ロジバン悪戦苦闘記 の新記事がでました。コメント欄に書こうか迷ったけれど、ちょっとこっちに書き溜めておきたいこともあったので、こっちで。
zoi zoi.
まづ「永遠の17歳」については割と簡単にいけさうです。
la .abes.nanan. cu vitno loka li paze cu nilnalci’o ce’u
で、「安倍菜々は永遠の17歳」と言へるのではないかな、と。
mi’e .ino,u,es.kikukos .i mi cu ckaji loka li paze cu nilnalci’o ce’u vau zo’o
「井上喜久子、17歳です。なんちやつて」
みたいなのもいけさうですね。
.zoi
{vitno}と{nilnalci'o}を使った表現。PSは
vitno
x_1 は x_2 (性質)において x_3 の観点で永続的/恒久/不滅
nilnalci'o
ni_1 is the age [elapsed duration] of c_1 by standard c_2
[ni_1 は c_1の、c_2(基準)における年齢?寿命?]
nilnalci'oは果たして「年齢」なのか「寿命」なのか…。korpora で検索してみると、
.i le cifnu cu sipna .i lo re masti cu nilnalci'o ri
/ 赤ちゃんが眠っている。2ヶ月がその子のnilnalci'oだ。
lo si'o nilnalci'o na du lo si'o ternixli
/nilnalci'o は「年齢」ではない
と相反する記述が…いやはやほんとにどうしたものか。
PSの様子から探ってみる。命題として「何歳である」が成り立つには、ふつう「参照時点」がいるのでは?とも思う。つまり、
x1 は x2(物・者)の x3(時点)での c2(基準)における年齢
くらいならまだ分かる。しかしながら、一方で、verbaは
verba
x_1 は x_2 (年齢)の、 x_3 (観点)での子供
と、参照時点なしに「年齢」の項を設けている。ううん、なら参照時点は本質ではないのか。
そもそも、「2年生きている」のと「2歳である」のは違うことを言っている。だって、後者は時刻の階段関数だもの。そうすると、「二年の量」というのは「2歳」を表すにはちょっと遠い。「年」の量を使って定義したいのであれば、少なくとも
彼がN歳であるとは、彼が生まれた時点からN年後と(N+1)年後の間にいる
くらいで言わないといけない。
…しかしながら、形態素的には「量 - 若くない」、「若くなさの量」なので「年齢」を表しているような気もする。が、PSを見た限りでは概念分析不足というべきだろう。
長くなってしまったけれど、まあとりあえずは nilnalci'o は年齢を表せるとする。しかしながら、ni_1 には数字は入らないので、「17歳だ」としたいのであれば、
lo nanca be li pabi cu nilnalci'o
とすべきだと思う。もうひとつ、NAhE + verba を使う方法がある:
ko'a no'e verba li paze / 彼は17歳の(中間的)子どもだ。
ko'e to'e verba li cino / 彼は30歳の(反対的)子ども [=大人]だ。
さて、「永遠の」ですが、あるエスペランティストが「エスペラントなら単に「永遠の17歳」とできるのにロジバンではそうはできないのか大変だな・・・」みたいなことを呟いていましたが、そんなことはなく、
lo nanca be li paze cu vitno nilnalci'o la abes.nanan.
と、tanruで表すことも十分可能でしょう。これがちょっと気に食わないのであれば、
lo nanca be li paze cu ze'e nilnalci'o la abes.nanan.
と、無限時間を表すテンスタグ、ze'e を使うこともできます。まあ確かに、「永遠の17歳」というアバウトな表現をわざわざ vitno をselbriにおいて訳す必要はないのかもしれません。最終的には僕は、
la abes.nanan. cu ze'e no'e verba li paze
が簡単でいいかなと感じている。
zoi zoi.
個人的には「永遠の17歳」は{vitno}の方が良ささうかな、と考へてゐます。{ckaji}だとそれだけでは永続性が表し切れないので何か補はないといけないかな、と。
.zoi
ckajiを使うなら、 ze'e ckaji としたほうがいいでしょうね。
zoi zoi.
