2013/08/31

よりよいsumtcitaを目指して

「sumtcita」あたりの訳語に対する提案について書きます。

sumtcita は暫定的な訳語しか与えられていないのが現状だと思います。
ですから、ほとんどの人がsumtcitaは"sumtcita"として使ってるはずです。
個人的にはそれでいいとは思うんですが、初学者にとっては一応の訳語があったほうが望ましいに決まってます。

{sumtcita}には、直訳した「項タグ」、『間制詞、相制詞、法制詞』をまとめた「制詞」の2つの訳語が主流だと思います。
 しかし、{sumtcita}は実際には「命題に新たな項を追加したいときに使うタグ」という意味で使われており、単に「項タグ」と訳してしまうと「FA類」も{sumtcita}に分類されると誤解を生む可能性があります。「項タグ」と{sumtcita}はまた別途の語として(項タグ⊃{sumtcita})使われるべきだと思います。
 次に「制詞」ですが…。これは確かに系統的でいい名前かもわかりませんが、初学者にとっては「見苦しい」訳語な気がしてなりません。本来、{sumtcita}はもっと素直な意味であって、何かを総称したような”すごい”語ではありません。ですから、「制詞」も個人的にはあまり好きではありません。


 そこで提案したいのが、添項詞(てんこうし)です。「項を命題に新たに添えるために使う語」、すなわち添項詞です。これのいいところは、「添項詞によって追加された項」のことを添項と非常に素直にいうことができます。付辞だとか言わなくていいわけです。

 間制詞、相制詞、法制詞についても少し考えてもいいかもしれません。間制は、「時間・空間」の制ということなんでしょうが、その共通の字「間」で「時空間」を表そうとするのは無理があります。
それなら、時空制詞のほうが直観的でいいような気がします(ちょっとかっこいいし .u'i)。
 相制詞はこのままでいいと思います。従来の文法用語をよく継承しているので。
 法制詞は・・・・なんでこれを思いついたのかまったく理解できません。だってBAIって別にmodalと関係なくない・・・?これについては「見なかったふり」が一番ですね、うん。

//追記

guskantさんからコメントいただき、色々と間違ってたことに気づきました。

sumtcitaは「添項語」、selbritcitaは「添述語」、
添項語や添述語として振る舞える語の品詞を「添詞」という。

割とこれが無難かもしれない^^;

2013/08/30

古代ロジバン語、ナブジョル ※この記事はフィクションです。

nabjol (ナブジョル) ・・・それは、とある古代文明都市にて話されていた言語である。(嘘)
nabjolは、現在の論理的言語、ロジバンの元となった言語とされている(大嘘)

ロジバンとナブジョルの文法構造はよく似ているので、ロジバンと対比させて紹介したい。

ロジバンの品詞は、brivla, cmavo, cmene からなる。
ナブジョルの品詞は、ロジバンとよく似ているが、brivla相当品詞が異なっている。
brivla は、ロジバンとは異なり、irblesとitmusという統語論的分類がなされる。

自然言語でいうと、irblesは形容詞や動詞に相当し、itmusは名詞に相当する。

ナブジョルとロジバンでは大きく形態論が違うように思われる。
実は、ナブジョルの語のほとんどがロジバンの語の綴りの反転でできている。
(時系列的には、ナブジョルの語を反転させることでより有用な形態論になることが発覚した)

klama -> amalk
prami -> imarp
dunda -> adnud
zvati -> itavz

cmavo のいくつかはナブジョルからロジバンへと保存されたようである(mi,doなど)

統語論はロジバンとほぼ一緒であるが、ロジバンのように空間制はない。
しかも時制についても、少し異なっている。

・時制
語頭にp,c,bをつけることで、過去、現在、未来を表すことができる。

pamalk = 行った
badnud = 与えるだろう
citavz = 今いる

zi,za,zu,ze'i,ze'a,ze'u に対応する語については現在解析がすすめられている(黙れよ)

