2014/12/14

leは指示語である

14/12/14 ver 1.0

ni'o

 le は冠詞であるから、他の冠詞、特に lo を対比の形で説明されることが多いが、このことがそもそもleの理解を妨げている気がする。

 そう言っておきながら、一応、loとleを対比の形で、定義を挙げておこう(xorlo):

lo broda zo'e noi ke'a broda
le broda zo'e noi mi ke'a do skicu lo ka ce'u broda

skicu
x_1 (者)は x_2 (物/事/状態)を x_3 (者)に x_4 (表現/文字列)によって描写/叙述する


ni'o

 さて、ひとまず、混乱してみよう。つまり、loとleの対比の形でleを見てみよう。

 lo broda も le broda も根幹は(論理学上は)同じ zo'e に還元される。その点で、lo broda と le broda には違いはない(!)。しかしながら、関係節に目を向けてみると、lo broda では率直に 「broda1 を満たすようなもの」としてあるが、 le broda ではそれに比べてなんだか遠回しな定義である。訳してみれば、「私があなたにbroda1の性質があるとして描写するようなもの」となる。

 ここで、何人かは次のような袋小路に陥る。よくよく考えてみれば、lo broda、すなわち「broda1を満たすようなもの」というのは、少なくとも「私」がその対象がbroda1的であると思っているからそう描写できるのだし、そう描写しようと思いつくのである。つまり、lo broda という語においても、「私」はやはり、対象に対して broda1の性質があるとみなしているし、事実そのことを用いて「lo broda」と描写しているのだから、やはり「私はそれをbroda1の性質があると描写している」ことになる。とすれば、lo broda と le broda の定義の関係節の内容は事実上まったく同じことを述べているのではないか。・・・・・


ni'o

 以上の話には決定的な誤りが1つある。

 skicu の表す関係性には「説明されるもの」という位置がある。つまり、skicu においては、その("lo ka ce'u broda"という)描写に先立って、とにかく何かが指示されているのである。そして、le broda とはまさにその、表現に先行して指示されていたもの、なのである。

 先行する指示の態度をごっそり落とせば、 le broda の指示対象のほとんどが lo broda でも指示できることは注意しておくべきである。

 ちなみに、xorloでは、CLLにあるような、

(1) le ninmu cu nanmu
(2) lo ninmu cu nanmu

のうち、(2)は明らかに偽である、という立場は消えたといってよい。なぜならば、(2)は

(2)' zo'e noi ke'a ninmu ku'o cu nanmu

のことであり、これは、

(2)'' zo'e to rixirau ninmu toi cu nanmu

のことであるが、to .. toi は当の命題文の真偽には直接関係はないので省略すると、

(2)''' zo'e cu nanmu

に等しいからである。もちろん、(1)も(2)'''に等しい。つまり、xorloにおいて、lo broda が実際に broda でないからといって、その文が偽になることはない。noi句はあくまで当の文(地の文とでも言おう)のしかじかの項の注釈付けでしかなく、言葉を換えれば、地の文から『浮いている』ため、真偽の判定に晒されないのである。

※ おそらく、noi句の指摘は、na'i とメタ否定を打ってから、その内容について述べればよいと思う。いずれにせよ、「何が真偽の天秤にかけられているか」を意識するのは重要である。

※ よく、loとleの違いにはあともうひとつあると言われる:『skicu_4 というのは「説明に用いられた表現」が入る。つまり、skicu_4には「話者が指示するそれが実際にどうであると思っているか」を記述するところでは必ずしもない。たしかに「私」はskicu_2(指示するもの)のことを lo ka ce'u broda と表現したが、必ずしもそれが「私はそれに対して broda_1的であると思っている」ということを意味しない。というのも、「私」は、自らの表現能力の乏しさを恨みつつ、苦し紛れに、lo ka ce'u broda とやっとの思いで描写したかもしれないからである。ここで重要なのは、その描写表現に対する表現者の印象を、skicuはなんら規定していないということである。つまり、確かに上記の議論のように表現者は指示物にその描写がぴったり合っていると確信しているかもしれないし、一方で、どう表現すれば分からないがなんとかその指示物を描写するためにそれらしい性質をひねりだして用いただけかもしれないが、そのことについてleは寛容(鈍感)である。』 これについては、xorloではそこまで差異が顕在化しないだろうと思う。というのは上で見てきたように、結局双方とも注釈付けでしかないからである。思い切った話、注釈付けの内容が間違っていようと、地の文の真偽の如何には無関係であるから、それがどんなに自信のない表現だったとしても、一向にかまわないのである。また、「迷宮の議論」で述べられていたように、いずれにせよ、skicuでそう語ったということは、周りからみれば、彼はたしかに「そう表現した」のであり、それは彼が「noi ke'a broda」と述べたことと(指示の態度を除けば)事実そんな変わることではない。

ni'o

 大体このような感じになるであろうが、やはり冗長な感じはある。ここでは思い切って、直示語との関連でleを導入してみる。

 ti/ta/tuは、実際に指を差して指示できるようなものに対して使うことのできる代項詞である。順に、「これ(話者・聴者ともに近いもの)」「それ(聴者に近いもの)」「あれ(双方ともに遠いもの)」を意味する。基本的に、物体であれば、ti/ta/tuで指せる。また、時間的にそこまで長くない出来事についても、ti/ta/tuで指すことができる。これは、出来事はたしかに指差しによって指示できるからである。そして、延長直示の現象を考慮すれば、性質もこれらによって指示できる可能性がある。たとえば、「赤いとはなんだ」と聞かれて、赤いリンゴを指さしながら、「これが「赤い」だよ」と言うことはそこまで異質ではないだろう。このように、物体だけでなく一部の出来事・性質もti/ta/tuによって指示することができる。

 特定のものを指示することは、必ずしも指差しによってのみ行われる必要はない。ti/ta/tuは指差しによって、そして、話者と聴者とそれとの位置関係という観点によってそれぞれは使い分けられる。しかし、私たちは何か特定のものを指示しわけるためのもっと強力な道具を持っている。すなわち、指差し・位置関係という指示のし分けの代わりに、述語を指示のし分けに利用することができよう。冠詞 le はまさにそのための冠詞である。ti/ta/tuで私たちが指を使って語りたい特定の対象を指示したように、leでは私たちは述語を使って特定の対象を指示することができる。ここで重要なのが、もう指を使ってはいないので、私たちはleによって指差しのできないものも指示することができる。すなわち、その場にない特定のもの、観念的な特定のものも、leによって指示することができる。


ni'o

Q:lo はこの書き方だと特定のものを指示しないということにならないか。
A:「特定の」の使われ方、すなわち、「誰にとって特定的か」というのに注意しなければならない。上の文脈では、指で差すことに備わる「特定的」であるから、もっぱら「話者にとっての」である。話者にとって不特定なものを指差しすることはできないだろう。一方で、xorloでいわれる「lo は特定的な何かを指示する」というのは、必ずしも「話者にとって」を意味するのではなく、「命題にとって特定的」なのである(もちろん、命題にとって特定的なものの一部は話者にとっても特定的である。このことが、loがleを内包する根拠となる)。つまり、その命題が真偽を判定されるときに、その項は特定的、揺れ動かない特定の何かを指示しているということである。この「命題にとって特定的」というのは、da/de/diの束縛変項との対比によって生じる表現である。命題にとって、束縛変項は特定的な何かを指示するものではない。あれは、「空」である。空だからこそ、束縛変項は量化子によって量化できるのである。命題にとって不特定であるとは、それが議論領域の何ものをも指さないということである。

