2014/12/12

NUについての少考

2014/12/12 ver 1.0

ni'o

NU, すなわちアブストラクタ・抽象詞について少し考えたことを。


ni'o

 まず、代表的に取り上げられるNUのcmavoは「出来事」「命題」「性質」「量」「概念」の5種だろう。NUそれ自体の統語論的振る舞いは至ってシンプルであり、その後ろに「文」を1つとり、述語を形成する。

 もう少しまじめにいえば、その文によって表される各々の抽象的実体をx1に位置させるような述語と変貌する。

 また、用語の暫定的な使用として、NU節/抽象節というのは、NUのあとにつづく文のことを表す。{lo NU [jufra]}のことは抽象句/NU句と呼ぶ。ここで、NU節やNU句をさらに細かく ka節やni句のように呼ぶこともあるが、誤解は生じないだろう。


ni'o nu

 nu はその後ろの文から「出来事」を抽出する。これ自体とくに不思議なことではない。というのも、文(特にここでは命題文のことだが)はそもそも大体において時空間上でおこる出来事について判断し、それを言語化したものだからである。「事態」と言ってもよい。ある種の文は事態を判断し、言語化したものであるのだから、事態はある種の文によって指示できるはずである。すなわち、「それが生じたときにその文で表されるような事態」を nu は文を取り込むことによって表すことができる。

 ここで重要なことは、nuがとりこむ文は閉文でなければならない。すなわち、なんらかの命題文でなければならない。このことは以下で述べる「性質」や「量」と大きく異なる点である。nu にとって、ce'uは不要である。ce'u とは自由変項であり、すなわちそれが文の一部を埋めているというのは、それが開文であることを示し、命題文(閉文)ではないということになるからである。

 もう一つ重要な点として、nuは確かに抽象詞ではあるが、他のものにくらべて抽象度は低いと言える。というのも、事態は実際に現実世界で起こりうるからである。これはかなり大事で、このことによって、nu節は指示句(ti/ta/tu)で指せる。事態は抽象的だが、現実的な抽象である。





ni'o ka

 kaは「性質」を表すが、おそらく「属性」のことでもある。クワインがいうところの「1次以上の内包」のことだと思われる。ここではひとまず、「性質」とは「ものがどのようであるか」を表す抽象的なものとして把握しておこう。そこで、「どのようであるか」を表すために1つの文を引き合いに出す方法が考えられる。つまり、「あるモノがある性質をもつ」というのは、「あるモノがある開文を充足する」ということとして理解できよう。ここで、開文でなければ充足できないことは明らかであるから、kaはその後ろに開文をとるはずである。

 CLL 11章ではなぜかka節が閉文であるものが散見されるが、BPFK sections(最新の意味論)においては、「kaにあらわにce'uがない場合は(文脈上明らかに指示されていない限り)最も左の空の位置に想定する」とされてあるところをみると、CLLのそれらの文はやはりおかしいと思う。

 基本的な命題文、「あるモノがある性質をもつ」のためには、ckaji がある:

ckaji
x_1 には x_2 の性質がある

(1) lo plise cu ckaji lo ka [ce'u] xunre / そのリンゴには「赤い」という性質がある。
(2) mi do zmadu lo ka ce'u citno / 私はあなたに若さにおいて優っている。

 zmaduの文は、「「xは若い」という開文を充足するものとして、私はあなたよりも相応しい」くらいだろう。性質について優っているというのは少々わかりにくさがあるが、当該の開文を充足するものとしてより相応しいくらいの意味だと思われる。あえてファジィ論理で考えれば、「私は若い」の真理値は「あなたは若い」の真理値よりも1に近いとかだろうか。いずれにせよ、zmadu_2がその開文を充足しないならまだしも、どちらも充足はするのであれば、性質についてどちらが優っているのか、というのは二値論理においてはなかなか取り扱いづらい気がする。

 もちろんのことながら、kaは2次以上の内包も表せる。この場合、ce'uはka節に2つ以上存在することになる。なお、ce'u は同一文にあっても、同一の対象を指すとは限らない。このときは、「性質」や「属性」というよりも「関係性」と呼んだほうがいいだろう。