ある研究によれば、これらの語はひっくりかえっている。

iz, az, uz, i'ez, a'ez, u'ez

これが、語尾にくっついているのではないかという報告がある。

pamalkiz = すぐ前に行った
badnuduz = 遠い未来に与えるだろう

ロジバンの空間制は、すべてsumtcitaとしてのみの取り扱いになっているようだ。

・統語論の改善
しばしば古代語というのは冗長である。ナブジョルも然りである。
ロジバンのFA類は語順によって省略可能であったが、
ナブジョルではそれに相当する語(AF類)は省略不可である。

af mi pamalkiz ef inadz - 私は、家にちょっと前に行った。

しかし、これはある程度新しいカタチであることが最近発覚した(黙れよ)
このAF類を項の前に置くスタイルは比較的カジュアルだったようだ。
実際、公式文書などでは、AF類は項の語尾にくっついているものがみられる。

miaf pamalkiz inadzef = af mi pamalkiz ef inadz


・irblesのitmus用法、itmusのirbles用法
irblesがitmusのように使われている際は、その前にol が付いているようである。

ol amalk = 行く人

また、itmusがirblesのように使われているときは、その前にemがついている。

af ti em inadz = これは家だ。

itmusのirbles用法によるPS発生も見られている。
これは今のロジバンのPSとほぼ同じである。
すなわち、em inadz は「x1はx2の家だ」となるようである。

af ti em inadz ef mi = これは私の家だ。

・心態詞は発達していなかったようである。


2013/08/17

Quizlet

英語ですが、「頻出gismu集」が充実しているので、以下に載せます

pamoi
remoi
cimoi
vomoi
mumoi

xamoi
zemoi
bimoi
somoi
daumoi

feimoi
gaimoi
jaumoi
reimoi
vaimoi

全部で50*15=750語です。大体全gismuの半分ですね。
確かに半分覚えりゃ、なんとかなりそうな気もします。

暗記に困っているかた、まずはこれからどうでしょうか!

2013/08/15

補足4: 空間テンス~FAhAの全貌

10章でFAhA、すなわち空間テンスの基本的なものをやりましたが、右、前、左、そこ、くらいしかやってませんでしたね。ここでは一気に(!)全部やってしまいましょう!
FAhAはFAhA1~FAhA4まであります。順番に見て行きましょう。

■FAhA1
FAhA1は方向の基本中の基本、方角です。

東 : du'a
西 : vu'a
南 : ne'u
北 : be'a

どぅはヴはねふべは…と100回くらい繰り返せば覚えれるでしょう!


■FAhA2 

さて、イラストの通り、FAhA2には7つの語があります。
前に後ろに右左、上見て下見て一回転!ですね。
順番に、ca'uにti'aにri'uとzu'a、 ga'u見て ni'a見て ru'u!

ca'u - ti'a : 前 - 後ろ
ri'u - zu'a : 右 - 左
ga'u - ni'a : 上 - 下
ru'u : 周り

さくっと覚えてしまいましょう!


■FAhA3
さて、FAhA3には6語あります。


カラフル!(.u'i) それぞれの意味を確認しましょう。
bu'u : ちょうどその地点
ne'a : 周囲、辺り
ne'i : その内部
re'o : その隣接/接触したところ
te'e : 境界線
pa'o : 通過/通り過ぎたところ

まあなんてことはないですね?


■FAhA4


これが一番イラストが書きにくかったです。
多分、イラストだけでは「・・・?」だと思うので、これだけはしっかり訳をみてください!

fa'a : ~を方向として
to'o : ~から離れて/~の向こうで
ze'o : ~よりも外側へ/~から遠ざかって
zo'i : ~よりも内奥へ/~から近づいて
zo'a : ~に近接して/通りがかって

fa'aは英語のforを想像すればいいと思います。
to'oは単純に「離れたところ」です。
ze'oとzo'iはオレンジの点線を基準に離れるか、近づくか、という意味でイラストには書きました。
zo'aは「通りがかり」です。 zo'a rinsa で「すれ違いざまに挨拶する」となります。


と、まあこんな感じです。たった22語で、どんな場所も表せるのですから、ちょろいもんですね!

