2015/07/27

"bridi" と "sumti"

参考
[1]:https://groups.google.com/forum/#!topic/bpfk-list/yChr3cGT1_Q/discussion
[2] :
http://mw.lojban.org/papri/gadri_%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6%E7%9A%84%E8%A6%B3%E7%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC#.E8.A4.87.E6.95.B0.E9.87.8F.E5.8C.96

色んなところで、ロジバンには独自の文法用語が存在すると言われています。事実、ロジバンには基本単語レベルで色々な文法用語を備えており、ロジバニストはその用語を使っています。

その独自用語のほぼすべてが gismu や、lujvo 由来のものであり、その用語の正確な意味はPSによって裏付けられます。最近はPSも大分洗練されてきており(年月がある程度経つことで使用の傾向が明確になってきた、という方が正しいかもしれません)、これは各独自用語の意味を明確に捉える足がかりができたとも言えます。そこで、基本的なロジバン文法用語を見直してみよう、というのがこの記事の主旨です。

この整理において重要なポイントは、それぞれの用語の項位置の型です。最もしばしば考えられるのは、そこに入るのは文字列なのか、もっと別のものなのかでしょう。

# bridi
{bridi} はもっともよく使われるロジバン用語です。現時点で、PSは次のように定義されています。

x1 (du'u) is a predicate relationship with relation x2 among arguments (sequence/set) x3.

ポイントは、「bridiのx1は命題(閉文の内包)が入ること」です。[1]において、selpa'i氏の例文:

 .i lo du'u mi prami do cu bridi lo ka ce'u prami ce'u kei mi ce'o do

が示すところによれば、

・ lo bridi : 命題(lo du'u [命題文] に相当するもの)
・ lo se bridi : 属性・関係 (lo ka [属性/関係文] に相当するもの)
・ lo te bridi : その命題の属性・関係で結ばれている対象の集合列

となります。selpa'i氏、guskant氏がこの例文に同意し、xorxes氏はツッコミを入れていないということを見る限り、これは現在のロジバンで合意が取れた事実と考えてよさそうです。

selbri や terbri は bridi を単に転換したものとして(少なくともロジバン定義では)定義されているので、 selbri は属性・関係を表すのことでなく、命題の構成要素である属性・関係そのものを表すということがわかります。

つまり、

.i lo du'u ko'a broda ko'e cu bridi lo ka ce'u broda ce'u kei ko'a ce'o ko'e

となります。命題文 「ko'a broda ko'e」 の selbri は {ce'u broda ce'u}によって表される関係のことであり、zo broda ("broda"という語)のことではありません。

関連して、最近登録された lujvo に selbrisle があります:

x1 selci lo sinxa be lo selbri

これは、selbri の記号(つまり、ある命題の関係/属性を表す語句)の最小単位(いわゆる、tanru-unit)として定義されており、{lo selbrisle} は語句/文字列のことを指します

# sumti
これもかなりよく出てくる用語ですね。これは、

x1 is a/the argument of predicate/function x2 filling place x3 (kind/number).

と定義されており、x1, x2 は文字列であるという注釈があります。[1]を見ても、{lo sumti} は「話題にする対象を指す記号、あるいはその記号を代入できる記号」と定義されており、たしかに x1 は文字列だろうということが伺えます。

一方で、jbo定義によると、

x1 se tisna x3 no'u pa lo te bridi be x2

でありますが、この時点で食い違いが生じています。 x2 は selbri に相当するので、これは記号ではなく、関係/属性の場所です。{se tisna} は 「を満たす」という意味なので、 「x1 という記号は x3 (terbriの1つ)を満たす」 となるのですが、微妙ですね。

とりあえず、lo sumti が記号であるということを前提に話をするなら、 sumti という語が表す関係性というのは、bridi と違って、統語論的な(つまり語と語の)関係を表していそうです。

となると、少なくとも no'u 以下の部分は

... no'u pa lo te bridi be la'e x2

とすべきでしょう。しかしながら、そうしたところで、{pa lo te bridi} は terbri のうちの1つを指すわけですから、記号ではなく、関係/属性(la'e x2)に取り結ばれた対象を指すことになります。たとえば、

zo mi sumti zo prami lo pamoi

は、「"prami"の表す関係性によって取り結ばれる対象たちのうちの1番目は "mi" によって満たされる」 となります。より良い定義として、

x1 sinxa x3 no'u lo pa me lo te bridi be la'e x2

を提案したいと思います。これで解釈すれば上の文は、「"mi" は "prami"によって表される関係性が取り結ぶ対象たちのうちの1番目のものを指示する」となります。

bridi が [1] で命題を表すことになったことで、完全に統語論的な役割を表す言葉(今までの selbri に相当するもの)がなくなってしまったように思います。

少し取り留めがなくなってきたので、一旦ここで締めます。


2015/07/22

体系的な相システムの草案

自作言語でこしらえていた相システムをこっち(ロジバン)に持ってこれないかなと思い、記事。

とりあえず、ロジバンの記号を与える前に、自作言語の語で説明します。(発音はロジバンと同じ)

まず、基本となる語が

・ le- : 開始点
・ ce- : 終了点
・ mu- : 開始点と終了点の間

です。ロジバンで対応させれば、{co'a}, {co'u}, {ca'o} ですね。

で、次の方向を表す語を導入します。

・ ne- : より前段階
・ tse- : より後段階

自作言語ではこれにより、"lene-"で「開始点より前段階」、つまり{pu'o}(未然の意味)に相当する語を作ったり、"cetse-"で「終了点より後段階」、つまり{ba'o}に相当する語を作っています。

