ある句をつけた表現が自然かどうかをみて判定されるので、ロジバンにも同じことができるかもしれない。これは非文法的であるかどうかをみるわけではないので、おそらくロジバンにも適用できるはず。しかしながら、「自然かどうか」というのが厄介。

個人的には、ロジバンでは内容語は「動態的」と「状態的」の2つのファクターについて考えればいいかなと思っている。基本的に、atelic(非限界的)(「動作」と「状態」)を内容語は表しているとしたい。

動態的であるとき、その事象は「動いて」いるが、動きのまとまりというのが必ずあるはず。それは事象全体で1つの動きのまとまりかもしれないし、事象内に数十個の動きのまとまりがあるかもしれない。いずれにせよ、事象が動態的であるとき、事象は1つ以上の動きのまとまり(動作ユニット)を含んでいるはず。

状態的であるとき、その事象内の任意の部分をとっても、その状態が成立しているはず。いわば、状態的であるとは連続的な様態を表しているということである。

動態的と状態的の2つは、群名詞と物質名詞の違いで喩えることができそう。動態的であるとき、1つの事象は複数の動作ユニット(サブ事象)からなっている。状態的であるとき、その一部でもまたその状態であることが約束される。

ヴェンドラーの4分類、もとい、それに対応する事象タイプというのは、上記2つのコンプレックスとして理解できそう。つまり、事象というのは実際は動態的な事象と状態的な事象の組み合わせであるように思う。

ここで面倒なんだが、動態的な事象のコンプレックスもまた動態的な事象として捉えられるということで、おそらく atelic であるということである。つまり、どんなに巨大な動態的複合体でも、それを非限界的に解釈することは可能である。

コンプレックス中の状態間遷移における後件状態による動態的事象の延続禁制の能力

以下、モデル
A: activity
{S}: state
-o : 動作許容
-x : 動作禁制

[[A]+; [S]] (もしくは、[[A]+; Φ])
// 動作ユニット[A]の連発であり、状態は[S]を維持している(もしくはフォーカス無し)

[[A1] [A2] [A3]; {S1}→{S2}(-x [A1])]
// [A1] [A2] [A3]の3種による動作からなり、状態はS1からS2に遷移し、遷移後のS2は[A1]の動作を禁止する

[[A]+; {S1}→{S2}(-o [A])]
// [A]の連発であり、ある点で状態はS1からS2に遷移するが、遷移後のS2においても[A]の動作は許容される(延続可能)

[Φ; {S1}→{S2}]
// 状態の遷移(到達)

状態遷移を動態的とすることの違和感。まあ、dynamic だから動態的でいいのだ。

※ {Complex} はないんだろうか?つまり、状態のコンプレックス。これは恐らく、今しているような感じではなくて、状態の論理結合によって表されそうだ。たとえば、

{S0} = {{S1}∧{S2}∧¬{S3}}

んな感じ。上でやっているのはもっぱら動態のコンプレックスである。そう考えると、複雑なコンプレックスを形成するのは動態のコンプレックスのみということになりそうだ。

状態が遷移することと、状態を遷移させることの違いはどこにあるのか、それはアスペクト論で取り扱うべきか。

mo'u がつけられるのはおそらく動態だけだと思う。 そして、mo'u の意味するところは、状態遷移点だろう。延続は、遷移後状態が動作を禁止するときのみ許容される。

文法的には状態にmo'uをつけることも可能だし、guskant氏の解釈なら有意味でもある。ひとつの最も荒っぽい方法は、mo'uを二義的にしてしまうことだと思う。つまり、動態と状態とで mo'u の意味論を変える。

状態のmo'uとは、「無事その状態を終える」ということだろうし、この「無事」が重要だと思う。何らかの要因で、状態が目標に至るまでに終わってしまうリスクがあるときに mo'u が使えそう。

このとき、「状態を維持する」、「我慢する」とか「耐える」はdynamicかどうかということになる。「座り続ける」のはstativeな感じがする一方で、底に穴のあいたバケツに水が入っている状態を続けるのはdynamicな感じがする。この差は、動かないことが状態維持に繋がるか、動くことが状態維持に繋がるかの違いだろう。つまり、状態維持はdynamicのときもあれば stative のときもある。

維持はおそらく

{Φ~>[S]; [S1]→[S2]}

[[A]~>[S]; [S1]→[S2]]

で表せる。~> は状態維持のための動作であることを意味せんとす。

「映画が終わるまで座り続ける」というのは、
{Φ~>[座っている]; [上映中]→[上映後]}

「焚き火を燃やし続ける」というのは、
[[薪を加える]~>[焚き火が消えていない]; [焚き火が消えていない]]
かなあ。

状態目的的な継続があって、それは見た目が atelic になる。しかしながらこれは、遷移する状態を意図していないという意味で、状態についてはΦかもしれない。つまり、

