もっぱら備忘録であって、論理が不明瞭、記述が煩雑。
[1-2] CLL8-2:
http://lojban.github.io/cll/8/2/
[2] BPFK section: subordinators :
http://www.lojban.org/tiki/BPFK+Section%3A+Subordinators
ここでは、BPFKによって意味の再定義された(と思われる)関係節 poi/noi とそれから派生する pe/ne, po/no, po'u/no'u について考える。ほとんどがcogas個人の意見で、もっぱら非公式である。
まず、再定義されたと考えられる理由から述べる。主な変更点は「制限(限定)的」「非制限(非限定)的」の意味合いが変わっているところである。[1-1]では、たとえば次のような記述がみられる:
However, even with the assistance of a pointing finger, or pointing lips, or whatever may be appropriate in the local culture, it is often hard for a listener to tell just what is being pointed at. Suppose one is pointing at a person (in particular, in the direction of his or her face), and says:
1.1) ti cu barda
This-one is-big.
What is the referent of “ti”? Is it the person? Or perhaps it is the person’s nose? Or even (for “ti” can be plural as well as singular, and mean “these ones” as well as “this one”) the pores on the person’s nose?
(英語CLLは改訂版を引用するが、日本語訳として差し支えなければ旧版を引用する)
しかし、指(あるいは唇など文化によってさまざまだが)で指したとしても、何を指しているかを正確には言えないことがある。誰かが目のまえの人を指してこう言ったとする。
1.1) ti cu barda
これ(ら)は大きい。
ti は何を指すのだろうか。その人だろうか。もしかするとその人の鼻かもしれない。あるいは、ti には複数、単数の区別がなく「これら」と「これ」の両方を表せるので、その人の鼻の毛穴を指すのかもしれない。
ここまでは分かる。そこから、関係節の概念の導入があり、この例文が続く:
1.2) ti poi ke'a prenu ku'o cu barda
この人は大きい。
1.3) ti poi ke'a nazbi ku'o cu barda
この鼻は大きい。
1.4) ti poi ke'a nazbi kapkevna ku'o cu barda
これらの鼻の毛穴は大きい。
この時点で、「poi節は先行sumtiが何を指しているのかが不明確であるときに、その指示対象を明確化するために付け加えられる」と捉えることができる。
[1-2]ではIncidental relative clausesが導入される:
There are two basic kinds of relative clauses: restrictive relative clauses introduced by “poi”, and incidental (sometimes called simply “non-restrictive”) relative clauses introduced by “noi”. The difference between restrictive and incidental relative clauses is that restrictive clauses provide information that is essential to identifying the referent of the sumti to which they are attached, whereas incidental relative clauses provide additional information which is helpful to the listener but is not essential for identifying the referent of the sumti. All of the examples in Section 1 are restrictive relative clauses: the information in the relative clause is essential to identification. (The title of this chapter, though, uses an incidental relative clause.)
Consider the following examples:
2.1) le gerku poi blanu cu barda
The dog which is-blue is-large.
The dog which is blue is large.
2.2) le gerku noi blanu cu barda
The dog incidentally-which is-blue is-large.
The dog, which is blue, is large.
In Example 2.1, the information conveyed by “poi blanu” is essential to identifying the dog in question: it restricts the possible referents from dogs in general to dogs that are blue. This is why “poi” relative clauses are called restrictive. In Example 2.2, on the other hand, the dog which is referred to has presumably already been identified clearly, and the relative clause “noi blanu” just provides additional information about it. (If in fact the dog hasn’t been identified clearly, then the relative clause does not help identify it further.)