で、さらに(これが結構大事)、距離を表す語として、

・ -ib- : 参照点近傍/付近

を導入することで "lenibe-" で 「開始点より少し前段階」、つまり {pu'o}(将然の意味)に相当する語を、"cetibe-" で「終了点より少し後段階」、つまり 「つい~したばかりだ」に相当する語を作れます。自作言語では定義してませんでしたが、「とっくに~してしまっている」も便利そうなので、

・ -ip- : 参照点から離れた

も作っておくといいかもしれません。

方向、距離 というのはロジバンの間制の常套パターンなわけですが、それに事象段階点を加え、それを参照点にすることで、柔軟な相システムができあがるってわけです。

Q. 「これは時制をハイブリッドしていないか?」
A. してないと思います。あくまで、事象線の上での範囲指定なので、事象局面をなぞってます。たとえば、日本語で「とっくの昔に食べちゃったよ」というとき、相システム内のみで「完了点から離れた事象段階」が表せないので、時制と相のハイブリッド系、すなわち、「{puzu}の時点で {mo'u}した」という他ないわけです。しかしながら、相システムが柔軟であれば、「{ca}の時点で{mo'u}の後段階遠くだ」と言えます。個人的には、基本的に会話は{ca}に軸を据えておいて、大体のことを相で表してやるほうが好きなので(多分日本語がそうなのかな)、そっちに特化した表現もあっていいと思うんです。

このシステムの事象段階点は ZAhO によって {co'a}{co'u}{de'a}{di'a}{mo'u}{co'i}が用意されているので、導入すべきは「前段階」「後段階」を表す範囲方向の語と、「参照点付近」「参照点から離れた」を表す距離の語かと思います。距離の語はZI, VAをリスペクトすればいいわけですが、範囲方向が少し問題です。PUとZEhAがないまぜになったようなものですから。

とりあえず、XIhEI を導入します:

xi'ei: XIhEI; 事象段階がZAhOによって示される参照点の近くにあることを示す。
xu'ei: XIhEI; 事象段階がZAhOによって示される参照点の遠くにあることを示す。

これによって、

mi co'a xi'ei bajra : 私は走りだしたばかりだ/走りだそうとしている。

となります。おそらくこれは使い勝手が悪くてですね、やっぱり方向範囲あってのものですね。
で、実際問題、方向範囲というのは{pu'o}と{ba'o}のことですが、念のため作っておきましょう。

pu'ei: PUhEI; 事象段階がZAhOによって示される参照点より前段階にあることを示す。
bu'ei: PUhEI; 事象段階がZAhOによって示される参照点より後段階にあることを示す。

これより、peg としては、

interval-property <- number ROI-clause NAI-clause? / TAhE-clause NAI-clause? / ZAhO-clause NAI-clause?

これをいじりまして、

interval-property <- .... / ((ZAhO-clause NAI-clause? PUhEI-clause? XIhEI-clause?) / ((ZAhO-clause NAI-clause?)? PUhEI-clause XIhEI-clause?) / ((ZAhO-clause NAI-clause?)? PUhEI-clause? XIhEI-clause))

とすれば多分OKです。えっと、ややこしいですが要は

(ZAhO-clause NAI-clause?) .a (PUhEI-clause) .a (XIhEI-clause)

ということと、併立する場合はこの順に並ぶということです。

mi mo'u bu'ei xu'ei citka / とっくの昔に食べちゃった。
mi co'a bu'ei xi'ei bajra / 私は走りだしたばかりだ。
do mo'u pu'ei xi'ei finti lo pixra / 君は今にも絵を描き終えそうだ。

Q. 冗長では?
A. おっしゃりとおりで。何が問題かというと、全く完全にシステムを輸入してしまったことにあります。

では、以下に既存のシステムに組み込む形でできないか…を考えるべきですね。実際、先ほども言ったとおり、pu'ei, bu'ei というのは pu'o, ba'o で代用できます。

do pu'o mo'u finti lo pixra / 君は今にも絵を描き終えそうだ。

一応、相の連続表現について書いておくと、この用法はCLL10.21にもあって、
21.2)  la djordj. ca'o co'a ciska
       ジョージ [進行相] [開始相] 書く
       ジョージは書き始め続ける。
ですので、意味的には (ZAhO (ZAhO SELBRI)) と捉えてOKなわけですね。
ZAhOのキモはPUと違って、ZEhAをすでに包含している語があるということです。唯一ないのがZIに相当するものなので、XIhEIさえあればいいということになります。どうせなら、{zi}{zu}をリスペクトして、ZIhEIにしましょう:

zi'ei: ZIhEI; 事象段階が直前のZAhOによって示される参照範囲の境界から近い。
zu'ei: ZIhEI; 事象段階が直前のZAhOによって示される参照範囲の境界から離れている。

もっぱらこれらは、pu'o や ba'o に使われることを想定しています。

do pu'o zi'ei mo'u finti lo pixra /  君は今にも絵を描き終えそうだ。

do pu'o zu'ei mo'u finti lo pixra / 君は絵を描き終えるまでまだかかる。

「参照範囲の境界」とは、pu'o でいうところの co'a点、 ba'o でいうところの co'u点です。絵を描くと、

pu'o: ----|
ba'o:                    |----

の "|" の部分です。分かる通り、{pu'o}, {ba'o} 以外での意味がこれでは定まりません。

まずは{ca'o}ですが、これは、参照範囲の境界が2つあります。

ca'o: ... |----------| ...

