2014/12/09

英語の定冠詞と不定冠詞から

※この記事は2014/2/5に別サイトで書いたものを移行したものです

この記事では、英語の定冠詞と不定冠詞の用法を俯瞰することで、ロジバンの描写sumtiについていくらか考察する。ただし総称的な用法については割愛することにする。
参考文献:名詞句の限定表現


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不定名詞句は次のように分類される:
  •  特定的
    • 指示的
    • 限定的
  • 非特定的
    • 限定的
特定的であることに必要なのは、同定可能(identifiable)である。すなわち、誰か(大抵の場合は話者)がその名詞句の参照する対象を特定している必要がある。
すなわち、ある名詞句が特定的であるとは、誰かがその名詞句を何らかの対象と結びつけているということである。
ここでいう同定可能というのは原理的なものだと思われる。その発話時点で実際に同定される必要はなく、談話を重ねることにより同定できるようになるということだろう。
定冠詞のついた名詞句は、その時点で同定できるものであるから、同定可能というよりはむしろ「同定されるような(identified)」であるかもしれない。

たとえば、(1)を特定的に読めば、「私」の念頭に買いたい車の像があるように取れる。一方で、非特定的に読めば車であればなんでもよいということになる。

(1) I want to buy a car.

非特定的な読みでは、車を買うのに成功して初めてこれと指さして示すことができるような特定の車が存在することになる。
なお、特定的な読みの場合、その指示対象は現実に存在する場合もあれば存在しない場合もある。
大抵の場合、それを特定しているのは話者であるが、そうである必要はない。(2) では、少なくとも3通りの解釈が可能である:

(2) John is looking for a toy.


  1.  話者もJohnもある特定のおもちゃを念頭においている。つまり、両者にとってa toyは同定され、特定的なものである。
  2.  Johnはある特定のおもちゃを念頭においているが、話者はそのことを知らない。
  3.  両者共に特定の具体的なおもちゃを念頭においていない。


特筆すべきは2.の解釈で、このとき、a toyは話者にとっては不特定的だが、第三者にとっては特定的である。注意すべきは、この時点で聴者が同定できるかには無関係である。

特定的な読み、非特定的な読みは常に恣意的とは限らず、いくらか述語に束縛される。
まだ現実とはなっていない状態に言及したり、あるいはいわゆる可能な(想像上の)世界を創りだす働きをもつ述語であるとき、不定名詞句は非特定的な読みを持ちうる。
他にも、非叙実述語、法助動詞(may, should, will など)や否定文、疑問文、命令文もそのような文脈を形成する。
一方で、(上記の要素を含まない)過去時制または進行形の文、manage等の含意動詞を含む文、叙実述語を含む文は不定名詞句を特定的な読みしかできなくしうる。
これらはある状態や出来事が現実のものであると主張したり、そもそも既定の事実を述べているのだから、そうなるのは当然でもある。

特定的な読みはさらに2つに細分化される。すなわち、指示的と限定的である。
(3) のひとつの解釈として、a doctor を実質的には固有名詞の替わりに用いている(たとえば、Mt.Smithが医者だとして、その名前を出したくないか、あるいは出す必要がないためにこのように言っている)ことが考えられる。
もうひとつは、doctorという職業に特別な意味がある、つまり Mr.Smith その人(個体)を指示するつもりはなく doctorという属性が重要な場合である。
前者を指示的(referential)な用法といい、後者を限定的(attributive)な用法という。

(3) I heard it from a doctor.

もうひとつ例として、(4)(5)の答えになりうる(6)の a logician は、(4)の返答としては指示的になるが、(5)の返答としては限定的になる。

(4) Who did you talk with this morning ?
(5) What kind of person did you talk with this morning ?
(6) I talked with a logician.

