2013/05/27

量化詞の補足


量化詞が思っていたのと違ったので、ここにまとめます。
やはり「量化詞」って名前だけあって、述語論理が顔をぬっと出すのがこの話題ですね…。

とりあえず、やむを得ず、述語論理から1つだけ用語を借用します:

議論領域: bridiを発言する際に、話題にしている範囲。その発話の参照する領域。

小難しく書きましたが、例を挙げればなんてことはないものです。
まず議論領域というのは必ず文脈を介して決定します。次の発話を考えてみます:

lo ninmu cu melbi

このlo ninmu は一体どの範囲のlo ninmuでしょうか?

・世界中の女性
・クラスメイト
・行きつけのバーの客
・・・・・

これはまさにその時どんな話をしているかに依存します。
このとき、世界中の女性とかクラスメイトとか…というのが議論領域となっているわけです。

心態詞一覧pdf

整理がてら作りました。

心態詞一覧

印刷ボタン押せば、保存できるページに飛べると思います。

データは、ロジバン辞書からいただきました。ありがとうございます。

メモ 使えそうなの

pei 心態詞; 左の心態詞が表す感情を覚えるかどうかを話者に尋ねる

coi .i pei - やっほ、元気?

tatpi x1はx2(事)によって疲労/疲弊している/疲れている

xagji x1はx2に飢える; x1は腹をすかしている/おなかがへっている; x1はx2(燃料/栄養)の補充を必要としている

taske x1は(喉の)渇きを感じる; x1は渇きでx2を求める

sipydji - 眠たい(sipna + djica)

ko ze'i denpa - 少々お待ちを

.aupei mi'a vi denpa tu'a do - ここで私たちが君を待つことを望みますか? = ここで待っていてほしい?

do djica lonu pinxe ma - 何が飲みたい?

je'u pei - まじで? (あなたはそれを事実と思っているのですか?)

.ie - イイネ/ good idea

2013/05/26

メモ(心態詞諸々)

.e'u klama fu lo sorprekarce - バスで行きましょう。

mi sipna .ei - 寝なきゃ。

.ei mi pleji vi ma - 私はどこで支払わなければいけませんか?
pleji x1はx2(金/報酬)をx3(者)にx4(対価/商品/サービス)のために支払う
.ai mi klama la lyndyn. - 私はロンドンへ行くつもりだ。

.a'o ko'a ba zi kanro - 彼がすぐ元気になればいいなと思う。

.a'o mi senva tu'a do ca lo cabycte - 今夜、君の夢を見れたらいいな。

.au mi viska lo mamta be do - 君のお母さんを見てみたい。

.ia ra gleki - 彼が幸せだと信じてるよ。

***

za'a mi pensi .i ja'o mi zasti - 我思う故に我あり

ja'o do na ka'e co'e - 要するに、君はそれができないんだね。

ja'o carvi ca lo nicte - つまり、夜に雨が降ったにちがいない。

la.tam. ka'e sutra bajra - トムは速く走れる。

mi ponjo gi'e ku'i na xabju lo pongu'e - 私は日本人ですが、日本に住んでいません。

ji'a mi mutce nelci - 私も大好きです。

la .alis. je'a zasti .i ku'i la selmacygu'e ku xanri po'o - アリスは実際にいたが、「不思議の国」はただの想像上のものにすぎない。

ki'a cai - 君の言っている単語がまったく分からない。

mu'a ti penbi - 例えば、これはペンです。


メモ(TAhEとroi)

ra di'i tcidu fi loi lisxracku - 彼は決まった時間に漫画を読んでいる。

mi ta'e sipna ti'u li repa - 私はたいてい21時に寝る。

ko'a na'e roroi tinbe fi lo rirni be ko'a - 彼らはいつも自分の親に従うわけではない。

tinbe x1はx2(命令/規則)に服従する/従う; x1は従順
rirni x1はx2の育ての親/保護者/保育者/養育者; x1はx2を育てる

ra ro roi krici tu'a mi - 彼女はいつも僕を信じている

mi no roi ticysku - 私は決して真でないことを言わない。

mi pu paroi zvati lo ropno - 私は一度、ヨーロッパに行った。

TAhEは間隔の感じを表すテンスsumtcita。
di'i 規則的に
ta'e 習慣的に

roi は回数を表すテンスsumtcita。
pa roi 一度
ro roi いつも
no roi 決してない

メモ(mu'i)