この場合はどちらの境界から近いのかは不定であることにしておきます。
そのため、{ca'o zi'ei}「始まったばかりか終わる直前だ」はあまり使えないかもしれませんが、{ca'o zu'ei}はきっと「真っ最中だ」という意味で使えるかと思います。

次に段階点的アスペクト {co'a}{co'u}などですが、これらはそもそも参照「範囲」がなさそうです。しかしながら、「ゼロ距離」の概念をロジバンはよく使うのでそれをここでも適用します。つまり、

{co'a}: ...--|--......
{co'u}:          ......--|--

とします。これらは{cazi}と{cazu}がそこまで大きく意味が変わらないのと同様、{zi'ei}と{zu'ei}でそこまで大きく意味が変わらない語群です。

mi ba'o zu'ei citka / とっくの昔に食べてしまった。

2015/07/16

CLLに書かれた tanru内接続についての考察

参考:http://ponjbogri.github.io/cll-ja/chapter14.html

論じるところを引用する。

(引用ここから)

別々のブリディに展開する法則は、タンル接続の場合必ずしも成り立たない。 例えば、アリスが、青い家に住んでいる人であるとすると、

12.6)  la .alis. cu blanu je zdani prenu
       アリスは ( 青く、かつ、家 ) タイプの 人だ。

は正しいであろう。(jek は、タンルのまとめあげより優先順位が高い)しかし、

12.7)  la .alis. cu blanu prenu .ije la .alis. cu zdani prenu
       アリスは 青い人 かつ アリスは 家の 人

は、「青さ」を持つのは家であってアリスではないため正しくないであろう(アリスが「青い 人」であるというのはどういう意味かというのをさしおいても。青チームに所属しているかもしれないし、青い服を着ているかもしれない)。タンルは意味的に曖昧であるため、こういった論理操作ができないのである。

(引用ここまで)

さて、論点は「12.7は本当に正しくないのか」ということです。CLLでは「「青さ」を持つのは家であって、アリスではないため正しくないだろう」と書いてありますが、はて、どうしてアリスが「青さ」を持つ必要があるのでしょう?アリスは「青さ」と関係があればよいのであって、アリス自身が「青さ」を持つ必要はないでしょう。

仮に、

la .alis. cu blanu je prenu

であれば、確かにアリスが青さをもつ必要はありますが、ここでは blanu は seltau です。

blanu prenu では、blanu の位置のどこかと prenuの位置のどこかがある関係Rで繋がっていることになります。それぞれ b1, p1 とすれば、

b1 co'e p1

なる命題がなにかあれば(要は co'e に具体的になにかがあれば、ということでもいいですが)、12.7 は特段変ではありません。

ここで、 b1 zdani p1 なる関係 {zdani} を想定することは可能です。そしてそれはまさしく

12.6)  la .alis. cu blanu je zdani prenu

が意図するものと同じではないですか。というわけで、12.7 は別に正しくないことはないんですよね。

つまり、12.7 の前文は「アリスは青的人だ」ですが、この解釈として、「アリスは自らの家が青い的な人だ」はまったく健全です。

tanru は意味が曖昧だからこういった論理操作ができない、とのことですが、むしろ、意味が曖昧だからこそこういった論理操作に頑健なんではないでしょうか…。

2015/07/07

gismuの母音の頻出度合

http://misonikomilojban.blogspot.jp/2015/07/blog-post_7.html

直前の「字面ダサさ改善記事」を作るに当たって、語末母音の頻出度合を調べたんですが、こしらえたプログラムで色々調べられそうだったので、ついでに記事にします。

まず、gismuの母音のペアですが、こうなります

{'a': {'a': 91, 'e': 58, 'o': 45, 'i': 197, 'u': 123},
 'e': {'a': 48, 'e': 4, 'o': 30, 'i': 72, 'u': 33},
 'o': {'a': 19, 'e': 9, 'o': 17, 'i': 32, 'u': 16},
 'i': {'a': 115, 'e': 55, 'o': 44, 'i': 82, 'u': 64},
 'u': {'a': 67, 'e': 34, 'o': 16, 'i': 69, 'u': 17}}

辞書型で少しみにくいかもですが、たとえば、ボールド体の58は(a,e)を意味しています。
つまり、CaCCe か CCaCe の語形のものの数ですね。

ここからもう少し要約していきます。

まず、語末母音の頻出度合はこうなります。

{'a': 340, 'e': 160, 'o': 152, 'i': 452, 'u': 253}

前記事でも述べた通り、 i > a > u > e > o となります。

一方で、非語末母音の頻出度合はこうなります。

{'a': 514, 'e': 187, 'o': 93, 'i': 360, 'u': 203}

こっちでは、a > i > u > e > o となります。 a がダントツですね…!

で、この2つのリストを足したものが、gismu全体での母音の頻出度合となります。

{'a': 854, 'e': 347, 'o': 245, 'i': 812, 'u': 456}

グラフにするとこんな感じ:



totalでみると a と i はそんな変わらないんですね。ただ、語末と非語末での局在の仕方がそれぞれ反対なので、語末では iが優勢、非語末では a が優勢という結果になっているようです。

一応、こしらえたソースコードも置いておきます。pythonです。

https://github.com/cogas/cogas.github.io/blob/master/article/code/gismu_karsna_kancu.py

ロジバンの字面のダサさを改善する

題の通りです。

今回の方法は、「ロジバンの字面のダサさの原因って語末母音の単語が多いからじゃね?」という推測から興りました。

一方で、基本的にダイアクリティカルマークというのは格好いいですよね!!!

なので、語末母音の情報をダイアクリティカルマークとして持ってこようというのが今回のアイデアです。

ダイアクリティカルマークにもいろいろありますが、とりあえずはアキュート(´)ウムラウト(¨)を使うことにします。そして、cmavo, lujvo, fu'ivla については形を保存しておいて、gismuの語末にだけターゲットを絞ります。

一応、gismuの語末でどの母音が頻出してるかを調べてみますと、

{'a': 340, 'e': 160, 'o': 152, 'i': 452, 'u': 253}

となり、順番的には i > a > u > e > o となります。
ちなみに割合的には、33.3% > 25.1% > 18.6% > 11.8% > 11.2% となっています。
(語末のiが3割というのは結構驚きですね…)

この調査を踏まえて、次のような規則を以って、語末の母音を消し去ります!