関係節には基本的なふたつの種類がある。 poi ではじまる限定関係節と noi ではじまる非限定関係節である。限定関係節はスムティが指すものを決めるために必要な情報を提供する。それに対して、非限定関係節は聞き手の役には立つがスムティが指すものを決めるためには必要ではない追加の情報を提供する。第1節の例文はすべて限定関係節であり、関係節の情報は指すものを決めるために必要不可欠である。
以下の例文について考えてみよう。
2.1) le gerku poi blanu cu barda
その青い犬は大きい。
2.2) le gerku noi blanu cu barda
その犬、それは青いのだが、は大きい
例文 2.1では poi blanu で表される情報は当該の犬を同定するのに不可欠だ。この関係節があることで、候補となる犬がすべての犬から青い犬に限定される。だから poi 関係節は限定関係節と呼ばれる。それに対して、例文 2.2ではおそらくどの犬を話題とするのかはすでに明らかであり、関係節 noi blanu はその犬についての追加の情報を提供するだけだ(たとえ実際にはどの犬を話題にするのかが明らかではなかったとしても、ここでの関係節はそれをより明確にすることはない)。
このことから分かる通り、CLLの「制限的」「非制限的」は英語におけるそれらと同じ意味合いである。つまり、CLLでは「制限的関係節」は先行sumtiが
指しうる範囲を限定するのに使われる。その一方で、「非制限的関係節」は先行sumtiの指示範囲を変えるといったことはない。単に補足の情報である。
さて、BPFKではそのあたりがどうなっているかというと、[2]によれば、
noi
The "non-restrictive" part means that the information in the noi clause is not used to restrict the set of things that the sumti noi is attached to refers to. The noi bridi gives additional information about the referents of the sumti noi is attached to.
poi
The "restrictive" part means that the information in the poi clause is used to restrict the set of things that the sumti poi is attached to refers to. In other words, out of the referents of the sumti that poi is attached to (which, for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed) the sumti is actually intended by the speaker to refer only to those things for which the bridi in the poi clause is also true.
For unquantified sumti, the clause selects from all the referents of the sumti just those that satisfy it; when an inner quantifier is present it indicates how many those referents are. For quantified sumti, the quantification is over just those referents of the sumti that satisfy the clause.
noiはCLLとさほど変わらない定義である。すなわち、「その節は、先行sumtiが指すものの集合を限定するのに使われず、先行sumtiの指示対象についての追加的情報を与える」のがnoi節である。
一方で、poiは非量化項と量化項で振る舞い方が異なることに注意すべきである。量化項に関しては、CLLと同様、「先行sumtiの指すものの集合を限定するのに使われる」。しかしながら、非量化項では、「先行sumtiの指示対象すべてから、その節を満たすものだけを選びとる」。さて、何が違うのか。見るべきは、量化項の記述では「集合(set)」という語が出てくるのに対して、非量化項のほうではそれが出てこないというところである。(ちなみに、内部量化はpoiによって限定された結果の指示対象の個数を示すらしいが、個人的には辻褄の合っていないように思われる。というのは先行sumtiはそれ自体で定項であり、れっきとした指示対象をもっているべきだからである。)
formal definitionは、
noi sumti noi ke'a broda sumti to ri xi rau broda toi
poi + PA sumti PA sumti poi broda PA da poi ge me sumti gi broda
poi + sumti (no PA) sumti poi broda lo me sumti je broda