Q:leは"the"とは違うのか。
A:結果的に似たような状況で使われるが、その元の意は全く異なる。 "the" は話者・聴者の双方にとって特定的である(と少なくとも話者は思っている)ものに使われるが、leは述べたように聴者にとっての特定性をまったく考慮しない。言うなれば、leは「話者ひとりよがりのthe」である。また、"the"には照応(テキスト上の特定の語句を指示する)のに使われるが、leにはそういった用法はない。

ni'o

 「特定の」という単語が、「話者にとって特定的」「定項である(命題にとって特定的)」の2つの意味で文脈に応じて使われていることが不安であるが、それでも、loとの比較よりはかなり素直な導入になっていると思われる。leの根本にあるのは、話者にとって特定な「アレ」を指示することであり、それは、指差しができるかの違いこそあれ、ti/ta/tuと同じであると思う。


学名のロジバン化

14/12/14 ver1.0

ni'o

The CLL 4-8より、学名のロジバン化に関わる部分だけ訳しました。


ni'o lu

 さらに、学名(リンネ式二名法)をロジバン化する際の規則を設ける。これは国際的に動植物の種に対して適用されている。正確であることが不可欠である場合、これらの名前はロジバン化する必要はなく、19章で説明するように、シマヴォ{la’o}を使ってロジバン文の中で直接使えるようにすることができる。しかし、このシマヴォを使う方法では、最低4音節以上の長ったらしいラテン語化された名前を使うことになるし、その発音も疑わしくなる。次の提案は、不完全ではあるが、リンネ式名を有効なロジバン名に変換する手助けとなるだろう。これらはリンネ式二名法やその他の国際的な科学用語に基づいたフヒヴラを作るときにも役立つはずである。以下で使う用語として、「後舌母音」とは “a”, “o”, “u” のことであり、「前舌母音」とは “e”, “i”, “y” のことである。

  • "cc" 以外の二重子音(同じ子音が2つのもの)は1つにする(1つ消す)。
  • 前舌母音の前にくる “cc” は “kc” とし、それ以外では “k” とする。
  • 後舌母音の前や語末の “c” は “k” にする
  • 子音(”h”以外)の前や語末の “ng” は “n” にする
  • 語頭の “x” は “z” にし、それ以外では “ks” とする
  • 語頭の “pn” は “n” にする
  • 語末の “ie” と “ii” は “i” にする

さらに、次の特殊な置き換えを行う:

  • aa → a 
  • ae → e 
  • ch → k
  • ee → i
  • eigh → ei
  • ew → u
  • igh → ai
  • oo → u
  • ou → u
  • ow → au
  • ph → f
  • q → k
  • sc → sk
  • w → u
  • y → i

 しかしながら、二続きの母音はそれが2音節をなす場合は変換すべきではない。
2つの母音に挟まれた “h” は アポストロフィにし、それ以外では “h” は取り除く。もし “h” を取り除くべきでなさそうなときは、代わりに”x”を用いる。
 ロジバンの二重母音を形成しない残った母音ペアは、その間にアポストロフィを挟む。


li'u ni'o

これで恐らくリンネ式二名法でfu'ivlaが作れるはずですが、現状の傾向として見られることを書いておきます。

 まず、語末の子音は落とされるようです。そのまま母音をつけてしまうと、元のアクセントと同じでなくなってしまうからでしょう。

 それから、大体の(まともな;ラテン語由来の)学名は3型fu'ivla、つまり、語頭に関連するgismuの4文字rafsiをつけて登録されています。3文字rafsiを用いた学名fu'ivlaも登録されています。これについてはあとで論じることにしておいて、とりあえず例外がほとんどない4文字rafsiのほうを見ていきます。4文字rafsiを用いた(つまりスタンダードな)3型fu'ivlaは、

[4文字rafsi] - "r" (rafsiの語末や借用綴りの語頭が"r"のときは"n") - [借用綴り]

でつくります。3型fu'ivla学名で使われているgismuは、"finp-", "spat-", "gerk-", "cipn-", "tirx-", "bakn-", "mabr-", "sinc-", "jukn-", "xant-" などがありました。


 ある学名の動物を輸入したいとして、目レベル、属レベル、科レベル、種レベルのどのレベルを作るかというのは悩ましいところです。一番無難には種レベルで登録するのがいいでしょうが…。

 それよりも厄介なのが、どのgismuを使うかだと思います。たとえば、現段階で"mabr-"(哺乳類動物)を使っているのは「フェレット」のみですが、できればイタチ科gismuが使いたいところです(無いので仕方ないのですが)。

 おそらく、輸入したい動物範疇のひとつ上のカテゴリをgismu rafsi として採用するのが賢明だと思います。種なら属(なければ科)、属(科)なら網とすればまず間違いないとは思います。

 問題は、無い場合です。イタチ科もそうですが、ひとつ上のカテゴリのgismuが無い場合が困ります。その場合は仕方なく網(網はgismuに脊椎動物亜門と昆虫網ならすべて揃っています)を採用することになります。その辺りの格差が難儀ですね。

 イタチ科動物をfu'ivlaで作っておいて、それを用いてフェレットを定義する…という方法も考えられますが、どう考えても綴りが長くなりすぎて実用的ではないですね…。

 さらにいえば、爬虫網の目系はlujvoが比較的発達してはいますが、これもやはり語頭に使うには厳しいところがありそうです。{cakyrespr-}(カメ目の-)は少し冗長な気もします。

 個人的によりよいと思うのは、種の定義はしない、ということです。実際、gismuのほとんども属・科止まりです(しかし、ライオンやニワトリの2種のみ例外です)。これなら、網を使って定義できますし、比較的安全です。ただ、これでも、目の登録と属・科の登録がぶつかるのでまたまた難儀ではありますが…。

 種名は、x2でcmeneを用いて表現できますし、fu'ivlaに忌まわしき英名定義が蔓延っている状態を考えると、みんな考えたくないし、種のラテン語名なんて覚えたくないんですよ。ならcmeneで一時的に母国語から引っ張ってきたほうが道理に適っているように思います。

 あ、あと最後に。fu'ivlaには必ず由来を書きましょう。借用してるんだから、その起源(種名のラテン語綴りとか)を明記するのは当然だと思うのですが!それがいやならcmeneでしのげばいいのに…といつもながらぷんすこしております。


2014/12/12

NUについての少考

2014/12/12 ver 1.0

ni'o

NU, すなわちアブストラクタ・抽象詞について少し考えたことを。


ni'o

 まず、代表的に取り上げられるNUのcmavoは「出来事」「命題」「性質」「量」「概念」の5種だろう。NUそれ自体の統語論的振る舞いは至ってシンプルであり、その後ろに「文」を1つとり、述語を形成する。

 もう少しまじめにいえば、その文によって表される各々の抽象的実体をx1に位置させるような述語と変貌する。

 また、用語の暫定的な使用として、NU節/抽象節というのは、NUのあとにつづく文のことを表す。{lo NU [jufra]}のことは抽象句/NU句と呼ぶ。ここで、NU節やNU句をさらに細かく ka節やni句のように呼ぶこともあるが、誤解は生じないだろう。


ni'o nu

 nu はその後ろの文から「出来事」を抽出する。これ自体とくに不思議なことではない。というのも、文(特にここでは命題文のことだが)はそもそも大体において時空間上でおこる出来事について判断し、それを言語化したものだからである。「事態」と言ってもよい。ある種の文は事態を判断し、言語化したものであるのだから、事態はある種の文によって指示できるはずである。すなわち、「それが生じたときにその文で表されるような事態」を nu は文を取り込むことによって表すことができる。