1. gismu の語末母音 "e", "o" は消去しない。 "i", "a", "u" は消去する。
2. 消した母音が "a" のとき、残った母音(つまり後ろから2つ目)にアキュートをつける。
3. 消した母音が "u" のとき、残った母音にウムラウトをつける。
4. cmene, cmavo, fu'ivla, lujvo には適用しない。
5. lujvoであっても、最後のrafsiが5文字rafsiであるときはgismuと同じように処理する。

試しに、 o'i mu xagji sofybakni cu zvati le purdi でやってみると、

.o'i mu xagj sofybakn cu zvat le purd

と、確かになんか前よりは格好良くなってませんかね!…ってこのパングラム全部 iで終わるやないか

なんか悔しいので、korporaから適当にもってきました

i e'u se lo banzu certu jbopre tezu'e lo nu casnu bau lo lojbo po'o

i e'u se lo bänz cërt jbopre tezu'e lo nu cäsn bau lo lojbo po'o

今度は u と o と eしかないやないか!!!!!!!

mi pacna lo nu lo so'i prenu cu pilno ti noi lerfu ciste

mi pácn lo nu lo so'i prën cu pilno ti noi lërf ciste

個人的には、もう少しだけ規則を増やしたいです:

6. {cu} は ç とする
7. {LE nu},{LE ka},{LE du'u},{LE ni}は各々、{LËn},{LÉk},{LËd'},{LEn} にする

これを使うと、結構サマになると思うんですよ

mi pácn lön lo so'i prën ç pilno ti noi lërf ciste

どうでしょうか。個人的にはかなりイイ線いってると思います。
なお、

8. {na} は ń とする

というのも考えました。

あとは完全に好みですが、cmavo や lujvo についても変化を与える規則として、

9. 二重母音の (a/e/o) i について、iを落として、サーカムフレックスをつける(â / ê / î )

10. au は ä とする。

11. V'V についても同様の規則を適用する。このとき、アポストロフィーをhとしてもよい(ウムラウト、アキュートとアポストロフィーの連続が読みにくいので)

というのも考えました。どこまでやるかは好みですね。使ってみた感じだと、11はかなり視認性が低いので、

11'. V'i は i を落とす。

くらいにするのがいいかもしれません。9, 10 は割といけるなという感じを持ちました。

mi pácn lön lo so' prën ç pilno ti nô lërf ciste

ki'e jund be mi

2015/07/06

NAhEについて少し

BPFK sections を読みながら、NAhEについてメモ。

今のところ、NAhEには je'a, na'e, to'e, no'e がある。
いずれも NAhE というのは 述なれ語(selbrisle)を別の述なれ語に変換するコンバータの役目がある。


je'a は恒等変換である。例えるなら「×1」。変換前後で意味を変えない。
…が!大体の人は「実に」とか「本当に」とかで変換前後を訳し分けている。

to'e は意味を反対にする。例えるなら「×(-1)」。要は反意語・対義語を作る。

no'e は意味を中立にする。BPFK sections 的にいえば、「neutral meaning between the original meaning and its opposite」で、「原義と反意の間の中立の意味」。多分、足して2で割ればよく、「×(1 + (-1)) / 2」であり、つまるところ例えるなら 「×0」です!

そして、一番理解しにくいのが na'e。これだけは数字の演算で表わせないのでイメージしにくい。BPFK sections では "a complementary meaning, such that they can't both be true at the same time." 「同時に真になりえないような、相補的な意味」 なので、補集合の元のようなイメージをもてばいいんでしょうかね。あえて書くとすれば、「x ∈ S ー {a}」とか。

ここのところは少し確信がもてませんが、おそらく、 na'e na'e broda ≠ broda です。 na'e broda は broda 以外のどこかであり、na'e na'e broda は na'e broda 以外のどこか、つまり broda 以外のどこか以外のどこかですので、broda 以外でもありえます。この辺りが na'e の面倒なところです。

基本的に、NAhEを考えるときは、broda (あえて書くなら je'a broda)を 1とし、 to'e broda を -1 とするような数直線を考えることが多いです。このとき、0 が no'e broda になるのはわかりますね。この数直線のことを僕はスケールとか概念スケールとか brodaスケールとか、いろいろと呼びます。

NAhEで気をつけるべきは、broda を 1 とするスケールは往々にして複数ありえるはずだ、ということでしょう。簡単にいえば、brodaの反意語というのはいろいろ考えられうるということです。成犬の反対は…、子犬、かもしれませんし、ある人にとっては、成猫かもしれません。ここにNAhEの面白みとリスクがあるわけです。

milxe や mutce は NAhE のように使われることが多いですね。試験的cmavoに rei'e や sai'e というものがあります。例えるならそれぞれ、「×0.5」と「×2」とかでしょうか?