2013/08/12

ロジバンゆるラジオ8/11

使ったスライドをあげておきます。
ロジバンゆるラジオ8/11

述語論理は浅学なので微妙かもしれません。

2013/08/08

ロジ検 8/11更新

検定というより、学習進度に合わせたカリキュラム確認テスト、って感じかな。

ドイツ語にはカリキュラムあるよね。あれを参考にしてみようかな。

とりあえずロジ検と言っていきますが、基本的には
・語彙力
・文法力
・作文力
・読解力
の4つがそれぞれの段階で確認されるべきでしょう。

語彙力については、2つあると思うんですよね:
・通常語彙(読んだり書いたりするために必要な語彙)
・カテゴリ語彙(ジャンル別に覚える語彙)

もちろんこの2つの語彙は排反ではありません。
おそらく文法問題では通常語彙だけでなんとかなります。
カテゴリ語彙は、たとえば「果物の名前」とか「色の名前」とか、
まとめて覚えておいたほうがいいが、使うかといわれるとそうでもない語彙のことです。
通常語彙の中に、林檎とかバナナはあるとおもいますが、
メロンとかスイカとかイチゴとかはカテゴリ語彙に置いてあったほうがいいでしょう。
そういう一貫した語彙というのもカリキュラムに組み込む必要がありそうです。
しかし、何があるかな…?

・ 果物、野菜
・ スポーツ
・ 色
・ 身体の部位
・ 食べ物に関すること
・ 旅行に関すること
・ 部屋の名前(台所、風呂場、寝室…)
などなど色々ありそうですね。「こんなのあるよ!」ってのがあったらコメントしてください。

で、実は通常語彙よりもカテゴリ語彙のほうが記事としては組みやすいんですよね。
通常語彙はみんなで選定する必要がありますが(一応valzengausは通常語彙が目的)、
カテゴリ語彙に関しては、もちろん選定は必要ですが、通常語彙ほどではありませんので。

補足8/11:
調べてみたところ、CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)というものだったそうです。

ヨーロッパ言語共通参照枠(ヨーロッパげんごきょうつうさんしょうわく、英語Common European Framework of Reference for Languages; CEFR あるいは CEFフランス語Cadre européen commun de référence pour les languesCECR)とは、ヨーロッパ全体で外国語の学習者の習得状況を示す際に用いられるガイドライン。1989年から1996年にかけて欧州評議会が「ヨーロッパ市民のための言語学習」プロジェクトを推進したさいに、ヨーロッパ言語共通参照枠がその中心的な役割となった。ヨーロッパ言語共通参照枠の目的は、ヨーロッパのすべての言語に適用できるような学習状況の評価や指導といったものの方法を提供することである。 ― wikipedia
 CECR とは欧州評議会が定めた語学力評価基準のことで、これに基づいた教育機関での語学研修履行経験や証明書は、全ヨーロッパで語学力の証明に使われています。 CECRは各言語のさらなる発展と流用を目的に定められたもので、この基準が今後さらに多くの国に取り入れられることは疑いようがありません。我が校のク ラス編成・授業内容も、このCECRの基準に基づいてA1からC2までの6段階に分けられています(A1 - A2 - B1 - B2 - C1 - C2) 
 ヨーロッパの言語に限定された学習状況評価システムですが、ロジバンにもいくらか応用できるかもしれません。
具体的にはABCの3段階をさらに2分割したA1、A2、B1、B2、C1、C2の合計6段階のレベルで言語力を表すことができ、言語機能に基づいた『Can Do Statements』によって、その言語を使って「具体的に何ができるか」を示します。
NHKによると、それは以下のような区分のようです。

