2013/07/06

meについて

meの意味が何年か前に変わったそうで、一度ここでまとめておきます。

meの定義は簡潔には言えず、少し言葉数がかかります。
とりあえず、meの使い方を先に述べておくと、その後ろにsumtiをとり、selbriとなれます。
例) ti me loi gerku

これがどういう意味を表しているのかを以下でみていきます。

・ 群sumtiを取り込む
基本的に、meは群sumtiを後ろにとります。そして、その「一部」的なニュアンスを呈します。

・ 一部であって一部でない
しかし、完全に「一部」とは訳しきれません。
たしかに従来の定義に見られるように、meには「[sumti]の一部」という意味が含まれています。
ですが、一部と言いますと、「その群全体」は指せないように思えますね。
meはその群全体を指すこともできるので、「一部」という訳ではカバーできません。

・ meにとって個と群は区別されない
数学で、「部分集合」という言葉がありますね。
簡単に説明すると、集合{0, 1, 2, 3, 4, 5}というのがあったときに、
{0,2,5}とか{1, 3, 4, 5}とか{2, 3}などといった、要素を部分的に含んだ集合のことをいいます。
定義上、元の集合自体{0,1,2,3,4,5}も部分集合のひとつです。

となると、次のように思う人がいるかもしれません:
「meは集合こそ表しはしないが、群の部分という意味で「部分群れ」を表しているのでは?」
いいアイデアだと思います。しかし、部分集合の定義をそのまま部分群れの定義として使ってしまうとダメで、ひとつだけ修正してやる必要があります。
たとえば、{1}は{1,2,3,4,5}の部分集合ですが、要素1は{1,2,3,4,5}の部分集合ではありません。
これはつまり、集合は個と集合を区別している、ということです。
修正すべきはまさにこの点で、meの意味を「部分群れ」と定義するなら、部分群れが個と群を区別しないようなものとしてやる必要があります。その点で部分集合と部分群れは異なります。

つまり、[A, B, C, D, E] という群があったときに、Aと[A]は区別されません。いや、厳密にいうと、Aという個は[A]とみなされる、Aは部分群れの特殊な場合とみなされるのです。この意味で、meにとって個と群は区別するような存在ではありません。

・ 既存のgismuと比較する
「一部」を表すgismu, pagbuをみてみます。
pagbu x1はx2(本体)の部分/部品/要素; x2は部分的にx1
これはまさに「一部」で、集合論的には真部分を指します。つまり、全体は部分ではありません。

・ meは述語論理の基礎的な概念を表す
そもそも、meはselbriとして機能はしますが、cmavoのひとつです。brivlaの形としてmeの意味をもつ語が定義されないのには理由があって、この概念は論理哲学の"amongの理論"に使われるもので、ロジバンのベースになっている述語論理にとって基礎的なものだからです。ですから、上で暫定的に用意した「部分群れ」という語より、"among的部分"とか単に"among"と訳すのがいいのかもしれません。以下の例文では、比較的分かりやすいであろう「部分群れ」を用いることにします。

・建てものを囲んでみる
さて、具体例としていくつか例文をみていきます。
x1 me zo'e noi ke'a sruri le dinju - x1はその建物を囲んでいる人たちの部分群れである。
zo'e noi ke'a sruri le dinju は、lo sruri be le dinju と同じ意味です。

x1には群(もちろん群の特殊な場合としての個)を入れることができます。
loi so'i tadni cu me lo sruri be le dinju
- 多くの学生の群れはその建物を囲んでいる人たちの部分群れである。
→ 多くの学生の群れが取り囲みに参加している。

さて、この中に2人組の学生が混ざっているならば、こう言えます。
loi re re tadni cu me lo sruri be le dinju - 二人組の学生がその建物の取り囲みに参加している。

さらには、個々の学生をx1にできます:
lo tadni cu me lo sruri be le dinju - 個々の学生が取り囲みに参加している。

ここで、meを使わない表現だと個と群で意味が異なってくることをみます。
loi so'i tadni cu sruri le dinju - 多くの学生の群れが建物を取り囲む。

この状況下でも次の表現は偽になりえます。
lo tadni cu sruri le dinju - 個々の学生が建物を取り囲む(一人それぞれが囲んでいる)
loi re tadni cu sruri le dinju - 2人の学生群れが建物を取り囲む(2人だけで囲んでいる)

このおかしさは、おそらくmeが「一部」のニュアンスをもっていることからわかると思います。

・結局meとは何なのか
まとめです。
meは「一部」のニュアンスをもっているが、「一部」そのものではありません。
「一部」の意味合いとして「部分集合」的意味を有するが、「部分集合」そのものではありません。
meにとって個は群の特殊な場合でしかありません。ゆえに個と群は区別されません。

meは「部分群れ」とか「among的部分」とか日本語では上手く訳せない概念かもしれません。
ひとつの大胆なやりかたは、meの概念を少し曲解させて、meが所属関係を表すのではなく、後続のsumtiのもつ性質をx1がもつ、すなわち「[sumti]的」とするやり方です。これは従来のmeの定義の継承とも言えます。
meは厳密には「部分群れ」ですが、非常に大雑把に考えて「一部」をmeの意味ととることもできなくはないでしょう。(この場合はpagbuを使ったほうがいいかもしれませんが)
mi me le mensi - 私はその姉妹のamong的部分だ ≒ 私はその姉妹のひとりだ

