2014/12/07

分配性と集団性についての理解のための草稿

2014/12/6 ver 1.0
2014/12/7 ver 1.1

ni'o

 「はじめてのロジバン」でも特に頭を悩ませているであろうところが、分配性と集団性の項目でしょう。これは大部分、その章を書いた当時の僕の理解不足とそれに伴う表現の不備が引き起こしている問題だということは自負しているので、できるだけ早いところ書き直さないといけない。

 という事情を踏まえて、また理解不足による悲劇が起こらないように、ひとまずロジバンと関連する前段階の、純粋に自然言語に登場する分配性と集団性についてきちんと書いておくのは悪くないと思い、ここに草稿を書きしたためます。

 BPFK sections の me の項目 にもある通り、この記事の分配性・集団性についても McKayのもの("Plural predication (2006)")に準じることにします。より plural logic に踏み込んだ内容の記事は、guskantさんの gadri の論理学的観点からの解説 がありますので、形式論理学に強い方はそちらも見るといいかもしれません。


ni'o

 結局のところ、分配性というのは名詞句の並列接続詞 「と」、英語でいえば "and" の解釈の仕方(一般には複数形の名詞句)と関連してきます。

(1) アーニーとボブとカルロスは学生だ。

この文(1)は並列接続詞(「そして」)を用いた、

(1)' アーニーは学生であり、そして、ボブは学生であり、そして、カルロスは学生である。

という文のいわば「省略形」としてみなせるという主張にほとんどの人は異論はないでしょう。思い切って、このとき名詞句の並列接続詞は冗長な(1)' を短く言うためのテクニックとして使われている、と言ってしまってもこの際いいでしょう。

 恐らく、多くの述語にとって、(1)を(1)'のように読むことは有効です。この至って単純な性質を、すなわち、並列な名詞句を並列な文の簡潔化のために使われているように解釈できるとき、「その並列な名詞句は分配的に述語を満たす」とか「その述語は分配的に満たされている」などと言います。もしくは、「(その述語を満たしている)名詞句には分配性がある」などと言います。

※ 以下で「述語Fは分配的/集団的」や「分配的/集団的な述語」という言い回しをよくしますが、これは、「分配的/集団的に満たされているような述語」という意味です。この記事では一項述語を中心に取り扱いますが、項の位置が複数あるような述語ではどの位置がそのように満たされているかを適宜明記(文脈上明らかであれば省略)することにします。

 すなわち、「いくつかのものがFであるとき、それら1つひとつについてもFであるなら、そのいくつかのものはその述語を分配的に満たす」ということになります。

 しばしば、以下で「分配的読み」や「分配的に読む」という言い方をするときがあります。これは、並列な名詞句がある文を、それぞれについての並列な文(連言)として解釈してみるという意味合いがあります。(1)は分配的な読みが可能なわけです。そして、分配的な読みが可能なとき、分配性があると言えます。

 ということは、「xは学生だ」という文では、述語は分配的に満たされているということになります。当然ではあるのですが、数学で使われる述語のほとんどは分配的に満たされるでしょう。
  • 「xは偶数である」
  • 「xは微分可能である」
  • 「xは素数である」
  • 「xはN以上だ」
たとえば、「2と4は偶数である」というとき、これは「2は偶数であり、そして4は偶数である」ということを短く言ったものとして解釈されるはずです。他の語句についても同様のことが言えると思います。

※ 「nとmは互いに素である」は一見、名詞句を「と」で繋いでいますが分配的ではなさそうです。しかしながら、「互いに素である」というのは定義から二項述語であることに注意してください。つまり、そもそも「互いに素」というのは2つの数の間の関係であって、「xは互いに素である」という一項述語のxに「nとm」を入れているわけではありません。

※※ 「互いに素」という述語は数学の用語であって、それゆえに何項の述語かが定義されていますが、一般に自然言語の文の述語が何項なのかは分析の仕方によると思います。ですから、この記事の「この文の述語はこうである」というのはいくらか恣意性があると思います。ですが、その恣意性の是非について詳細に語ることは、この記事の役割ではないと思いますし、それこそ分析哲学の研究対象となることだと思いますので、ここでは不自然でなさそうな分析をなるべく心がけていますので、それで容赦ください。(そもそも、もっと抜本的な分析を行えば、分配性と集団性という概念すら無しにこれこれの文を分析できるかもしれませんが、あくまでこの記事は「分配性と集団性」の記事ですので、その辺りの(都合の良い)線路があることは容赦ください)。