pu klama lo gugde'usu mu'i lo nu tadni lo micysaske - 医学を勉強するためにアメリカへ行った。

lo mi patfu de'a tcidu lo cukta mu'i lo nu citka lo mijdorsai - 私の父は昼食を食べるために本を読むのを止めた。

mu'i lo nu bilma kei mi zvati lo zdani ca lo culno djedi - 病気だから、一日中家にいた。

ca lo culno djedi 一日中

mi'a klama lo panka mu'i lo nu kelci - 私たちは遊ぶために公園へ行った。

ra xendo rinsa mi .i se mu'i bo mi kufra - 彼らは私を優しく迎えてくれたので、私は心地よかった。

xendo x1(者)はx2にたいしてx3(行為)で親切/優しい
rinsa x1はx2の到着/出発に際してx3(動作)で挨拶する
kurfa x1はx2(環境性質)について快適/心地良さを感じる

***

mu'i は一般的な理由を表すのに使う。

常套文句 mu'ima - どうして? は覚えておく。

他にも、英語でいう不定詞の副詞的用法(~するために)はmu'i lonu ...で表せられる。
直訳すると「~ということを動機にして」となりますが、良い訳だと思います。


どこ行くの?あそこだよ、えっと

誰かがどこかに行こうとしてるときに、その行き先について聞くことはよくありますね。
会話ですから、時制もなく、素直に言っちゃいましょう。

do ma klama - どこいくの?

それでも意地悪な人なら、「この前はアメリカに行ったよ」とか言ってくるかもしれないので、

do pu'o/ca'o klama ma 「どこ向かおうとしてるの?」/「どこに向かってるの?」

とでもしとけば十分でしょう。事象コンツアについてはwavelesson11章を見て下さい。

質問する方はこれで構わないですが、問題は答える方です。
場所の単語について今回はいくらか覚えていきましょう。


26.5章 ひとまずの終わり

ここまでで通常のロジバンについてのチュートリアルは終わりました。次からは、発展的なロジバンについて書いていきます。喋るにあたっては知る必要のないものになると思います。ここまでに書いた事項を十分不自由なく使いこなせるようになるまでは以降の章を読んでほしいとは思っていません。どうしても続きが読みたいのであれば、どうぞ。

[注:一旦、日本語訳はここで止めておきたいと思いますが、少しずつ更新していきたいと思います。まずは26章をしっかりと学んでいきましょう!]

ようやく終わり

ようやくwavelessonがひとまず片付きました。

今後はボキャビルかな

Lojban Lessons - 26章 (非論理接続詞)

Lojban Lessons - 26章 (非論理接続詞)

"論理接続詞"の"論理"という語は、論理接続詞が真理関数と関係があるということを表しています。しかし、すべての有用な接続詞が真理関数を通して定義できるとは限らないので、論理接続詞の他にも接続詞があります。
論理接続詞の意味は、その論理接続詞によって繋げられた2つのbridiと同じであるとして定義されます。たとえば、mi nitcu do .a la .djan. はmi nitcu do .ija mi nitcu la .djan. に相当します。この定義はしっかりと覚えておきましょう。というのも、その意味合いを変えること無しにsumtiを論理接続詞で繋ぐことができないこともあるからです。
次の文を考えてみて下さい:「ジャックとジョーはこの劇を書いた。」 試しに訳を作ってみるとこんな感じになるでしょう: ti draci fi la .djak. e la .djous.
draci x1はx2(内容)・x3(作家)・x4(観衆)・x5(役者)の(舞台)劇

