まず、BAI SUMTI の形をとる項のことをBAI項と呼ぶ。
FA ko'a を broda に部分適用したのを
broda be FA ko'a
とかくことにする。もちろん、FA=feでは
broda be ko'a
であるし、FA=faのときは
se broda be ko'a
と同じ意味である。
もっぱら、FA=faのときに注意すれば良い。
また、タグの語源となるselbriをタグ元とでも呼び、
BAIをタグ、[BAI] をタグ元とする。
たとえば、BAI=pi'oのとき、[pi'o]=pilno である
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この説は次の3つの性質に着目している。
1. associated with、本質的な意味論は「関連する」
2. 項枠拡張による述語の概念変化、親和性
3. 文修飾的、あるいは述語修飾的
まず、BPFK sectionsから、今のところBAIには2つの解釈のされかたがある。
これは概ね、[BAI]のx2に何が暗黙裡に想定されるかに依っている。
1つ目は(これが大多数)、bridiにあるいずれかの項を想定しているものである。
これを項想定的と呼ぼう。
2つ目は、bridiを抽象化したような項を想定しているものである。
これを文想定的と呼ぼう。
これらは述べたように[BAI]のx2に抽象項が入るか入らないかによっておおよそ判別できる。
[BAI]_2 に抽象項が入るとき、そのBAIは文想定的になり、そうでないときは項想定的になる。
ただし、項想定的なタグではタグ元のx2は、必ずしもbridiにある項を想定するわけではなく、
しばしば、「文想定的ではない」という広い意味で項想定的という用語を使うこともあるので注意する。
文想定的なタグでは、そのbridiを抽象化した項がタグ元x2に想定されるように振る舞うが、項想定的なタグでは、そのbridiに現れる項がタグ元x2に想定されうる。
しかしながら、述べたように、項想定的なタグでは、どの項が想定されるかが不明瞭(必ずしもbridiに現れた項が想定されるとも限らないため)である。さらにいえば、bridiとの関係性が文想定的タグと違って明確ではない。そのために、BPFKでは
「そのbridiによって表される出来事は、BAI項と関連がある」
という形でその意味を表している。この「関連」というキーワードは、tanru においても重要である。
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さて、seltau云々の話にはいる。以下の公式が成り立つと主張する。
broda BAI ko'a = [BAI] be fa ko'a be'o broda
つまり、任意の追加項は、seltauの形でselbriに取り込むことが可能であると主張する。
"associated" な意味づけのされているタグがほとんどであることを考えると、これが本来的な追加項の意味論とすべきである。つまり、副文的タグの規則的に思える意味論は、どちらかというと語用論である。というのも、それらは、tanruにおいて sutra bajra を 「速い走者」と取るよりは、むしろ「速く走る」ととるのと似ている。この傾向性によって、副文的タグの意味論は理解されるべきだと思われる。
たとえば、du'o ([du'o] = djuno)は文想定的タグであるが、その解釈は
djuno be fa ko'a be'o broda
ko'aが知っている的brodaだ
の特殊であって、例外ではない。
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反論。これは、少し論理が飛躍している。というのも、さきほどは、BAI項というのはそれの現れる文に対して作用すると述べていたのに対し、ここでは、BAI項は述語に作用すると述べているわけである。
しかし、これはtanruの問題ともとれる。たとえば、
ti blanu plise / これは青いリンゴだ
を
ti plise i lo su'u go'i cu srana lo si'o blanu
/ これはリンゴである。直前の文内容は青と関連する。
と解釈するのは妥当かどうかということである。これは共範疇性の考慮も必要であるから、一概にどうであるとは言えないが、これに違和感はあるだろうか。
微妙なところである。やはり、blanuはtertauにかかっているのであって、文全体について言及されるものではないような気もする。
しかしながら、
mi sutra bajra / 私は速く走る
ではどうだろうか。これを
mi bajra i lo su'u go'i cu srana lo si'o sutra
/ 私は走る、このことは速いと関係がある
とするのは、結構うまく捉えられているような気がする。{ti plise}との大きな違いは、seltauが自然言語的には形容詞的か副詞的かのどちらであるかというところである。
となると、少なくとも、BAI項が副詞的であれば、それが文に作用するか、述語に作用するかというのは結構寛容でいられる。
(多分、副詞というのは潜在的に副文構造をとるからかもしれない。)
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実はトリックがある。以下では「親和性」をまじえていく。
文想定的タグはほぼほぼ、どんな述語に対してもそのように振る舞う。その意味で、副文的タグは述語と親和性について独立的である。
※実は、sutra は文想定的タグ元としてみれる。x2には動作/事が入るからである。おそらく、fi'o sutra は、文想定的タグであり、これは上での例が自然にみえたことと関係がありそうである。つまり、上の分析が自然にみえたのは、 sutra は述語と親和性について独立的であるためではないかと推測できる。
※では、{sutra bajra}と{fi'o sutra fe'u bajra}の違いはなんであろうか。もしくは、{
厄介なのは、非文想定的、すなわち項想定的タグである。これらのタグは述語との親和性によって、副詞的にも、擬本来的にもなる。副詞的とは、純に「関連」であることを意味する。副詞的なタグは、その述語との親和性が低いために、そのような解釈にならざるをえない。
特質すべきは擬本来的なタグである。このタグは、述語との親和性が高いことによって起こる。
de'i li renopapa barda ke tumla desku me'e zo'oi 東日本大震災
では、おそらく「2011年、大きな地震があり、それは東日本大震災と呼ばれる」となるが
ti gerku me'e zo potcin
では、おそらく「これはポチという名の犬だ」となろう。
注目すべきは後者で、ここでは me'e項が gerku と親和性が高いために、擬本来的な項として振舞っている。
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雑記すぎて読みにくすぎるけれど、とりあえず、ポイントはこの「擬本来的」だと思う。実はこの用法さえなければ、タグはかなりスッキリしている。
なーーーんか、もっとスッキリ出来ると思うので、これはみなさん読まなくていいよ(最初に書け)
多分だけど、方針としては、用法を「副詞的」と「擬本来的」の2つにわければいいのかなと思う。
んで、文想定的タグはもっぱら副詞的。項想定的タグは述語との親和性が大きいと擬本来的な用法が可能となる。そうでないときは(擬本来的な意味合いが上手くつかめないときは)副詞的(~と関連がある)になる。
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