※ なぜ数学で使われる述語が『当然ながら』分配的であると言ったのかといいますと、数学は標準的な一階述語論理で上手く記述できているからです。標準的な一階述語論理の述語はすべて分配的に満たされますから、数学についてもそうだろうということです。


ni'o

 見てきたように、数学の話ならこれで特に問題もないのですが、自然言語の形式言語への翻訳ということになると事情は異なってきます。というのも、自然言語で現れる述語の中には分配的な読みができないものが存在するからです。

(2) アーニーとボブとカルロスはクラスメイトだ。

これは明らかに、「アーニーはクラスメイトであり、ボブはクラスメイトであり、カルロスはクラスメイトである」という文を短縮したものではないでしょう。それでも、「アーニーはクラスメイトだ」を特に不自然と思わない人はおそらく、「アーニーは(誰かと)クラスメイトだ」というように無意識に「xはクラスメイトだ」という一項述語から、「xはyとクラスメイトだ」という二項述語に変容させてしまっていると思います。

 (2)で使われている述語は実は三項述語「xとyとzはクラスメイトだ」であると考えることもできそうです。しかしながら、別に「クラスメイト」というのは何も三項関係に留まりません。「目の前にいる10人の学生はクラスメイトだ」という文では十項関係の述語を使っているとみなすことになりますが…、この辺りで雲行きの怪しさを感じてくれると幸いです。「互いに素」とはちがう類の述語であることは明らかでしょう。

 他にも、

(3) 10人の学生が並んで円陣を組んでいる。

というのも、一人ひとりが円陣を組んでいるわけではありませんし、そもそも1人で円陣は組めるものではないでしょう。つまり、この文の表すところは、「円」は1つだけ形成されているということであって、人数分(10個)形成されているということではないでしょう。ここでも、無意識のうちに「xが円陣を組んでいる(のに参加している)」と読まないようにしましょう。「円陣に参加している」というのは分配的でしょう。

 さらに、

(4) これらのリンゴは全部で5個以上ある。

というのも、(「全部で」と書いてあるのですから当然といえば当然ですが)「一つ一つのリンゴが5個以上ある」(?)わけではありません。以上のように、分配的に読めないような文が自然言語ではありうるわけです。他にMcKayが挙げているもの(の日本語訳)をいくつか挙げておきます:

  • xはその(1つの)建物を囲んでいる。
  • xは多くの異なる国の出身だ(xは色々なところから来た)。

 このように、述語の性質/意味上、どうにも分配的な読みができないものがあります。それを、「その述語は非分配的に満たされている」とか単に「非分配的な述語だ」と言っておきましょう。分配的に読めないならば、それは非分配的ということです。

※ 個数系の述語ではほとんど非分配的に思えますが、「xは4個以下だ」とか「xは全部で奇数個ある」というのは分配的です。「1個」もまた「4個以下」ですし「奇数個」ですから。

※ 「xは家族である」も非分配的な述語だと思います。


ni'o

 さて、以上で出てきたのは、「意味上、明らかに分配的な読みが不可能な述語」でした。ここからは少し毛色の違うものを見ていきます(そして、分配性・集団性について考えることになるのはむしろこちらがメインかもしれません)。

(5) この砂袋とその砂袋を量ると10 kgだった。

これは、「動作の回数」の点から2つの解釈ができます。適切な語句を付け加えて言い分けると、

(5a) この砂袋とその砂袋を量るとそれぞれ10 kgだった。
(5b) この砂袋とその砂袋を量ると全部で10 kgだった。

(5a)では量る動作は2回ですが、(5b)では量る動作は1回です。間違いなく、(5a)は2つの砂袋について分配的な読みをしています。一方、(5b)の解釈では、「合計で10kg」ですから、それぞれは10kgでない(すなわち非分配的である/分配的な読みでは偽である)ことも同時に述べています。

 また、次の文、

(6) この砂袋とその砂袋を量ると10 kg以上だった。
(6a) この砂袋とその砂袋を量るとそれぞれ10 kg以上だった。
(6b) この砂袋とその砂袋を量ると合計で10 kg以上だった。

に関しても、「それぞれ10kg以上」と「合計で10kg以上」の2つの解釈ができます。しかし、(5)と違って、(6a)が真ならば(6b)もまた真ですし、(6b)が真だからといって必ずしも(6a)が偽であるとは限らないという点は注意しておいていいでしょう。たとえば、2つの砂袋が 12kg と 16kg だった場合は、どちらの解釈でも真となります。(6a)は分配的な読みであり、(6a)と(6b)が両立する場合があります。