 ここで重要なことは、nuがとりこむ文は閉文でなければならない。すなわち、なんらかの命題文でなければならない。このことは以下で述べる「性質」や「量」と大きく異なる点である。nu にとって、ce'uは不要である。ce'u とは自由変項であり、すなわちそれが文の一部を埋めているというのは、それが開文であることを示し、命題文(閉文)ではないということになるからである。

 もう一つ重要な点として、nuは確かに抽象詞ではあるが、他のものにくらべて抽象度は低いと言える。というのも、事態は実際に現実世界で起こりうるからである。これはかなり大事で、このことによって、nu節は指示句(ti/ta/tu)で指せる。事態は抽象的だが、現実的な抽象である。



2014/12/09

The Gnoli Triangle

ni'o

The Art of Conlang Classification なる記事をみつけた。以下に簡単に訳してみる。


ni'o

Introduction

 人工言語には多くの種類があり、その分類法は長年論じられてきた。しかしながら、どれの分類法が最良であるか、未だ一般的な賛同は得られていない。ここでは、様々な分類法についてみていきたいとおもう。

 明らかに、大多数が無意味と見なすような分類はたくさん存在しうる。人工言語の名前のイニシャルだとか、公式な旗・紋章の背景色だとか、作者の出生国だとかいうのは一部にはウケるだろうが、その言語の構造や目的について何も説明していない。イニシャル"Q"をもち、緑の旗で、どちらもスウェーデンで作られた2つの言語があったとして、だからといってお互いは全く以って異なるものである。以降、より意味のある順に分類をみていく。


ni'o

[ということだが、Classification by structureには正直興味ないので、というか、興味あるのはThe Gnoli Triangleなので、「目的別」だけを訳すことにする]


ni'o

目的別分類

人工言語は実に様々な目的のために作られてきた。異なる母国語を話す人間同士のコミュニケーション手段として作られたものもあれば、フィクションの人々のためのものもある。はたまた、「理想的な」言語の例証を目的としたものもあり、本当に様々ある。現在、目的別分類は意義のあるものであると一般的に考えられている。たいてい、3つの目的に大きく分けられる。


  1. 国際補助語(auxlang):異なる母国語話者の間のコミュニケーションの障壁の橋渡しになることを意図した言語。これはさらに2つに細分化できる:
    1. 世界中での使用を意図したグローバルな国際補助語。例:Esperanto, Novial。
    2. 特定の地域での使用を意図した地域的国際補助語。例:Afrihili, Folkspraak。
  2. 芸術的言語(artlang):芸術作品として作られた言語。これも細分化される:
    1. 架空言語:架空上の種や国家の言語。例:Quenya,Sindarin,Klingon,Verdurian。
    2. 私的言語:個人的な言語的理想を体現する言語。例:Vorlin。
    3. 宗教的・魔法的言語はまさにここに該当する。結局、多くの芸術には高尚な力を祝福するという目的がある。例:Bala-i-balan, Enochian
    しかしながら、これらの分類は重複する:Quenyaは架空言語であると同じくらい、トールキンの理想的言語である(し、私的言語ともみなせる)。
  3. 工学言語(engelang):客観的に確認できる目標を満たすよう設計された言語。3つに細分化できる:
    1. 哲学的言語:特定の哲学を体現する言語。この用語は、その語彙を、概念の一貫した分類から引き出す分類的言語に対してもっともよく用いられる。[訳注:基づいた哲学観念から、諸概念を体系的に分類して、それを語彙に反映させるような言語のことだと思う。] 例:Ars signorum, Ro(分類的言語), Toki Pona。
    2. 論理的言語:形式論理の体系を備えた言語。例:Lojban。
    3. 実験的言語:仮説や考えをテストするために作られた言語。例:Ithkuil。




The Gnoli Triangle

 しかしながら、これら3つの大きなカテゴリ(とサブカテゴリ)はすべての人工言語をきれいに分類する確固たる境界線のある箱ではない。すなわち、お互い重複しあっている。たとえば、芸術言語と工学言語の間の境界線は引くのは容易ではない。engineeringの要素を体現する架空言語やその他芸術言語はたくさんある。Henrik Theilingの人工言語はこれに該当するかもしれない。同様に、国際補助語と工学言語の共通部分もある。たとえば、17世紀の分類的言語や、もっと最近では、ロジバンがそれにあたる。国際補助語と芸術言語さえ重複する。というのも、いくつかの架空の設定からできた架空言語は国際補助語として提案されてきたからである。それゆえ、二者、もしくは三者の中間部分というのが存在する。

 これはすなわち、人工言語が位置することのできる空間が必要であるということだ。そこで考えられたのがGnoliの三角形である(これはClaudio Gnoli にちなんでいる。彼はLivaの作者であり、それ自身、3カテゴリのひとつにキレイに収まらない)。元のGnoliの三角形には、「工学言語」軸でなく、「論理的言語」軸があったのだが、And Rostaがそうしたほうがよいと提案し、現在は「工学言語」軸となっている。三角形は次のようになっている(カラースキームはRaymond A.Brownによって付け加えられた):

[Gnoli Triangle]

たとえば、ある人工言語作者は、自作言語について「70%芸術言語、20%工学言語、10%国際補助語」というように言い、三角形上のある一点を指すことができよう。


ni'o

 とりあえず Gnoliの三角形が出てきたのでこれでおしまい。結局、0か1かでなくて、主要3分類の成分比で特徴づけようというのがGnoliの三角形ですね。そんな突飛なアイデアでもないですが、結局、離散化からの脱出がよりよい方法なんだろうということを教えてくれます。


mu'o mi'e .cogas.iuk.

個別言語のタイプ

ni'o

 Types of individual languages というページを見つけた。ここには、ISO 639-3 が用いている言語のタイプの定義が書かれているのですが、人工言語を分類する拠り所としては良さそうだと思ったので、これを少し以下で訳してみようかと思う。


ni'o

Living languages(現存言語)

第一言語として学んだ人が今も生きているような言語がここに含まれる。


Extinct languages(絶滅言語)

もはや生きていない言語がここに含まれる。最近(たとえば直近数世紀の間)に絶滅してしまったならば、絶滅言語である。絶滅言語であるかどうかの判断基準は了解度(intelligibility)に基づく。


Ancient languages(古代言語)

古代(たとえば、千年以上前)に絶滅した言語がここに該当する。古代言語の場合、了解度に基づく判断基準が理想ではあるが、最終的な分析としては、明確な文献があるか、もしくは学術的なコミュニティによって1つの言語として扱われているかどうかで判断する。ISO 639-3に含まれるためには、証明となる文献があるか、歴史上のある時点においていくつかの特定のコミュニティによって話されていた言語であることが詳細に記述されていなければならない。すなわち、歴史比較分析によって推定された再建的言語はこれに該当しない。


Historic languages(歴史的言語)

子孫となる現代の何らかの言語と明確に区別されるとみなされれば、歴史的言語として分類される。たとえば、古英語や中英語など。ここでもやはり、判断基準はその言語が学術コミュニティで明確に取り扱われる文献あるかどうかとなる。


Constructed languages(人工言語)