[[薪を加える]~>[焚き火がついている]; Φ]

という、atelicな「歩き」 [[一歩歩く]+; Φ]と似たような構造かもしれない。

「大往生する」をモデリングすると、

[[A]~>{健康である}; {生きている}→{死んでいる}]

だろうか。
着目すべきは、「大往生する」は「ある状態を維持したまま状態遷移する」ことであり、それ自体はdynamicであるということである。

これは mo'u jmive で表せそうだが、これは、状態に対するmo'uの意味論が導けそうだ。つまり、

{~>{S1}; {S}}

という構造で、状態の内容語を使えるかもしれないということである。「大往生」とは「状態S1が維持したまま、状態Sが終わる」ということで、「無事」とはつまり「維持されるべき状態が維持されている」ということかもしれない。これを、

{{S1}; {S}}

と書いてもいいかもしれない。もちろんこれは、

{{S1}∧{S}}

と同じ状態ではあるが、フォーカスが違うはず。

一方で、「退屈な映画が終わるまで無事座り終わる」というのは、

{{座っている}; {上映中}→{上映後}}

において、mo'u zutse は「→」を意図する。つまり、状態にたいするza'oは

維持している状態が、フォーカスの状態遷移後も維持されている

となる。結局、za'oはセミコロン以前を見ていることになる。一方で mo'u は

1. フォーカスの状態遷移が起こるまで、維持すべき状態が維持している
2. 維持すべき状態が維持したまま、フォーカスの状態が終了する

の2つの意味があると考えられる。これは構造、

1. {{S1}; {S2}→{S3}}
2. {{S1}; {S2}}

で区別される。2の構造は、{{S1}∧{S2}}と同じだが、違いは mo'u が使えるかどうか、すなわち、「完了を感じることができるか」の差だろう。

jmiveを例にとる。

{za'o jmive} は 「フォーカスの状態遷移後も生きている」(例:{爆発していない}→{爆発してしまった})
{mo'u jmive}は2つの読みが考えられる。
1. フォーカスの状態遷移が起こるまで、生きている。(例:「2015年である」→「2016年である」。また、反復的ではあるが「生きている」→「死んでいる」。これは、「死ぬまで生きている」ということ)
2. 維持すべき状態が維持されたまま、生き終える。(例:「大往生」)

za'o の延続の「the natural endpoint」とはフォーカスの状態遷移のことだろう。つまり、1の意味のmo'u点だろう。


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長いメモだ。あまりにも雑多すぎて、誰も読めない気がする。

2015/04/06

アスペクト(とテンス)の備忘録、もといロジバンの考察

wikipedia - grammatical tensewikipedia - grammatical aspect
wikipedia - Lexical aspect

をつらつらと読んでいた。これは備忘録であって、あまり内容は保証されない。

テンスは「その文の表す事態が発話時点から見て、時間軸のどの方向にあるのか」を表す文法要素で、「過去か今か未来か」を表す要素。もう少し言えば、「その文の表す命題が真である時間軸上の舞台はどこか」を表すもの。「時間軸上の舞台がどこか」というのはつまるところ「それが真であるのはいつか」ということ。

 アスペクトは、「テンスによって表された時間軸上の舞台で、その事態がどのようであるか」を表す文法要素。この「どのようであるか」というのが若干厄介で、曖昧がゆえに、多彩。どのようであるかというのはその事態をどう捉えるのかということであり、それを外からただ眺めるだけなのか、内部構造をもったものとしてみてやるのかがまずある。それから、内部構造をもったものとしてみたなら、その時間軸上の舞台において、言及事態がどのような段階にあるのかという話ができる。また外からただ眺めるだけでも、時間軸上の舞台に幅があるなら、その中でどのように事態が分布しているのか、ということも「どのようであるか」という話に含まれる。
 アスペクトを把握する上で重要なのは、アスペクトの要素はすべてが並列的ではないということを理解することだと思う。アスペクトの中でも上位カテゴリ、下位カテゴリがあったりするし、そもそも事態の分類の仕方が独立なときもある。

また、ふつう言われる「アスペクト」とは異なるアスペクトが存在するらしい。Lexical aspectとか、aktionsartとか言われるらしく、ここによれば、「語彙的アスペクト」とか「行為タイプ」とかと訳せるらしい。とりあえず分かりやすいので「行為タイプ」で通したいと思う。

