[1] アルカのアスペクト考:http://conlang.echo.jp/arka/study_yulf_138.html
[2] ロシア語-不定動詞と定動詞-:
http://www1.odn.ne.jp/xenom/russian.box/hutei_tei.html
[3] ロシア語概説 > 移動の動詞:
http://rossia.web.fc2.com/pc/yazyk/vvedenie/glagol_dvizhenia.html
[4] 日本語動詞文分析における「有界性」の有効性 : 意味的要件としての複数性をめぐって
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=83&item_id=5983&item_no=1
ひょんなことから、アルカのアスペクト考を読み、述語の概念分析(?)の綿密さにすげえと思っていました(語彙力)。 i'e zabna
ロジバンキチガイなので、そうなると、じゃあロジバンはどうなるんよとなるので雑記。
とりあえず、定動詞・不定動詞、単位動詞・非単位動詞というのがあるらしいのでそこから。
# 定動詞/不定動詞
ロシア語だとなんかこんな感じらしい[3]:«移動の動詞» は «運動の動詞» などとも呼ばれるが、日本語訳の違いでしかない。使い分けのリストは、
移動の動詞とは、対応する完了体を持たない総計30ほどの不完了体動詞の総称である。その特徴は、行為主体の場所の移動を意味すること、しかも語義的に同じ意味を持つふたつの動詞がペアを組んでいることにある。このペアには法則性があり、一方を «定動詞(定方向動詞)»、他方を «不定動詞(不定方向動詞)» と呼ぶ。
- 方向
- 目的地あり
- 片道 : 定動詞
- 往復 : 不定動詞
- 目的地なし : 不定動詞
- 目的地あり
- 時間
- ある時/1回 : 定動詞
- 不特定/反復 : 不定動詞
- その他
- 特性・能力 : 不定動詞
アルカのアスペクト考[1]でいってる「定・不定」というのは多分素朴な意味(目的地の有無)かなと勝手に考えている。「書く」にも定/不定用法があるらしいので、もっといえば、目的の有無かな。「目的が定まっているか、定まっていないか」かしら。
{cadzu}は「目的地」がないので不定述語だし、{klama}や{muvdu}は「目的地」があるので、本来的には定述語なのだろう。そもそもは{klama}や{muvdu}に往復の意味合いはないし、多分、まさに定動詞の定部分を抽出しているような述語なんじゃなかろうか。
# 単位動詞・非単位動詞
これはアルカの記事[1]以外に見当たらなかったんだけど、アルカのオリジナル用語かしら?
不定動詞「歩く」は一歩歩いても千歩歩いても歩いたことになるという特徴を持つ。
一歩歩くという最小単位の累積が不定動詞になっている。
一歩歩くというのはそれだけで終始する一回性のある運動である。
これを○で表すと、不定動詞は任意の個数の○、すなわち……○○○○○○○○……で表せる。
定動詞が有界であるのに比べ、こちらは非有界である。
しかし現実の行為は無限ではない。始まりも終わりもある。
始まりと終わりを|で示すと、不定動詞のモデルはこうなる。
|○○○○|
任意の個数の○が|の間にある。
また、|にいたるまでの過程と、|からの未来を――で表すと、モデルはこうなる。
――|○○○○|――
これは定動詞のアスペクトのモデルと異なっている。
――○――○――○――モデルを単位動詞と呼ぶ。
――|○○○○|――モデルを非単位動詞と呼ぶ。
単位動詞は定動詞しか来ないが、非単位動詞は定動詞の場合は反復で不定動詞の場合は累積となり、両方来る。
有界と非有界はよくわかんないんだけど、多分「原理的な終点(完了点・臨界点?)が存在するかどうか」ってことかなと。「歩く」の定動詞用法は「歩いてドコソコに行く」という意味合いになるが、これはドコソコに着いた時点で「歩いてドコソコに行く」ことはできなくなってしまうので、その意味で「歩く」ことができなくなる。なので有界。一方で、不定動詞の用法(ロジバンの{cadzu}はこっち)では、目的地が存在しない(ぶらぶら歩いてるだけ)ので、原理的な終点が存在しない。なので、非有界。まあこんな感じかな、と勝手に納得している。
