2013/08/06

Lojban Lessons - 27章 (ロジバン論理: da、 bu'a、 zo'u、項(terms))

Lojban Lessons - 27章 (ロジバン論理: da, bu'a, zo'u そして 項(terms))

※この章の内容にはかなり不備がある可能性があります。
ここの項目を学びたい方は、guskantさんのko lojbo .iuをどうぞ。

 この章の題に少し訂正が必要かもしれないですね。ここではロジバンにおける論理のやり方についてはやりません。まず、論理というのはおそらくすべての言語で同じものであり、第二に一章を割いただけではあまり実用的な論理を教えることができないからです。むしろ、この章では、論理学者が使う語に相当する語句についていくつか説明していきます。それらはロジバンではより様々な場面で使われることが分かるでしょう。
 こういった論理の語句の微妙な部分の詳細にまで首をつっこむと心がぐにゃぐにゃになるほど難しく、この章の様々なところで反対意見がちらほらと出てきています。

 ロジバンの論理の語を学ぶためには、本来は論理には出てこない語句についても少し学ばなければなりません。まずはzo'uから始めましょう。
zo'u 冠頭(prenex)をbridiと分け隔てる

 zo'uの前には冠頭が、zo'uの後にはbridiが必ずきます。冠頭とは大雑把にいうと、bridiの前にくる、項を置く場所のことです。項とは、いくつかのロジバン語句― sumti、(sumtiがあるなしに関わらず)sumtcita、naku、項集合(termset)と呼ばれる憎き奴(これはこの章では扱いません)― を表す言葉です。
 冠頭はbridiの一部ではなく、bridi内部に置かれて、そのbridiについての情報を与えてくれる項のことです。たとえば、次のような話題を述べるために使います:
lo pampe'o je nai speni zo'u mi na zanru - 「恋人ではあるが配偶者ではない人について以下が成り立つ: 私は賛成しない。」
こういう文でわざわざzo'uを使うのにあまり価値はありませんが、色々と遊んでみるのはいいことです。さらにいえば、こういうやりかたで文を構成するのはMandarinなどの言語にかなり似ています。つまり、この構成の仕方はそういった言語の話者にとってはより直観的に感じることでしょう。
[注:日本語の助詞「は」はzo'uと近い役割を果たします。
ti zo'u mi dunda - これは私があげた。(これについて以下が成り立つ:私があげた)
 こう言うと、zo'uのないところで「私は」と訳してきたのは不適切ではないかと感じるかもしれませんが、訳の自然さを出すためにそうしています。よりカジュアルな認識としては「"は"と"が"が共存するときの"は"」と考えるのがいいかもしれません。]

pampe'o x1はx2の恋人
zanru x1はx2(考え、出来事、行動)に賛成する

もちろん、 冠頭の項とbridiの間の関係は曖昧です。冠頭にあるsumtiはdo'e sumtcitaのあとにくるものとしてそのbridiと関連しているとも考えられますし、冠頭にあるsumtcitaはそれがbridi内にあるかのごとくそのbridiと関連しているとも考えられます。その項がbridiとどう関係あるのかについて明確なヒントを与えることなく、冠頭に項をおくことも十分可能です。:
le vi gerku zo'u mi to'e nelci lo cidjrpitsa - この犬について以下が成り立つ:私はピザが嫌い。
これは、なぜ犬への言及の合理性についてどう推測するかを聞き手に丸投げしています。
cidjrpitsa x1はx2(トッピング/成分)のピザ

 冠頭にnakuが含まれるときは、いたって素直です。すなわち、そのbridi全体は否定されます。そのbridi自身がnakuで始まるときのように。
 さて、冠頭はどの文まで有効なのでしょう?ある冠頭は、続くbridiが終わるまで有効です。もしそれが望まれないならば、冠頭をいくつかのbridiに適用する方法が2つあります。ひとつは、.iの区切りのあとになんらかの接続詞をつける方法です。もうひとつは、tu'e ... tu'u で囲み、それに同じ冠頭を適用させるというものです。この括弧はbridiをまとめくっつけるので、あらゆる語句を複数のbridiに適用するのに使われます。