もちろんのことながら、非特定的な不定名詞句を指示的に用いることはできないので、限定的用法に限られる。


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定冠詞の用法は大きくわけて3つある。
いずれにせよ、定冠詞は話者と聴者が共有する知識集合の中にそれに対応する指示物が既に納められているときに使われる。


  1. 前方照応 (anaphoric)
  2. 外界照応 (exophoric)
  3. 後方照応 (cataphoric)


1.前方照応は、何らかの意味で既に述べられたものに言及する場合に起こる。恐らく最も一般的な用法。

(7) I bought a interesting book. The book is very old. (a interesting book <- the book)
(8) Mary traveled to Kyoto. The journey was tiring. (先行詞は名詞句でなくともよい。この場合は前述のフレーズ。traveled to Kyoto <- the journey)
(9) I bought a book. The author is famous. (前方照応はもっと間接的でもよい。a bookからの連想によって共有する知識集合にその付属概念が納められると考えられる)

(9)はかなり文化に依存する照応である。ある対象から何が連想されるかは社会・文化において様々であろうからである。
しかし少なくとも、「の一部」(a car のthe wheels, the automatic gears...)や「属性」(a car の the length, the color, the weight...)はある程度普遍的な連想だろう。

2. 外界照応は、指示物の同定する根拠となる話者聴者共有の知識集合が言語文脈でなく、発話の場面、周囲の状況、社会的文化的政治的環境によって形成されている場合に起こる。
説明が冗長だが、要は「コンテキスト(共有の知識集合)は言語文脈だけではない」ということである。
逆に言えば「それが何か分からなければ、外界の状況をヒントに同定せよ(同定できるものだから)」ということでもあるだろう。

(10) Pass me the book. (そのものが話者聴者両方に見える場合)
(11) John, catch the jailbird! (塀を隔てていると想定。その囚人は聴者には見えるが、話者には見えなくてもよい)
(12) I am going to the church. (話者聴者両方ともそれが見えていなくとも、文化・社会的状況から同定できる教会であることがわかる)

3. 後方照応は、関係節や後置修飾句によってその名詞句が同定される場合に起こる。

(13) The waves of the sea were high. (the sea による連想で、of the sea が waves を同定できるようにしている)

関係節は、新しく導入された名詞句を、話者と聴者が特定的でかつ十分な知識を持っているモノに関連付けていなければならない。
(14)(15)においては、woman は、よく見知った Billとの関連・連想で同定されうるものでなければならないため、Billと無関係な関係節を用いた(15)はおかしい。

(14) What's wrong with Bill? Oh, the woman who dated him last night was nasty to him.
(15) What's wrong with Bill? Oh, the woman who was from the south was nasty to him.

とはいえ、もし話者聴者の共有知識によって、Bill関係なしに「南から来た女」が同定されるのであれば、(15)も妥当な表現だと思う。

(16) The book which I bought yesterday is very interesting.

(16)は、「私が昨日買った」という情報によって、共有知識集合内でどの本か同定されるならば妥当な表現だろう。
たとえば、昨日別れ際に「あの本買うことにするよ」というような会話をしていたならば、十分同定されるはず。


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以上の用法をある程度忠実にロジバンで再現したいと思う。

Ⅰ. 特定的・非特定的

不定名詞句はlo で完全に言い表せられると言ってよい。xorlo は不定名詞句をそのままロジバンに転写できるようにしたものと言っても過言ではない。

lo karce は日本語のまさしく「車」である。単複の言及もせず、ただただ不定名詞句であるのみである。
ちなみに、不定名詞句は論理学的には自由変項である。その自由変項を文脈によりどのように処理するか、というのが結局のところ不定名詞句の解釈の違いに起因する。

自由変項に何かしらの定項を入れることは、不定名詞句の特定的読みをすることである。一方で、自由変項を存在量化することは、不定名詞句の不特定的読みをすることである。

(2) の解釈は3通りあった。

(2) John is looking for a toy.