A0: ごく簡単な表現を聞き取って、名前や年齢を伝えられる
A1: 日常の簡単な表現を理解して、基本的なやりとりができる
A2: 日常の基本表現を理解して、簡単なやりとりができる
B1: 身近な話題を理解して、意思と理由を簡単に表現できる
B2: 社会生活上の幅広い話題を理解して、自然な会話ができる
C1: 複雑な話題を理解して、明確で論理的な表現ができる
C2: あらゆる話題を理解して、細かい意味の違いも表現できる

おそらくロジバン学習者にとっての一応の終着点はB1になるかと思います。
ロジバンでロジバンについて議論するときはB2まで行く必要があるかもしれませんが。
A2はツイッターやフェイスブックなど、SNSにおいてロジバンで会話できる程度でしょう。

A1はNHKのこの表以外にはみられませんでしたので、A1~B2について詳しく載せます:

A1
具体的な欲求を満足させるための、よく使われる日常的表現と基本的な言い回しは理解し、用いることもできる。自分や他人を紹介することができ、どこに住んでいるか、誰と知り合いか、持ち物などの個人的情報について、質問をしたり、答えたりすることができる。もし、相手がゆっくり、はっきりと話して、助け船を出してくれるなら、簡単なやり取りをすることができる。

A2
ごく基本的な個人的情報や家族情報、買い物、近所、仕事など、直接的関係がある領域に関する、よく使われる文や表現が理解できる。簡単で日常的な範囲なら、身近で日常の事柄についての情報交換に応ずることができる。自分の背景や身の回りの状況や、直接的な必要性のある領域の事柄を簡単な言葉で説明できる。

B1
仕事、学校、娯楽で普段出会うような身近な話題について、標準的な話し方であれば主要点を理解できる。その言葉が話されている地域を旅行しているときに起こりそうな、たいていの事態に対処することができる。身近で個人的にも関心のある話題について、単純な方法で結びつけられた、脈絡のあるテクストを作ることができる。経験、出来事、夢、希望、野心を説明し、意見や計画の理由、説明を短く述べることができる。

B2
自分の専門分野の技術的な議論も含めて、抽象的かつ具体的な話題の複雑なテクストの主要な内容を理解できる。お互いに緊張しないで母語話者とやり取りができるくらい流暢かつ自然である。かない広汎な範囲の話題について、明確で詳細なテクストを作ることができ、さまざまな選択肢について長所や短所を示しながら自己の視点を説明できる。

<参考>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%85%B1%E9%80%9A%E5%8F%82%E7%85%A7%E6%9E%A0
http://eigoryoku.nhk-book.co.jp/cefr.html
http://gc-t.jp/toefljunior/column/cefr.html
http://www.das-akademie.com/das-berlin_2/japanese_8/referenzrahmen-ger-cecr_n1076p0.html
http://www.goethe.de/ins/jp/tok/lrn/stf/jaindex.htm

2013/08/07

2013/08/06

Lojban Lessons - 27章 (ロジバン論理: da、 bu'a、 zo'u、項(terms))

Lojban Lessons - 27章 (ロジバン論理: da, bu'a, zo'u そして 項(terms))

※この章の内容にはかなり不備がある可能性があります。
ここの項目を学びたい方は、guskantさんのko lojbo .iuをどうぞ。

 この章の題に少し訂正が必要かもしれないですね。ここではロジバンにおける論理のやり方についてはやりません。まず、論理というのはおそらくすべての言語で同じものであり、第二に一章を割いただけではあまり実用的な論理を教えることができないからです。むしろ、この章では、論理学者が使う語に相当する語句についていくつか説明していきます。それらはロジバンではより様々な場面で使われることが分かるでしょう。
 こういった論理の語句の微妙な部分の詳細にまで首をつっこむと心がぐにゃぐにゃになるほど難しく、この章の様々なところで反対意見がちらほらと出てきています。