zo'uをやりましたので、最初の”論理学的”語についてみていきましょう。

da 論理存在量化sumka'i 1
de 論理存在量化sumka'i 2
di  論理存在量化sumka'i 3

これらの語は数学の変数x,y,zのような、同じものです。しかし、いったん定義すると、それは同じものを参照しつづけます。これらの語はbridiの冠頭で定義されます。つまり、冠頭の適用が停止すると、これら3つの語の定義も解消されます。
da,de,diは、文字通り、有用であろうとなかろうと、どんなsumtiでも参照できます。これら変数を束縛する方法のまずひとつ目は、量化です(これが論理存在量化sumka'iという訳語のゆえんでもあるわけです。)それらはsumka'iであり、それらは量化されたとき最も有用であり、それらは存在的であります。"存在的"とはどういう意味でしょう?この語が使われたとき、それらは実際に存在するものを参照することを暗に意味しています。例をみましょう:
pa da zo'u da gerku この言明は冠頭に pa da を有しており、「ひとつの存在するものについて以下がなりたつ:」という意味になり、ここでdaはそう定義され、bridi, da gerkuの中で使われています。日本語に訳すとこんな感じです:「犬であるようなものがひとつ存在する」。これは明らかに偽ですね。なにせ、世界には犬なんて五万といるでしょうから。もしda,de,diが量化されないなら、su'o(少なくとも1つ)が初期値として与えられます。ということで、da zo'u da gerku は、「少なくともひとつ、犬であるようなものが存在する」「次のようなxが少なくとも1つ存在する:xは犬」となります。これは真ですね。ここで注意して欲しいのが、どんな量化であっても、真であるためには以上でも以下でもなくきっかりとその数でないといけません: もちろん、1匹の犬は存在しますが、ロジバンの pa da zo'u da gerku には「犬が1匹いる」という素朴な意味かつ、「1以上でもそれ以下でもない」という意味が含まれているのです。

 これらの存在的sumka'iに関していくつかのルールがあります:
- もし量化詞 ro がdaに使われた場合、それは『存在するものすべて』を指します。
- 存在的sumka'iの使用は、それが使われる真実の領域(the domain of truth)にそういったものが存在するということを主張するのみです。つまり、so'e verba cu krici lo du'u su'o da crida という文は、"真実の領域"がdu'u抽象句の内部にとどまるため、da crida とは述べていません。一般的に言って、抽象句はそれ自身の真実の領域をもつため、da,de,diを抽象句の内部で使うのはたいていの場合安全です。
- 同じ変数が複数回量化された場合、最初になされた量化が有効となります。すなわち、後に出てくる量化された変数の状態は、最初の状態により参照されたのと同じものを指すだけであり、後に出てくる量化されていない変数の状態は最初の量化詞を得ます。例: ci da zo'u re da barda .ije da pelxu は、「以下を満たすようなものが3つ存在する: それらのうち2つは大きく、3つすべては黄色い」。re daはci daの後にきているため、既に述べられた3つのもののうち2つを指します。daが量化詞なしで現れた場合は、最初の状態、すなわちciが想定されます。
- 冠頭に複数の項がある場合、それらの項は常に左から右に読まれます。ときどき、以下のようなことが生じます: ro da de zo'u da prami de これは、「存在するすべてのものXについて、少なくともひとつのものYについて以下が成り立つ: XはYを愛する」「すべてのものは少なくともひとつのものを愛する」という意味です。ここで、"もの"とはどんなものでもありえて、そのもの自身も含まれます(あるものは自分自身を愛しているかもしれない)。ここで述べておきたいのが、deはdaそれぞれに対して異なるものをとることができます。すなわち、deによって参照されるものは、そのdaによりけりなのです。daは冠頭でdeの前にくるので、それゆえ、それぞれのものが異なるものを愛しているかもしれないということになります(もちろん、偶然ro daが同一のものを愛している可能性もあるが、これは今回の場合に包含されているのは明らかです)。もし、daとdeを入れ替えたならば、異なる結果が生じます: de ro da zo'u da prami de = 「少なくともひとつのYについて、すべての存在するXについて以下が成り立つ: X は Yを愛する」。これはすなわち、「すべてのものが愛するものが少なくともひとつ存在する」という意味になります。
もちろん、どちらの主張も完全に偽です。何も愛さないものは多数存在します― 岩や、抽象概念など。同様に、万物が愛するものを想像するのも不可能です。"万物"は知覚をもたないものも含まれるからです。これらの変数が指すものを束縛するよりよい方法が必要ですね。ひとつの良い方法に、関係節を用いるというのがあります。:
ro di poi remna zo'u birka di = 「すべての存在する人間であるようなXについて以下が成り立つ: Xはひとつ以上の腕をもつ」、「すべての人間は腕を有する」。これは真です。少なくとも潜在的、永遠的な意味においては。
birka x1 はx2の腕