※ 不定動詞用法の「歩く」でも、「体力の限界」とか「飽きる」とかそういった制限による終点がある(それゆえに、非有界的である)ように思うけれど、ここでいう「原理的な終点」というのは、多分「目的」のことだと思う。アルカ的には「~をするために○○する」というのが結構暗黙の内にあって、「~をする」に向かって「○○する」が行われているという光景が定動詞用法で表現されるのかもしれない。「ドコソコに歩いて行く」というのは、「ドコソコにいるために歩く」ってことで、「歩くこと」はここでは目的達成(どこそこにいること)のための手段である。
一方で、体力の限界によって歩くことが終わるようなとき、体力の限界は目的ではなく、単に原因。飽きも同様で、飽きるために歩くことは、まあ通常の人間はしないだろう。でも、たとえば、ダイエットがしたくて、「体力の限界まで歩こう!」としていたときは、体力の限界は目的になるし、このときの「歩く」は(この説明が正しければ)定動詞になるような気もする。それに、たとえ目的地はないが、「10km歩く」というのは、定動詞になりそう。もちろん、「歩く」にとっての標準的な目的(「XXXにいること」)といった話があるはずなので、その目的が標準的か否かで定/不定の判定も変わりそうだし、アルカでは実際にその通りだろう。
転じて、「目的があるから完了できる」といえそう。
『一歩歩くという最小単位の累積が不定動詞になっている。一歩歩くというのはそれだけで終始する一回性のある運動である。』[1]について。多分これはむしろ、「動詞が不定的でありえるためには、その動作の最小単位が自然に認識/理解できることが必要」ということなんだろう。「歩く」に不定動詞用法があるのは、「歩く」の最小単位が自然に理解できるからということなんだろう。この構造をどこかで見たことある気がするのだけど、思いつかない。
※
[1]では、一歩歩いても千歩歩いても「歩く」だ、とあるけれど、個人的には、ある事象の最小単位に対してその述語が適用できなくてもいいのではと思ったりする。つまり、累積すれば確かにその述語が適用できるが、その最小単位についてもそうであるとは限らないかもしれない。
少し懐疑的になって、「一歩歩いても千歩歩いても」で登場する「歩く」は「一歩前に出る」の意味であって、実際にここで議論している「歩く」とは違う意味かもしれないと考えてみる。そして、「一歩前に出ても千歩前に出ても、それは「歩く」である」と言い換えると、さっきより容認しがたくなりそうだ。ここにはそういったトリックがあるような気がする。ので、僕は最小単位の述語適用性を不定動詞に要請しない。つまり、厳密には、不定的な「歩く」とは「一歩前に出る」という一回性の運動の(ある程度の)累積であるといえる。
難しく言えば、僕は、不定動詞は離散的だが還元的ではないということが言いたいのかもしれない(といいながら、砂山のパラドックスが頭に浮かんだ)。
/※
そこで、不定動詞のモデルは ――|○○○○|―― らしい。ここで、○はその事象を構成する部分的な事象の最小単位で、「――」はそこにいたるまでの過程と、そこからの未来を表す。「|」はその述語が適用できる最大部分の境界、といったところ。(もし、「一歩前に出ること」を「歩き」に含めるなら、○は「一歩の歩き」に等しい)
そして、『――○――○――○――モデルを単位動詞と呼び、――|○○○○|――モデルを非単位動詞と呼ぶ』らしい。けれど、個人的に、モデルのことを「~動詞」で呼びたくないので、多分適宜「単位/非単位動詞モデル」っていうことになる。ヘタすると「単位/非単位モデル」「単位/非単位的(モデル)」って呼ぶ。
アルカでは、「単位動詞すなわち定動詞」であり、このとき事象の最小単位(○)は、アルカでは多分、開始から終了の部分。ロジバンでいえば、co'iの相。
「反復」と「累積」の言葉の使い分けの違いは、「最小単位に対する述語への適用の容認さ」によるらしい。「叩く」はふつう1回だけでも十分「叩く」だがが、「歩く」はふつう1回だけではあまり「歩く」としにくい。なので、「叩く」では反復、「歩く」では累積となる。
※
実はこのために、最小単位の述語適用性を不定動詞に要請しないでおきたかった。動詞Xがあったとして、「反復」されるのはXで表される事象だが、「累積」されるのはXを構成する、より小さな事象(Xの構成単位)であるとすれば、2つの概念がきれいに分離する。しかし、XがXによって構成されるという構図もありえる。たとえば、「書く」はそれに該当するはず。「書く」の不定的意味は文字の羅列をただただ書くことだが、これは「1文字書く」ことの繰り返しであるから、「書く」の累積によって「書く」ができあがる構図となっている。