(3) lo ka ce'u prami ce'u / 「XがYを愛する」によって表される関係性

 すなわち、関係性とは「複数のものがお互いにどう連関しているか」を表す抽象的なものである。

 ちなみに、ckajiをつかって2次の内包との関係を表す方法は知らないが、順序列を形成する接続詞 ce'o を使うと上手く表現できる気がする。

(4) mi ce'o do ckaji lo ka ce'u prami ce'u / 私とあなたにはこの順に、愛するという関係にある。

 ckaji_1のどれがどこを満たすのかを気にしないのであれば、jo'u でもよさそうだ(ただし、この場合、非分配的読みなので、意味的には joiと同じように解釈されると思われる)。もちろん、 .e は意味が異なってくる。

(5) mi .e do ckaji lo ka ce'u prami ce'u / 私とあなたは各々で、愛するという関係にある。

 つまり、(5)では、{mi prami do}{do prami mi}という関係にあるということに必ずしも(おそらく高確率で)ならない。あとは解釈によるだろうが、2項関係に対して1つの項しか与えられていない場合はその1つの項が両方の位置に埋まるか、それともどこからともなく zo'e(もしくは da)が現れて、片方の位置を満たしてくれるかもしれない。つまり、私とあなたはナルシストであるという文になりうる。

 さて、今までのところ、ka句の或る文における振る舞い方を「充足」の形で見てきただけで、ka_1を満たすものが何かという形でka句を見てこなかった。もっとも素朴には、これらは、しかじかの開文と対応する抽象的対象と結びつくはずであろう。つまり、ka_1を満たすものはそういった抽象的対象である。これが何であるのか({ma ka ce'u broda})については、とりあえず口を閉ざしておこう。しかし、ひとつだけ言えるのは、これが何かが分からなくても「充足」の形で、それが文中でどのように振る舞うかは理解できるだろうということである。そして、それさえできれば、私たちには十分だろう。

※ それでもあえてその輪郭を捉えようとするならば、ka節のce'uを満たすようなものが共通にもつ性質、とあまり安全ではないし、迂遠でもあるが考えられよう。ここで、「共通にもつ」かどうかというのは半ば危険である。というのも、この述べ方だと、必要条件な性質も指しうるからである。たとえば、「xは人間である」を満たすようなもの全体からなる集合の元が共通してもっているのは「人間性」だけでなく、「動物性」もまた共通している(しかしながら、動物性を備えた対象はその人間集合に属するもの以外にも存在するということを以って、除外できるかもしれない。「人間性」とはこの集合に属する要素においてのみ共通するものであるとしてやれば、たしかに「動物性」は指せなくなる)。さらにいえば、少し話はそれるが、その性質を他の一群の性質との必要十分条件をもって捉えようとするのも往々にして失敗するだろう。これはウィトゲンシュタインの指摘した家族的類似と関連する。

 さて、最後に、実は、ka節が閉文をとったときの意味論もある程度は把握できるかもしれないということを述べておく。というのは、nuにおいて、文から事態が引き出せたのは他でもなく、事態の判断を言語化したものが文であったからであり、これが性質についても似たようなことが言えそうだからである。すなわち、我々は現実世界に表出した性質を判断し、言語化することができないだろうか。「リンゴが赤い」というのを、事態の判断ではなく、リンゴにまつわる性質の判断ともとれないだろうか。すなわち、我々は何かに現れた性質を汲み取って(命題)文として表現することができるのであるならば、その逆もまた事態のときと同様行えるはずである。このようにして、閉文から性質が抜き出せる可能性がある。つまり、「それが現れたときにその文で表されるような性質」として、閉文から性質を抜き出せるかもしれない。このことは同時に、性質もまたti/ta/tuによって指せるかもしれないことを示唆する。クワインがいうところの延長直示にあたるものだと思う。「これが赤だよ」と、赤いリンゴを指差しながら、その性質(赤)について言及することはそこまで不自然なことではない。