行為タイプというのは、英文法である「動作動詞」と「状態動詞」というような分類のこと。エスペラントでいうところの「点動詞」と「線動詞」だろう。Vendlerの動詞分類というのがメジャーらしく、それによれば、述語は

  • 達成(accomplishment)
  • 活動(activity)
  • 到達(achievement)
  • 状態(state)
の4つに分類できるらしい。Bernerd Comrie(1976)はこれに semelfactive を加えている。これの訳語が見つからないのだけど、とりあえずはこのままで。

上の5つは3つの二択な項目によって分類される。
  • 動的か静的か
  • 瞬時的(no duration/punctual)か継続的(has duration/durative)か
  • 内在的終了点の有無(telic か atelic か)
下の図はwikipediaからの引用。

No durationHas duration
TelicAchievementAccomplishment
realisedrown
AtelicSemelfactiveActivity
knockwalk
telic/atelic とは、内在的終了点(natural endpoint)があるかないかを表す語であり、その事態に予め決まった終了点があるかどうかを表す。「リンゴを食べる」のはtelicであり、「歩く」のはatelic。

まず、静的なものは状態である。静的なものは状態のみであり、状態は継続的であり、atelicである。

動的なものは残り4種で、先に継続的な2つから説明する。継続的な2つとは達成(accomplishment)と活動(activity)であって、これらは telic か atelic かで区別される。すなわち、達成的な事態は内在的終了点が存在するが、活動的な事態は内在的終了点が存在しない。たとえば、前者は「1枚の絵を塗る」、後者は「歩く」がある。

 ここで注意すべきは、継続的でかつtelicであるということは、達成的な事態というのは「だんだんと仕上がっていく様子」が想像可能ということである。達成的な事態は、だんだんと内在的終了点に近づいていくような事態である。

次に、瞬時的な2つだが、これは到達(achievement)とsemelfactiveが該当し、この2つはtelicかatelicかでやはり区別される。前者は「気付く」とか「発見する」とかで、後者は「叩く」とかがある。

同じことの言い換えだけれど、達成と到達の違いは継続的か瞬時的かの違いであり、「だんだんと内在的終了点に近づいていくような事態かどうか」の違いである。時間経過を横軸に、進捗度を縦軸にプロットするとすれば、右肩上がりのグラフができるのが達成的事態で、グラフが飛び値になるのが到達的事態といえる。

はたまた、活動とsemelfactiveの違いは継続的か瞬時的かの違いで、内在的な終了点が存在しない(原理的には延々と続けることができる)ことは共通で、違いはその述語が連続的な動きの流れを表しているのか、ある瞬間の事態を表しているのかである。「歩く」は連続的な動きの流れであり、「叩く」は瞬間的な事態である。

ロジバンに応用することを考えれば、semelfactiveは正直なくてもいい。まあ、一応こんなのもあるよってことで。

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さてさて。またまたアスペクトに話を戻す。と同時にロジバンではどうであるかも書いていく。

①完結相(perfective)か非完結相(imperfective)か
これは言及事態を「外から眺めた感じ」なのか「内部構造に着目した感じ」なのかの違い(多分)。「外から眺めた感じ」というのは、その事態を包括的に捉えているということ。もう少し砕けていえば、「時間軸上において点的に扱う」ということ(点的に扱えば、内部構造は見えないからね)。

ロジバンでは{co'i}が完結相に相当するが、これは「punctual (perfective) aspect」で、「時間軸上において点的に扱う」という理解で十分。

①-1. 完結相(perfective)のサブタイプ
サブタイプというか、「これを指定するなら、完結相が前提だろう」というような話。たとえば、{puze'a co'i broda}は{ze'a}「時間幅があること」と {co'i}「事態が点的であること」があまり調和していないように感じる。おそらくこれは、「過去のある程度の時間幅のどこかでその事態が起こった」くらいの意味だろうけれど。

TAhE と roi はまさに完結相(co'i)が想定されるはず。TAhEはテンスが定めた時間軸上の舞台において、「事態の分布」を指定し、roiは「事態の回数」を指定する。これらは内部構造に着目するようなアスペクトとあまり調和しなさそうであり、それはおそらく「分布」や「回数」というのが、結構「俯瞰的」なものだからだろう。喩えるなら、街の建物の分布をヘリコプターで上空から調べるときに、わざわざ建物の玄関を探すようなことはしないでしょと。

ちなみに、TAhEの中の ru'i(継続的)だけは co'i と相性が悪そう。これだけは「分布」でなく、指定した時間幅全体においてその事態が生じているということを表すので、…たしかに「分布」であるが、離散的でないので『点』である co'i と相性が悪いんだろう。ru'i だけは co'inai、非完結相と相性がよさそうだ。

