2014/12/14

leは指示語である

14/12/14 ver 1.0

ni'o

 le は冠詞であるから、他の冠詞、特に lo を対比の形で説明されることが多いが、このことがそもそもleの理解を妨げている気がする。

 そう言っておきながら、一応、loとleを対比の形で、定義を挙げておこう(xorlo):

lo broda zo'e noi ke'a broda
le broda zo'e noi mi ke'a do skicu lo ka ce'u broda

skicu
x_1 (者)は x_2 (物/事/状態)を x_3 (者)に x_4 (表現/文字列)によって描写/叙述する


ni'o

 さて、ひとまず、混乱してみよう。つまり、loとleの対比の形でleを見てみよう。

 lo broda も le broda も根幹は(論理学上は)同じ zo'e に還元される。その点で、lo broda と le broda には違いはない(!)。しかしながら、関係節に目を向けてみると、lo broda では率直に 「broda1 を満たすようなもの」としてあるが、 le broda ではそれに比べてなんだか遠回しな定義である。訳してみれば、「私があなたにbroda1の性質があるとして描写するようなもの」となる。

 ここで、何人かは次のような袋小路に陥る。よくよく考えてみれば、lo broda、すなわち「broda1を満たすようなもの」というのは、少なくとも「私」がその対象がbroda1的であると思っているからそう描写できるのだし、そう描写しようと思いつくのである。つまり、lo broda という語においても、「私」はやはり、対象に対して broda1の性質があるとみなしているし、事実そのことを用いて「lo broda」と描写しているのだから、やはり「私はそれをbroda1の性質があると描写している」ことになる。とすれば、lo broda と le broda の定義の関係節の内容は事実上まったく同じことを述べているのではないか。・・・・・


ni'o

 以上の話には決定的な誤りが1つある。

 skicu の表す関係性には「説明されるもの」という位置がある。つまり、skicu においては、その("lo ka ce'u broda"という)描写に先立って、とにかく何かが指示されているのである。そして、le broda とはまさにその、表現に先行して指示されていたもの、なのである。

 先行する指示の態度をごっそり落とせば、 le broda の指示対象のほとんどが lo broda でも指示できることは注意しておくべきである。

 ちなみに、xorloでは、CLLにあるような、

(1) le ninmu cu nanmu
(2) lo ninmu cu nanmu

のうち、(2)は明らかに偽である、という立場は消えたといってよい。なぜならば、(2)は

(2)' zo'e noi ke'a ninmu ku'o cu nanmu

のことであり、これは、

(2)'' zo'e to rixirau ninmu toi cu nanmu

のことであるが、to .. toi は当の命題文の真偽には直接関係はないので省略すると、

(2)''' zo'e cu nanmu

に等しいからである。もちろん、(1)も(2)'''に等しい。つまり、xorloにおいて、lo broda が実際に broda でないからといって、その文が偽になることはない。noi句はあくまで当の文(地の文とでも言おう)のしかじかの項の注釈付けでしかなく、言葉を換えれば、地の文から『浮いている』ため、真偽の判定に晒されないのである。

※ おそらく、noi句の指摘は、na'i とメタ否定を打ってから、その内容について述べればよいと思う。いずれにせよ、「何が真偽の天秤にかけられているか」を意識するのは重要である。

※ よく、loとleの違いにはあともうひとつあると言われる:『skicu_4 というのは「説明に用いられた表現」が入る。つまり、skicu_4には「話者が指示するそれが実際にどうであると思っているか」を記述するところでは必ずしもない。たしかに「私」はskicu_2(指示するもの)のことを lo ka ce'u broda と表現したが、必ずしもそれが「私はそれに対して broda_1的であると思っている」ということを意味しない。というのも、「私」は、自らの表現能力の乏しさを恨みつつ、苦し紛れに、lo ka ce'u broda とやっとの思いで描写したかもしれないからである。ここで重要なのは、その描写表現に対する表現者の印象を、skicuはなんら規定していないということである。つまり、確かに上記の議論のように表現者は指示物にその描写がぴったり合っていると確信しているかもしれないし、一方で、どう表現すれば分からないがなんとかその指示物を描写するためにそれらしい性質をひねりだして用いただけかもしれないが、そのことについてleは寛容(鈍感)である。』 これについては、xorloではそこまで差異が顕在化しないだろうと思う。というのは上で見てきたように、結局双方とも注釈付けでしかないからである。思い切った話、注釈付けの内容が間違っていようと、地の文の真偽の如何には無関係であるから、それがどんなに自信のない表現だったとしても、一向にかまわないのである。また、「迷宮の議論」で述べられていたように、いずれにせよ、skicuでそう語ったということは、周りからみれば、彼はたしかに「そう表現した」のであり、それは彼が「noi ke'a broda」と述べたことと(指示の態度を除けば)事実そんな変わることではない。