ISOに含まれるためには、文献があり、かつ人間の意思疎通(human communication)を目的として設計されていなければならない。特に、再建的言語やコンピュータプログラミング言語は除外される。


ni'o

constructed language が、ISO基準ではプログラミング言語が除外されるものであるということくらいしか収穫がなかった……。

英語版のwikipedia "constructed language" を日本語に移植するのが、てっとり早いかもなあ。

英語の定冠詞と不定冠詞から

※この記事は2014/2/5に別サイトで書いたものを移行したものです

この記事では、英語の定冠詞と不定冠詞の用法を俯瞰することで、ロジバンの描写sumtiについていくらか考察する。ただし総称的な用法については割愛することにする。
参考文献:名詞句の限定表現


ni'o

不定名詞句は次のように分類される:
  •  特定的
    • 指示的
    • 限定的
  • 非特定的
    • 限定的
特定的であることに必要なのは、同定可能(identifiable)である。すなわち、誰か(大抵の場合は話者)がその名詞句の参照する対象を特定している必要がある。
すなわち、ある名詞句が特定的であるとは、誰かがその名詞句を何らかの対象と結びつけているということである。
ここでいう同定可能というのは原理的なものだと思われる。その発話時点で実際に同定される必要はなく、談話を重ねることにより同定できるようになるということだろう。
定冠詞のついた名詞句は、その時点で同定できるものであるから、同定可能というよりはむしろ「同定されるような(identified)」であるかもしれない。

たとえば、(1)を特定的に読めば、「私」の念頭に買いたい車の像があるように取れる。一方で、非特定的に読めば車であればなんでもよいということになる。

(1) I want to buy a car.

非特定的な読みでは、車を買うのに成功して初めてこれと指さして示すことができるような特定の車が存在することになる。
なお、特定的な読みの場合、その指示対象は現実に存在する場合もあれば存在しない場合もある。
大抵の場合、それを特定しているのは話者であるが、そうである必要はない。(2) では、少なくとも3通りの解釈が可能である:

(2) John is looking for a toy.


  1.  話者もJohnもある特定のおもちゃを念頭においている。つまり、両者にとってa toyは同定され、特定的なものである。
  2.  Johnはある特定のおもちゃを念頭においているが、話者はそのことを知らない。
  3.  両者共に特定の具体的なおもちゃを念頭においていない。


特筆すべきは2.の解釈で、このとき、a toyは話者にとっては不特定的だが、第三者にとっては特定的である。注意すべきは、この時点で聴者が同定できるかには無関係である。

特定的な読み、非特定的な読みは常に恣意的とは限らず、いくらか述語に束縛される。
まだ現実とはなっていない状態に言及したり、あるいはいわゆる可能な(想像上の)世界を創りだす働きをもつ述語であるとき、不定名詞句は非特定的な読みを持ちうる。
他にも、非叙実述語、法助動詞(may, should, will など)や否定文、疑問文、命令文もそのような文脈を形成する。
一方で、(上記の要素を含まない)過去時制または進行形の文、manage等の含意動詞を含む文、叙実述語を含む文は不定名詞句を特定的な読みしかできなくしうる。
これらはある状態や出来事が現実のものであると主張したり、そもそも既定の事実を述べているのだから、そうなるのは当然でもある。

特定的な読みはさらに2つに細分化される。すなわち、指示的と限定的である。
(3) のひとつの解釈として、a doctor を実質的には固有名詞の替わりに用いている(たとえば、Mt.Smithが医者だとして、その名前を出したくないか、あるいは出す必要がないためにこのように言っている)ことが考えられる。
もうひとつは、doctorという職業に特別な意味がある、つまり Mr.Smith その人(個体)を指示するつもりはなく doctorという属性が重要な場合である。
前者を指示的(referential)な用法といい、後者を限定的(attributive)な用法という。

(3) I heard it from a doctor.

もうひとつ例として、(4)(5)の答えになりうる(6)の a logician は、(4)の返答としては指示的になるが、(5)の返答としては限定的になる。

(4) Who did you talk with this morning ?
(5) What kind of person did you talk with this morning ?
(6) I talked with a logician.

もちろんのことながら、非特定的な不定名詞句を指示的に用いることはできないので、限定的用法に限られる。


ni'o

定冠詞の用法は大きくわけて3つある。
いずれにせよ、定冠詞は話者と聴者が共有する知識集合の中にそれに対応する指示物が既に納められているときに使われる。


  1. 前方照応 (anaphoric)
  2. 外界照応 (exophoric)
  3. 後方照応 (cataphoric)


1.前方照応は、何らかの意味で既に述べられたものに言及する場合に起こる。恐らく最も一般的な用法。

(7) I bought a interesting book. The book is very old. (a interesting book <- the book)
(8) Mary traveled to Kyoto. The journey was tiring. (先行詞は名詞句でなくともよい。この場合は前述のフレーズ。traveled to Kyoto <- the journey)
(9) I bought a book. The author is famous. (前方照応はもっと間接的でもよい。a bookからの連想によって共有する知識集合にその付属概念が納められると考えられる)

(9)はかなり文化に依存する照応である。ある対象から何が連想されるかは社会・文化において様々であろうからである。
しかし少なくとも、「の一部」(a car のthe wheels, the automatic gears...)や「属性」(a car の the length, the color, the weight...)はある程度普遍的な連想だろう。

2. 外界照応は、指示物の同定する根拠となる話者聴者共有の知識集合が言語文脈でなく、発話の場面、周囲の状況、社会的文化的政治的環境によって形成されている場合に起こる。
説明が冗長だが、要は「コンテキスト(共有の知識集合)は言語文脈だけではない」ということである。
逆に言えば「それが何か分からなければ、外界の状況をヒントに同定せよ(同定できるものだから)」ということでもあるだろう。

(10) Pass me the book. (そのものが話者聴者両方に見える場合)
(11) John, catch the jailbird! (塀を隔てていると想定。その囚人は聴者には見えるが、話者には見えなくてもよい)
(12) I am going to the church. (話者聴者両方ともそれが見えていなくとも、文化・社会的状況から同定できる教会であることがわかる)

3. 後方照応は、関係節や後置修飾句によってその名詞句が同定される場合に起こる。

(13) The waves of the sea were high. (the sea による連想で、of the sea が waves を同定できるようにしている)

関係節は、新しく導入された名詞句を、話者と聴者が特定的でかつ十分な知識を持っているモノに関連付けていなければならない。
(14)(15)においては、woman は、よく見知った Billとの関連・連想で同定されうるものでなければならないため、Billと無関係な関係節を用いた(15)はおかしい。

(14) What's wrong with Bill? Oh, the woman who dated him last night was nasty to him.
(15) What's wrong with Bill? Oh, the woman who was from the south was nasty to him.

とはいえ、もし話者聴者の共有知識によって、Bill関係なしに「南から来た女」が同定されるのであれば、(15)も妥当な表現だと思う。

(16) The book which I bought yesterday is very interesting.

(16)は、「私が昨日買った」という情報によって、共有知識集合内でどの本か同定されるならば妥当な表現だろう。
たとえば、昨日別れ際に「あの本買うことにするよ」というような会話をしていたならば、十分同定されるはず。


ni'o

以上の用法をある程度忠実にロジバンで再現したいと思う。

Ⅰ. 特定的・非特定的

不定名詞句はlo で完全に言い表せられると言ってよい。xorlo は不定名詞句をそのままロジバンに転写できるようにしたものと言っても過言ではない。

lo karce は日本語のまさしく「車」である。単複の言及もせず、ただただ不定名詞句であるのみである。
ちなみに、不定名詞句は論理学的には自由変項である。その自由変項を文脈によりどのように処理するか、というのが結局のところ不定名詞句の解釈の違いに起因する。

自由変項に何かしらの定項を入れることは、不定名詞句の特定的読みをすることである。一方で、自由変項を存在量化することは、不定名詞句の不特定的読みをすることである。

(2) の解釈は3通りあった。

(2) John is looking for a toy.