poi + ro da ro da poi broda cu brode ro da zo'u ganai da broda gi da brode
poi + su'o da su'o da poi broda cu brode su'o da zo'u ge da broda gi da brode
となっており、 上で見たとおり、poiの振る舞いが先行sumtiの様子によっていくらか異なることが分かる。
(ところで、BPFKのpoiの記述にはところどころ食い違っている箇所もあると思われる。たとえば、" for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed" では、lo dacti が例にあげられているが、これは非量化項であるのだから、例としては不適であろう。ro dacti なら良い。すなわち、「ro dacti は議論領域のほとんどすべてのものの上を走査してしまうので、poi節によって縛ってやる必要がある」ということである。これが lo dacti なら話はまったく変わってくる。なぜなら、後述するが、lo dacti の指示対象は話者が任意に決めることができるからである。)
さて、問題は「なぜ限定的/非限定的の意味が変わったのか」であるが、これは恐らく xorlo案の採用による。すなわち、デフォルト外部量化詞の撤廃に起因すると思われる。
言い換えれば、デフォルト量化詞の撤廃とは、(複数)定項の誕生である。定項は議論領域すべてを走査することはなく、議論領域のうちの何か特定のものを指示している。この特性がnoiとpoiの使用方法に大きな影響を与えている。
定項の誕生というのは、zo'eが定項として在ることに起因する。xorloでは外部量化詞のない描写sumtiはすべて zo'e に還元される。ここで少し厄介なのがzo'eの意味論であるが、zo'eはただただ「複数定項」であるのみであって、それ以上でも以下でもない。すなわち、かなり自由度が高く、使い勝手がよい。裏を返せば、使い勝手がよすぎるため、解釈や考察がしにくい。
ここでは、zo'eの意味論を、つまりzo'eが何を指すのかというのを、「話者の自在に尽くす」とする。たとえば、議論領域に「A, B, C」の3つのものがあったとして、zo'eは、「A」、「B」、「C」、「A,B」、「A,C」、「B,C」、「A,B,C」の7通りのいずれを指すとしてよい。注意したいのは、
zo'eはそれ自体で既に指示対象が決まっているとみなすいうことである。
(注:さて、では「誰がzo'eの指示対象を決めるのか」。おそらくは話者であるが、コーパス、そして経験上、話者がその指示対象を決めずに(さきの例でいえば、7通りのどれであるかを決めずに)zo'eを言うこともよくある。これは「daに近いzo'eの用法」と言えそうである。この用法も含むためには、指示対象を決めるのは「真理関数」とでも言わざるを得ない。変な話ではあるが、「話者はどれと指示対象を特定してはいないが、それと特定している」とみる。そもそもの話、定項がどれを指示しているのかというのは、解釈によるのだから、このことは甚だ杞憂にすぎない。話者は、この「解釈の不確定性」を逆に利用することで、「daライクなzo'eの用法」を実現できると言える。)
同様に、ti/ta/tuといった直接指示語も、定項となる。CLLでは、「ti は何を指すのだろうか。その人だろうか。もしかするとその人の鼻かもしれない。あるいは、ti には複数、単数の区別がなく「これら」と「これ」の両方を表せるので、その人の鼻の毛穴を指すのかもしれない。」ということから、poiによってtiが実際は何を指すのか縛る必要があるとしたが、tiは定項であるのだから、tiそれ自体でやはり指示対象は明確である。つまり、「その人」「その人の鼻」「その人の鼻の毛穴」の3通りの解釈が可能であったとして、それは「解釈の余地」であって、tiの指示の余地ではないことに注意する。tiはどれか1通りに定まっている。
ああ!いい言葉だ。そう、「指示の余地」と「解釈の余地」というのをごっちゃにしてはいけない。
結局、定項に指示の余地はないのだから、それを量化項と同じような意味でpoiで縛るというのはおかしい。
話を戻して、量化項に限っていえば、poi/noiの用法はなんら変わっていない。たとえば、
ro prenu noi xamgu cu klama
ro prenu poi xamgu cu klama
では、{noi xamgu}はro prenu の指示範囲(というべきか、走査範囲というべきか、ドメインと言うべきか)を変えない(そのため、来るのは議論領域の人々全員である)。ここでは、ro prenu は想定されている議論領域の「prenu」すべてからなる集合を指示範囲としており、noi xamgu は、その指示範囲の人々(つまり議論領域に含まれる人全員)が「良い」と言っている。一方で{poi xamgu}は ro prenu の指示範囲(ドメイン)を変えている。ここでは、「議論領域に含まれる人のうち、「良い」人だけが来る」という意味になる。