ちなみに相性がいいというのでは、{PU ZA co'i broda}は相性がいいはず。というより、英語のsimple tense というのはふつう完結相が想定されているはずなので、「自然言語らしい」という意味で相性がいい。逆に、多くのロジバニストは {PU ZA broda} において、ZAhO として co'i を暗黙に想定しているはず。

①-2. 非完結相(imperfective)のサブタイプ
 imperfective は {ca'o} らしいが、{ca'o}はそれだけでなく progressive でもある。以前は、「continuitive」と定義されていたらしいが、これは間違いだろう(この用語は{za'o}を表す)ということでBPFK sections では progressiveに変更された。でも wikipedia を見ていると、たぶん言いたかったのは continuitive でなく、 continuous だったのではと思う。 continuous は imperfective のサブタイプであり、 progressive と stative の上位カテゴリなのです。progressive は "ongoing and evolving" であって、 stative は "ongoing and not evolving" であるので、前者はもっぱら行為タイプでいうと、達成で、後者はもっぱら状態でしょう。ロジバンはその述語が達成的か状態的かを区別しませんので、ca'o は progressive より、stativeも含んでいる、それらの上位概念である continuous であるとしたほうがベターでしょうね。

 いずれにせよ、imperfective と continuous が同じ語で表されるということは注意しておこう。まあ注意するほどでもなさそうだけれど。っていうか、imperfective は co'inai になすりつければいいんでは…。

② 内部構造に着目したアスペクト
①ではその事態を外から眺めるか否かの話だった(ca'o が continuous なので、一部②の話もしたけれど)。その事態が「どのようであるか」を指定するのには、その内部構造に着目して、テンスが定めた時間軸上の舞台において、事態はどんな段階にあるかを示す方法もある。これは「事象局面」とか「event contour」とかって呼べばいいのかもしれない。

ここでひとつ注意なのが、co'i もたしかに ZAhO ではあるけれど、②には属していないということ。②は横軸に時間経過、縦軸に進捗度をプロットしたグラフで表せるのだけれど、しばしばこのグラフに無理やり co'i を突っ込もうとしているのがみられるので、そんなグラフは見かけても睨めっこしないほうがいいと思う。

②-1. prospective
訳語は「将然」とか「前望」とからしい。「今にも~しそうだ」という感じ。これはロジバンでは{pu'o}。割とそれだけ。

②-2. initiative/inchoative/inceptive/ingressive
訳としては「開始」とか「起動」とか。ロジバンでは{co'a}。BPFK sections では initiative と言っているのだけど、そんなメジャーな用語ではなさそう。inceptive,ingressive は 動的な事態の開始を表すのに対して、inchoative は静的な事態(状態; state)の開始を表すらしい。おそらく、BPFK sections が採用した initiative というのはこの3つ(inceptive, ingressive, inchoative)の上位カテゴリ的な相(さっきのprogressive, stativeに対する continuousみたいな)を想定しているのだろう。

いずれにせよ、「事態の開始」を表す。

②-3. cessative/terminative
terminative は weblio によれば 「終結」 と訳すらしい。wikibooksでは cessative を「停止」と訳している。ロジバンでは {co'u}。重要なのは、これは「その事態が内在的終了点にある」ことを必ずしも意図しないということ。もっと広い意味で「終わる」「止まる」ということ。

ロジバンでは行為タイプを区別しないので、{co'u}みたいな汎用的な終了を表す語が不可欠だよね。

②-4. completive
訳としては「完了」らしいけど、さてこの辺りからね、訳語にブレがね、出てくるよね。"perfect aspect"も「完了相」と訳されるけれど、この2つは違うアスペクトですから。completive はここでは「事態が内在的終了点にある」という意味です。ロジバンでは{mo'u}。「完了点」であり、「完了している」ではないことに注意。

個人的には「完了相」と訳したいですが、歴史が深すぎて誤解が生じる気しかしないので、「完成相」くらいで訳しましょう…。ちなみに、wikibooks では {ba'o}のことを「完成相」と言っているのでまたまたややこしいのですけど。「仕上がり相」とか「内在的終了相」とかのほうが分かりやすくていいかもしれない。

重要なのは、completive相は内在的終了点があるような事態でないと使えないということです。行為タイプでいえば、telicな事態、つまり、達成か到達な事態でしか completive相は使えません。逆にいえば、ロジバンは行為タイプが不定ですから、mo'u を使ったということは、その行為タイプが達成か到達であるということを暗に意味することになります。