  1. 話者もJohnもある特定のおもちゃを念頭においている。つまり、両者にとってa toyは同定され、特定的なものである。
  2. Johnはある特定のおもちゃを念頭においているが、話者はそのことを知らない。
  3. 両者共に特定の具体的なおもちゃを念頭においていない。


しかし、自由変項を縛ろうとするのは他でもない話者であることを考えると、2と3は話者にとっては同じ状況である。すなわち、論理学的な解釈としては2つになる。


  1. 話者にとって a toy は特定的である。 ~ 「ジョンは対象cを探している」  Looking-for(c)
  2. 話者にとって a toy は非特定的である。 ~ 「ジョンが探しているようなおもちゃが存在する」 [∃x: Toy(x)] Looking-for(x)


さて、ロジバンで、特定的であることを明示するには le がある。
ここで注意しておきたいのが、le と 特定的な読みのlo はやはり意味合いが違うということである。
le karce は話者の心でその特定の対象を思い描いていなければならないが、特定的な読みのlo karce ではその必要はない。
言い換えれば、ある名詞句が特定的な読みをされることと、話者がその対象を心で思い描いていることはまた別の話なのである。
いわば我々が日本語で「車」と「あの車」を言い分けるようにして、ロジバンは{lo karce}と{le karce}を使い分けることができる。

しかし、対称性の観点から、明示的に「第三者にとっては特定的なもの」ということを表明する冠詞をデザインするのはある面では有意義かもしれない
そこで、試験的に「後ろにひとつsumtiをとって、gadriになる」ようなcmavo、lo'ei を定義する:

lo'ei: gadri変種; {lo'ei sumti}で「sumtiにとっては特定的な」というgadriになる。

これを用いれば、(2)-2の解釈を(17)のように明示的に表すことができる。日本語にはこれに相当する短い語はないはずである。

(17) la .djan. cu sisku tu'a lo'ei vo'a selkei / ジョンは(ジョンにとって特定的な)おもちゃを探している。

もっとも、le はlo'ei の特殊なケースである: le = lo'ei mi


ni'o

Ⅱ. 前方照応

①前方照応
前方照応は、ri, ra, ru によって表現しているが、riはともかくra, ruは何を照応しているのか曖昧になるケースが多い。
そこで、試験的に le'ei を導入する。

le'ei : gadri; 従来のlerfuによる前方照応に似ている。 le'ei broda は、前述の{lo/le/.. broda}を照応する。

たとえば、次のように使える。(18)'はlerfuを用いた従来の言い方である。

(18) mi te vecnu lo cukta .i le'ei cukta cu cinri mi / 私は本を買った。''その''本は私にとって興味深い。
(18)' mi te vecnu lo cukta .i cy. cu cinri mi

今までは、誤用(?)として le が le'ei のごとく使われてきたが、le は前方照応とは無関係である。

le'ei の用法をどこまで拡張すべきかは議論の余地がある。ひとまず以下のことについて考えておく:


  1.  tanru (ex. lo blabi gerku) をtertauのみ (le'ei gerku) で照応してもよいか。すなわち、(7)のような用法の導入。
  2.  名詞句でなく、文(フレーズ)の照応(ex. mi klama lo mergu'e .i le'ei nu litru cu zdile) は許容されるか。すなわち、(8)のような用法の導入。
  3.  より間接的な照応は可能か。すなわち、(9)のような用法の導入。(ex. mi cpacu lo karce .i le'ei skari cu blabi)


オリジナルの定義は、 le'ei broda = ri/ra/ru noi ke'a broda と表現できよう。これをいかに拡張していくかが以下の議論である。
※ ri/ra/ru no'u lo broda とすれば、le'eiを使わなくても十分表現はできるが、多用する割には少々冗長である。

■ 1.について
tanruによる描写sumtiをそのtertauのみで照応するのはほとんど非曖昧だし、有意義だと思われる。

lo cinri cukta = le'ei cukta / 面白い本 = その本
lo blabi gerku = le'ei gerku / 白い犬 = その犬

これは、le'ei broda = ri/ra/ru noi ke'a brode broda である。tanruのPSはtertauのそれと同一であることを考えると、この拡張は妥当であろう。

■ 2.について
これはどちらかというと、la'e do'i の類で表せられる範疇の話である。実際、(19)で十分言いたいことは言える。

(19) mi klama lo mergu'e .i la'e di'u cu zdile

それでも、次のような提案はできよう: 前述の文で表される事象を{le'ei nu broda}で照応するのは有意義ではなかろうか。
もちろん、do'i にとっての le'ei を定義することもできよう。

xxx : gadri; 取り込んだselbriをselbriに持つ前述の文を照応する。 ko'a broda ko'e ... .i la'e xxx broda cu brode

しかし、これは表現が冗長になる上に新たに冠詞を導入せねばならないこともあり、あまりいい案ではない。
そこで、前述の文のselbriに何らかの抽象詞をつけた形を le'ei で取り込むことで、その文で表される事象・性質・量を表すことができるようにしよう。

(19)' mi klama lo mergu'e .i le'ei nu klama cu zdile

この定義によって曖昧になるのは、前述で lo nu broda と broda をselbri とする文の両方がある場合である。
しかし、経験的に、lo nu broda を前方照応することはあまりないだろうから、混乱はほとんど起こらないだろうと予想する。

■ 3.について
これの導入は文化的中立性を欠く危険性を孕む。
(20)の{le'ei finti}は{lo finti be le'ei cukta}と言いかえられよう。(21)の{le'ei skari}は{lo skari ne le'ei karce}とでも言いかえられる。

(20) mi mencti lo cukta .i le'ei finti cu banli / 私は本を読んだ。その作者は偉大だ。
(21) mi te vecnu lo karce .i le'ei skari cu blabi / 私は車を買った。その色は白だ。

ひとつの妥協案は、「SEをつけるレベルでなら許容する」である。(20)(21)は許容しないが、(22)なら許容するということである。

(22) mi mencti lo cukta .i le'ei te cukta cu banli / 私は本を読んだ。その作者は偉大だ。

この案は、照応の際の連想の範囲をロジバンらしくせよ、ということである。ある概念にとって自然に連想されうるものはPSの要素にあって然るべきだからだ。
これなら過度に中立性を欠くことなく、豊かな表現が可能でありそうだ。これをロジバンで定義するなら、次のようであろう。

le'ei se/te/ve/xe broda = lo/le se/te/ve/xe broda noi le'ei broda cu broda fe/fi/fo/fu ke'a