 しかし、これを許容すると、ce'uのない文において、それが閉文であるか開文の自由変項省略文なのかが分からなくなる。つまり、{loka prami}が{loka zo'e prami zo'e}なのか、{loka ce'u prami zo'e} なのかという2つの推論が可能になる。最新の意味論においては、ce'uは必ずkaにおいて現れるとのことなので、やはりka節が閉文であるのはおかしいということになろう。それでも上で述べた可能性は、現行のCLLの一定の擁護としては機能する。

 
ni'o du'u

 少し順番が前後するが、du'u句 は「命題」、すなわち「0次の内包」を表す。またしても、それが何であるかはさておき、ほとんどの文中において、du'u句は「du'u節が真であること」というように振る舞う。

(6) mi djuno lo du'u do ninmu / 私は、君が女であると知っている。

 これはすなわち、「あなたは女である」という文が真であることを私は知っているということに等しい。文字面は、「私」と「命題(0次の内包)」という抽象的対象の二項関係ではあるが、その文を理解するにあたっては、そのような抽象的対象が何であるかを介さずにできよう。これは先ほどkaで見たのと同様である。

 もちろんのことながら、du'uは後続の文から「0次の内包」を引き出すのだから、du'u節は閉文でなければならない。0次なのだから当たり前ではあるが。

 ちなみに、以前の2つと違って、du'uにはx2がある。しかしながら、実用上これは {lo se du'u ...} の形以外で使うことはないだろうから、この形についてのみ見ておく。これは、端的にdu'u節を表す文字列である。たとえば、{lo se du'u mi sipdji}は「私は眠たい」という内容を表す文字列であるから、{lu .au sipna li'u}のような文字列を指していてもよい。ともかく、その文字列は、{mi sipdji}と同じ内容であればよい。

 du'uの話題の冒頭で、命題とは何であるかを介さずとも文を理解することはできると述べたが、一応、感嘆に命題の輪郭に触れておく。おそらく最も素朴な「命題」という対象の理解は、それを「文の意味内容」として捉えることだろう。たとえば、「雪は白い」と "Snow is white" は異なる文(異なる文字づら)であるが、それの意味する内容は同一であると考えられる。つまり、端的に言って、命題とは「文の意味」である。「すべての人間は動物である」と "All humans are animals" と {ro da poi prenu cu danlu}は異なる文だが、確かに同じ「意味」であり、それゆえ共通の「文の意味」を司る抽象的ななにか(それこそが命題であるが)を介して繋がっていると考えられる。命題という抽象的対象を認める立場なら、おおよそこの理解でいいと思われる(が、繰り返し述べる通り、実際は「命題」が何であるかを介さずに命題を含む関係を理解することは多くの場合可能であることは注意したい)。


ni'o si'o

 si'o は後続の文から「概念」や「考え」「心的イメージ」を引き出す。si'oもkaと同様、その節は開文である。BPFK sectionsによれば、si'o節の空の位置にはすべてce'uが想定される。すなわち、

(7) lo si'o klama = lo si'o ce'u klama ce'u ce'u ce'u ce'u
(8) lo si'o gerku = lo si'o ce'u ce'u gerku
(9) lo si'o ce'u citka lo plise

 さて、wikipediaでは概念とは「事象に対して、抽象化・ 普遍化してとらえた、意味内容ないし指示対象で、普通、思考の基礎となる基本的な形態として、脳の機能によってとらえたもの。」と記述されている。しかし、これの述べる「概念」はもっぱらsidboによって担われるだろう:

sidbo
x_1 (抽象)は x_2 (物/事)の、 x_3 (思考者)による概念/観念/アイディア/コンセプト

「犬の概念」は lo sidbo be lo gerku と表現されるだろう。物事の概念は一般に sidbo で表されるはずである。

 それでは si'o はいつ使うのか。思うに、si'o節は開文であるから、言ってみれば引数が1つ以上の述語である。すなわち、si'oによって表される概念とは「述語の概念」である。「「xはyという種類の犬である」とはどういうことか」「gerkuの概念」などと言えそうである。