②-5. perfect/retrospective
perfect はおなじみの「完了」です。retrospective は prospectiveの対極という意味で使っている用語なんでしょう。「回顧」とか「既往」とかかなあ。「将然」と対応させるなら、「既然」とかがいいのかもしれない。perfect は completive の結果生じている事態を示していて、retrospective は単に co'u の後であることを示しているんでしょう。「既に~し終わっている/止めている」ですね。ロジバンでは {ba'o}です。

②-6. continuative
wikibooksでは「延続」と訳されているので、ここでもこれを採用しましょう。ロジバンでは {za'o} です。これは、「内在的終了点を超えてなお事態が続いている」ということで、ちょっと奇妙なアスペクトです。「1個のリンゴを食べる」ことの内在的終了点は「食べきる」ときですが、それを超えてリンゴを食べることはできません(無いもの!)。延続相で想定されている行為タイプはtelic と atelic の間のようなものだと思います。最も使われるであろうのが、「目標のある活動」です。目標があるという点で telic ですが、それ自体は活動ですから、内在的終了点をすぎても、atelic として活動を続けることができます。

マラソンを想像してみると、「彼はゴールしたのにまだ走っている」というのは、目標のある活動という達成的な事態が完成(completive)し、目標のない atelic な活動がまだ行われているという状況です。

延続相が使える telic というのは、atelic的なtelic事態なわけです。活動やsemelfactiveに「目標点」を貼り付けてできた達成、到達ですね。

ちなみに、状態(state)は必ず atelic かという話もしておきます。たとえば、「座っている」は静的ですから状態で、ふつうはatelicです。しかしながら、「校長先生の話が終わるまで座っている」というような状況では、「目標が達成されるまで状態を維持する」という達成的な事態に変わります。これを状態にもtelicな場合があるととるか、もうこれは既に状態ではなくて、達成であるとみなすかはさておいて、さきほどの atelic的な事態をtelicにしたような事態という構図がそのまま表れているので、za'oが使える状況です。

②-7. pausative
訳は「中断」とか「休止」とか。{de'a}。一時的な終了にあるということですね。co'uとの違いは、話者が再開を見込んでいるかどうかだと思います。

②-8. resumptive
「再開」。pausative で一時的に取りやめられていた事態が再開することを表す。{di'a}。

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さて、ロジバンの述語は行為タイプが不定ということで話を進めてきたが、果たしてそうなのかという話。

反例は簡単に見つかる。{dasni}は "put on" ではなく "wear" の意味である、というのは、述語ごとに行為タイプの傾向があるということだろう。{sanli}や{zutse}ももっぱら状態(state)タイプである。

一方で、{citka}は動的なので状態タイプではない。また瞬時的でもないので、活動か達成タイプのどちらかだろう。

・・・本当か?{citka}は動詞的でもあれば、形容詞的でもあるはず。"is-an-eater"という意味もあるのだから、静的な事態も表し得るのでは。たとえば、

ra co'a citka lo plise

は、静的な関係、つまり、「リンゴを食べれるようになった」くらいの意味にできるのでは。

いずれにせよ、述語がtelicかatelicかということについては、話者の態度によるところが大きいだろうから、不定として問題ない。そして、述語はすべて動的でもあり静的でもあるからこれについても不定で問題ない。残るはno durationか has duration か、つまり、瞬時的か継続的かの違いである。

詳しくは別記事で。

2015/04/05

by standard 再考

by standard の分析 の続き。

以前はcogas個人が独自にあーだこーだと言っていました。
しかし最近、xorxesがgismuのjbo定義をどんどん追加しているので、これを見ると解決するのではないか?と思い、続編です。

おさらいとして、こんな感じに分類できましたね:

① 単位的述語(メートル、キログラム、分、秒、非SI単位)・・・ 36語
② 順序性述語 (長い、重い、遅い)・・・ ~36語
③ 境界性述語 (嘘、真実、悪質)・・・ ~36語
④ 血縁述語 (兄、娘)・・・ 3語

大体100語くらいあったわけですが、現時点でjbo定義がないものは、

clite
linto
litce
molro
nobli
radno
stero
tilju
xadba
xampo

の10単語だけでした。うち、単位系述語が{litce},{molro},{radno},{stero},{xampo}と半分を占めてます。あとは、「軽重」「礼儀正しい」「高潔」「半分」だけですね。いずれできるでしょう。

というわけで、上の①~④の順に見て行きたいとおもいます。


まずは単位系。

delno
gradu
grake
jeftu
kelvo
masti
mentu
mitre
cacra
snidu

基本SI単位系(秒、メートル、カンデラ、(キロ)グラム、ケルビン)、単位(gradu)、時間(秒、分、時、週、月、)の3つに分けられますが、いずれも、"by standard"の位置がjbo定義では消えています。これが「記述不足」なのかどうかはわかりませんが、ひとまずの解答として「気にするな、消してやった」となります。