この訳の問題点は、ti draci la.djak. ije ti draci la .djous. と解釈されてしまうことです。これは言いたいこととはずれます。ジャックもジョーもそれは書いておらず、彼らは一緒にそれを書いたのです。もちろん、ここで欲しいのは群であり、ジャックとジョーをひとつの群にまとめる方法が必要なわけです。これは真理関数とはほとんど関係がないので、非論理接続詞、selba'o JOIを使う必要があります。ちょっと後でジャックとジョーの問題に戻ることにして、まずはJOIの単語4つをみてみます。

ce ce'o joi jo'u
結合後の形 集合 順序対 個の集団

これらの語の機能は単純です:lo'i remna jo'u lo'i gerku は人間の集合と犬の集合を分配的に(個として)みなします。22章(量化詞)で、"分配的"とはある集団で真であるならばその要素それぞれについても真となることであったことを思い出して下さい。同様に、loi ro gismu ce'o loi ro lujvo ce'o loi ro fu'ivla はすべてのgismuの群、次にすべてのlujvoの群、次にすべてのfu'ivlaの群からなる順序対となります。
[注:数学の座標なども順序対で表せます。(2, 3)はli re ce'o li ci となります。]

固有の順序をもつJOIに関しては、seがその順序をひっくり返すためにce'oの前に置かれるときがあります。"A ce'o B"と"B se ce'o A"は同じです。

それでは、「ジャックとジョーがこの劇を書いた」を正しく訳してください。
Answer: ti draci fi la .djak. joi la .djous.

JOIのcmavoはとても柔軟性があります: これらはsumti接続詞のようにもtanru内部的接続詞のようにも働くことができ、それゆえ、sumti, selbri, bridiを繋げるのに使われます: この柔軟性のために、fa'orma'oを正しく使うよう注意しなければなりません。
lo dotco jo'u mi cu klama la dotco gugde のどこがおかしいでしょうか?

Answer: jo'u はselbriの後に置かれているので、selbriとselbriを繋げるものだと期待されますが、その後にselbriは見つかりません。jo'uの前にkuがあれば、文法的に正しくなります。

複数のJOIが使われるとき、boやkeが使われることがあります。 mi joi do ce'o la .djak. joi bo la .djous. cu pu'o ci'erkei damba lei xunre - 「私とあなた、次にジャックとジョーがもうすぐ赤組と格闘試合だ」。次の文と見比べてみて下さい: mi joi do ce'o la .djak. joi la .djous. cu pu'o ci'erkei damba lei xunre - 「まず私とあなたが、次にジャックが、ジョーと一緒に赤組と格闘試合をするだろう」
damba x1はx2と、x3(事)に関して格闘する/戦う; x1は戦士/格闘家

JOIでbridiを繋げると、そのbridiの間にある興味深い暗黙裡の関係が生じます: la .djak morsi ri'a lo nu ri dzusoi .i joi le jemja'a po ri cu bebna - 「ジャックは死んだ、なぜならば彼は歩兵で兵隊長が馬鹿だったから。」 これは、この群としてまとめあげられた2つのbridiが彼の死の物理的原因であるということを案に意味しています。つまり、彼が戦車に乗れていたか、まともな指導者に巡りあえていたかのどちらかでさえあれば、彼は生き残っていたのかもしれません。
dzusoi x1 はx2(軍)の歩兵
jemja'a x1 はx2(軍)のx3(役割)における長
bebna x1はx2(性質)に関して愚か/ばかげている/思慮が無い; x1は阿呆/馬鹿

非論理接続詞はnaiで否定されることもあり、他の接続詞が適切であるということを示します: lo djacu ce'o nai .e'o lo ladru cu cavyfle fi le mi tcati - 「私の紅茶に、水の次にミルクを入れないで下さい」 これはもちろん、どの接続詞が適切かについては何も述べていません - se ce'o(まずミルクを、次に水を)と推測するかもしれませんが、.e nai(水だけで、ミルクは入れない)が正しいとしか言えません。
cavyfle x1はx2(成分)からなっており、x3へx4から流れ出る

jiやje'iを使った疑問文への答えには論理接続詞と非論理接続詞の両方とも使えます: A: ladru je'i sakta le do ckafi B:se ce'o (「コーヒーにミルクか砂糖いる?」「砂糖を入れて、次にミルクを入れて」)。この場合、砂糖やミルクはコーヒーの中では均一に混ざってしまうので、ceは全く何の意味もありません。また、砂糖がそこに溜まっているコーヒーが好きでない限り、joi(砂糖を入れたミルクを下さい)というのはjo'u(それらどちらも)と同じです。