  1. 話者もJohnもある特定のおもちゃを念頭においている。つまり、両者にとってa toyは同定され、特定的なものである。
  2. Johnはある特定のおもちゃを念頭においているが、話者はそのことを知らない。
  3. 両者共に特定の具体的なおもちゃを念頭においていない。


しかし、自由変項を縛ろうとするのは他でもない話者であることを考えると、2と3は話者にとっては同じ状況である。すなわち、論理学的な解釈としては2つになる。


  1. 話者にとって a toy は特定的である。 ~ 「ジョンは対象cを探している」  Looking-for(c)
  2. 話者にとって a toy は非特定的である。 ~ 「ジョンが探しているようなおもちゃが存在する」 [∃x: Toy(x)] Looking-for(x)


さて、ロジバンで、特定的であることを明示するには le がある。
ここで注意しておきたいのが、le と 特定的な読みのlo はやはり意味合いが違うということである。
le karce は話者の心でその特定の対象を思い描いていなければならないが、特定的な読みのlo karce ではその必要はない。
言い換えれば、ある名詞句が特定的な読みをされることと、話者がその対象を心で思い描いていることはまた別の話なのである。
いわば我々が日本語で「車」と「あの車」を言い分けるようにして、ロジバンは{lo karce}と{le karce}を使い分けることができる。

しかし、対称性の観点から、明示的に「第三者にとっては特定的なもの」ということを表明する冠詞をデザインするのはある面では有意義かもしれない
そこで、試験的に「後ろにひとつsumtiをとって、gadriになる」ようなcmavo、lo'ei を定義する:

lo'ei: gadri変種; {lo'ei sumti}で「sumtiにとっては特定的な」というgadriになる。

これを用いれば、(2)-2の解釈を(17)のように明示的に表すことができる。日本語にはこれに相当する短い語はないはずである。

(17) la .djan. cu sisku tu'a lo'ei vo'a selkei / ジョンは(ジョンにとって特定的な)おもちゃを探している。

もっとも、le はlo'ei の特殊なケースである: le = lo'ei mi


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Ⅱ. 前方照応

①前方照応
前方照応は、ri, ra, ru によって表現しているが、riはともかくra, ruは何を照応しているのか曖昧になるケースが多い。
そこで、試験的に le'ei を導入する。

le'ei : gadri; 従来のlerfuによる前方照応に似ている。 le'ei broda は、前述の{lo/le/.. broda}を照応する。

たとえば、次のように使える。(18)'はlerfuを用いた従来の言い方である。

(18) mi te vecnu lo cukta .i le'ei cukta cu cinri mi / 私は本を買った。''その''本は私にとって興味深い。
(18)' mi te vecnu lo cukta .i cy. cu cinri mi

今までは、誤用(?)として le が le'ei のごとく使われてきたが、le は前方照応とは無関係である。

le'ei の用法をどこまで拡張すべきかは議論の余地がある。ひとまず以下のことについて考えておく:


  1.  tanru (ex. lo blabi gerku) をtertauのみ (le'ei gerku) で照応してもよいか。すなわち、(7)のような用法の導入。
  2.  名詞句でなく、文(フレーズ)の照応(ex. mi klama lo mergu'e .i le'ei nu litru cu zdile) は許容されるか。すなわち、(8)のような用法の導入。
  3.  より間接的な照応は可能か。すなわち、(9)のような用法の導入。(ex. mi cpacu lo karce .i le'ei skari cu blabi)


オリジナルの定義は、 le'ei broda = ri/ra/ru noi ke'a broda と表現できよう。これをいかに拡張していくかが以下の議論である。
※ ri/ra/ru no'u lo broda とすれば、le'eiを使わなくても十分表現はできるが、多用する割には少々冗長である。

■ 1.について
tanruによる描写sumtiをそのtertauのみで照応するのはほとんど非曖昧だし、有意義だと思われる。

lo cinri cukta = le'ei cukta / 面白い本 = その本
lo blabi gerku = le'ei gerku / 白い犬 = その犬

これは、le'ei broda = ri/ra/ru noi ke'a brode broda である。tanruのPSはtertauのそれと同一であることを考えると、この拡張は妥当であろう。

■ 2.について
これはどちらかというと、la'e do'i の類で表せられる範疇の話である。実際、(19)で十分言いたいことは言える。

(19) mi klama lo mergu'e .i la'e di'u cu zdile

それでも、次のような提案はできよう: 前述の文で表される事象を{le'ei nu broda}で照応するのは有意義ではなかろうか。
もちろん、do'i にとっての le'ei を定義することもできよう。

xxx : gadri; 取り込んだselbriをselbriに持つ前述の文を照応する。 ko'a broda ko'e ... .i la'e xxx broda cu brode