ですから、なんだかよくわからない人はmeは「ちょっと特別な意味を含む一部」と考えてもらったらいいかなと思います。

※ guskantさんから補足としてコメントいただいたのでここに載せたいとおもいます。
me の後に付く sumti は「群れ」でなくても構いません。
me の後にどんな sumti が付いても、 {me SUMTI} の x1 は「部分群れ」扱いされます。
例えば

me lo'i tadni po'u lo sruri be le dinju
取り囲みである学生の集合なものだ

lo'i tadni のような集合も、1個の集合という「個」であると見なすことができます。
個は部分群れの特殊な場合ですから、この集合自体も部分群れと見なすことができます。
この表現の x1 には「学生の集合なもの」が入るのが妥当です。
lu'i ma'a
のような、人の集合を指す sumti です。
意味上は、 me がこの集合自体を「個」という「部分群れ」扱いしていることになります。
x1 として、この集合の元である個々の学生や、学生の群れを指す sumti を入れても、文法的には正しいですが、意味としては、つじつまが合いません。


me lo sruri be le dinju
のように、群れでも個でも指し得る sumti が me の後に付く場合には、 x1 として群れを入れても、個を入れても、つじつまが合います。
ある sumti が群れでも個でも指し得るかどうかは、その単語の意味によって違うので、漠然としたものだと思います。


<参考> ロジバン相談室 meについて ki'ecai .guskant.

19 件のコメント:

  1. me の後に付く sumti は「群れ」でなくても構いません。
    me の後にどんな sumti が付いても、 {me SUMTI} の x1 は「部分群れ」扱いされます。
    例えば

    me lo'i tadni po'u lo sruri be le dinju
    取り囲みである学生の集合なものだ

    lo'i tadni のような集合も、1個の集合という「個」であると見なすことができます。
    個は部分群れの特殊な場合ですから、この集合自体も部分群れと見なすことができます。
    この表現の x1 には「学生の集合なもの」が入るのが妥当です。
    lu'i ma'a
    のような、人の集合を指す sumti です。
    意味上は、 me がこの集合自体を「個」という「部分群れ」扱いしていることになります。
    x1 として、この集合の元である個々の学生や、学生の群れを指す sumti を入れても、文法的には正しいですが、意味としては、つじつまが合いません。


    me lo sruri be le dinju
    のように、群れでも個でも指し得る sumti が me の後に付く場合には、 x1 として群れを入れても、個を入れても、つじつまが合います。
    ある sumti が群れでも個でも指し得るかどうかは、その単語の意味によって違うので、漠然としたものだと思います。

    返信削除
  2. doi .guskant.
    コメントki'esaiです。

    そのまま補足として記事に載せたいとおもいます。

    返信削除
  3. doi .guskant.
    補足に関しての質問なのですが、
    meのあとに集合をとった場合は、「x1は[sumti]の部分集合」という意味になりますか?
    それともまた部分集合とは違うニュアンスが出てきますか?

    返信削除
  4. among理論から言うと、部分集合にはなりません。[sumti]という集合を「個」と見ているので、 me [sumti] のx1も「個」の部分群れ、つまり「個」となります。(この話は、ロジバンのmeの後に集合を指すsumtiが付く場合の意味についての公式見解ではなく、among理論からの私の推論です)

    返信削除
  5. なるほど…、難しいですね。

    返信削除
  6. 群れと集合の違いとして、生物の細胞を例に取ると、わかりやすいかもしれません。
    細胞の群れは細胞ですが、細胞の集合は、集合の元をうまく選べば、
    多細胞生物という「個」を指すことができます。

    mi me lo'i ji'esle
    私は細胞の集合なものだ。

    lo jurme cecmu cu me loi ji'esle
    バクテリアのコロニーは、細胞の群れなものだ。

    lo'i ji'esle の部分集合は、必ずしもmiにはなりません。
    loi ji'esle の「部分群れ」は、やっぱり lo jurme cecmu を指せます。

    返信削除
  7. ん、wavelessonの14章に
    loi mivysle cu remna - 「細胞のかたまりは人間である。」
    というのがありましたが、これとはまた別の話ですか?

    返信削除
  8. それも似たような話を含んでいます。

    多細胞生物は細胞の群れと見なすこともできますが、細胞の集合と見なせば、多細胞生物という、発言者にとって意味のある「個」となります。

    一方、バクテリアのコロニーも、細胞の群れで、これを集合と見なせば「個」となりますが、多細胞生物のような「個」としての意味は見出されていません。

    (ところで、lujvoとしてはmivysleよりji'esleの方が発音の複雑さのスコアが小さいです。)

    返信削除
  9. うーん、群と集合の差がまだはっきり分かってないかもしれないですね...