今から紹介する5つ目のJOIは少し変わり者です。
fa'u 非論理接続詞: それぞれに分配 (AとBそれぞれ)
fa'uがひとつのbridi(もしくは接続詞で繋がったbridi)内でひとつだけ使われる場合、fa'uはjo'uと同一のものとして扱われます。しかし、複数のfa'uが使われた場合、fa'uの前の構造がお互いに係り、fa'uの後の構造がお互いに係ります。説明じゃ分かりにくいと思うので例を見ましょう:
mi fa'u do rusko fa'u kadno - 「僕と君はそれぞれロシア人とカナダ人だ」。これはmiがruskoにdoがkadnoに係っています。もちろん、この例ではmi rusko .i do kadnoと書いたほうが一層簡単です。
rusko x1はx2(性質面)に関してロシア系(言語/文化/民族)
kadno x1はx2(性質面)に関してカナダ系(言語/文化/民族/地理)

最後の3つのJOIは2つの集合から新たな集合を作ります:
jo'e A と Bの和集合
ku'a A と Bの共通集合
pi'u  AとBの直積集合

一般的なロジバニストにとってはこれらはあまり使えるものではありませんが、ここで取り扱うのがよいかと思います。
まず、jo'eは2つの集合からひとつの集合を作ります。この新しい集合はAとB両方の要素を含みます。重複するものは一度だけ数えます。
ku'aから作られる集合はA,B両方にある要素のみを含みます。
pi'uは上の2つより少し複雑です。A pi'u Bという集合は、"a ce'o b"というすべての可能な組み合わせを含みます。ここで、aはAの集合要素、bはBの集合要素です。つまり、要素の順列の集合となります。たとえば、集合Aは要素p,qからなり、集合Bは要素f,gからなるとすると、このときA pi'u Bは4つの要素 p ce'o f, p ce'o g, q ce'o f, q ce' g からなる集合となります。

Lojban Lessons - 25章 (論理接続詞)


Lojban Lessons - 25章 (論理接続詞)




『ロジバニストに尋ねた。「コーヒーにミルクか砂糖いりますか?」。すると彼女はこう答えた:「その通り」』

機知に富んだジョークですが、これはこういった質問を尋ねるときの日本語のやり方が奇妙だということを表しています。字面は真/偽を問う疑問文であるのに、実際は違うわけです。ロジバンではこういった矛盾は撲滅しないといけないので、この種の疑問文を尋ねる他の方法を探さなければなりません。少し考えてみると、妥当かつ簡単な方法はなかなか見つかりません。ロジバンは、あまり簡単ではありませんが、妥当である方法を採用しました。

説明する前に、bridiを2つに分けます。bridi1: 「私はコーヒーにはミルクが好きだ」、 bridi2: 「私はコーヒーには砂糖が好きだ」。両方のbridiとも真偽を問えるものです。bridiの真偽によって4通りの組み合わせがあります。
A ) 1 かつ 2 B ) 1 だが、2ではない
C ) 2 だが、1ではない D )1でも2でもない

私は、実際のところ、コーヒーにはミルクを入れるのが好きで、砂糖が入ってるかどうかにはこだわりません。それゆえ、私の好みはA)true B)true C)false D)false と書けます。さらにコンパクトな書き方があり、私のコーヒーの好みは TTFF、つまり true, true, false, false と書くことができます。同様に、ブラック(ミルクも砂糖も無し)が好きな人はFFFTとなります。この"true"と"false"の組み合わせのことを"真理関数"と呼びます。今回の場合は、「私はコーヒーにはミルクが好きだ」と「私はコーヒーには砂糖が好きだ」という2つの文についての真理関数です。文の順番を入れ替えると結果が変わってしまうことに注意してください。
ロジバンでは、4つの真理関数を取り扱い、これらを基礎的なものとみなします:
A: TTTF (少なくともどちらか一方)
O: TFFT (共に真または共に偽)
U: TTFF (後部の真偽にかかわらず)
E: TFFF (共に真である)

この例では、それぞれ次のように訳せます: A:「ブラックだけは嫌」、O:「ミルクと砂糖両方か、どっちも無しかでお願い」、 U:「ミルクで。砂糖はどっちでもいいわ」、 E:「ミルクと砂糖両方お願い」

ロジバンでは、真理関数に相当する語を2つのbridi、selbri、sumtiの間に挟みます。そういった語は論理接続詞と呼ばれています。sumtiの間のその真理関数に相当する語は .aと.oと.uと.eです。まあなんて素敵な。例を見ましょう: 「私はアメリカ人とドイツ人と友だちだ」は、 lo merko .e lo dotco cu pendo miとなります。
「私は君か誰もいないところに話しかける」はどう言いますか?