しかしながら、djedi(日)とnanca(年)だけは、

djedi
x1 se ditcu lo nu mo'e $x_2$ roi mulcarna fa lo plini no'u $x_3$ .i x1 cacra li revo pi'i x2 la terdi

x1(事)は x3(惑星)の x2(数)回の自転に相当する時間; x1(事)は地球でいえば x2(数)× 24時間

nanca
x1 se ditcu lo nu mo'e $x_2$ mulno sruli'u lo se plini fa lo plini no'u $x_3$ .i x1 djedi li 365.25 pi'i x2 la terdi

x1(事)は x3(惑星)の x2(数)回の公転に相当する時間; x1(事)は地球でいえば x2(数)× 365.25日

となっており、djedi を 「惑星が1自転するのにかかる時間」、nancaを「惑星が1公転するのにかかる時間」として再定義し、その基準を「想定している惑星」としています。

(個人的には、太陽年にしてしまって、365.2422倍にしたほうがいいんじゃないかと思います。実際、現代の世界のスタンダードであろう太陽暦はグレゴリオ暦で、これは1年を365.2425日としていますし)

ちなみに他の月・週・時・分・秒について見てみると、

masti
x1 se ditcu lo nu $x_2$ se rapli lo nu lo lunra cu mulno sruli'u lo terdi .i x1 cu djedi li 30 pi'i x2 gi'a jeftu li 4 pi'i x2 gi'a nanca li x2 fe'i 12

x1(事)は 主要衛星(月)が惑星(地球)の周りを x2(数)回公転するのに相当する時間; x1(事)は x2 × 30 日間、または x2 × 4 週間、または x2 / 12 年

jeftu
x1 djedi li 7 pi'i x2

x1(事)は x2 × 7 日間

cacra
x1 klani x2 lo ka lo xo kau boi fi'u re vo si'e be lo djedi cu ditcu ke'a

x1(事)は x2(数)/ 24 日間

mentu
x1 klani x2 lo ka lo xo kau boi fi'u xa no si'e be lo cacra cu ditcu ke'a

x1(事)は x2(数)/ 60 時間

snidu
x1 klani $x_2$ lo ka lo xo kau boi fi'u xa no si'e be lo mentu cu ditcu ke'a .i x1 klani x2 lo sornai rauci'e ni ditcu

x1(事)は x2(数)/ 60 分間; x1 はSI単位系の時間量でいうと x2(数)の量

となっており、sniduにはSI単位系についての言及、mentuは時間から、cacraとjeftuは日間からその意味が得られ、mastiは主要衛星と惑星の関係で定義されています。

いずれにせよ、SI基本単位系についてはSI単位系を参照、djedi, masti, nanca については惑星/主要衛星の公転/自転を参照せよとなっています。

では、"by standard"は一体何を想定していたのかという話ですが、恐らく、「参照する惑星」や「参照する単位系」だったんでしょう。

 jeftu, cacra, mentu, snidu に関しては、惑星の自転(djedi)から意味が得られているわけですから、もし"by standard"を復活させようと思うのであれば、それぞれの定義文のdjedi3(すなわち惑星種)を x3 として採用すればよいかと思います。
 masti も同様に x3 に惑星種を指定してやればよいかと思いますが、主要衛星が2つあったり(ツートップ的な意味で)すると、衛星種を指定する x4 も必要な気もします。ちなみに、水星と金星には衛星がないそうですね。

「別の単位系を使うときはどうすれば?」と思うかもしれません。つまり、「sniduやmitreやgraduをSI単位系だけでなく、その上位概念的なものとして定義して、x3で単位系を指示する」というアイデアもあるかと思いますが、そもそも、英語定義の頃から、これらは metric unit です。すなわち、非metric unit のために x3 を用意する必要はなく、ロジバンはその代わりに「土着的単位」のためのgismuを用意しています。

minli
x1 noi na'o clani tersei cu klani x2 lo ni clani kei ma'i x3

x1 は x3(観点; ma'i)でいうと、長さにして x2(数)だ(ふつう、長めの単位)

gutci
x1 noi na'o tordu tersei cu klani x2 lo ni clani kei ma'i x3

x1 は x3(観点; ma'i)でいうと、長さにして x2(数)だ(ふつう、短めの単位)

dekpu
x1 klani x2 lo ni canlu kei ma'i x3

x1 は x3(観点; ma'i)でいうと、体積にして x2(数)だ

bunda(非メートル的重さ)がまだ定義されてませんが、{tilju}{linto}がまだなので、さもありなん。


次に飛びますが、簡単な血縁述語を見ていきます。

bruna
mensi
兄弟、姉妹の2つですが、この"by standard"は tunba3 に等しく、

tunba
x_1 is a sibling of x_2 by bond/tie/standard/parent(s) x_3.