なお、na'e と na の違いはどこにあるかといえば、na'e は brodaスケールの broda 以外のところ、と言うのに対して、na ではそもそも broda スケール上に然るべき点がないことも意味しえます。

ti na'e nanmu / これは非男だ。
ti na nanmu / これは男であるというのは真でない。

ここで to'e nanmu = ninmu となるような nanmuスケールを取ることにすると、前者では、「これ」は男ではないが、少なくとも性別という概念(中性もそこに含めるとして)には乗っかっているというニュアンスになります。つまり、「これは男以外の性だ」くらいに訳せます。一方で、後者の文では「これは石ころなんだから、性別とかないよ」と続けることもできます。つまり、そもそも性別のスケール上で ti が論じれるものでない、ということを意味しうるのが na の文です。もちろん、大体の使用において na = na'e だとは思います。

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追記:
NAhEが重ね掛けされているとき、それぞれのNAhEが同じスケール上の話をしているとは限らない(人間の性向から、ほとんどの場合、同じスケール上の操作だとは思うが)。確かに、同じスケールでの操作ならば、to'e to'e broda は broda と等しくなるが、to'e broda の点で2つのスケールが考えられるときはそうは行かなくなる。

かなり単純な例として、broda = (1, 0) とし、x軸方向のスケールで to'e をとると、 to'e broda = (-1, 0) となる。これを brode とする。このbrodeはy軸方向のスケールが考えられ、このスケールの中心が (-1, 1) とすると、 to'e brode = (-1, 2) となる。

結果として、 to'e (to'e broda) = (-1, 2) ≠ (1, 0) = broda となる。わざわざ座標を設けてまでする話ではないけれども…。

BPFK sections - noi/poi と少しの考察付け

今後書く記事のために、いまいちど該当箇所を訳しておく

# noi (NOI)
 付随的(非制限的)関係節マーカー。

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象についての追加情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「非制限的(non-restrictive)」は、noi節の情報が、先行sumtiが参照する物々の集合を制限するのに用いられないということを意味している。noi bridiは先行sumtiの指示対象について追加的な情報を与える。

noi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

論理スコープの観点からみると、noi節のスコープはそれが含まれる言明のスコープの完全に外側にある。すなわち、そのスコープはnoi節を含んでいるスコープが終了した直後に発生する。noi節は、スコープの観点からは、noi節を含む文と、それと論理接続されている全ての言明の後に、それ自身の事実上の文(技術的には、形式文法でいうところの、それ自身の『statement』部)において生じるとみなされるべきである。

noi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、noi節は kuの内部にあるとみなされる。


# poi (NOI)
制限的関係節マーカー

「関係(relative)」は、これが節をsumtiに関係づけることを意味している。その節はそのsumtiの指示対象について特定するような(specifying)情報を与える。

「節(clause)」は、それが完全なbridiを導くことを意味している。完全なbridiはしばしばNOIの終止詞である ku'o や汎用的なbridi終止詞である vau で締めなければならない。

「制限的(restrictive)」は、poi節の情報が先行sumtiが参照する物々の集合を制限するために用いられるということを意味している。換言すると、poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている。

poi節の中では、ke'a が先行sumtiが埋まるべき正確な場所を指示する。

非量化sumtiでは、poi節はそのsumtiの指示対象すべてから、それを満たすもののみを選り抜く。内部量化詞があるとき、その量化詞はpoi節を満たす指示対象がいくつあるのかを示す。量化sumtiでは、量化はその節を満たすsumtiの指示対象の上で行われる。

poi は直前の sipmle sumti を修飾する。描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる。selbriの前(gadriの直後)にくっつく場合、それは終止したsumtiの後(終止詞 ku の後)にくっついた節と同等である。また、selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

la 描写sumtiにおいては、kuの前に生じるnoi節はすべて名前の一部とみなされる。

明示的な終止詞のない描写sumtiにくっつく場合、poi節は kuの内部にあるとみなされる。

---------------------------------------------------------

このBPFKsectionsの定義で一番悩むのが、「先行sumtiの参照する物々」のところなんですよね。そして、noiの「集合を制限しない」というところ。それから(これが一番の悩みの種なんですが)「poiの先行sumtiの指示対象(たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる)のうち、そのsumtiは実際には話者によってpoi節のbridiをも真とするような物々だけを指示するよう意図されている」の部分。

個人的には、おそらく、poiの説明は非xorlo的であると考えています。だって、「たとえば、lo dactiというのは実に大量の物々でありうる」というのは xorloっぽくないんだもの。

この "for example, in the case of lo dacti can be a great many things indeed" というときの "can be" は「誰にとって」の可能性なんでしょうね?…というところが焦点です。

xorlo では lo broda = zo'e noi ke'a broda の等式が成り立つわけですが、もし {lo dacti} が実に大量の物々でありうるのであれば、{zo'e}はそりゃもう、{lo dacti}以上に大量の対象を指しうるはずです。しかしながら、そうであるにも拘らず、lo broda の定義には noi が使われています。

ここで立てられるひとつの推測は、xorlo以降のロジバンで使われる(非量化的な場合の)「制限的」というのは、聴者のためにあるのではなく、もっぱら、話者のためにのみぞある、ということです。もし、「制限的」、すなわち、「先行sumtiの参照する物々の集合を制限する」 poi が聴者のためにあるのなら、lo broda = zo'e poi ke'a broda でないとおかしいでしょう、と思うわけです。

先行詞それだけでは具体的に何を指しているか分からないから、制限的な関係節によって、その候補を狭めてやる、というのは、英語において言えることではありますが、思うに、英語の名詞は形式論理に書き写すとき、すべて外部量化詞の形(すなわち PA da)で写されるはずなので、同じ論理を xorlo世代ロジバンに適用することができません。

次に、zo'e は代詞であって、だから、poiとnoiの使い分けが『普通のsumti』とは変わってくるんではないか?という反論も期待できます。しかしながら、多くのロジバニストが同じく代詞である ti, ta, tu においては臆面なく poi を使っている場面が散見されることをみるに、おそらく代詞だから云々という主張は退けられます。

結局、zo'eのような話者以外(場合には話者にとっても)にとって実に様々なものを指しうるsumtiに対して noi を使える事実を踏まえれば、poi の役目というのが自然と見えてきます。