でも、屁理屈をいえば、「1文字書く」ことが既に「書く」ことであるなら、それを繰り返すことは、累積でなくて反復ではないかと思える。しかしながら、厳密には、「1文字書く」ことで「文字列を書く」のであって、「叩く」とはちがう状況になっているのが分かる。「Aを叩く」の反復は純粋に「Aを叩く」ことが繰り返されるだけだが、「書く」で起こっているのは、「文字を書く」ことによる「文字列を書く」の実現であり、「書く」の対象が異なっていることに注意すべきである。つまり、不定の「書く」とは、「文字を書く」というより小さな事象の累積による「文字列を書く」である。
ここで、「一歩前に出る」や「文字を書く」という「歩く」「書く」を構成する最小単位の動作自体は定的だと僕は思う。反復と累積の決定的な違いは、その繰り返しが同一の事象か、より下位の事象かの違いだと思う。「叩いている」も「歩いている」もどちらもある定的な動詞によって表される事象の繰り返しが生じており、2つの違いは、その繰り返し起こる事象がそれ自身なのか、下位な事象なのかということである。
/※
なんでこれら2つのモデルを「単位」という言葉を使って表そうとしたのかはよくわからない。「単発モデル/連発モデル」のほうが分かりやすい気もする。まあ名前なんてどうつけたっていいんだけど。「単位」と言われると、非単位モデルのほうが構成単位があるって分、「単位的」に思えてくるのであまり嬉しくないかな。
にしても、アルカはこんなちゃんとした考察記事が日本語であっていいなあと思う。ロジバンもあればいいのに!
ちょっと長くなったのでとりあえずここで一旦切ります。続きは、ロジバンへの適用がほとんどです。
※ 不定動詞用法の「歩く」でも、「体力の限界」とか「飽きる」とかそういった制限による終点がある(それゆえに、非有界的である)ように思うけれど、ここでいう「原理的な終点」というのは、多分「目的」のことだと思う。アルカ的には「~をするために○○する」というのが結構暗黙の内にあって、「~をする」に向かって「○○する」が行われているという光景が定動詞用法で表現されるのかもしれない。「ドコソコに歩いて行く」というのは、「ドコソコにいるために歩く」ってことで、「歩くこと」はここでは目的達成(どこそこにいること)のための手段である。
一方で、体力の限界によって歩くことが終わるようなとき、体力の限界は目的ではなく、単に原因。飽きも同様で、飽きるために歩くことは、まあ通常の人間はしないだろう。でも、たとえば、ダイエットがしたくて、「体力の限界まで歩こう!」としていたときは、体力の限界は目的になるし、このときの「歩く」は(この説明が正しければ)定動詞になるような気もする。それに、たとえ目的地はないが、「10km歩く」というのは、定動詞になりそう。もちろん、「歩く」にとっての標準的な目的(「XXXにいること」)といった話があるはずなので、その目的が標準的か否かで定/不定の判定も変わりそうだし、アルカでは実際にその通りだろう。
転じて、「目的があるから完了できる」といえそう。
『一歩歩くという最小単位の累積が不定動詞になっている。一歩歩くというのはそれだけで終始する一回性のある運動である。』[1]について。多分これはむしろ、「動詞が不定的でありえるためには、その動作の最小単位が自然に認識/理解できることが必要」ということなんだろう。「歩く」に不定動詞用法があるのは、「歩く」の最小単位が自然に理解できるからということなんだろう。この構造をどこかで見たことある気がするのだけど、思いつかない。
※
[1]では、一歩歩いても千歩歩いても「歩く」だ、とあるけれど、個人的には、ある事象の最小単位に対してその述語が適用できなくてもいいのではと思ったりする。つまり、累積すれば確かにその述語が適用できるが、その最小単位についてもそうであるとは限らないかもしれない。
少し懐疑的になって、「一歩歩いても千歩歩いても」で登場する「歩く」は「一歩前に出る」の意味であって、実際にここで議論している「歩く」とは違う意味かもしれないと考えてみる。そして、「一歩前に出ても千歩前に出ても、それは「歩く」である」と言い換えると、さっきより容認しがたくなりそうだ。ここにはそういったトリックがあるような気がする。ので、僕は最小単位の述語適用性を不定動詞に要請しない。つまり、厳密には、不定的な「歩く」とは「一歩前に出る」という一回性の運動の(ある程度の)累積であるといえる。