Answer: mi tavla do .e no drata これは実際は「私はあなたに話しかける」は真であるということを述べていることに注意してください。

もうひとつ: 「私はチーズが好き、コーヒーが好きだろうがなかろうが。」
ckafi x1はx2(種類)のコーヒー

Answer: mi nelci lo'e cirla .u lo'e ckafi

可能な真理関数の値は16種類あることは容易にわかります(2の4乗です)。なので、あと残り12個を学ばなければなりません。うち8個は前半か後半の文を否定することで得られます。前半はnaを真理関数語の頭に付けることで否定され、後半はnaiをその語のあとに付けることでなされます。たとえば、.e はTFFFを表すので、 .e nai は「1は真で、2は偽である」、FTFFとなります。同様にして、 na .aは「1は真で2は偽、ではない」、TFTTとなります。こういった変換を頭の中でリアルタイムでするのはとても、とても難しいので、一般的な論理接続詞の働き方を学ぶのに集中して、それから論理接続詞を暗記するのがいいと思います。

残り4つの関数(TTTT, TFTF, FTFT, FFFF)はこういう風には作れません。TTTTとFFFFはどうやっても論理接続詞では作れませんが、どうあれ不要な類のものです。仮想的な論理接続詞を考えてやると、「私はコーヒーにはミルク FFFF 砂糖が好きだ」は、「私はコーヒーが好きではない」に相当する文になり、ただややこしく言っただけになります。残る2つ、TFTFとFTFTは .uの頭に懐かしのseを付けてやることで作れます。seは2つの文をひっくり返します。たとえば、se .u は、「Bだ、Aにかかわらず」となります。これはTFTFですね。最終的な論理接続詞のリストを以下に載せておきます。

TTTT: 作成不可
TTTF: .a
TTFT: .a nai
TTFF: .u または .u nai
TFTT: na .a
TFTF: se .u
TFFT: .o または na .o nai
TFFF: .e
FTTT: na .a nai
FTTF: na .o または .o nai
FTFT: se .u nai
FTFF: .e nai
FFTT: na .u または na .u nai
FFTF: na .e
FFFT: na .e nai
FFFF: 作成不可

論理的には、たとえば mi nelci lo'e cirla .e nai lo'e ckafi といった論理接続詞を伴う文を言うことは、同じ論理接続詞で繋がれた2つのbridiを言うのに等しいです: mi nelci lo'e cirla .i {E NAI} mi nelci lo'e ckafi このようにして、論理接続詞の機能が定義されます。次は、論理接続詞をbridiに係らせる方法を学びましょう。

核となる論理接続詞の語の直前にjを置くことで、2つのselbriを繋げます。例えば、 mi ninmu na jo nanmu は「私は男か女かであるが、どちらともではない」となります。
ninmu x1 は女性

これは"tanru内部的(tanru-internal)"です。"tanru内部的"とは、tanruを形成するときでさえ、selbri同士を緩く結合するという意味です: lo dotco ja merko prenu は、「ドイツ系かアメリカ系どちらかの男」となります。この結合は通常のtanruの括りよりも少しだけ強く(特定の括り語よりかは遥かに弱い)、lo dotco ja merko ninmu ja nanmu は(dotco ja merko) (ninmu ja nanmu)と解析されます。selbriの論理接続詞は.iに係って2つの文を結合することもできます: zo .kim. cmene mi .i ju mi nanmu - 「私はキムと呼ばれている、私が男かどうかにかかわらず」 .i je という組み合わせは、どちらの文も真であるということを述べており、論理接続詞が無い場合に想定されるのと同じです。

意地悪なまでに難しい問題: 論理接続詞を使って、「もし君がボブと呼ばれるなら、君は男だ」をどうやって訳しますか?