これで表現できないようなもの、たとえば「その車の色」などは、ne を使えばよいだろう。

(23) mi te vecnu lo karce .i lo skari ne le'ei karce cu blabi

この冗長さは文化的中立性のために必要であると考えたほうがよい。これを悪だと思うのであれば、必要悪である。


ni'o

ここで一度、le'eiをまとめておく。

le'ei : 前方照応gadri; 取り込んだselbriをselbriに持つ前述の文を照応する。①tanruによる描写sumtiをそのtertauのみで照応できる。 ②抽象詞を使うことで、文の表す抽象概念(主に事象)を照応できる。 ③SEを使う範囲でなら間接的な照応ができる。

ni'o

Ⅲ. 外界照応

外界照応は、指示物を同定する根拠となる話者聴者共有の知識集合が言語文脈でなく、発話の場面、周囲の状況、社会的文化的政治的環境によって形成されている場合に起こる。
つまり、それは同定されるが、同定するには言語文脈(すなわち前述の文)ではなく、周囲の環境(状況)から情報を得よ、ということを表す。
ひとまず、それ専用のgadriを定義しておく:

le'oi : gadri; 指示対象は話者聴者にとって同定されるものだが、同定するには周囲の環境(状況)からの情報が必要であることを表す。

二人の近くの机の上にある本を取ってほしいときは、(24)のように言える。

(24) ko dunda le'oi cukta mi / その本を私にとってください。

しかし、後で述べるが、ロジバンに外部照応のマーカーは不必要だろう。


ni'o

Ⅳ.後方照応

後方照応は、関係節や後置修飾句によってその名詞句が同定される場合に起こる。
この照応は(新しく導入した名詞句を)話者と聴者が特定的でかつ十分な知識を持っているモノと関連付けていなければならないという点で、前方照応の3.と似ている。
すなわち、その修飾句が新しい名詞句に関連づけられるかどうかはいささか話者の文化慣習に依存しうる。
さらに言えば、後方照応マーカーの強制(現時点では強制ではないが、おそらく普及するに従ってそうなりうる)は、malglicoかもしれない。

個人的な意見として、照応関係で必要なのは、前方照応(すなわち、言語文脈に限っての照応)のみである。
それ以外の定冠詞の用法は、英語独特の、少なくともロジバンには取り入れなくてもよいものであるだろう。


ni'o

lo は不定名詞句を作るが、それに加えて照応系も包含している。lo はそれ自体は何の示唆もしないgadri である。
つまり、「特定的だろうが不特定的だろうが指示的用法だろうが限定的用法だろうが、前方照応的に使っていようが、何でもいいけどとにかくbroda1」というのが lo broda である。
逆に言えば、lo は少なくとも上記の試験的gadri的用法を持つということでもある。(実際はle, loi, lo'i, ... に関連する用法もあるのでもっと多い)

照応すらも lo が担うという点で、英語と異なっていることに注意したい。もし照応に関してはloでないのであれば、lo は実質不定冠詞"a"とほぼ同じものであっただろう。
照応すらもloで表せられる(すなわち照応マーカを強制しない)ことこそが、英語とロジバンの名詞句(項)の取り扱いの決定的な違いである。
そもそも、自由変項の処理において、コンテキストを探るのは当然であり、それが同定される程に明らかであるならば、わざわざ冠詞で注釈する必要はないだろう。
後方照応についても似たようなことが言える。そもそも本当に制限できているなら、冠詞で示さずともそれが同定されることは分かるであろう。
このことから、外界・後方照応を表すgadriはロジバンで定義するほどのものではない。よってle'oiは破棄しよう。

ロジバンで特定的な物言いをするために実装されている le には「話者がそのように描写するもの」という注釈があるが、これは重要である。
なぜならば、何かを特定するとはつまり、それが実際に指示対象として存在するということだからだ。単なる特定的マーカーならば、それは同時にその存在を表明してしまう。
そこで、「何に対して特定的なのか」を上手く考えることでその存在について言及することなく特定的な物言いをすることができる。それは、話者の感覚に訴える仕方である。
たとえばそれは、「網膜の像のパターン」かもしれないし、究極、「それを想像したときの話者の脳のニューロンのパターン」かもしれない(これは単なるアナロジーである)。
いずれにせよ、話者が特定的だと言っているのはその対象ではなくて、その知覚に関してであると言えよう。その知覚は確かに存在しているだろうから、特定できる。
その知覚パターンが一体何を表しうる(もしくは現実世界の何と対応する)のかどうかは、心に対する深い理解に依存する。これにより、le broda は定項から免れる。
ほとんどの場合、その知覚パターンは現実世界の何かと対応しうるものである。このときは純粋に、特定的なマーカーであると言えよう。
le の指示対象が lo から外れるのは、実質上、「実在しないもの」への言及のときのみと考えていいだろう。

なお、lo no broda など、loを使って現実世界に存在しないような不定名詞句を作ることはできるが、これに関しては無問題である。
なぜなら、lo no broda は自由変項であって、現実世界に然るべき対象が存在しないのであれば、lo no broda に何も入れることがないだけだからだ。

以上を踏まえれば、特定的マーカーのgadri、lo'eiも le のように「第三者の思い描いているもの」への指示とみなすべきである。
「ジョンは(ジョンにとって特定的な)おもちゃを探している」とき、そのおもちゃは実際に存在している必要はなく、そのようなジョンの知覚パターンがあればよい。
我々はそのジョンの知覚パターンが一体何を表しうる(もしくは現実の何と対応する)のかをその後でじっくり考えればよい。

結局、(定義するのであれば)lo'eiとle'eiの2つを定義するという判断をもって、この記事を締めくくりたいと思う:

lo'ei: gadri変種; {lo'ei sumti}で「sumtiにとって特定的な」「sumtiが思い浮かべているようなあの」というgadriになる。
le'ei : 前方照応gadri; 取り込んだselbriをselbriに持つ前述の文を照応する。①tanruによる描写sumtiをそのtertauのみで照応できる。 ②抽象詞を使って、文の表す抽象概念(主に事象)を照応できる。 ③SEを使う範囲でなら間接的な照応ができる。


2014/12/07

分配性と集団性についての理解のための草稿

2014/12/6 ver 1.0
2014/12/7 ver 1.1

ni'o

 「はじめてのロジバン」でも特に頭を悩ませているであろうところが、分配性と集団性の項目でしょう。これは大部分、その章を書いた当時の僕の理解不足とそれに伴う表現の不備が引き起こしている問題だということは自負しているので、できるだけ早いところ書き直さないといけない。

 という事情を踏まえて、また理解不足による悲劇が起こらないように、ひとまずロジバンと関連する前段階の、純粋に自然言語に登場する分配性と集団性についてきちんと書いておくのは悪くないと思い、ここに草稿を書きしたためます。

 BPFK sections の me の項目 にもある通り、この記事の分配性・集団性についても McKayのもの("Plural predication (2006)")に準じることにします。より plural logic に踏み込んだ内容の記事は、guskantさんの gadri の論理学的観点からの解説 がありますので、形式論理学に強い方はそちらも見るといいかもしれません。


ni'o

 結局のところ、分配性というのは名詞句の並列接続詞 「と」、英語でいえば "and" の解釈の仕方(一般には複数形の名詞句)と関連してきます。

(1) アーニーとボブとカルロスは学生だ。

この文(1)は並列接続詞(「そして」)を用いた、

(1)' アーニーは学生であり、そして、ボブは学生であり、そして、カルロスは学生である。

という文のいわば「省略形」としてみなせるという主張にほとんどの人は異論はないでしょう。思い切って、このとき名詞句の並列接続詞は冗長な(1)' を短く言うためのテクニックとして使われている、と言ってしまってもこの際いいでしょう。

 恐らく、多くの述語にとって、(1)を(1)'のように読むことは有効です。この至って単純な性質を、すなわち、並列な名詞句を並列な文の簡潔化のために使われているように解釈できるとき、「その並列な名詞句は分配的に述語を満たす」とか「その述語は分配的に満たされている」などと言います。もしくは、「(その述語を満たしている)名詞句には分配性がある」などと言います。