聴者の立場から文を眺めることをやめ、発話者の立場から文を眺めることにすれば(個人的には xorloではこっちのスタンスなのだと考えている)、lo broda と、それを還元した zo'e は全く同じ対象を指示しているはずなので、「指示対象の集合を制限する」という発想はおかしいわけです。 強いてすることがあるとすれば、他者がこの文を(つまり、zo'eが何を指しているのかを)自分の意図した通りに理解してくれるよう注釈をつけることくらいです。発話者の立場からすると、lo broda を zo'e noi ke'a broda とするのは至極もっともらしく理解できます。彼にとって、 lo broda とは zo'e であり、この zo'e は厳密に lo broda なのです。

こう考えたときに、では、「指示対象の集合を制限する」とはどういうことかといえば、話者が想定している然々の指示対象をさらに縮小していくという操作に他なりません。つまり、「~のうち...であるもの」という表現に使われるのが poi ということになります。このとき、 zo'e poi broda は、「zo'eの指示対象が漠然としているから、brodaによって縛っている」のではなく、「zo'eの指示する対象のうち、brodaなものをさらに選り抜いている」ことになります。BPFK sectionsのformal definitionsに倣うと

zo'e poi broda = zo'e noi me zo'e je broda ≒ zo'e noi ke'a me zo'e gi'e broda

です。ここで、noi前のzo'eとme後のzo'eは(ほとんどの場合)別ものです。前者をzo'e1, 後者をzo'e2とすれば、 zo'e1 me zo'e2 の関係ですから、zo'e1 のほうが指示対象をより絞りこまれていることになります。量化項とちがって、定項ではその指示範囲が定まっているという点がキモです。

例として
ti noi blanu cu se zbasu mi

ti poi blanu cu se zbasu mi
を比較してみます。



こんな感じで話者の近くに3つの玉があったとし、青い玉は話者が作ったとします。(他の玉は別の人が作った)

noi のほうでは、 ti は を指していて、他者への気遣いとして noi 節によって、「tiで指しているものは青いよ」と伝えています。
一方、poiでは次のようなことが考えられます。たとえば、tiでのすべてを指示して、「そのうちの青いやつ」として最終的にを指示する方法です。最終的にどちらも「青い玉は私が作った」という意味になりますが、注意したいのは、noi文では ti だけで 青い玉を指示していますが、 poi文では ti poi blanu の句を以って初めて青い玉を指示しています。言い換えれば、noi節の有無は文の内容を変えませんが、poi節の有無は文の内容を変えることがあります。実際、上の指示の具合を固定したまま {poi blanu} を消し去ると、ti はを指しているのですから、この文は正しくなくなります。

…というのは実は前々からずっと書いてきたことです。本当に書きたいのはここから!

上の分析が合っていたとして、ほとんどのロジバニストはそれでもやはり noi を使うべきところで poi を使っているようにみえます。これを救済する解釈はないものかとずっと悩んでいました。

さっきの理屈でいくと、

lo gerku poi bajra / 走っている犬

というのはまず{lo gerku}で(おそらくは)複数の犬を指しておいて、そのうち、走っているやつ、と対象を絞るのがこの表現と取れます。しかしながら、大体の人はこのようには使っていないはずで、実際のところは poi節によって {lo gerku}自体の範囲を制限しようとして使っているはずです。これはあれです、英語ライクな「制限」で、つまりは他者視点からみた「制限」です。これを上手いこと、xorloの「制限」と矛盾なく説明できたらいいのだけど…というのが実のところこの記事で書きたい事柄です(前置き長いな)

今回救済できるのは描写sumtiに関してのみです。描写sumtiでないsumti…まあ要は代項については少し救済できません。とはいえ、代項についてはそんなにトラブルは起きないかなと思っています(なぜかというと、内部量化詞がないからです!)。

救済にあたって着目する点は、「描写sumtiの場合、関係節は sumtiの内部、すなわち selbri の前後にくっつくこともできる」です。

そして、noiの説明:

selbriの後にくっつく場合、その節は、外部量化詞の有無に拘らず、そのsumtiの指示対象すべてに係る。

と、poiの説明:

selbriの後(終止詞 ku の前)にくっつく場合、外部量化詞の有無に拘らず、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示す。

がキーです。また、noi節とkuの位置関係による意味の違いとして、BPFK sectionsのNotesにある:

{pa lo ci gerku noi zvati ku} は「そこにいる3匹の犬のうちの1匹」であり、{pa lo ci gerku ku noi zvati}は「3匹のうちのそこにいる1匹の犬」

というのもヒントとして救済していきます。

poiのほうが説明しやすいのでpoiでまず説明していきます。poi節はkuの前に置いた場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示します。言い換えれば、内部量化詞は selbri-poi節複合体に対して勘定を行なっています。例を挙げると、

lo ci gerku ku poi blabi
lo ci gerku poi blabi ku

では、前者がku外に、後者がku内にpoi節が存在しています。このとき、前者では「[sumti] poi ...」の形式がそのまま成り立っているので、

[lo ci gerku ku] poi blabi = lo me [lo ci gerku ku] je blabi

の等式の通りに書き下せます。前者では「白い犬は3匹以下である」ということです。

一方で、後者では、定義通り、ku内にpoi節がある場合、内部量化詞はその節を満たす指示対象の数を示すわけですから、「白い犬は3匹である」ということになります。分かる通り、後者(ku内)の構造は前者のような等式に落とし込めません。ここがミソです!BPFK sections では書かれていませんが、formal definitions を書くとすれば恐らくこうできます。

lo [selbri] poi broda ku = zo'e noi ke'a [selbri] gi'e broda ≒ lo [selbri] je broda ku

