2013/09/04

時制と事実性のまとめ

個人的にまとめたかったのでまとめます。

ざっくりセルマホ説明
PU : 過去か未来か現在か (pu , ba, ca)
ZI : どれくらい離れた時点か、短か中か長か (zi, za ,zu)
ZEhA : どれくらいの間か、短か中か長か (ze'i, ze'a, ze'u)
TAhE : 指定した(想定された)範囲で、どういう間隔でその出来事が起こったか。
ROI: 指定した(想定された)範囲内で、何回その出来事が起こったか。

TAhEとROIについてだけ、ちょっと詳しくやります。
たとえば、「3年間高校に通っていました」というのは朝も夜も祝日もずっとずっと通っていたわけではないですね。
一方、「彼は2時間走っていた」なら、「2時間の間ずっと」かなと思いますよね。
私たちは「範囲」を指定してもなお、「その範囲内においてどんな間隔でなのか」は文脈(出来事の種類)に任せているわけです。
この「間隔の状況」をTAhEは規定するわけです。

ru'i : その範囲で、連続的に。/ continuously, over and over, all the time
di'i : その範囲で、規則的な間隔で。 / regularly, steadily
na'o : その範囲で、典型的な間隔で。 / typically, ordinarily, usually
ta'e : その範囲で、習慣的な間隔で。 / habitually


簡単に図示してみましたが、na'oとta'eは図示で分かるもんではないですね。
ru'iとdi'iはそこまで難しくないと思います。
「彼が2時間走っていた」ときに我々が想定しているのはきっと「ru'i」です。
「学校に行く」のは「平日行って、土日休んで…」のサイクルなので「di'i」的です。

na'oとta'eは上のふたつよりも主観的なものです。

na'oは「出来事がそれの典型的な間隔で起こる」ことを表します。
たとえば「『典型的に』買い出しに行く」ことを考えてみます。
人によって買い出しの頻度に差はありますが、その平均付近は「典型的な」頻度といえます。
もう少し崩せば、na'oは「人並みの頻度で」ともいえそうです。
(問題は、その平均値は"どの母集団において"のものかということです。)

ta'eは習慣的、すなわち「癖」と言えるかもしれません。その行為が癖になっているわけです。
「mi ta'e citka lo plise」は「林檎を食べるのが癖になっている」という感じです。

「彼は○○的にあのバーに行く」というのは・・・、
ru'i的に行くなら、彼は通いつめているのでしょう。
di'i的に行くなら、バイトか何かで毎日決まった時間にバーに行くのでしょう。
ta'e的に行くなら、人並みの頻度で行くのでしょう。
na'o的に行くなら、彼はあのバーに行くのが癖になっている(そういう頻度で通っている)のでしょう。

ROIを使うと、その範囲内で起こる回数を言うことができます。
ciroi : その範囲内で3回起こる
so'iroi : その範囲内で多数回起こる
roroi : その範囲内ですべて回(超多く)起こる
noroi: その範囲内で0回起こる

あとは、時制の語の置く順番について書いておきます。
PU - ZI - ZEhA - PU - ZI -TAhE / ROI

PU-ZIが2回出てきている・・・!と思うかもしれませんので、例をあげて説明します。

pu zi ze'a ba za di'i ciroi

ロジバンの間制の大原則は「架空旅行」です。
まず、puziですから、「ちょっと前」に行きます。
そして、ze'aですから、その期間は「不定/中期間」です。
これだけだと、「ちょっと前」の地点から、さらに過去なのか、より未来なのかわかりません。
ですから、2度目のPU-ZIでもうひとつの端点を指定してやります。
ここで注意してほしいのが、「架空旅行」であるということです。
すなわち2度目のPU-ZIの出発地点は、1度目のPU-ZIの終着点です。
今回でいうと「ちょっと前」から見て「いくらか未来」までの「中期間」という意味ですね。
この範囲において、規則的な頻度(di'i)で、計3回その出来事が起こったということです。

ROIを学ぶと必然的に(!)「今までで一度も~ない」と言いたくなりますね!
noroiだけでは不十分なのはわかりますよね。範囲を指定してやらないといけません。
ZEhAには「無限期間」をあらわすze'eもありますから、それを使います。
ze'epuは、無限の過去から参照点への範囲を表します。
ze'ebaは参照点から無限の未来へと伸び、ze'ecaは "時間全体"の概念を明確にします。

mi caze'eba prami do ~ 私は今から永遠に君のことを愛するよ。

素朴なbridi、間制詞のないbridiは上でやったような時制いずれをも表しえます。
mi klama le zarci といったとき、

市場へ行った。
市場へ行くところだ。
市場へ行ってしまった。
市場へ行くつもりだ。
ずっと市場へ行く。

のいずれでもありえます。どの解釈が適切なのかは、文脈によります。

@事実性
入門テキストでは、ここまで触れずに終わるので、まとめたかった!

jelca : x1 は x2 (温度)・ x3 (気体)において燃える; x1 には可燃性がある

{ti jelca} という命題は、「実際に燃えている」、「燃える能力がある」の2つの意味でとれます。
他にも、{ro dakta ca flulimna} ~ 全てのアヒルは今、浮いて泳ぐ
これも、「今、実際に泳いでいる」、「今、泳ぐ能力がある」の2つの解釈ができます。
前者の解釈だともちろん偽だと思いますが、後者の解釈では真にもなりえます。

このように、素朴なbridiでは、「事実性」「可能性」のどちらも表せます。
時制のときと同じように、事実性・可能性をきちんと表現することもできます。CAhA類です。

ca'a : 実際に起こっている
ka'e : 生まれつき、その能力を持っている(発揮したかどうかは問わない)
pu'i : ka'eでありかつ、その能力を1度は発揮している
nu'o : ka'eだがpu'iではない。すなわち、能力はあるが、未だ発揮していない

よりよい理解のため、kakneにも触れておきましょう。

kakne : x1 は x2 (事)が x3 (条件)においてできる; x1 は有能

kakneは生まれつきの能力でなくてもよいので、より広い意味の可能性です。

・基本的には、ca'aとka'eを言い分ける。
・ka'eだが、より詳しく述べたいのであれば、pu'i,nu'oを使う。

このスタンスでいいと思います。
ちなみにCAhAの置く場所は、間制詞よりの後ろです。

mi puzu ze'u bazu ru'i ca'a prami do
~ 私は、ずっと昔からそのずっと未来の長い間、連続的に実際にあなたを愛している。











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