 ロジバンの論理の語を学ぶためには、本来は論理には出てこない語句についても少し学ばなければなりません。まずはzo'uから始めましょう。
zo'u 冠頭(prenex)をbridiと分け隔てる

 zo'uの前には冠頭が、zo'uの後にはbridiが必ずきます。冠頭とは大雑把にいうと、bridiの前にくる、項を置く場所のことです。項とは、いくつかのロジバン語句― sumti、(sumtiがあるなしに関わらず)sumtcita、naku、項集合(termset)と呼ばれる憎き奴(これはこの章では扱いません)― を表す言葉です。
 冠頭はbridiの一部ではなく、bridi内部に置かれて、そのbridiについての情報を与えてくれる項のことです。たとえば、次のような話題を述べるために使います:
lo pampe'o je nai speni zo'u mi na zanru - 「恋人ではあるが配偶者ではない人について以下が成り立つ: 私は賛成しない。」
こういう文でわざわざzo'uを使うのにあまり価値はありませんが、色々と遊んでみるのはいいことです。さらにいえば、こういうやりかたで文を構成するのはMandarinなどの言語にかなり似ています。つまり、この構成の仕方はそういった言語の話者にとってはより直観的に感じることでしょう。
[注:日本語の助詞「は」はzo'uと近い役割を果たします。
ti zo'u mi dunda - これは私があげた。(これについて以下が成り立つ:私があげた)
 こう言うと、zo'uのないところで「私は」と訳してきたのは不適切ではないかと感じるかもしれませんが、訳の自然さを出すためにそうしています。よりカジュアルな認識としては「"は"と"が"が共存するときの"は"」と考えるのがいいかもしれません。]

pampe'o x1はx2の恋人
zanru x1はx2(考え、出来事、行動)に賛成する

もちろん、 冠頭の項とbridiの間の関係は曖昧です。冠頭にあるsumtiはdo'e sumtcitaのあとにくるものとしてそのbridiと関連しているとも考えられますし、冠頭にあるsumtcitaはそれがbridi内にあるかのごとくそのbridiと関連しているとも考えられます。その項がbridiとどう関係あるのかについて明確なヒントを与えることなく、冠頭に項をおくことも十分可能です。:
le vi gerku zo'u mi to'e nelci lo cidjrpitsa - この犬について以下が成り立つ:私はピザが嫌い。
これは、なぜ犬への言及の合理性についてどう推測するかを聞き手に丸投げしています。
cidjrpitsa x1はx2(トッピング/成分)のピザ

 冠頭にnakuが含まれるときは、いたって素直です。すなわち、そのbridi全体は否定されます。そのbridi自身がnakuで始まるときのように。
 さて、冠頭はどの文まで有効なのでしょう?ある冠頭は、続くbridiが終わるまで有効です。もしそれが望まれないならば、冠頭をいくつかのbridiに適用する方法が2つあります。ひとつは、.iの区切りのあとになんらかの接続詞をつける方法です。もうひとつは、tu'e ... tu'u で囲み、それに同じ冠頭を適用させるというものです。この括弧はbridiをまとめくっつけるので、あらゆる語句を複数のbridiに適用するのに使われます。

zo'uをやりましたので、最初の”論理学的”語についてみていきましょう。

da 論理存在量化sumka'i 1
de 論理存在量化sumka'i 2
di  論理存在量化sumka'i 3

これらの語は数学の変数x,y,zのような、同じものです。しかし、いったん定義すると、それは同じものを参照しつづけます。これらの語はbridiの冠頭で定義されます。つまり、冠頭の適用が停止すると、これら3つの語の定義も解消されます。
da,de,diは、文字通り、有用であろうとなかろうと、どんなsumtiでも参照できます。これら変数を束縛する方法のまずひとつ目は、量化です(これが論理存在量化sumka'iという訳語のゆえんでもあるわけです。)それらはsumka'iであり、それらは量化されたとき最も有用であり、それらは存在的であります。"存在的"とはどういう意味でしょう?この語が使われたとき、それらは実際に存在するものを参照することを暗に意味しています。例をみましょう:
pa da zo'u da gerku この言明は冠頭に pa da を有しており、「ひとつの存在するものについて以下がなりたつ:」という意味になり、ここでdaはそう定義され、bridi, da gerkuの中で使われています。日本語に訳すとこんな感じです:「犬であるようなものがひとつ存在する」。これは明らかに偽ですね。なにせ、世界には犬なんて五万といるでしょうから。もしda,de,diが量化されないなら、su'o(少なくとも1つ)が初期値として与えられます。ということで、da zo'u da gerku は、「少なくともひとつ、犬であるようなものが存在する」「次のようなxが少なくとも1つ存在する:xは犬」となります。これは真ですね。ここで注意して欲しいのが、どんな量化であっても、真であるためには以上でも以下でもなくきっかりとその数でないといけません: もちろん、1匹の犬は存在しますが、ロジバンの pa da zo'u da gerku には「犬が1匹いる」という素朴な意味かつ、「1以上でもそれ以下でもない」という意味が含まれているのです。