{lo [selbri] ku}というsumtiが介在しないことに注意してください。ku内にpoi broda が入りこんでいるとき、ロジバンのpoiは実に英語の制限節らしい振る舞いをするわけです。

私の考えた救済案というのはたったこれだけです。すなわち、もうひとつ formal definition を追加しよう、という非常に単純なアイデアです。

こうすれば、lo ci gerku poi blabi ku が「3匹の白い犬」となるのが、形式定義からもわかります。

lo ci gerku poi blabi ku = lo ci gerku je blabi ku

この、selbri-poi節複合体を仮想的に1つの大きなselbri構造として捉えるという見方によって、(何回も同じことを言っているだけですが)現在のpoiの使われ方を正常なものとして捉えることができます。

noiの場合はどうでしょう?まず、formal definition を見てみますと、

[sumti] noi ke'a broda  = [sumti] to rixirau broda toi

となっております。noi節がただの注釈付である(取り払っても文意が損なわれない)ことがわかりますね。

noi節がkuの外にある場合は、上のformal definition がそのまま適用できます。

lo ci gerku ku noi blabi = lo ci gerku ku to ri xi rau blabi toi

問題は ku内に noi節がある場合です。

lo ci gerku noi blabi ku = lo ci gerku to ri xi rau blabi toi ku

ここでは、lo ci gerku ... ku の構造は noi 節時点でまだ完成していないので、 ri xi rau によって照応できない気がします。多分これも追加でformal definition を入れてやるほうがいい気がします。

lo PA [selbri] noi broda ku = lo ro me lo PA [selbri] ku noi broda ku 

こういう周りくどい定義をしたのは、外部量化のことを考えてです。

PA1 lo PA2 [selbri] noi broda ku = PA1 lo ro me lo PA2 [selbri] ku noi broda ku
PA1 lo PA2 [selbri] ku noi broda = PA1 lo PA2 [selbri] ku to ri xi rau broda toi


後者は {PA1 lo PA2 [selbri] ku} という sumti に noi broda が係っているので、従来の定義式が使えます。
前者は、{PA1 lo PA2 [selbri] .. ku}と未完成な構造の時点で noi broda が入っているので、提案した定義式によって、一旦 {lo PA2 [selbri] ku}というsumtiの構造を完成させ、ソレに対して noi節を修飾させます。そしてそのsumtiを使って、少しまどろっこしいですが PA1 lo ro me [sumti] noi broda ku という変形前と同意(なはずです)の複合体を形成することで、ku内外におけるnoi節の修飾具合を説明できます。

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noiのほうは少し迂遠な定義式になりましたが、poiのほうが比較的簡潔です。今回特に論じたかったのはpoiの救済ですので、まあこんな感じでいいかなと思います。


2015/07/04

タンルの解釈の傾向を考察する

 タンルはいくらその意味が緩いと言われようと、実際の使用の場をみると、文脈から切り離しても意味が分かるくらいには統一感を以ってその解釈がなされているように思う。

 そこで、あまりに突飛なことをしない範疇で、できる限りその実際の解釈の傾向を法則化してみたいと思う。注意したいのは、これはロジバンの話であるということである!ロジバンの外の現象をロジバンの法則にあまり持ち込みたくないので、できる限りロジバンの中だけで動こうとしている。

 法則は至ってシンプルである。セルタウの項をA1, A2, ... とし、テルタウの項を B1, B2, ... としたとき、ある項 A_n, B_m において、

A_n = B_m

を満たすような解釈がほとんどである。表記上の注意として、これをn=m タイプと書くことにする。また、同じ番号が等しいときをホモタイプ、異なる番号の項が等しいときをヘテロタイプとよぶことにする。

 特によく見られるのが1=1タイプである。 melbi nanmu や kukte plise、 blanu tsani、 barda gerku などがある。例をみても分かるように、この 1=1 タイプはいわゆる「形容詞 名詞」タイプでもある。

 ヘテロタイプの典型例としては gerku zdani がある。これは往々にして、「犬の家」と訳されるだろうから、A_1 = B_2 タイプ、すなわち 1=2 タイプである。「ベビーシッター」を直訳した、 cifnu kurji も同様に 1=2 タイプである。1=2タイプは、PSの傾向として、x2に「~の」や「~を」がくるので、「目的語 動詞」タイプや「所有 名詞」タイプが該当する。 cmana cpare (≒山登りをする)もここに当てはまる。

 あまり見られないと思うが、他のヘテロタイプもある。 karce klama はしばしば「車で行く」となるだろうが、これは 1=5タイプになる。lojbo tavla も恐らく 1=4 タイプだろう。

 さて、この法則は実は原理上のタンルに比べるとかなり束縛した法則である。なぜかというと、タンルは理想的にはセルタウの項とテルタウの項がとある関係Rによって結ばれてさえいればよいからである。しかしながら、ここではとある関係Rとして同一関係(=)を定めてしまっている。この点でこの法則の前提条件は少し厳しい。たとえば、この条件下では

gerku zdani ~ 犬が作った家

という解釈は生起しえないことになる。この記事の焦点は解釈の傾向であり、gerku zdani を「犬が作った家」と解釈する傾向より「犬小屋」と解釈する傾向が強いということを述べるだけにすぎない。よって、もちろん「犬が作った家」も可能性として秘めている。それを認めた上で、「では何と解釈されやすいか」を考えているのがこの記事である。