 私たちは、「gerkuの概念」を知っている/を理解している/に精通しているからこそ、何がgerkuであるのか判断し、述べることができるといえる(行動主義者が眉を潜めそうであるが、「概念」の存在を仮定したときの話であると考えてもらいたい)。

 上で、性質のことを「ものがどのようであるか」を表す抽象的なものとひとまず定義しておいた。これになぞらえていえば、si'oによる概念のことを「そのようであるとはどういうことか」を表す抽象的なものと捉えられよう。sidboでいえば「それとはどういうものか」とでもなるだろうか。

 このように考えると、(9)というのは

(9)' lo si'o citka be lo plise

と同じ概念を表しているように思う。ここで言いたいのは、もっぱら si'o は述語の概念のためだけに使われるだろうということである。

 しかし、一応、閉文の可能性も見ておこう。

xanri
x_1 は x_2 (者)による想像; x_1 は架空/想像上のもの/非現実

selxanri
xa_2 imagines xa_1.

xanriでは、概念(心的イメージ)と人の単なる二項関係であるが、selxanriでは人の側に概念を想像するという意志があることに注意する。さて、

(10) mi selxanri lo si'o mi speni la .djan. zo'e

という文を考えてみよう。「私は、ジャンと結婚しているところを想像する」と訳せるが、

(10)' mi selxanri lo si'o mi speni la .djan. [ce'u]

とは、違うように感じる。(10)ではsi'o節は閉文であるので、命題文であり、相応の情景を心理的に描けるが、(10)'では開文であり、よって命題文でなく、そういった情景を心理的に描けそうにないように思える。それでも、開文から引き出せる概念と、閉文から引き出せる概念は違う気もする。そこで、次の文を考えてみる。

(10)'' mi selxanri lo si'o [ce'u] nu mi speni la.djan. [zo'e]

これは、「私は、ジャンと結婚しているところを想像する」のよりよい訳のように思う。強調したいのは、さっき「相応の情景を心理的に描く」と言ったが、それはまさしくそのような事態を心理的に描くに相当するのではないかということである。結局、個人的な結論としては、si'o節は原則開文であるという方針をとる。si'o節が閉文であるとき、それはその文を何らかの(ほとんどの場合 nuだろう)抽象詞でくるみ、本質的には開文であるとみなす。私たちがある情景を想像するとき、それは「しかじかの事態という概念」を想像しているとみなす。

 一応CLLの例文にも触れておこう:

(11) mi nelci le si'o la lojban. cu mulno
 / 私はlojban(?)が完成するという考えが好きだ。

mulnoのアリティを1として考えれば、これは閉文であるから、さっき言ったところによれば

(11)' mi nelci le si'o nu la lojban. cu mulno

とほぼ等しい。「私」はロジバンが完成するという事態の概念・考え・心理的イメージが好きということである。

※ 最初、(11)を見たとき、概念を好きというのは変な感じがしたのだが、「初音ミクが好き」というのはしばしば「初音ミクは概念である」と見るのを踏まえると、概念が好きということになるのではないかと思って、少し腑に落ちた。また、「手法」も概念なのかもしれない。「微積分が好き」というのも、微積分という概念が好きなのかもしれない。そう考えると、むしろ私たちは、物や事よりも概念に好きと言っている方が多いかもしれない。

※ ここまで考えて、「人を殺すのはいけないという考え」というのも si'o によって表されるのだろうかと思い始めた。しかし、これは「人を殺すのはいけないという意見」ではなかろうか。ここで、意見(opinion)は jinvi_2である。これは「命題」、すなわち du'u句が入る位置である。よって、この類の「~という考え」は、{lo se jinvi no'u lo du'u ...}で表せると思う。よくよく考えれば、私たちは日本語で「~だと考える」というとき、その対象は概念でなく命題であった!日本語において、概念と命題というのはどちらも「考え」と言えるので、少し注意して訳さなくてはいけないかもしれない。