しかし、これは表現が冗長になる上に新たに冠詞を導入せねばならないこともあり、あまりいい案ではない。
そこで、前述の文のselbriに何らかの抽象詞をつけた形を le'ei で取り込むことで、その文で表される事象・性質・量を表すことができるようにしよう。

(19)' mi klama lo mergu'e .i le'ei nu klama cu zdile

この定義によって曖昧になるのは、前述で lo nu broda と broda をselbri とする文の両方がある場合である。
しかし、経験的に、lo nu broda を前方照応することはあまりないだろうから、混乱はほとんど起こらないだろうと予想する。

■ 3.について
これの導入は文化的中立性を欠く危険性を孕む。
(20)の{le'ei finti}は{lo finti be le'ei cukta}と言いかえられよう。(21)の{le'ei skari}は{lo skari ne le'ei karce}とでも言いかえられる。

(20) mi mencti lo cukta .i le'ei finti cu banli / 私は本を読んだ。その作者は偉大だ。
(21) mi te vecnu lo karce .i le'ei skari cu blabi / 私は車を買った。その色は白だ。

ひとつの妥協案は、「SEをつけるレベルでなら許容する」である。(20)(21)は許容しないが、(22)なら許容するということである。

(22) mi mencti lo cukta .i le'ei te cukta cu banli / 私は本を読んだ。その作者は偉大だ。

この案は、照応の際の連想の範囲をロジバンらしくせよ、ということである。ある概念にとって自然に連想されうるものはPSの要素にあって然るべきだからだ。
これなら過度に中立性を欠くことなく、豊かな表現が可能でありそうだ。これをロジバンで定義するなら、次のようであろう。

le'ei se/te/ve/xe broda = lo/le se/te/ve/xe broda noi le'ei broda cu broda fe/fi/fo/fu ke'a

これで表現できないようなもの、たとえば「その車の色」などは、ne を使えばよいだろう。

(23) mi te vecnu lo karce .i lo skari ne le'ei karce cu blabi

この冗長さは文化的中立性のために必要であると考えたほうがよい。これを悪だと思うのであれば、必要悪である。


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ここで一度、le'eiをまとめておく。

le'ei : 前方照応gadri; 取り込んだselbriをselbriに持つ前述の文を照応する。①tanruによる描写sumtiをそのtertauのみで照応できる。 ②抽象詞を使うことで、文の表す抽象概念(主に事象)を照応できる。 ③SEを使う範囲でなら間接的な照応ができる。

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Ⅲ. 外界照応

外界照応は、指示物を同定する根拠となる話者聴者共有の知識集合が言語文脈でなく、発話の場面、周囲の状況、社会的文化的政治的環境によって形成されている場合に起こる。
つまり、それは同定されるが、同定するには言語文脈(すなわち前述の文)ではなく、周囲の環境(状況)から情報を得よ、ということを表す。
ひとまず、それ専用のgadriを定義しておく:

le'oi : gadri; 指示対象は話者聴者にとって同定されるものだが、同定するには周囲の環境(状況)からの情報が必要であることを表す。

二人の近くの机の上にある本を取ってほしいときは、(24)のように言える。

(24) ko dunda le'oi cukta mi / その本を私にとってください。

しかし、後で述べるが、ロジバンに外部照応のマーカーは不必要だろう。


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Ⅳ.後方照応

後方照応は、関係節や後置修飾句によってその名詞句が同定される場合に起こる。
この照応は(新しく導入した名詞句を)話者と聴者が特定的でかつ十分な知識を持っているモノと関連付けていなければならないという点で、前方照応の3.と似ている。
すなわち、その修飾句が新しい名詞句に関連づけられるかどうかはいささか話者の文化慣習に依存しうる。
さらに言えば、後方照応マーカーの強制(現時点では強制ではないが、おそらく普及するに従ってそうなりうる)は、malglicoかもしれない。