 これらの存在的sumka'iに関していくつかのルールがあります:
- もし量化詞 ro がdaに使われた場合、それは『存在するものすべて』を指します。
- 存在的sumka'iの使用は、それが使われる真実の領域(the domain of truth)にそういったものが存在するということを主張するのみです。つまり、so'e verba cu krici lo du'u su'o da crida という文は、"真実の領域"がdu'u抽象句の内部にとどまるため、da crida とは述べていません。一般的に言って、抽象句はそれ自身の真実の領域をもつため、da,de,diを抽象句の内部で使うのはたいていの場合安全です。
- 同じ変数が複数回量化された場合、最初になされた量化が有効となります。すなわち、後に出てくる量化された変数の状態は、最初の状態により参照されたのと同じものを指すだけであり、後に出てくる量化されていない変数の状態は最初の量化詞を得ます。例: ci da zo'u re da barda .ije da pelxu は、「以下を満たすようなものが3つ存在する: それらのうち2つは大きく、3つすべては黄色い」。re daはci daの後にきているため、既に述べられた3つのもののうち2つを指します。daが量化詞なしで現れた場合は、最初の状態、すなわちciが想定されます。
- 冠頭に複数の項がある場合、それらの項は常に左から右に読まれます。ときどき、以下のようなことが生じます: ro da de zo'u da prami de これは、「存在するすべてのものXについて、少なくともひとつのものYについて以下が成り立つ: XはYを愛する」「すべてのものは少なくともひとつのものを愛する」という意味です。ここで、"もの"とはどんなものでもありえて、そのもの自身も含まれます(あるものは自分自身を愛しているかもしれない)。ここで述べておきたいのが、deはdaそれぞれに対して異なるものをとることができます。すなわち、deによって参照されるものは、そのdaによりけりなのです。daは冠頭でdeの前にくるので、それゆえ、それぞれのものが異なるものを愛しているかもしれないということになります(もちろん、偶然ro daが同一のものを愛している可能性もあるが、これは今回の場合に包含されているのは明らかです)。もし、daとdeを入れ替えたならば、異なる結果が生じます: de ro da zo'u da prami de = 「少なくともひとつのYについて、すべての存在するXについて以下が成り立つ: X は Yを愛する」。これはすなわち、「すべてのものが愛するものが少なくともひとつ存在する」という意味になります。
もちろん、どちらの主張も完全に偽です。何も愛さないものは多数存在します― 岩や、抽象概念など。同様に、万物が愛するものを想像するのも不可能です。"万物"は知覚をもたないものも含まれるからです。これらの変数が指すものを束縛するよりよい方法が必要ですね。ひとつの良い方法に、関係節を用いるというのがあります。:
ro di poi remna zo'u birka di = 「すべての存在する人間であるようなXについて以下が成り立つ: Xはひとつ以上の腕をもつ」、「すべての人間は腕を有する」。これは真です。少なくとも潜在的、永遠的な意味においては。
birka x1 はx2の腕

[注:原文にはここにユニコーンの話があるのですが、明らかに誤りであるため削除しました]