※※ さてそれならば、(11)の「ロジバンが完成するという考え」はdu'u句かsi'o句か、どちらだろう。もしこれがdu'u句ならば、「私」はその命題が好きということになるが、命題が好きであるとはどういうことだろうか。たとえば数学の命題を挙げてみると、「ゲーデルの第一不完全性定理が好き」というのは「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。」という命題が好きということか。これを考えると、命題が好きな人間がいてもおかしくなさそうではある。重要なのは、命題の真偽はここでは関係ないということだと思う。偽の命題であっても、それを好きということは可能なように思えるからである。さて、本題に戻って、「ロジバンが完成するという命題」が好きというのはどういうことだろうか。これの難しいのは、それが数学の命題のように分析文(永久文)でないところである。そして、そうでない文、すなわち綜合文の真偽は、現実世界の事態の様子と強く関連する。つまり、「ロジバンが完成するという命題」が好きならば、多分にその人は「ロジバンが完成するという事態」も好きなはずである。この場合、命題と事態がきれいに分離できない。しかし、実際の議論から少し外れた気もする。なぜならば、元の文は「命題が好き」ではなく、「考えとしての命題が好き」だからである。この場合は、「人を殺してはいけない」と同じように、「ロジバンは完成する/している」は真であるという考えが好きということになる。言い換えれば、「ロジバンは完成しているという主張が好き」なのである。さて、これは、日本語訳を見る限りではどちらが正しいとは言えない。「概念が好き」ならば、そのような事態を想像するのが好きというくらいの意味だろう。「命題(主張)が好き」ならば、ロジバンは完成しているか未完成かという議論が起こっている際に、「完成している」という主張の方に賛同する、という場合においては真と言えそうだ。

※※ 面白い帰結に出会えたのでもう少し考えたい。先ほど、命題と事態は、それが数学の命題とかではない限り分離しにくいと述べた。命題が好きというのはそういう主張が好きということかもしれないということも見た。そこで次のような例を考えてみたい。ジャンに恋している女性がいる。しかし、あまりにドギツいアプローチのせいでジャンは彼女のことを敬遠している。彼女は友達のベンに相談するが、面倒になってきたベンはこう言う:「ジャンは君のこと愛しているよ」。彼女は心底満足して帰っていった。さて、確かに彼女にとって「ジャンが私のことを愛する」という事態は嬉しいことこの上ないだろうが、実際は起こりそうにないし、しかし彼女は確かに満足したわけである。というのも、彼女は周りの人間のそのような主張が好きなのである!恋心というにはおこがましい承認欲求かもしれないが、いずれにせよ、私たちはこう言える:「彼女は、ジャンが彼女を愛しているという命題が好きだ」。微妙な点は何点かあるが、もっとも重要なのは、果たして本当に好きなのは命題であるのかということである。ひとつは、「周りがそのように主張しているという事態」が好きかもしれない。そしてもっと厄介なのだが、そう言ってもらえるのが好きなのかもしれない。つまり、彼女が好きなのは「ジャンが彼女のことを愛している」という内容の言葉・発言かもしれない。ここでは、「命題」というものをもう少し分かりやすいだろう「主張内容」という言葉に置き換えてみた。これによって、命題の輪郭をつかめたらと思ったのだが、本題とはかなり遠いところにきてしまった。

 さて、一般論の類のものは概念に入るだろうか。「1枚の写真は1000単語に値する」(lo pa pixra cu se vamji lo ki'o valsi)というような文では、別に特定の1枚の写真が特定の1000語に値すると主張しているわけではない。「そういうものである」と言っている。gadriの論理学的観点からの解説において、guskant氏はこの文の対策として、si'oでくるんでしまうという方法をとった。今までの話からすれば、vamjiの位数は4なので、si'o節にとりこんだ場合、この文のx3,4にはce'uが入る。さて、これは果たして一般論を指せるのだろうか。今までの論理を適用しつづけるのであれば、おおよそ一般論としての解釈は厳しいだろう(もし、暗黙のce'uの意味論がなければ、一般論の解釈もいける気はする)。代替案としては、数学の命題にも使える du'u だろうか。あまりにも不自然であるとして退けられることはない気はする。


