2015/03/09

アスペクトとNU1


BPFK sectionsでは、アスペクトはすべて次のような形式で定義されています:

XXXXX aspect. It indicates that a situation is XXXXX

まとめてみると、

aspectit indicates that a situation …
pu'oProspectiveis about to take place, not yet realized.
co'aInitiativeis at its outset, just beginning.
ca'oProgressive/imperfectiveis in progress, ongoing.
co'uCessativeis at its termination, ending.
ba'oPerfect/retrospectiveis over, no longer taking place.

となります。

無相表現から何が抽出できるかを考えてみましょう。ここでNU1の登場です。

mu'epoint eventan event that is considered a single point in time, devoid of internal structure.
pu'uprocessan event having a beginning, an internal structure and an end.
za'icontinuous statean event that has sharply defined natural boundaries dividing when the state exists and when it doesn't.
zu'oactivityan event that is considered extended in time and is cyclic or repetitive.
NUというのは bridi を取り込んで、そのbridiによって表すことのできる抽象を引き出します。ここでは nu とその細分化したものだけを扱います。

nu [bridi] は、「x_1 は 取り込んだbridiによって表せるような状況/事象/事態 である」というPSを有します。そして、事態/事象にはお分かりの通り、様々な種類があるため、それを明示した NU1 が活躍するわけです。

まず、mu'e は点事象、すなわち、co'iの相を引き出します。事象の時間的流れを完全に無視するってことですね。これはちょっとイメージが付きにくいかもしれませんが、

mi co'a sipna pu lo nu do sipna / あなたが眠る前に私は眠る。

では、{do sipna}のどの段階の前時点で{mi sipna}なのかは明確ではありません。「眠りはじめ」「眠っている最中」「眠り終わり」のどこより前の時点でなのかが指示されていないわけです。ふつうは

mi co'a sipna pu lo nu do co'a sipna / あなたが眠り始める前に私は眠る。

としたいでしょうが、これは「日本語→日本語翻訳」を通した結果の文で、日本語も変わっていて、あまりキレイではないですね。ここでは、{do sipna}という事象がある程度の時間を持っているということが最大の原因になります。なので、点相 co'i が登場します。

mi co'a sipna pu lo nu do co'i sipna / あなたが眠る(という一連の事象の)前に私は眠る。

{do co'i sipna}は、「はじめ」「最中」「終わり」といった内部構造を無視し、あたかも時間軸上の1点であるように{do sipna}を見つめたものになります。つまり、{do sipna}の全体を1点と見ているわけです。

これと全く同じ働きをしているのが、mu'e です。

mi co'a sipna pu lo mu'e do sipna / あなたが眠る前に私は眠る。

ここでは、mu'e によって、{do sipna}で表される事象全体を1点として抽出し、「それより前」と言ってやることで、日本語で想定している意味と同等の表現が実現されています。

次、pu'u。これは「過程」を表す。引き出した事象が「始まり」「終わり」とその間にあるいくつかの段階からなることを示すわけですが、これは mu'e の対極にあるような引き出し方です。

ko catlu lo pu'u mi pilno ti / 私がこれを使っている過程を見ていてください。
/ 私がこれを使い始めて使い終わるまでを見てください。

pu'u は「はじめから終わりまで」の一部始終的な意味合いが出てくると思います。「始まって、こうやって、こうして、こうなって、ああなって、終わる」といった、サブ事象の連結としての事象であることを表す、と思えばいいと思います。一部始終という意味では mu'e と似ていますが、内部構造を勘案した一部始終であるという点が異なります。

次、za'i。これは「状態」を表す。つまり、引き出した事象に明確な境界線があることを示すわけです。これはたぶん、アルカの継続相の部分の事象を表しているのだと思います。

za'i sanli / 立っている状態だ。

za'i は continuous な状態を表すということに注意。「立っている」様子や「座っている」様子は、1秒でも2分でもその様子に変わりないですが、「走っている」様子や「歩いている」様子は時間の取り幅によってはそうではありません。これはzu'oとの対比でよく分かるかと思います。

zu'o は activity、動作/活動を表します。動作というのは周期的・反復的であり、その時間を引き伸ばすことのできるような事象のことです。「走っている」様子や「歩いている」様子は「状態」ではなく、まさにこの「動作」なのです。

{za'i sanli}は、まさに立っている様子、直立している様子を表しますが、{zu'o sanli}は、何度も立ち上がっている様子、着席と起立を繰り返す様子を表しているはずです。

※ zu'o はアルカでいうところの -and に相当するんでしょうね。もちろん、zu'oは相でなくて、抽象詞ですので、かなり別物ですが。

さて、当初の目的は、無相からどんな様子が引き出せるか、でしたが、「点」「状態」「過程」「動作」の4種を無相で表せることが分かりました。点はともかくとして、「状態」「動作」「過程」なる事態を無相で表せると分かったのはいいかんじだ。とはいえ、「状態」「動作」というのは、アルカでいうところの、継続相と反復相に相当し、つまり、状態動詞と不定動詞に相当するという、この前の話からも分かることではあります。

「過程」。これも無相で表せる事態のひとつですが、何があるでしょうね。

ti pu'u jmive / これが生きるということだ。

とかでしょうか。命がはじまり、そして朽ちていく様子を

jmive

と一言で表すことができるということです。でもこれは割と当たり前ではありますね、たとえば

ti pu'u citka

の意味で

citka

といい、食べ物を口にやり、むしゃむしゃして、食べ物を食べ終わる様子と紐付けるのは、たとえば直接教授法でロジバンの動画をみることを考えてみてください。なるほど、確かにありそうだ。

「座らせようとする」{gasnu lo nu zutse}、

ti pu'u gasnu lo nu zutse

の「終わり」というのは、対象がzutseしはじめるところでしょう。ここでは、無相、

gasnu lo nu zutse

は、状態でも動作でもなく、その過程を表しているはずです。


※ 継続相と経過相は状態じゃないのかという疑問がずっと頭の中にあるんですよね。多分、経過相も状態だと思うんですよ。「駅へ向かっている状態」というのは変ではないでしょう。「歩きで駅に向かっていることを考えれば、歩きは動作であって、状態ではないから、これは状態ではないのでは?」とか「リンゴを食べることを考えると、リンゴを咀嚼し、飲み込み、また口にするという動作の繰り返しであって、それゆえに状態ではないのでは?」みたいなことが頭によぎるのですが、これはちょっと紛らわしい罠に引っかかっていそうです。たとえ、その手段(「歩き」や「咀嚼、飲み込み、口にする」)は動作であっても、「駅に向かう」「リンゴを減らしていく」というのはどんな時間でも一貫しているので、状態だと思うわけです。「複数回の動作を用いて、1つの目標に向かっている状態」というのが今言った例における経過相でしょうから、これは累積でも反復でもないんですよ。

※ そう考えると、{gasnu lo nu zutse}で、その状態(つまり経過相)を指示するのはなんら奇妙でないですね。

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なんかとりとめのない記事になってしまった

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