さらにこれは、dunli3

dunli
x_1 は x_2 と x_3 (性質)に関して同等

と等しいとされていますから、血縁述語の "by standard" は 「(ka)な位置」と言えるでしょう。

つまり、「どういう点で兄弟(姉妹)なのか」というのを表しているわけですね。

また、lanzu3 は ckinysi'u2 と同じ、つまり、やはり「どんな関係で家族なのか」を指定します。

②③
とりあえずこれら:

banli偉大
cafne頻発
certuベテラン
cinse性的
citno若い
clira早い
cnino新しい
drani正しい
glare熱い
jinsa清い
jmive生きている
kanro健康だ
kargu高級
laldo古い
lenku冷たい
lerci遅い
mulno完全
nanla息子
nixli
panra対応的
plana太っている
pluja複雑
ruble弱い
slabu馴染みある
srera間違っている
tsali強い
verba子ども
virnu勇敢
vitno永久
xamgu良い
xlali悪い
zasni一時的
dizlo低い
galtu高い

については、"by standard"の位置が消えています。ラッキーなことにほぼすべて「わけわからん」やつだったので、こちとら大歓迎です。

では、"by standard" が無事残っているのは…?というと、大きくわけてやはり2つです。

1つ目:cnano3(標準/平均/スタンダードのための集合/群れ)

barda大きい
caxno浅い
cinla薄い
clani長い
cmalu小さい
condi深い
ganra広い
jarki狭い
tordu短い
rotsu厚い
これらの"by standard"の位置は cnano3 が入ります。つまり、「大小」「浅深」「細長」「広狭」「薄厚」というのは「より~だ」という意味であり、「ある集団の中で平均より上だ」ということになります。

ちなみに、これらはすべて{barda}{cmalu}に還元されます。caxnoとcondi以外は、

x1 barda/cmalu x2 noi XXX cimde x1 ku'o x3

という形式です。一応見てみると、

clani/tordu
x1 barda/cmalu x2 noi brarai cimde x1 ku'o x3 (最大量の次元)

rotsu/cinla
x1 barda/cmalu x2 noi cmarai cimde x1 ku'o x3 (最小量の次元)

ganra/jarki
x1 barda/cmalu x2 noi remoi cimde x1 ku'o x3 (2次元)

となっています。あとの2つは、

condi/caxno
x1 barda/cmalu x_2 noi farna x1 boi x3 ku'o x4

です。

残り13語、

claduうるさい
smaji静か
jetnu
jitfa
mintu同種
drata別種
racli理性的
fenki狂った
vrude美徳
palci悪質
juxre不器用
melbi美しい
dukse過剰
については、まちまちなので1つずつ見ていきます。

cladu
x1 tsali le ka ka'e se tirna bu'u x2 kei x3

smaji
x1 seltinynalka'e lo'e zvati be $x_2$ ma'i $x_3$ .i x1 se sance no da

「うるさい」「静か」の対をなすはずですが、定義文はあまりそう見えない。

問題は x3 なんですが、 cladu では tsali3 が、 smaji では ma'i = manri1 となっています。
しかしながら、 tsali3 は現行の定義では消えてるんですよね。
そうなると、smaji の定義をあてにして、ここでいう "by standard" は「観点」となりそうです。

jetnu
x1 mapti lo fatci lo ka ce'u ve skicu ce'u fo $x_2$ .i x1 to'e jitfa x2

jitfa
x1 na mapti lo fatci lo ka ce'u ve skicu ce'u fo $x_2$ .i x1 to'e jetnu x2

これも「真偽」の対です。 {lo ka ce'u ve skicu ce'u fo x2} が少し読みにくいですが、

skicu
x1 (者)は x2 (物/事/状態)を x3 (者)に x4 (表現/文字列)によって描写/叙述する

を見ると、直訳は

「x1 と 事実は 「x2 は Y を zo'e に X によって叙述する」という関係を満たす」

くらいの意味になります。意訳すれば、「x1はx2にとって真実/嘘である」で、jinvi/senpi とそんな変わらないような気がしますね。jbo定義的には "by standard" は skicu1 ですが、ニアリーイコール manri1 でしょう。なので、これも「観点」と訳せそうです。現行の「認識体系」でも十分でしょう。

mintu
x1 dunli $x_2$ lo ka ce'u du makau ma'i $x_3$ i x1 to'e drata $x_2$ boi $x_3$ i x1 joi x2 simxu lo ka ce'u ce'u basti x3

drata
x1 frica $x_2$ lo ka ce'u du makau ma'i $x_3$ i x1 to'e mintu x2 boi x3

mintuの方だけ追加で1文ありますが、それは置いといて。見るからに ma'i = manri1 の意味ですね。つまり、"by standard" は「観点」です。


racli
x1 sarxe lo se zanru be lo kanro menli kei $x_2$ .i lo nu x1 ckaji ja zukte x2 cu zabna lo ka se krinu ma kau

fenki
x1 to'e racli $x_2$ .i x1 kalsa lo ka zukte $x_2$ .i lo nu x1 cinmo x2 cu vlile