※ (6a)をP, (6b)をQとして、「P⇒Q」「¬(P⇒¬Q)」ということです。後者は「P∧Q」と同値です。

 (5)も(6)も数値の絡んでくるものですから、そういった類の述語に特有のものではないかと思われるかもしれませんが、もっと日常的な文にも生じます。

(7) アリシアとベティとカーラはその(1つの)テーブルを持ち上げた。

ここでも、「持ち上げ」という動作回数の点から見てみましょう:

(7a) アリシアとベティとカーラはそれぞれ、そのテーブルを持ち上げた。
(7b) アリシアとベティとカーラは一斉に、そのテーブルを持ち上げた。

(7a)の読みでは「持ち上げ」は最低3回(人数分)起こっており、(7b)の読みでは「持ち上げ」は最低1回だけ起こっていると見れます。すなわち、複数回の各個人による持ち上げが行われたのか、3人という集団による単一の持ち上げが行われたのか、どちらのようにも読めるわけです。

※ 「各個人がテーブルを持ち上げるという光景は不自然だ」と思うのであれば、「バーベル」とでもしてみましょう。その3人がウェイトリフティングの選手なら、それぞれが(少なくとも)1回ずつバーベルを持ち上げたという解釈はできますし、設営かなんらかの際に3人で持ち上げたという解釈もできます。

※ 文ではないので、少し話題からそれるかもしれませんが、「重量10kgの2つのダンベル」というのは「合わせて10kg」なのか、「それぞれ10kg」なのか分かりません。


ni'o

 以上のこと、特に(6)のことから、「非分配的」という用語が「分配的」の対なる用語としてはあまり適切ではないということが伺えます。というのも、(6b)「合計で10kg」の解釈を「非分配的な読み」と名づけてしまうと、「非分配的な読みでも分配的な読みは可能である」という少々矛盾めいた表現が出てくるからです。

 そこで、「分配的」の対なる用語、すなわち「複数のものが合わせて/合計で/一斉に/集団で述語を満たす」ようなときを「集団的(collective)に満たす」「集団性がある」「集団的」と呼ぶことにしましょう。すると、(6b)というのは集団的な読みです。そして、(6)では集団性と分配性が両立することがあると言うことができます。

 冒頭で挙げた「意味上、明らかに分配的な読みが不可能な述語」というのは、集団的かつ非分配的な(読みしかできない)述語と言えます(これは間違いなく「集団的」です。集団的ですらなければ、その文は偽ですから)。つまり、「xはクラスメイトだ」や「xは4個以上だ」というのは集団的かつ非分配的に満たされる述語です。

※ もちろんのことながら、「分配的」と「集団的」というのは独立したものです。「非分配的かつ集団的」や「分配的かつ集団的」など、理論上3通りあり得ます(「ある」か「ないか」で2×2=4ですが、「非集団的かつ非分配的」はそもそもその文が偽ですから、実際は3通りです)。

[追記:本当に「非集団的かつ非分配的な読み」は偽になるのだろうか?たとえば、重複しない2人1組で1回ずつ(合計2回)その机を持ち上げたとき、「その4人の学生は1つのその机を持ち上げた。」とは言えないだろうか。もし言えるのであれば、これは非集団的かつ非分配的な読みではないだろうか。]


ni'o

 ここで注意してほしいのは、「xはクラスメイトだ」というのはどうあがいても、集団的かつ非分配的に満たされる述語としてしか解釈できませんでしたが、「xは10kg以上だ」においては使われ方(文脈・その他の注釈付け)もとい解釈の仕方によってその分配性・集団性が変わりえます。ですから、分配性・集団性といった性質は、その時々によって変わりうるものです。

 また、「集団的な読み」というものの自由さについても述べておきます。というのも、分配性というのはほとんど形式的な操作によって定義できましたが、「何が集団的な読みが可能な光景/状況か」というのは(広く共通するものもあるでしょうが)個人(または属するコミュニティ)の価値観に大きく影響されます。今までに見てきた、「机の持ち上げ」では動作の共同性が、「重さ」ではその和が集団性と関連しています。つまり、ある述語を集団的に満たすときの意味/光景/状況は、分かりやすいものもあれば、どうにも考えられそうにないものもあります。


ni'o

 述語の意味合いの違いにおける、集団性と分配性の揺らぎについて述べておきます。(7a)と(7b)は、一方が真なら他方は真ではないという点で (5a)(5b)と一見似ています。「それぞれが持ち上げた」というのは「一斉に持ち上げた」わけではないですし、「一斉に持ち上げた」というのは「それぞれが持ち上げた」というわけではありません。ですが、机の持ち上げという出来事でも、集団的かつ分配的な状況がありえます:

(7c) アリシアとベティとカーラは個々でそのテーブルを持ち上げたあと、一斉に持ち上げた。

ここで注意したいのは、(5)と(7)の述語の意味合いの違いです。(5)ではある程度定常的な性質について述べていますが、(7)は動作であり、その場合、どれだけの時間幅を考慮にいれるかによって、集団性と分配性の具合も変わってきます。(7c)は(7a)と(7b)が立て続けに起こった様子でしかありませんが、時間幅がより大きくとられていることによって、集団性と分配性が両立した状況となっています。

 他にも、guskantさんは「料理する」という述語でも集団性と分配性が両立する状況がありうると述べています。
『複数の人が協力して餅つきをし、カレーとバーベキューについてはそれぞれの人が分担するということも可能である。(略)この場合、(略)、それが集団的に餅つきをし、分配的にカレーかバーベキューを作っていると見なされる。 』(gadriの論理学的観点からの解説)
これも、餅つきだけに着目すれば、「集団的かつ非分配的に料理をする」ことになりますから、時間幅の取り方で集団性・分配性の具合も変わってくることが分かります。(たとえば、ご飯が完全に完成する前、それも餅つきがやっと終わったという段階で彼らを見たときは、彼らはまだ分配的に料理はしていませんから、「集団的・非分配的に料理をしている」ことになります)

※ ここで、もし6人の人がいるとして、4人は餅つきを、残り2人はそれぞれカレーとバーベキューを担当し、それらを同時進行させる場合はどうなるのかちょっと分かりません。

 ある程度定常的な性質について、集団性と分配性が両立するようなものは(6)があります。他にも、たとえば爆音を鳴らしている2つのスピーカーについて、「その2つのスピーカーはうるさい」というのは集団的でも分配的でもあるでしょう。恐らくですが、相乗的・相加的な性質は「それぞれFであるならば、合わせるとなおさらFだ」ということで、分配性が満たされば同時に集団性も満たされる気がします。(ただし、これは逆は成り立つとは限りません。たとえば、合計40kgの大量の人参の重さについて、「集団的には重い」ですが、それぞれはただの人参ですから、「分配的には重い」わけではありません)

 一方で、そうでないような性質、たとえば「学生である」や「男性である」や「生きている」というのは、集団的な読みがしにくいものだと思われます。もちろん、この中にも比較的集団的読みがしやすいものもあると思います。たとえば、「あの二人はご飯を食べるときもお風呂に入るときも寝るときもトイレに入るときもずっと一緒だ。あの二人は集団的に生きているな。」というのは、そこまで拒否感のある集団性ではないと思います。

 これは憶測ですが、動作に関する述語について、それが分配性と集団性を両立している場合というのは、非分配的かつ集団的なその動作と分配的かつ非集団的なその動作の両方が起こったということに等しいと思います。もしかしたら、これに当てはまらずに分配性と集団性を両立する動作に関する述語があるかもわかりませんが、概ねそう考えればいいのではないかと思います。


ni'o

 結局のところ、もっとも理解しやすく(安直に)考えるならば、分配的な読みとは「それぞれ(each)」をつけ加えて読むことであって、集団的な読みとは「一緒に(together)」をつけ加えて読むことかもしれません。分配的な読みの方はほとんど一辺倒に「それぞれ」をつければいい気がしますが、集団的な読みの方は(5)(6)では「一緒に」では不自然であることも考えると、ときには「合計で」とか「合わせて」とか「全部で」といった語を考える必要もあるかもしれません。

※ これは冒頭で取り扱った、集団的かつ非分配的な述語に関してでなく、色々な読み方が可能な述語についての処方箋です。

2 件のコメント:

  1. 公式サイトのURL変更に伴って、gadri解説ページとBPFKのmeの項目のURLも以下のように変わっています。
    https://mw.lojban.org/papri/gadri_の論理学的観点からの解説
    https://mw.lojban.org/papri/BPFK_Section:_Numeric_selbri

    返信削除
    返信
    1. ki'e guskant
      リンク切れ直しました。ありがとうございます。

      削除