zo'eの不特定性の救済に関する試案 をちょっと前に書いた。
そこでは、「zo'eは定項であるのに、どうして不特定性を醸し出せるのか」ということを論じた。zo'eは定項であるから、議論領域Dは一定だったとして、影響を受けるのはその解釈関数Fの在り方である。(中略)解釈関数のうちのどれであるかを確定しない間は、zo'eもその指示対象が1通りには定まらない。つまり、zo'eの不特定性というのは、解釈保留から生じる不特定性であるとみれば、矛盾しない。とし、そして、
今までは、話者は何らかの特定な構造を携えてその文を発すると考えていたわけだが、その前提をやや否定するのである。そうすると、話者は
1. ひとつの特定の解釈を想定している
2. それを充足するような解釈関数があることを主張している(特定の解釈を想定していない)
3. どの解釈関数であっても充足することを主張している(特定の解釈を想定していない)
4. 複数の特定の解釈を想定している
のいずれかの態度をとることができるかもしれない(4は少し厳しいかもしれない)。などと言い、
こう考えると、zo'eの解釈の不定性によって、メタレベル(構造レベル)での複数変項の量化をロジバンは備えているとみることもできそうである。少なくとも、よく使われる、zo'eに対する2.の態度というのは、su'oi と実質遜色ない意味合いになるはずである。と言った。このことについてもう少し吟味したい。
モデル M をドメインD、解釈関数Fの組 M=(D,F)とする。任意の論理式(文)Φはこれに加え、自由変項群の評価μを用いることで、ΦがMとμによって充足していることを
M, μ |= Φ
とできる(|=は充足記号)。充足可能性というのは、メタレベルでの量化:
∃M∃μ . (M, μ |= Φ)
で表せる。ここで、もう少し条件の厳しい「可能性」として、
∃F∃μ . ((D,F), μ |= Φ)
を考える。これは「ドメイン固定の充足可能性」である。程よい文脈が共有できていれば、ドメインは(話の内容にもよるが)あまり揺らがないことが多いだろうし、このような「D固定の充足可能性」はしばしば遭遇するはずである。こちらの方が議論も見やすくなるので、D固定の充足可能性を見ていく。
さて、解釈関数Fは述語と定項の評価を担っている。述語の評価は簡単のため一意に定まったとすると、Fはすべての定項への複数の対象の割り当て方で多様性が生まれる。Fを特定のひとつに定めれば、定項の指示を1通りに固定することになり、これは定項が定項らしくあるときの状況である。つまり、「定項が定項らしくあるとき、話者は解釈関数を特定の1つに定めている」ということになる。これはさっき引用したリストの1.に該当する。
これはそこまで語るに及ばず。問題は2,3,4であって、これを少し見て行きたい。
2.は通常レベルにおいて su'oi を用いるのに相当すると思われる。たとえば、
la'a la mik cu prami lo vi zvati
/ 多分、ミクはここにいる誰かのことを愛している。
という文を、話者は「充足可能である」という態度で発したとすると、
∃F. ((D,F) |= P(la .mik. , lo vi zvati))
のようになる。これは、la .mik. と prami の解釈だけを固定した F を用いて、
(D,F), μ |= ∃X. P(la .mik., X)
に相当するはずである。ここで X は複数変項である。たとえば、D={a, b} として、
F(lo vi zvati)=...
① a
② b
③ 「a, b」
の3通りの解釈がありうるわけだが、これは複数定項 X について
μ(X)=...
① a
② b
③ 「a, b」
とされるのと意味上変わらない。このことから、zo'e は話者の態度の具合によって、複数量化の代行ができそうである。
※ 話者の態度の話になればこっちのもので、新しい心態詞を何か定義すればよい。
3. は微妙なところである。これは ro'oi による量化に相当し、
∀F. ((D,F) |= P(la .mik. , lo vi zvati))
に相当する(ただし少し微妙で、ここではFの{lo vi zvati}に対する挙動に関してのみ∀である)。
これはおそらく理論上は可能だが、滅多に使われることがないと思われる。というか、そもそも、ro'oiの日常における使用頻度はほとんどないだろう。
2. 3. によって、zo'e が su'oi でも ro'oi でもありうるので、これはある意味「量化の保留」を意味している。
そして、4.は特定の複数解釈の想定であるが、あわよくば、総称文の解釈がこれになるかもしれない。
さらに、
5. いくつかの特定の複数解釈を想定し、それにおいて真であるために一般化し、むしろFについて何もしない
これは解釈関数の自由変数化となり、複数定項のメタレベルでの自由変項化が実現できる。
ここで重要なのは、解釈関数は1個でも複数個でも特定なものを想定できるし、特定のものを想定せずに量化の形を想定してもよいということである。
束縛変項との違いはメタレベルでの要素の特定具合の影響の程度による。
束縛変項は、モデルMのドメインDが定まってしまえば評価が可能であるが、
複数定項は、解釈関数Fによって解釈され、しばしばFよりもDのほうが文脈から定まりやすいことから、
複数定項のほうが「自由変項っぽい」感じになるのである。
これは、guskantさんの変項と定項執筆時代の「zo'eは自由変項である」という解釈説を幾ばくか救済できるかもしれない。つまり、guskantさんの抱いていた「zo'eの自由変項らしさ」というのは、zo'eそれ自体に備わっているのではなく、メタレベルでのモデル(の特に解釈関数)の不特定性によって呈するのではなかろうか。
gadri の論理学的観点からの解説の 4.3 ではこのことについて少し述べてある。欠点として、
{zo'e} が文脈によって自由変項だったり、束縛複数変項だったり、複数定項だったりするので、単一のbridiからは、その中の項がどのような項であるかを判断できず、文の真理値を判断することができない。と書かれてあるが、「文の真理値が一般には文脈に依存する」というのは、つまるところ「文の真理値を定めるためのモデルの特定には文脈が必要である」ということであろうから、この記事で書いてきたことと適合する。
ただし、このように、文の真理値が一般には文脈に依存するという側面は、あらゆる自然言語が共有する性質である。
また、 {zo'e} が複数定項だけを表すという現行解釈を取るにしても、「何らかの議論領域が与えられている」ということが判断出来るだけで、文脈がわからなければ、どんな議論領域かを判断できないのだから、文脈無しでは文の真理値を判断できないという問題が解消されるわけではない。
今後、zo'eは複数定項であるという状況では「素粒子を lo で表すことができない」ということについて、モデルの不特定性からなんとかできないものか、というのを考えたい。
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