 ここで、あるタンルがホモタイプかヘテロタイプかを見分ける方法はあるだろうか?恐らく、純粋にロジバン的な答えは用意できない。なぜ、gerku zdani を 1=1(もしくは 2=2)と解釈しないのかという問いに対して、「犬は往々にして家ではないから」としか答えられない。タイプの見極めにまで話を進めることができないのは、この辺りでロジバンの外に出なければならないからである(たとえば、犬や牛の皮を使ってヒトの住まいを作る民族がいたとしよう。彼らにとって gerku zdani はホモタイプである可能性は十分高い)。しかしながら、ごくごくおおよその傾向として、まず我々は(無意識かも分からないが)ホモタイプな読みを試すかもしれない。

 n=m則に加えて、もう一つ、さらに少し強い(しかしごくシンプルな)傾向を加える:

1=m であることが多い

たとえば、これによれば、次の2文のタンルの解釈の違いが説明できる:

do prami ninmu
do se prami ninmu

SE類は述語の項の順番を入れ替えるのみであり、その意味を全く変えない。n=m則において、prami と se prami はまったく同じ項を有しているのだから、傾向に差異は出てこないはずである。しかしながら、実際は出ている。そのための法則が 1=m 則である。

 1=m則が妥当である理由のひとつにPS走査の負担がある。たとえば n=m タイプでは、それぞれ項の数が3つずつの述語からなるタンルだとすれば、9つの可能性がありうる。しかしながら、1=m則の下では、可能性は3つにまで少なくなる。その場で可能な解釈の数を減らすことで、話者・聴者両方の思考の負担を減らせるメリットがある。また、

ko'a broda brode



ko'a FA lo broda ku brode

とロジバンの文法上、非常に簡潔な操作で 1=m タイプの書き下しが可能である点も、1=m則の妥当な根拠の一つになるかもしれない(個人的にはこちらのほうがずっとロジバン的なので、こちらを採用したい)。


 以上では n=m則(1=m則)について話してきたが、実はもう少し拡張せねばならない。例えば次のタンルは n=m 則に当てはまらない:

mi sipna djica / 私は眠りたい

mi が sipna djica それぞれで位置するところを考えてみよう。 mi = djica1 は当然である。 mi = sipna1 もここでは妥当であるが、これを 1=1 とすることは早計だろう。なぜならば、ここでは 1=1タイプであれば正しい書き下し、

mi sipna gi'e djica

は合っておらず、むしろ

mi djica lo nu mi sipna

のほうが正しいからである。一見 1=1 に見えたのは、 djica_1 と、 djica_2 の抽象節内の sipna_1 が等しいからである。このように、n=m則で述べられた「項と項の同一関係」の「項」には抽象節内の項も含まれなければならないように思える。これはかなりややこしい。無理やり書くなら、

sipna djica

B_1 = B_2[A_1]

こうだろうか。しかしながら、次のタンルを考えてみるとこの推察は怪しくなる。

catra minde (ko'a minde fi lo nu .. catra ..)

ここでは、mindeのどの項も、必ず catra のどこかの位置に入るとは限らない(「私は私を殺せと命じた」など、特別な例では当てはまる)。確かに、抽象節内の項も n=m では含まれなければならないかもしれないが、そう考えるよりはむしろ、 セルタウ自体がテルタウの項として働くような場合があるとして処理したほうが理解しやすい。つまり、次のような法則が得られる。

しばしば、いずれかの抽象体(lo su'u broda)がもう一方の項に当てはまりうる

この場合、抽象体となる方を * で表して、

*=m

と表すことができる。たとえば、 sipna djica では *=2 であり、 catra minde では *=3 である。

この解釈が起こりやすい理由のひとつとして、やはりロジバンの文法上、簡易な操作でこの形式に書き下せることがありえそうである。すなわち、

ko'a broda brode

ko'a FA lo NU broda ku brode

と、先ほどと同じくらいシンプルな操作で書き換えが可能であることが理由のひとつかもしれない。

ちなみに、この捉え方では、mi sipna djica の sipna 1 と djica 1 が同一であることまで述べられていない。しかし、*=2タイプで書き換えてみると、これは

mi sipna djica = mi djica lo nu sipna

であり、sipna_1 と djica_1 が同一であるかどうかというのはタンル側の解釈の範疇ではなく、むしろ抽象節側のzo'eの解釈の範疇である。(往々にして、抽象節内の1位のzo'e は本節の1位と同じであることが多いので、ここから sipna_1 = djica_1 が導かれる。しかしながらこれは、抽象節の解釈傾向の話であるので、わざわざタンルの法則に組み込む必要はないだろう。実際、 catra minde でこれが成り立たないのは、minde_3 のとる抽象節のx1は多くの場合 minde_1とは異なるからであり、これはmindeの(つまり抽象節の)解釈の話である。

 n=m則と*=m則のハイブリッドな感じの事例がある。

sutra bajra : 速く走る ~ ko'a sutra lo nu bajra kei gi'e bajra

mutce blanu : とても青い ~ ko'a mutce lo ka blanu kei gi'e blanu

これがさっきと違うのは、x1 は実際に走っていたり、青かったりするところである。つまり、bajra や blanu は抽象体として sutra, mutce の位置に入る一方で、それ自身 x1 に当てはまるのである。これは、

2=* かつ 1=1

として記述できる。短く書くなら、 2,1=*,1 と順序列で書くこともできる。

 これは新しい解釈というよりは、単に複数の解釈が偶然矛盾なく両立しているにすぎない。たとえば、

ra slabu pendo mi / 彼は私の久しい友人だ

では、1=1 であると共に、2=2も成り立っている。このことを、1,2=1,2 と書けば、これは先ほどのものがさして特別なものでないことと感じさせてくれる。実際、多くのlujvoでこのように複数の箇所で連関することはよく起こっている。

 以上をまとめると、タンルの解釈は n=m則(1=m則)と*=m則の2種に分けることができ、しばしばその複合的解釈もなされる。ほとんどのタンルの解釈でこの法則が成り立っていると思う。