興味深いことに、da,de,diに関係節を使うとき、その変数はpoiとnoiの区別がされずに束縛されます。これは、re da noi gerku が犬である二つのものを参照することしかしないからです。それゆえ、noiはda/de/diではあまり意味をなしません。de noi gerku cu gerkuのような馬鹿げていて明白なものであろうとなかろうと、あらゆる節は常に制限的なのです。
実際は、変数を定義するのに冠頭はそこまで必要ありません。bridiに直接sumtiとして使い、そこで量化することができるのです。必要なのは、それが初めて現れたときに量化することだけです。ということで、人間が腕を有するといった文は、birka ro di poi remna と書くことができます。しかし、これでは変数の順序の問題が残るので、冠頭はbridiをしっちゃかめっちゃかにしなければならないのを防ぐため、変数を正しい順番で置いておくために使われます。多くの変数を使うときは、冠頭はたいてい名案です。

2つ目の論理学的単語は基本的にはさっきまでみてきた3語と同じですが、sumka'iではなくbrika'iというところが異なっています。:
bu'a 論理量化存在brika'i 1
bu'e 論理量化存在brika'i 2
bu'i  論理量化存在brika'i 3

これらは上でやった3単語と同様にすこぶる働きますが、注意してほしい大事な点がいくつかあります。:
項だけが冠頭にいけるのですから、これらbrika'iを項にするために量化詞をもたせる必要があります(そうすることで、brika'iはsumti化されるからです)。しかし、冠頭で量化されると、その量化詞は通常のselbriに伴う量化詞とはかなり異なった働きをします。すなわち、そのselbri変数のx1にふさわしいものの数を量化するのではなく、係るselbriの数を直接量化します。同じく、初期値の量化詞はsu'oです。というわけで、re bu'a zo'u は「関係Xにある2つのものについて以下が成り立つ:」ではなく、「2つの関係Xについて以下が成り立つ:」という意味になります。
練習がてら、bu'aの例をみてみましょう:
ro da bu'a la .mik. = 「すべての存在するXについて次が成り立つ:Xはミクと少なくともひとつの関係にある」、「すべてのものは少なくともひとつの方法でミクと関係がある」。ここでも順序の問題があります: su'o bu'a ro da zo'u da bu'a la .mik. は「少なくともひとつの次のような関係がある:存在するすべてのものがミクとその関係にある」。最初の文は真です。どんなものであっても、ミクと呼ばれる少女とそれを関係付けるselbriを作成することができるからです。しかし、後者が真かどうか、つまり、万物とミクの関係性を表すひとつ以上のselbriがあるかどうかは確信がもてません。
selbriを量化する例を見てみましょう:
ci'i bu'e zo'u mi bu'e do - 「以下を満たす無限の関係性bu'eが存在する:私は君とbu'e」、「私と君の間にはありとあらゆる無限の関係がある」

しかし、bridi内ではselbri変数を量化できません。bridi内で量化すると、それはsumtiとして働きます: mi ci'i bu'a do はbridiではありません。これが問題になる状況がいくつかあります。29章ではこういった問題を克服する方法を教えたいと思います。

2013/08/05

uicai mi co'a pukfri lo crisa nalgundei

(私は夏休みを楽しみ始めました!)

テストも無事終わり、ようやくロジバンのほうにも戻ってこれました。 .ui

とりあえず、ここでやりたいことは…

・ wavelessonの次の章の翻訳(友人の要望
・ BPFKsectionの心態詞の翻訳の続き
・ valzengaus

ですかね!


以下、個人的疑問かつメモ

・mi nanca li reno は、そのときの年齢ではなく寿命と解釈すべき。
・年齢を「経験」「過程」ととらえれば、pruceやlifriで表現できる:
 mi pruce pare nanca - 私は12年が入力された過程だ - 私は12年を経たもの - 私は12歳
 mi lifri pare nanca - 私は、12年を経験した - 私は12歳
・meやduやpo'uの関連性について。(結局meの使い勝手が分かりにくい)
・時間表現の記事書いたので空間表現の記事も書きたい(BUhU含め)