※ 以下で「述語Fは分配的/集団的」や「分配的/集団的な述語」という言い回しをよくしますが、これは、「分配的/集団的に満たされているような述語」という意味です。この記事では一項述語を中心に取り扱いますが、項の位置が複数あるような述語ではどの位置がそのように満たされているかを適宜明記(文脈上明らかであれば省略)することにします。

 すなわち、「いくつかのものがFであるとき、それら1つひとつについてもFであるなら、そのいくつかのものはその述語を分配的に満たす」ということになります。

 しばしば、以下で「分配的読み」や「分配的に読む」という言い方をするときがあります。これは、並列な名詞句がある文を、それぞれについての並列な文(連言)として解釈してみるという意味合いがあります。(1)は分配的な読みが可能なわけです。そして、分配的な読みが可能なとき、分配性があると言えます。

 ということは、「xは学生だ」という文では、述語は分配的に満たされているということになります。当然ではあるのですが、数学で使われる述語のほとんどは分配的に満たされるでしょう。
  • 「xは偶数である」
  • 「xは微分可能である」
  • 「xは素数である」
  • 「xはN以上だ」
たとえば、「2と4は偶数である」というとき、これは「2は偶数であり、そして4は偶数である」ということを短く言ったものとして解釈されるはずです。他の語句についても同様のことが言えると思います。

※ 「nとmは互いに素である」は一見、名詞句を「と」で繋いでいますが分配的ではなさそうです。しかしながら、「互いに素である」というのは定義から二項述語であることに注意してください。つまり、そもそも「互いに素」というのは2つの数の間の関係であって、「xは互いに素である」という一項述語のxに「nとm」を入れているわけではありません。

※※ 「互いに素」という述語は数学の用語であって、それゆえに何項の述語かが定義されていますが、一般に自然言語の文の述語が何項なのかは分析の仕方によると思います。ですから、この記事の「この文の述語はこうである」というのはいくらか恣意性があると思います。ですが、その恣意性の是非について詳細に語ることは、この記事の役割ではないと思いますし、それこそ分析哲学の研究対象となることだと思いますので、ここでは不自然でなさそうな分析をなるべく心がけていますので、それで容赦ください。(そもそも、もっと抜本的な分析を行えば、分配性と集団性という概念すら無しにこれこれの文を分析できるかもしれませんが、あくまでこの記事は「分配性と集団性」の記事ですので、その辺りの(都合の良い)線路があることは容赦ください)。

※ なぜ数学で使われる述語が『当然ながら』分配的であると言ったのかといいますと、数学は標準的な一階述語論理で上手く記述できているからです。標準的な一階述語論理の述語はすべて分配的に満たされますから、数学についてもそうだろうということです。


ni'o

 見てきたように、数学の話ならこれで特に問題もないのですが、自然言語の形式言語への翻訳ということになると事情は異なってきます。というのも、自然言語で現れる述語の中には分配的な読みができないものが存在するからです。

(2) アーニーとボブとカルロスはクラスメイトだ。

これは明らかに、「アーニーはクラスメイトであり、ボブはクラスメイトであり、カルロスはクラスメイトである」という文を短縮したものではないでしょう。それでも、「アーニーはクラスメイトだ」を特に不自然と思わない人はおそらく、「アーニーは(誰かと)クラスメイトだ」というように無意識に「xはクラスメイトだ」という一項述語から、「xはyとクラスメイトだ」という二項述語に変容させてしまっていると思います。

 (2)で使われている述語は実は三項述語「xとyとzはクラスメイトだ」であると考えることもできそうです。しかしながら、別に「クラスメイト」というのは何も三項関係に留まりません。「目の前にいる10人の学生はクラスメイトだ」という文では十項関係の述語を使っているとみなすことになりますが…、この辺りで雲行きの怪しさを感じてくれると幸いです。「互いに素」とはちがう類の述語であることは明らかでしょう。

 他にも、

(3) 10人の学生が並んで円陣を組んでいる。

というのも、一人ひとりが円陣を組んでいるわけではありませんし、そもそも1人で円陣は組めるものではないでしょう。つまり、この文の表すところは、「円」は1つだけ形成されているということであって、人数分(10個)形成されているということではないでしょう。ここでも、無意識のうちに「xが円陣を組んでいる(のに参加している)」と読まないようにしましょう。「円陣に参加している」というのは分配的でしょう。

 さらに、

(4) これらのリンゴは全部で5個以上ある。

というのも、(「全部で」と書いてあるのですから当然といえば当然ですが)「一つ一つのリンゴが5個以上ある」(?)わけではありません。以上のように、分配的に読めないような文が自然言語ではありうるわけです。他にMcKayが挙げているもの(の日本語訳)をいくつか挙げておきます:

  • xはその(1つの)建物を囲んでいる。
  • xは多くの異なる国の出身だ(xは色々なところから来た)。

 このように、述語の性質/意味上、どうにも分配的な読みができないものがあります。それを、「その述語は非分配的に満たされている」とか単に「非分配的な述語だ」と言っておきましょう。分配的に読めないならば、それは非分配的ということです。

※ 個数系の述語ではほとんど非分配的に思えますが、「xは4個以下だ」とか「xは全部で奇数個ある」というのは分配的です。「1個」もまた「4個以下」ですし「奇数個」ですから。

※ 「xは家族である」も非分配的な述語だと思います。


ni'o

 さて、以上で出てきたのは、「意味上、明らかに分配的な読みが不可能な述語」でした。ここからは少し毛色の違うものを見ていきます(そして、分配性・集団性について考えることになるのはむしろこちらがメインかもしれません)。

(5) この砂袋とその砂袋を量ると10 kgだった。

これは、「動作の回数」の点から2つの解釈ができます。適切な語句を付け加えて言い分けると、

(5a) この砂袋とその砂袋を量るとそれぞれ10 kgだった。
(5b) この砂袋とその砂袋を量ると全部で10 kgだった。

(5a)では量る動作は2回ですが、(5b)では量る動作は1回です。間違いなく、(5a)は2つの砂袋について分配的な読みをしています。一方、(5b)の解釈では、「合計で10kg」ですから、それぞれは10kgでない(すなわち非分配的である/分配的な読みでは偽である)ことも同時に述べています。

 また、次の文、

(6) この砂袋とその砂袋を量ると10 kg以上だった。
(6a) この砂袋とその砂袋を量るとそれぞれ10 kg以上だった。
(6b) この砂袋とその砂袋を量ると合計で10 kg以上だった。

に関しても、「それぞれ10kg以上」と「合計で10kg以上」の2つの解釈ができます。しかし、(5)と違って、(6a)が真ならば(6b)もまた真ですし、(6b)が真だからといって必ずしも(6a)が偽であるとは限らないという点は注意しておいていいでしょう。たとえば、2つの砂袋が 12kg と 16kg だった場合は、どちらの解釈でも真となります。(6a)は分配的な読みであり、(6a)と(6b)が両立する場合があります。

※ (6a)をP, (6b)をQとして、「P⇒Q」「¬(P⇒¬Q)」ということです。後者は「P∧Q」と同値です。

 (5)も(6)も数値の絡んでくるものですから、そういった類の述語に特有のものではないかと思われるかもしれませんが、もっと日常的な文にも生じます。

(7) アリシアとベティとカーラはその(1つの)テーブルを持ち上げた。

ここでも、「持ち上げ」という動作回数の点から見てみましょう:

(7a) アリシアとベティとカーラはそれぞれ、そのテーブルを持ち上げた。
(7b) アリシアとベティとカーラは一斉に、そのテーブルを持ち上げた。

(7a)の読みでは「持ち上げ」は最低3回(人数分)起こっており、(7b)の読みでは「持ち上げ」は最低1回だけ起こっていると見れます。すなわち、複数回の各個人による持ち上げが行われたのか、3人という集団による単一の持ち上げが行われたのか、どちらのようにも読めるわけです。