[注:原文にはここにユニコーンの話があるのですが、明らかに誤りであるため削除しました]

興味深いことに、da,de,diに関係節を使うとき、その変数はpoiとnoiの区別がされずに束縛されます。これは、re da noi gerku が犬である二つのものを参照することしかしないからです。それゆえ、noiはda/de/diではあまり意味をなしません。de noi gerku cu gerkuのような馬鹿げていて明白なものであろうとなかろうと、あらゆる節は常に制限的なのです。
実際は、変数を定義するのに冠頭はそこまで必要ありません。bridiに直接sumtiとして使い、そこで量化することができるのです。必要なのは、それが初めて現れたときに量化することだけです。ということで、人間が腕を有するといった文は、birka ro di poi remna と書くことができます。しかし、これでは変数の順序の問題が残るので、冠頭はbridiをしっちゃかめっちゃかにしなければならないのを防ぐため、変数を正しい順番で置いておくために使われます。多くの変数を使うときは、冠頭はたいてい名案です。

2つ目の論理学的単語は基本的にはさっきまでみてきた3語と同じですが、sumka'iではなくbrika'iというところが異なっています。:
bu'a 論理量化存在brika'i 1
bu'e 論理量化存在brika'i 2
bu'i  論理量化存在brika'i 3

これらは上でやった3単語と同様にすこぶる働きますが、注意してほしい大事な点がいくつかあります。:
項だけが冠頭にいけるのですから、これらbrika'iを項にするために量化詞をもたせる必要があります(そうすることで、brika'iはsumti化されるからです)。しかし、冠頭で量化されると、その量化詞は通常のselbriに伴う量化詞とはかなり異なった働きをします。すなわち、そのselbri変数のx1にふさわしいものの数を量化するのではなく、係るselbriの数を直接量化します。同じく、初期値の量化詞はsu'oです。というわけで、re bu'a zo'u は「関係Xにある2つのものについて以下が成り立つ:」ではなく、「2つの関係Xについて以下が成り立つ:」という意味になります。
練習がてら、bu'aの例をみてみましょう:
ro da bu'a la .mik. = 「すべての存在するXについて次が成り立つ:Xはミクと少なくともひとつの関係にある」、「すべてのものは少なくともひとつの方法でミクと関係がある」。ここでも順序の問題があります: su'o bu'a ro da zo'u da bu'a la .mik. は「少なくともひとつの次のような関係がある:存在するすべてのものがミクとその関係にある」。最初の文は真です。どんなものであっても、ミクと呼ばれる少女とそれを関係付けるselbriを作成することができるからです。しかし、後者が真かどうか、つまり、万物とミクの関係性を表すひとつ以上のselbriがあるかどうかは確信がもてません。
selbriを量化する例を見てみましょう:
ci'i bu'e zo'u mi bu'e do - 「以下を満たす無限の関係性bu'eが存在する:私は君とbu'e」、「私と君の間にはありとあらゆる無限の関係がある」

しかし、bridi内ではselbri変数を量化できません。bridi内で量化すると、それはsumtiとして働きます: mi ci'i bu'a do はbridiではありません。これが問題になる状況がいくつかあります。29章ではこういった問題を克服する方法を教えたいと思います。

2 件のコメント:

  1. wavelessons のこの章を書いた人は、多分、言語哲学における「存在」の意味をわかっていないのだと思いますが、 議論領域 (universe of discourse / domain of discourse) の取り方によって、ユニコーンが存在するとか、犬が1匹だけ存在するとかいう文を、真である文として扱うことは普通にできます。

    それに、「ユニコーンであるような全てのxについてxに角がある」という文は、「ユニコーンが少なくとも1つ存在する」ということを含意しません。
    ∀x(U(x)⇒H(x))
    = ¬∃x¬(U(x)⇒H(x))
    = ¬∃x¬(¬U(x)∨H(x))
    = ¬∃x(¬¬U(x)∧¬H(x))
    = ¬∃x(U(x)∧¬H(x))
    つまり、「ユニコーンであって、しかも角がないようなものは、存在しない」と言っているだけで、ユニコーン自体が存在するかどうかまでは言っていないのです。

    zo'u, da, na に関しては、私が入門講座で書いた説明のほうがわかりやすいと思いますが、いかがでしょうか。
    http://guskant.github.io/kolojbo.iu/html/ch13.html

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  2. コメントありがとうございます。

    そこを訳していたときにすごく違和感がありましたが、やはりそうでしたか...

    guskantさんの説明のほうが断然まとまっていてわかりやすいですね。.ui

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