もう少し厳密さを求めるならばさつきの{ckaji}と組み合はせて
la.tci’aian. cu ckaji loka ke’a lifri paxa nanca kei fi’o munje la.aidolmastyr
といふ言ひ方もできるかも。「千早はアイマス世界で16歳(16年経験した)といふ性質を持つてゐる」。
.zoi
{ckaji}についてですが、よくよく考えると、普通の文で性質について述べることはできます。{mi nanmu}とか。なので、確かに {ckaji} を使えば、それが性質文であることを明記できはしますが、個人的にはまあそこまでしなくていいかなとも思う。趣味ですな。
la.tci’aian. cu ckaji loka ke’a lifri paxa nanca kei fi’o munje la.aidolmastyr
を僕好みに改変すれば、
fi'o munje la.aidolmastyr [zo'u] la .tci'aian. cu no'e verba li paxa
くらいですかね。fi'o munje の句を前に出した理由はまあ特にないですが、zo'u をつけると、「そういう世界では」という意味合いがより強く出るかなという算段です。
zoi zoi.
さて、最後に{mu’e}ですが、これは「時点抽象」の抽象詞です。{lo}と組み合はせてPSに嵌めるのが一番使ひ易さうですが、{lifri}ではうまく嵌まるPSが無いのでひとまづ{ca : 現在/〜の時点}を使つてみます。「千早は無印アイマスの時点では15歳、アイマス2時点で16歳」と言へるかどうか。
la.tci’aian. cu lifri pamu nanca calomu’e ke’a zasti fi’o munje la na’e tcita .aidolmastyr .ije ty. lifri paxa nanca calomu’e ke’a zasti fi’o munje la.aidolmastyr remoi
.zoi
少なくともこの文なら、「無印アイマスでは15歳、アイマス2では16歳」ということですから、
la .tci'aian. cu lifri lo nanca be li pamu fi'o munje la na'e tcita aidolmastyr. gi'e lifri lo nanca be li paxa fi'o munje la.aidolmastyr remoi
でよさそう。ちなみに、これ、かなり冗長ですね。fa'uを使うと簡潔になりそう。fa'uは接続詞JOIで、1文中で複数個使うことで、fa'uの前者、fa'uの後者の2文をまとめることができます。
la .tci'aian. cu lifri lo nanca be li pamu fa'u li paxa fi'o munje la na'e tcita aidolmastyr. fa'u la .aidolmastyr remoi
個人的には、この話においては {fi'o munje}が強力なツールであるので、mu'eは別に使わなくていいんじゃないかと思います。
{fi'o munje}の代わりに{va'o}を使うのもありなのかもしれない。似たような意味な気もする。
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この話の本質は、メタ世界の存在でしょうね。アイマス世界の中で言及するのか、現実世界(メタ)の中で言及するのかによって、その書き方は変わるという話だと思います。
むしろ、どうして日本語だとあまり頓着してないのか、ということを考えれば、単に「翻訳の際に分析をしすぎている」ということだと思います。ロジバンでもほぇほぇ~と訳してしまえばいいんですよ!
たとえば、「桃太郎」の昔話を語るときに、「この話の世界には、おじいさんとおばあさんがいます」・・・みたいには言わないでしょうし、ロジバンでも童話・フィクションでそのような記述(この話の世界では)を見たことはありません。というのも当たり前で、だってメタで語ることがないんだもの。つまるところ、「その文がどの世界でのことか」というのは記述しなくても、コンテキストに任せることができるということですね。
しかしながら、「今日は千早の4回目の誕生日だ」というのもまたまた奇妙な話で、アイマス世界での誕生日があって、その誕生日と対応する現実世界の日付がそのキャラができて4回目だという、架空世界と現実世界がないまぜになった文なんですよね。でもこれのトリックは、向こうの世界の暦がたまたまこっちと同じようなものであることによる混同かもしれません。もし
ポニャンパ暦152年16月65日
というような暦が使われていればどうでしょう?そもそもこちらの世界で向こうの誕生日を祝うことがそのままではできないんですよね。どうするかと言うと、ポニャンパ暦からグレゴリオ暦への対応を見出して、グレゴリオ暦の対応する日にちをそのキャラの誕生日にする、とそうするくらいしかできないわけです。アイマス世界ではこちらの世界と同じグレゴリオ暦が使われているので、あたかもそのような対応の手順がないように見えているだけで、本質的にはポニャンパ暦と同じ手順を踏むべき(踏んでいる)と思います。
そのことを考えると、架空キャラの誕生日というのは、誕生日ごっこでしかなくて、誕生日ごっこを実際の誕生日の述語を使って記述してもいいですが、きちんと書きたいなら相応の述語を用意すべきなのかもしれません。
くどくど書きましたが、これは架空世界と現実世界を繋ぐ橋の哲学であって、ロジバンは特に関係ありません。さしあたり、ロジバンで書くにあたってきっちり分析したらなんか森に迷い込んでしまったという感じがしますw
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