難しく言えば、僕は、不定動詞は離散的だが還元的ではないということが言いたいのかもしれない(といいながら、砂山のパラドックスが頭に浮かんだ)。
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そこで、不定動詞のモデルは ――|○○○○|―― らしい。ここで、○はその事象を構成する部分的な事象の最小単位で、「――」はそこにいたるまでの過程と、そこからの未来を表す。「|」はその述語が適用できる最大部分の境界、といったところ。(もし、「一歩前に出ること」を「歩き」に含めるなら、○は「一歩の歩き」に等しい)
そして、『――○――○――○――モデルを単位動詞と呼び、――|○○○○|――モデルを非単位動詞と呼ぶ』らしい。けれど、個人的に、モデルのことを「~動詞」で呼びたくないので、多分適宜「単位/非単位動詞モデル」っていうことになる。ヘタすると「単位/非単位モデル」「単位/非単位的(モデル)」って呼ぶ。
アルカでは、「単位動詞すなわち定動詞」であり、このとき事象の最小単位(○)は、アルカでは多分、開始から終了の部分。ロジバンでいえば、co'iの相。
「反復」と「累積」の言葉の使い分けの違いは、「最小単位に対する述語への適用の容認さ」によるらしい。「叩く」はふつう1回だけでも十分「叩く」だがが、「歩く」はふつう1回だけではあまり「歩く」としにくい。なので、「叩く」では反復、「歩く」では累積となる。
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実はこのために、最小単位の述語適用性を不定動詞に要請しないでおきたかった。動詞Xがあったとして、「反復」されるのはXで表される事象だが、「累積」されるのはXを構成する、より小さな事象(Xの構成単位)であるとすれば、2つの概念がきれいに分離する。しかし、XがXによって構成されるという構図もありえる。たとえば、「書く」はそれに該当するはず。「書く」の不定的意味は文字の羅列をただただ書くことだが、これは「1文字書く」ことの繰り返しであるから、「書く」の累積によって「書く」ができあがる構図となっている。
でも、屁理屈をいえば、「1文字書く」ことが既に「書く」ことであるなら、それを繰り返すことは、累積でなくて反復ではないかと思える。しかしながら、厳密には、「1文字書く」ことで「文字列を書く」のであって、「叩く」とはちがう状況になっているのが分かる。「Aを叩く」の反復は純粋に「Aを叩く」ことが繰り返されるだけだが、「書く」で起こっているのは、「文字を書く」ことによる「文字列を書く」の実現であり、「書く」の対象が異なっていることに注意すべきである。つまり、不定の「書く」とは、「文字を書く」というより小さな事象の累積による「文字列を書く」である。
ここで、「一歩前に出る」や「文字を書く」という「歩く」「書く」を構成する最小単位の動作自体は定的だと僕は思う。反復と累積の決定的な違いは、その繰り返しが同一の事象か、より下位の事象かの違いだと思う。「叩いている」も「歩いている」もどちらもある定的な動詞によって表される事象の繰り返しが生じており、2つの違いは、その繰り返し起こる事象がそれ自身なのか、下位な事象なのかということである。
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なんでこれら2つのモデルを「単位」という言葉を使って表そうとしたのかはよくわからない。「単発モデル/連発モデル」のほうが分かりやすい気もする。まあ名前なんてどうつけたっていいんだけど。「単位」と言われると、非単位モデルのほうが構成単位があるって分、「単位的」に思えてくるのであまり嬉しくないかな。
にしても、アルカはこんなちゃんとした考察記事が日本語であっていいなあと思う。ロジバンもあればいいのに!
ちょっと長くなったのでとりあえずここで一旦切ります。続きは、ロジバンへの適用がほとんどです。
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