ni'o jei

 jeiはdu'uのあとでそれと関連させて述べるべきだったかもしれない。jeiは後続の文から「真理値」を引き出す。jeiにはx2があることに注意する。

jei
x_1 は[文]の真理値、 x_2 (認識体系)の

 x2にはおそらく「誰から/どんな立場からみたときの真理値であるか」を表すのに使われる。du'uには認識体系の位置がないことは、jeiとdu'uの大きな違いだろう。du'uのところで、命題とは端的に言って「文の意味内容」のことであると言ったが、du'uに認識体系の位置がないというのは、(順序が逆転するが)「文の意味内容」は任意の認識体系にとって不変なものであるということだろう。

 jei句はCLLによれば、0以上1以下の実数である。これは肝に銘じておく必要があると思う。というのも、jeiが「~かどうか」というフレーズのために用いられている場合があり、その使用は諸々の議論により控えるべきであると言われているからである。

? (12) lo jei do mi nelci / あなたが私のことを好きかどうか

 最も簡単には、単純にjei句はただの数字だからである。たとえば、「あなたが私のことを好きかどうか知っている」と言いたいとしよう。それを、

? (13) mi djuno lo jei do mi nelci

というのは考慮の余地がある。これは、djunoのとる項のタイプとしては次の文と同じである。

? (13)' mi djuno li pimu / 私は0.5を知っている

djuno2に数がおけるのかどうかはともかく、(13)と(13)'で共通しているのは、djuno2には数が入っているということである。これを逆手にとれば、

(14) lo jei do mi nelci kei be mi cu du li ji'i pize
/ あなたが私を好きという文の私からみた真理値はおよそ0.7である。

さらに、言葉遊びになるが、

(15) li re sumji lo jei ro prenu cu danlu kei li pa
/ 「すべての人は動物である」の真理値と1の和は2である。

といった文は許容されるはずである。whether文、「~かどうか」の文は kau を用いるべきである。

(16) mi djuno lo du'u xukau do mi nelci
/ 私はあなたが私のことを好きかどうか知っている。

もしくは、それでも jeiが使いたいのであれば、

(17) mi djuno lo du'u lo jei do mi nelci cu du ma kau
/ 私は、「あなたが私を好きである」の真理値が何に等しいかを知っている。

と迂遠であるが言うことができるだろう。


ni'o li'i

 li'i は後続の文から「経験」を引き出す。経験とは必ず経験者がいるので、li'iにはx2にその経験者の位置がある。

 li'i節から経験者の経験を抜き出すということは、その文のどこかに必ず経験者が含まれていなければならないはずである。経験者の項があらわに現れなくとも、必ずsumtcitaにタグ付けされた形でその文に存在するはずである(そうでなければ、どうして経験と言えるのか!)。このことから、li'i節もまた開文であると考えられる。すなわち、li'i句はli'i2の経験者がli'i節のce'uを埋めるような経験を表すと考えられよう。

 BPFK sectionsのce'uの項目には、li'iにもce'uが使われるということは書いていないので、実際は別に閉文でもいいかもしれない。が、経験者は経験内容に必ず何らかの形で携わっていることを考えると、開文が拒絶されることもないと思われる。


ni'o romai

 niにまで踏み込みたかったのだが、niについて、というよりは「量」一般について別途書きたいことが多いので、ひとまずこれで締めくくりたいと思う。

 nu, du'u については特段目新しいことはなかったかと思う。力を入れて書いたのはkaとsi'oだが、si'oに関してはまだ上手く理解できたとは思えないし、恐らくダメである。

 jei, li'i についてはCLLにおいては「あまり使われない抽象詞」とのことであったが、どうせならと思い少し書いた。
 
 nuのサブカテゴリ, mu'e, pu'u, za'i, zu'o の4つについても書きたかったが、まだ考察のコの字もしていないので「続き」に書こうかと思う。実際、この4つはgismuの位置にほとんど出てこないし、上位カテゴリのnuがあるので、そこまで緊急性はなかった。(jei, li'iについてもそうだが)

 ともかく、niもとい量に関するgismuについて、少し考えてから、また「NUについての少考 続き」を書きたいと思う。

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