    CLL邦訳でも、群と集合が具体的にどう違うのかの記述がないですし...
    できれば教えてもらってもよろしいでしょうか。

    返信削除
  10. wavelessonsでは、ロジバンの「集合」は数学で扱われる集合のことだと言っているのですが、
    集合の性質として濃度・帰属関係・包含関係だけしか挙げられていない(CLLでも同様)のは、集合についての誤解を招くような気がします。
    数学で扱われる集合なら、濃度・帰属関係・包含関係だけでなく、元と元の間の関係も集合の性質です。
    この性質を考慮すれば、「集合」と見なせる物事は無数にあります。

    「群れ」は「個」の性質を継承しているのですが、「集合」は「元」の性質を必ずしも継承しません。

    「細胞の群れ」は「細胞である」という性質を持っているのですが、「細胞の集合」は「細胞である」という性質を持っていません。

    「細胞の群れ」は、細胞であるものが集まっているだけで、どこで区切った「部分群れ」でも、やっぱり「細胞である」という性質を持っています。

    ある「細胞の集合」が、細胞間の関係として、「ヒトである」という性質を形成している場合、その部分集合は「ヒトである」という性質を持ちません。
    「手である」とか「神経である」とかいう、別の性質を持った集合になります。

    返信削除
  11. えっと、つまり集合は元のいくらか高い次元の意味を指すことができる、んですかね…?

    ひとつ考えたのが、loi prenuとlo'i prenuです。
    loi prenuは「群衆」以上の意味にはならないが、lo'i prenuは「社会」という意味になりうるということですか?

    私の感覚としては、集合は群れよりも幾分秩序だっているように思いました。

    返信削除
  12. 最後の文以外は、そのとおりです。
    元と元の間の関係が無秩序な集合というのも、いくらでも作れます。
    ただ、話題にして意味のある集合には、何らかの秩序があることが多いでしょうね。

    返信削除
  13. なんとなく分かりました、ki'e

    最初の話に戻りますが、とすると、lo'i tadniもただの学生集団というわけではなく、その一つ上の次元の...うーん、言葉が思いつきませんが、を表しているんですね。
    しかし、個の部分群れって、結局はその個自体のことではないですか?

    返信削除
  14. .ui
    ん、ということは、後ろに個を取るmeは、duとなんら変わりないということですか?

    返信削除
  15. {ko'a me ko'e} と {ko'a du ko'e} の {ko'e} が1個の「個」を指すということが明示されていれば、
    この2つの命題の {ko'a} の指すものは同一です。
    (lo broda が個と見なされるかどうかは、brodaの意味によるので、漠然としています。
    BPFK Section: gadri の Note にも
    An individual can be anything, including a group, a set, a substance, a number, etc.
    と書かれています。
    また lo broda が指すものの個数は不定ですから、明示しない限り、1個であるとは限りません。)

    ただし、{ko'e} が1個の「個」を指す場合でも、 {me ko'e} は述語であり、 {du ko'e} は述語ではないので、
    この2つの命題の意味は違います。

    1. {la djikyl du la xaid}={la xaid du la djikyl}
    ジキルとハイドは同一人物だ

    2. {la djikyl me la xaid}
    ジキルはハイドだ

    3. {la xaid me la djikyl}
    ハイドはジキルだ

    2 は la djikyl についてだけ、 3 は la xaid についてだけ述べている命題です。
    la djikyl と la xaid がそれぞれ1個の「個」を指すことがわかっている場合には、
    2と3を両方言えば、1と同じ意味になります。

    返信削除
  16. .ua ki'esai


    考えていたんですが、
    lo'i tadni はサークルとか部活を表せるのですかね?

    返信削除
  17. できると思います。ただしbridiの中で使う場合にはloi tadniとの使い分けに気を付ける必要があります。
    自然言語ではサークルとそのメンバーとを混ぜて使うこともあるので。

    例えば
    「ももぐみさんはピンクのぼうしをかぶっています」
    と言う場合、ピンクのぼうしをかぶっているのは「ももぐみさん」という集合ではなくて、そのメンバーである子どもたちですから、この場合は「群れ」です。
    lai momogumis dasni lo xunblabi mapku
    一方、
    「4月からももぐみさんにはいります」
    という場合は「ももぐみさん」という集合のメンバーになるという意味で「集合」が使えます。
    ca lo vonmasti co'a cmima la'i momogumis
    ただ、同じことを表現するのにlaiを使うこともできます:
    ca lo vonmasti co'a me lai momogumis

    「集合」として扱うか、「群れ」として扱うかは、bridi次第です。

    返信削除
  18. おかげさまでかなり理解できました。

    またいつか群れと集合の記事も書きたいとおもいます。

    返信削除