Answer: zo .bab. cmene do .i na ja do nanmu つまり、ボブと呼ばれることをB、男であることをMとしたときに、「Bが真で、Mが真」、「Bが偽で、Mが偽」、「Bが偽で、Mが真」であるということ。禁制の組み合わせは「Bが偽で、Mが真」だけです。これはつまり、「君がボブと呼ばれるということが真であるならば、君は男でなければならない」という意味になります。

悲しい悲しい出来事、「私は泣いて、自分の犬を放り去った」を訳してみるとき、ある問題にぶつかります。
selbriの間にjeを入れて言おうとすると、論理接続詞の定義によれば「私は犬を流して泣き、犬を放り去った」となってしまいます。人というのは涙とか血とかを流して泣きはするものの、犬を流して泣くなんてことはしません。
しかし、bridi末端論理接続詞(以下、BTLC -- bridi-tail logical connectives)を使うことでこの問題を回避することができます。BTLCのすることは、先行のsumtcitaとsumtiはBTLCで結合したselbriどちらにも係り、後続のsumtiやsumtcitaは後者のselbriにのみ係るということです: 喩えるなら、bridiが1つの頭と2つの尻尾を持っているということです。
BTLCの形は gi'Vです。ここでVとは真理関数の母音です。
それではさっきの文をロジバンに正しく訳してください。

Answer: mi pu klaku gi'e dunda le mi gerku

ro remna cu palci gi'o zukte lo palci はどういう意味ですか?
palci x1はx2(基準)において悪質/非道/堕落的

Answer: 「人間はみな、非道であれば非道なことをし、非道でなければそんなことはしない。」=「人間は、悪い者のみが悪事を働く。」

さらに、真理関数の母音の前にgを置いて作られた、先見的なtanru内部除外的な接続詞があります。ここで、「先見的」とは、接続するものの前に置かれ、言う前にその文の文法構造について考えれるという意味です。tanru内部除外的とは、それがsumti、bridi、selbri、bridi末端の間では使えるが、1つのtanruの中の2つのselbriには使えない、という意味です。
その機能を見るために、上の例文を書きなおしてみます:
go lo remna cu palci gi lo remna cu zukte lo palci
こういった構造における最初の論理接続詞の意味は、真理関数値に対応する母音がもたらすものと同じです。2つ目の論理接続詞は常にgiで、.iのように、真理関数値を持っていません。それは単に2つの繋がった要素を分ける仕事をします。最初、もしくは二番目の文を否定したくなったら、(最初の文を否定するなら)最初の、(二番目なら)二番目の論理接続詞の後ろにnaiを付け加えます。
この構造が適切に終わるのならば、次の例が示すように、それは特筆すべき柔軟性を持っています:
mi go klama gi cadzu vau le mi zdani - 「私は自分の家へ行く、歩くその時に限って」、つまり「私は歩いてでのみ自分の家に行ける」 vauはle mi zdaniがcadzuとklama両方に係るようにするために必要です。
se gu do gi nai mi bajra le do ckule - 「君がどうであれ、私ではない、君の学校へ走るのは。」つまり、「君が何をしようが、私は君の学校へ走るつもりはない。」

gVのtanru内部的な相当語はgu'Vです。tanru内部的かどうかと、selbriを通常のtanru括りより強くgiに結合させるが、明らかなsumti結合よりは弱いということを除けば2つは全く同じです。
la xanz.krt. gu'e merko gi dotco nanmu = la xanz.krt. merko je dotco nanmu

さて、「コーヒーにはミルクか砂糖がいりますか?」の尋ね方を学ぶのに必要な知識をつけるために、ここまでやってきました。単に、maのような普通の論理接続詞の代わりに疑問論理接続詞を置いて、聞き手に正しい語句で埋めるように頼めばいいのです。残念ながら、これらの疑問論理接続詞は尋ねたい論理接続詞の形態と必ず一致しているとはかぎりません:
ji  疑問論理接続詞: sumti論理接続詞(A)を尋ねる
je'i  疑問論理接続詞: tanru内部的selbri論理接続詞(JA)を尋ねる
gi'i  疑問論理接続詞: bridi末端論理接続詞(GIhA)を尋ねる
ge'i  疑問論理接続詞: 先見的tanru内部除外的論理接続詞(GA)を尋ねる
gu'i  疑問論理接続詞: 先見的tanru内部的論理接続詞(GUhA)を尋ねる