※ 「各個人がテーブルを持ち上げるという光景は不自然だ」と思うのであれば、「バーベル」とでもしてみましょう。その3人がウェイトリフティングの選手なら、それぞれが(少なくとも)1回ずつバーベルを持ち上げたという解釈はできますし、設営かなんらかの際に3人で持ち上げたという解釈もできます。

※ 文ではないので、少し話題からそれるかもしれませんが、「重量10kgの2つのダンベル」というのは「合わせて10kg」なのか、「それぞれ10kg」なのか分かりません。


ni'o

 以上のこと、特に(6)のことから、「非分配的」という用語が「分配的」の対なる用語としてはあまり適切ではないということが伺えます。というのも、(6b)「合計で10kg」の解釈を「非分配的な読み」と名づけてしまうと、「非分配的な読みでも分配的な読みは可能である」という少々矛盾めいた表現が出てくるからです。

 そこで、「分配的」の対なる用語、すなわち「複数のものが合わせて/合計で/一斉に/集団で述語を満たす」ようなときを「集団的(collective)に満たす」「集団性がある」「集団的」と呼ぶことにしましょう。すると、(6b)というのは集団的な読みです。そして、(6)では集団性と分配性が両立することがあると言うことができます。

 冒頭で挙げた「意味上、明らかに分配的な読みが不可能な述語」というのは、集団的かつ非分配的な(読みしかできない)述語と言えます(これは間違いなく「集団的」です。集団的ですらなければ、その文は偽ですから)。つまり、「xはクラスメイトだ」や「xは4個以上だ」というのは集団的かつ非分配的に満たされる述語です。

※ もちろんのことながら、「分配的」と「集団的」というのは独立したものです。「非分配的かつ集団的」や「分配的かつ集団的」など、理論上3通りあり得ます(「ある」か「ないか」で2×2=4ですが、「非集団的かつ非分配的」はそもそもその文が偽ですから、実際は3通りです)。

[追記:本当に「非集団的かつ非分配的な読み」は偽になるのだろうか?たとえば、重複しない2人1組で1回ずつ(合計2回)その机を持ち上げたとき、「その4人の学生は1つのその机を持ち上げた。」とは言えないだろうか。もし言えるのであれば、これは非集団的かつ非分配的な読みではないだろうか。]


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 ここで注意してほしいのは、「xはクラスメイトだ」というのはどうあがいても、集団的かつ非分配的に満たされる述語としてしか解釈できませんでしたが、「xは10kg以上だ」においては使われ方(文脈・その他の注釈付け)もとい解釈の仕方によってその分配性・集団性が変わりえます。ですから、分配性・集団性といった性質は、その時々によって変わりうるものです。

 また、「集団的な読み」というものの自由さについても述べておきます。というのも、分配性というのはほとんど形式的な操作によって定義できましたが、「何が集団的な読みが可能な光景/状況か」というのは(広く共通するものもあるでしょうが)個人(または属するコミュニティ)の価値観に大きく影響されます。今までに見てきた、「机の持ち上げ」では動作の共同性が、「重さ」ではその和が集団性と関連しています。つまり、ある述語を集団的に満たすときの意味/光景/状況は、分かりやすいものもあれば、どうにも考えられそうにないものもあります。


ni'o

 述語の意味合いの違いにおける、集団性と分配性の揺らぎについて述べておきます。(7a)と(7b)は、一方が真なら他方は真ではないという点で (5a)(5b)と一見似ています。「それぞれが持ち上げた」というのは「一斉に持ち上げた」わけではないですし、「一斉に持ち上げた」というのは「それぞれが持ち上げた」というわけではありません。ですが、机の持ち上げという出来事でも、集団的かつ分配的な状況がありえます:

(7c) アリシアとベティとカーラは個々でそのテーブルを持ち上げたあと、一斉に持ち上げた。

ここで注意したいのは、(5)と(7)の述語の意味合いの違いです。(5)ではある程度定常的な性質について述べていますが、(7)は動作であり、その場合、どれだけの時間幅を考慮にいれるかによって、集団性と分配性の具合も変わってきます。(7c)は(7a)と(7b)が立て続けに起こった様子でしかありませんが、時間幅がより大きくとられていることによって、集団性と分配性が両立した状況となっています。

 他にも、guskantさんは「料理する」という述語でも集団性と分配性が両立する状況がありうると述べています。
『複数の人が協力して餅つきをし、カレーとバーベキューについてはそれぞれの人が分担するということも可能である。(略)この場合、(略)、それが集団的に餅つきをし、分配的にカレーかバーベキューを作っていると見なされる。 』(gadriの論理学的観点からの解説)
これも、餅つきだけに着目すれば、「集団的かつ非分配的に料理をする」ことになりますから、時間幅の取り方で集団性・分配性の具合も変わってくることが分かります。(たとえば、ご飯が完全に完成する前、それも餅つきがやっと終わったという段階で彼らを見たときは、彼らはまだ分配的に料理はしていませんから、「集団的・非分配的に料理をしている」ことになります)

※ ここで、もし6人の人がいるとして、4人は餅つきを、残り2人はそれぞれカレーとバーベキューを担当し、それらを同時進行させる場合はどうなるのかちょっと分かりません。

 ある程度定常的な性質について、集団性と分配性が両立するようなものは(6)があります。他にも、たとえば爆音を鳴らしている2つのスピーカーについて、「その2つのスピーカーはうるさい」というのは集団的でも分配的でもあるでしょう。恐らくですが、相乗的・相加的な性質は「それぞれFであるならば、合わせるとなおさらFだ」ということで、分配性が満たされば同時に集団性も満たされる気がします。(ただし、これは逆は成り立つとは限りません。たとえば、合計40kgの大量の人参の重さについて、「集団的には重い」ですが、それぞれはただの人参ですから、「分配的には重い」わけではありません)

 一方で、そうでないような性質、たとえば「学生である」や「男性である」や「生きている」というのは、集団的な読みがしにくいものだと思われます。もちろん、この中にも比較的集団的読みがしやすいものもあると思います。たとえば、「あの二人はご飯を食べるときもお風呂に入るときも寝るときもトイレに入るときもずっと一緒だ。あの二人は集団的に生きているな。」というのは、そこまで拒否感のある集団性ではないと思います。

 これは憶測ですが、動作に関する述語について、それが分配性と集団性を両立している場合というのは、非分配的かつ集団的なその動作と分配的かつ非集団的なその動作の両方が起こったということに等しいと思います。もしかしたら、これに当てはまらずに分配性と集団性を両立する動作に関する述語があるかもわかりませんが、概ねそう考えればいいのではないかと思います。


ni'o

 結局のところ、もっとも理解しやすく(安直に)考えるならば、分配的な読みとは「それぞれ(each)」をつけ加えて読むことであって、集団的な読みとは「一緒に(together)」をつけ加えて読むことかもしれません。分配的な読みの方はほとんど一辺倒に「それぞれ」をつければいい気がしますが、集団的な読みの方は(5)(6)では「一緒に」では不自然であることも考えると、ときには「合計で」とか「合わせて」とか「全部で」といった語を考える必要もあるかもしれません。

※ これは冒頭で取り扱った、集団的かつ非分配的な述語に関してでなく、色々な読み方が可能な述語についての処方箋です。