これは、さきほどの ti の議論にもそのまま当てはまる。tiが量化されるCLLでは、「ti」というのは、「指差す、私の近くのあるもの」くらいの意味でしかなく、そこには指示の余地がある。つまり、CLLのtiでは、そのドメインに「その人」「その人の鼻」「その人の鼻の毛穴」の3つが含まれうる。であるから、CLLではpoiによってtiのドメインをきちんと定めよ、と言っているのである。
いましがた、量化項のpoiに「指示範囲に含まれる XXX のうち、~だけ」というフレーズを使ったが、このフレーズを非量化項、すなわち定項にそのまま流用しようと考えれば、どうなるかは明らかである。すなわち、「定項の指示対象のうち、~だけ」となる。つまり、tiの指示対象が「A,B,C」で、BとCが黒色だったとして、
ti poi ke'a xekri
は、tiの指示対象「A,B,C」のうち、黒色のもの、つまり「B,C」を指示対象とすることになる。
「指示を限定する」という意味では、量化項も定項も変わらないように思われるが、定項にpoiを使うのは暗黙に「複数の指示対象を持っている」ことを意味する。たとえば、次の2つを考えてみる。
① ti poi ke'a xekri
② ti noi ke'a xekri
◯◯●
①のtiの指示対象はおそらく白い玉を含むはずである。たとえば、
◯[◯●] とか [◯]◯[●] とか [◯◯●]
である。そして、その指示対象のうち、黒いものに限定することで、
◯◯[●]
を指すことになる。
一方、②では、tiの指示対象はこの時点で既に黒い玉のみである。
◯◯[●]
そして、そのことを分からせるために、noi ke'a xekri と続けている。重要なのは、定項の指示対象はnoiによって何ら変わっていないということである。つまり、「XXの指示対象は~かも、~かも、~かもしれない」というような文言は定項にとっては全く無意味である。その心配が生じるのは、量化項が述語によって縛られるのみで、どうしても1つの述語だけでは縛りきれない(指示の余地が生じる)ことによる。そして、最も重要なのは「~かもしれない」という心配は聴者のためになされるのではなく、真偽判定のためになされるのである。たとえば、CLL解釈で、
ti nanmu
といったとき、tiの指示範囲に「その人」「その人の鼻」「その人の鼻の毛穴」があったとしよう。そうすると、CLL文法ではtiの暗黙の量化詞はroであるから、
その人は男であり、その人の鼻は男であり、その人の鼻の毛穴は男である
という意味の命題に相当してしまう。「想定しないものを指すかもしれない」というのはこれを防ぐための心配であって、「聴者が他のものを想定してしまうかもしれない」というものではない。あれ?となると、そもそも英語と意味合いが違っているのでは?
結論としては、定項にpoi節を使うことの意義はほとんどない。これは、定項の指示対象が話者の自在に尽くすからである。(聴者にとってその指示が特定可能かというのは、CLLの頃からまったく要請されていないことに注意。CLLで指示範囲の広さを心配していたのはもっぱら全称量化による不意の偽のためであって、聴者が取り違えてしまうためでは無いのである)
話者の自在にその指示対象が尽くすのであれば、わざわざ poi を使うために定項の指示対象を多めにとっておく必要がないからである。たとえば、「近くのもの」にスイカ、リンゴ、バナナがあって、リンゴを ti によって指示したいとすれば、{ti}でリンゴを指そうとすればいい(それを明確化するためにnoi ke'a plise を使えば良い)のであって、{ti}で一旦スイカ、リンゴ、バナナを指して、そこから poi ke'a plise といって最終的にリンゴを指すようにするのは冗長だろう。
だが、主義として、量化項がとるような指示対象を定項にもデフォルトではとらせるという立場はなんらおかしくはないので、その場合は ti poi ke'a plise というのは受容される。
結果として、その人の主義によって、poi と noi は(定項においては)ほとんど同じ意味合いで使われるのである。
lo re nanba ku pe mi について、BPFKでは、「私のパン」が2個あるということを意味すると定義されているが、lo re nanba ku でひとつの定項をなしているということを考えると、2個あるのは「私のもの」でなく、つまり、pe mi によって限定する前のパンの個数ととるべきではないだろうか。「私のパンが2個」というのは、 lo re nanba ku ne mi とすべきである。そして、 lo re nanba ku pe mi は「2個のパンのうち、私のものの方」としたほうが整合がとれる。
xorloで、lo broda が zo'e noi ke'a broda と定義されているのは、zo'eが「話者の自在に尽くす」ということを意味していると思う。
ちなみに、「zo'eはその指示が不特定であるから、poiによって何かを指しているのかを明らかにしなければならない」というのは定項の指示の量化項的立場とでもいえそうである。これは英語に近い立場だと思う。
「somethingでは何を指しているのかわからないので、関係節によってその指示を明確にする」、というようなことを述べているのであるが、大体、英語での「指示を明確にする」というのは「聴者」による特定のためでありその限りであるから、ロジバンとは目的がかなり異なる(というか、英語のsomethingは普通、zo'eじゃなくて da に訳されるはずで、その時点で筋違いである)。