個人的な意見として、照応関係で必要なのは、前方照応(すなわち、言語文脈に限っての照応)のみである。
それ以外の定冠詞の用法は、英語独特の、少なくともロジバンには取り入れなくてもよいものであるだろう。


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lo は不定名詞句を作るが、それに加えて照応系も包含している。lo はそれ自体は何の示唆もしないgadri である。
つまり、「特定的だろうが不特定的だろうが指示的用法だろうが限定的用法だろうが、前方照応的に使っていようが、何でもいいけどとにかくbroda1」というのが lo broda である。
逆に言えば、lo は少なくとも上記の試験的gadri的用法を持つということでもある。(実際はle, loi, lo'i, ... に関連する用法もあるのでもっと多い)

照応すらも lo が担うという点で、英語と異なっていることに注意したい。もし照応に関してはloでないのであれば、lo は実質不定冠詞"a"とほぼ同じものであっただろう。
照応すらもloで表せられる(すなわち照応マーカを強制しない)ことこそが、英語とロジバンの名詞句(項)の取り扱いの決定的な違いである。
そもそも、自由変項の処理において、コンテキストを探るのは当然であり、それが同定される程に明らかであるならば、わざわざ冠詞で注釈する必要はないだろう。
後方照応についても似たようなことが言える。そもそも本当に制限できているなら、冠詞で示さずともそれが同定されることは分かるであろう。
このことから、外界・後方照応を表すgadriはロジバンで定義するほどのものではない。よってle'oiは破棄しよう。

ロジバンで特定的な物言いをするために実装されている le には「話者がそのように描写するもの」という注釈があるが、これは重要である。
なぜならば、何かを特定するとはつまり、それが実際に指示対象として存在するということだからだ。単なる特定的マーカーならば、それは同時にその存在を表明してしまう。
そこで、「何に対して特定的なのか」を上手く考えることでその存在について言及することなく特定的な物言いをすることができる。それは、話者の感覚に訴える仕方である。
たとえばそれは、「網膜の像のパターン」かもしれないし、究極、「それを想像したときの話者の脳のニューロンのパターン」かもしれない(これは単なるアナロジーである)。
いずれにせよ、話者が特定的だと言っているのはその対象ではなくて、その知覚に関してであると言えよう。その知覚は確かに存在しているだろうから、特定できる。
その知覚パターンが一体何を表しうる(もしくは現実世界の何と対応する)のかどうかは、心に対する深い理解に依存する。これにより、le broda は定項から免れる。
ほとんどの場合、その知覚パターンは現実世界の何かと対応しうるものである。このときは純粋に、特定的なマーカーであると言えよう。
le の指示対象が lo から外れるのは、実質上、「実在しないもの」への言及のときのみと考えていいだろう。

なお、lo no broda など、loを使って現実世界に存在しないような不定名詞句を作ることはできるが、これに関しては無問題である。
なぜなら、lo no broda は自由変項であって、現実世界に然るべき対象が存在しないのであれば、lo no broda に何も入れることがないだけだからだ。

以上を踏まえれば、特定的マーカーのgadri、lo'eiも le のように「第三者の思い描いているもの」への指示とみなすべきである。
「ジョンは(ジョンにとって特定的な)おもちゃを探している」とき、そのおもちゃは実際に存在している必要はなく、そのようなジョンの知覚パターンがあればよい。
我々はそのジョンの知覚パターンが一体何を表しうる(もしくは現実の何と対応する)のかをその後でじっくり考えればよい。

結局、(定義するのであれば)lo'eiとle'eiの2つを定義するという判断をもって、この記事を締めくくりたいと思う:

lo'ei: gadri変種; {lo'ei sumti}で「sumtiにとって特定的な」「sumtiが思い浮かべているようなあの」というgadriになる。
le'ei : 前方照応gadri; 取り込んだselbriをselbriに持つ前述の文を照応する。①tanruによる描写sumtiをそのtertauのみで照応できる。 ②抽象詞を使って、文の表す抽象概念(主に事象)を照応できる。 ③SEを使う範囲でなら間接的な照応ができる。


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