ni'o

 大体このような感じになるであろうが、やはり冗長な感じはある。ここでは思い切って、直示語との関連でleを導入してみる。

 ti/ta/tuは、実際に指を差して指示できるようなものに対して使うことのできる代項詞である。順に、「これ(話者・聴者ともに近いもの)」「それ(聴者に近いもの)」「あれ(双方ともに遠いもの)」を意味する。基本的に、物体であれば、ti/ta/tuで指せる。また、時間的にそこまで長くない出来事についても、ti/ta/tuで指すことができる。これは、出来事はたしかに指差しによって指示できるからである。そして、延長直示の現象を考慮すれば、性質もこれらによって指示できる可能性がある。たとえば、「赤いとはなんだ」と聞かれて、赤いリンゴを指さしながら、「これが「赤い」だよ」と言うことはそこまで異質ではないだろう。このように、物体だけでなく一部の出来事・性質もti/ta/tuによって指示することができる。

 特定のものを指示することは、必ずしも指差しによってのみ行われる必要はない。ti/ta/tuは指差しによって、そして、話者と聴者とそれとの位置関係という観点によってそれぞれは使い分けられる。しかし、私たちは何か特定のものを指示しわけるためのもっと強力な道具を持っている。すなわち、指差し・位置関係という指示のし分けの代わりに、述語を指示のし分けに利用することができよう。冠詞 le はまさにそのための冠詞である。ti/ta/tuで私たちが指を使って語りたい特定の対象を指示したように、leでは私たちは述語を使って特定の対象を指示することができる。ここで重要なのが、もう指を使ってはいないので、私たちはleによって指差しのできないものも指示することができる。すなわち、その場にない特定のもの、観念的な特定のものも、leによって指示することができる。


ni'o

Q:lo はこの書き方だと特定のものを指示しないということにならないか。
A:「特定の」の使われ方、すなわち、「誰にとって特定的か」というのに注意しなければならない。上の文脈では、指で差すことに備わる「特定的」であるから、もっぱら「話者にとっての」である。話者にとって不特定なものを指差しすることはできないだろう。一方で、xorloでいわれる「lo は特定的な何かを指示する」というのは、必ずしも「話者にとって」を意味するのではなく、「命題にとって特定的」なのである(もちろん、命題にとって特定的なものの一部は話者にとっても特定的である。このことが、loがleを内包する根拠となる)。つまり、その命題が真偽を判定されるときに、その項は特定的、揺れ動かない特定の何かを指示しているということである。この「命題にとって特定的」というのは、da/de/diの束縛変項との対比によって生じる表現である。命題にとって、束縛変項は特定的な何かを指示するものではない。あれは、「空」である。空だからこそ、束縛変項は量化子によって量化できるのである。命題にとって不特定であるとは、それが議論領域の何ものをも指さないということである。

Q:leは"the"とは違うのか。
A:結果的に似たような状況で使われるが、その元の意は全く異なる。 "the" は話者・聴者の双方にとって特定的である(と少なくとも話者は思っている)ものに使われるが、leは述べたように聴者にとっての特定性をまったく考慮しない。言うなれば、leは「話者ひとりよがりのthe」である。また、"the"には照応(テキスト上の特定の語句を指示する)のに使われるが、leにはそういった用法はない。

ni'o

 「特定の」という単語が、「話者にとって特定的」「定項である(命題にとって特定的)」の2つの意味で文脈に応じて使われていることが不安であるが、それでも、loとの比較よりはかなり素直な導入になっていると思われる。leの根本にあるのは、話者にとって特定な「アレ」を指示することであり、それは、指差しができるかの違いこそあれ、ti/ta/tuと同じであると思う。


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