xorlo時代であるいまのロジバンで、量化項以外でpoiを使う機会は極端に減るべきであるが、「英語的に」「自然言語的に」poiを使っている人が多いのが現状だと思う。ロジバンの定項のほうが簡単な概念であるのに、わざわざ自然言語的に使うのはなんというかモッタイナイ。
最後に、formal definition についてみておく。
noi sumti noi ke'a broda sumti to ri xi rau broda toi
poi + PA sumti PA sumti poi broda PA da poi ge me sumti gi broda
poi + sumti (no PA) sumti poi broda lo me sumti je broda
poi + ro da ro da poi broda cu brode ro da zo'u ganai da broda gi da brode
poi + su'o da su'o da poi broda cu brode su'o da zo'u ge da broda gi da brode
sumti noi ke'a broda は sumti (to ri xi rau broda toi) となる。つまり、noi節は当該の文から「浮いて」いる。noi節は指示の余地を減らすのではなく、解釈の余地を減らすということに注意。sumtiの指示対象はsumti自身が既に定めている。
poi は様々ある。まずは量化項につく場合をみる。
roda poi broda cu brode = roda zo'u ganai da broda gi da brode
su'oda poi broda cu brode = su'oda zo'u ge da broda gi da brode
となっており、これはふつうの述語論理の定義とまったく同じである。これは、proportionalな量化か否かで異なるだけである。いずれにせよ、量化項に対する broda はその量化項のドメインを再調整することが伺える。
◯▲◯ が議論領域だったときに
roda cu blabi は偽であるが、roda poi cukla cu blabi は真であるのは、 poi cukla によって、da のドメインが、議論領域全体「◯▲◯」から「◯◯」に再調整されたためである。
PA sumti poi broda もまた量化項につくpoi節である。
PA da poi ge me sumti gi broda
この {ge me sumti gi broda} の前半が如実に「sumtiの指示対象のうちの」を表している。
最後に、定項に対するpoi節を見て終わる。
sumti poi broda = lo me sumti je broda = zo'e noi ke'a me sumti je broda
≒ zo'e noi ke'a ge me sumti gi broda
これは少し厄介である。まず、sumti の指示対象を A としよう。そして、poi節は指示対象を変えるので、変わった後、つまり sumti poi broda の指示対象を B としよう。そうすると、
zo'e noi ke'a ge me sumti gi broda
の zo'e の指示対象はB である。たとえば、{lo broda ku poi brode} を考えてみよう。
lo broda ku = zo'e_A noi ke'a broda
lo broda ku poi brode = zo'e_B noi ke'a ge me lo broda ku gi brode
= zo'e_B noi ke'a ge me zo'e_A noi broda ku'o gi brode
= zo'e_B noi ke'a ge me zo'e_A gi brode
となる。2つのzo'eの指示対象が異なることに注意。しかし、これは一見、違和感がある。というのも、
◯▲◯
を sumti が指示していたとして、 sumti poi blabi といったとき、これは、[◯]▲◯ でもなく、 ◯▲[◯] でもなく、 [◯]▲[◯] を指すように思うからである。
むしろ、
SUMTI poi broda
= zo'e noi ro da poi me SUMTI zo'u go da me ke'a gi da broda
とすべきなのかもしれないが、brodaが分配的であるならいいが、非分配的であるときは上手くいかない。
そもそも、SUMTI poi broda はこれ全体でもやはり定項であるのだから、SUMTIからさらに指示対象を狭めるときに、poi broda を純粋に適用するか、やはりヒントの意でしかないか。つまり、ti poi cukla を 「これらのうちの丸いもの」とするか、「これらのうちの丸いそれ」とするかは話者に任せてよいかもしれない。そうすると、やはり BPFKの定義が最良ということになる。
議論領域が ◯▲◯ だとして、
ti poi cukla を「これらのうちの丸いもの」とみなすときは、◯◯の1通りの解釈がありえるし、
「これらのうちの丸いそれ(ら)」とみなすときは、◯、◯(もう一方の)、◯◯の3通りの解釈がありえる。自然言語的にもこれが一番融通がきいてよいきもする。