この2つはjboとengで意味が変わっています。x1が元は「行為・行動」だったのですが、jbo定義では「人」になっています。

sarxe は {x1 ckini x2 x3 ja'e lo zabna ja pluka ja melbi ja to'e vlile} という意味で、意訳すれば「x1 は x2 と x3(関係)で繋がりがあり、その結果、イイ感じなことが起こる」くらいですね。
 結果として、racli2 = sarxe3 = ckini3 なので、 ここの"by standard" は「(関係)」です。しかし、次の定義文では ckaji2 か zukte2 であり、「(性質・事)」です。ここでも x1 は「(者)」となっていて、「x1がx2(事・性質)をする/であるのは、何らかの正当な理由があるという点でイイ感じだ」と、訳が悪いのでざっくりですが、おおよそそんな感じです。

fenkiについても x1 は行動から者に変更されていて、x2 は zukte2 となっていますね。


vrude
x1 zabna $x_2$ ma'i lo marde .i x1 to'e palci x2

palci
x1 mabla $x_2$ ma'i lo marde .i x1 to'e vrude x2

zabna/mabla はそれぞれ、

x1 xamgu ja trina ja melbi ja pluka ja mansa fi $x_2$ fe $x_3$ .i x1 to'e mabla x2 x3

x1 xlali ja rigni ja fegli ja to'e pluka ja na'e mansa fi $x_2$ fe $x_3$ .i x1 to'e zabna x2 x3

なので、ここでの "by standard" は結構幅があります。xamgu3, trina3, melbi3, pluka3, mansa3 のいずれか、 xlali3, rigni3, fegli3 のいずれかですから。「(性質・者)」くらいでしょうか。

(実は、xamgu, xlali, pluka, rigni は x3 が消えてるんですよね)

juxre
x1 zukte ja ckaji x2 gi'e claxu lo ka certu ja stati x2 gi'a melbi fi x2

これは(事・性質)ですね。

melbi
x1 jai pluka x2 fai x3

これについては、審美基準 x4 は消えています

dukse
x1 zmadu lo banzu $x_2$ ma'i $x_3$ .i x1 zmadu lo mansa be $x_3$ bei x2

見るからに manri1 ですから、これは「(観点)」です。

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消えた by standard は一体なんだったのか、という話ですが、おそらく、manri1 でしょう。manri1 の位置を付け足すためには ma'i を使えばいいわけで、PSに標準で余程のことがない限り用意する必要はないのでは、ということかもしれません。少なくとも消えた「基準」が cnano3 であることはないでしょう。それが分かっただけでも個人的には万々歳です。

「基準」位置は、大別すると、cnano3, manri1, ckaji2, zukte2 の4つに分けられそうです(時間述語はまた別ですが)。

cnano3 は barda/cmalu 由来で、「(比較群)の平均より」という意味
manri1 は 「(観点)から/においては」という意味
ckaji2 は 「(性質)という点で」 か 「(関係)という点で」という意味
zukte2 は 「(事)をするという点で」 という意味

に解釈できそうです。jbo定義で消失したものについては恐らくすべて manri1 だと思われます。

これでひとまず "by standard" の意味がすべて解決したことになります。

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最後に、消失した"by standard" は本当に消してしまってよいのかという話を。たとえば、{glare}は「熱い」ということですが、「誰にとって熱いか」を明示しない限り、命題としては不十分な気もします。

しかしこれはコンテキストを見逃しているとも言えます。誰かが {glare} と叫べば、「誰にとって熱いか」というのは一目瞭然でしょう。xorxesはおそらく、「観点がないなら、それは話者の視点だ」ということを考えているのではないかと思います。

まあでも、多分、ma'i を付け足した定義にすればいいんじゃないかとも思います。

ma'i項の有無はまだ発展途上なので、今後変わる部分かなとも思います。とりあえず、"by standard"がcnano3とmanri1のどちらなのかという当初の問いに対してある程度明確な答えが用意されたのは大きいですね。