さて…、というわけで、彼女はコーヒーにはミルクか砂糖がいるかどうかを尋ねてみましょう。
ladru x1はx2(起源)のミルク/牛乳; x1は乳性/酪農の
sakta x1はx2(資源)・x3(成分)の砂糖/果糖/ブドウ糖/乳糖

解答例: sakta je'i ladru le do ckafi しかし、より日本語的に、あまりエレガントでないものでも十分でしょう: do djica lenu lo sakta ji lo ladru cu nenri le do ckafi

[注:個人的な疑問ですが、sakta je'i ladru le do ckafi で合ってるんだろうか…。これだとle do ckafiは2位に来てしまう気がするけど。正しくは sakta je'i ladru fa le do ckafiか?]

[注:sumti接続詞は表としてありますが、他の場合の表がないので以下にまとめておきます:

普通 BTLC 先見的
selbri   j gi' g
tanru内selbri   j - gu'
bridi   j - g

]

ひとりごと

wavelessonの訳が24章まで来ました。頑張った自分!
27章以降は専門的な項がほとんどなので、今のところ訳す予定はありません。

とりあえず24章まで訳し終わったら、次はボキャビルの方にシフトしていきます。

残る2章は接続詞なので、ないがしろにできない…。がんばりますか。

Lojban Lessons - 23章 (否定表現)

Lojban Lessons - 23章 (否定表現)

[注:ロジバンは否定をより厳密に定めるため、述語論理の否定¬に基づいています。否定をしっかり理解しようとすると、ロジバンの根底にある述語論理を勉強しなければならないため、この章は少しごまかしながら書いている部分もあります。そのため、よくわからない部分があるかもしれません。]

その文の内容が真実でないことを示したいとき、私たちはよく否定表現を使います。
英語の否定はほとんど「not」に任せっきりで、任意性があり曖昧です[注:日本語も「ない」に任せっきりですね]。私たちは、ロジバニストとして、そんなことしてられません。というわけで、もちろんロジバンにはエレガントかつ非曖昧な否定表現のシステムがあります。ここで紹介するのは公式のゴールド・スタンダードなルールです。naに関する"黄金規則"については反対意見が多くなりつつあり、ルールを改定すべきとの声もあります。ここでは公式ルールに則ることにします。つまり、読者のみなさんにもとりあえずは公式ルールを知ってもらおうと思います。

まず最初は、bridi否定です。そのbridiが真でないという風に否定するからそう呼ばれています。bridiを否定するには、na kuを文の初めに置くか、na をselbriの前に置きます。
speni x1はx2と結婚している/の配偶者、x3(法律/規則/慣習)のもと

というわけで: na ku le mi speni cu ninmu は「私の配偶者は女ではありません」ということを述べています。これは、私の妻が一体何なのかについては何も述べていないし、私に妻がいるのかどうかさえ述べていません。ただ、私には女性であるような妻がいないということを述べています。
[注:もう少ししっかり書くなら、le mi speni cu ninmu というのは、『ある人xがいて、「xは私の妻である」かつ「xは女性である」』という意味になります。文頭のnakuはこれ全体を否定します。
述語論理っぽく書くなら、¬∃x ((xは私の妻)∧(xは女性))ですね。]
これは次の重要なことを含んでいます: bridiの否定が偽ならば、元のbridiは真にちがいない。つまり、例えば、na ku le mi speni cu na ninmu は、私には妻がおり、そしてその人は女であるということを意味するにちがいないということです。
[注:ある文が偽なら、その否定文は真であるような命題を矛盾命題といいます。]

描写sumtiの暗に示されたbridiにさえも、bridi否定を使えます。lo na prenu は人間ではない何か(スフィンクスとか、野球のボールとか、人間でなかったら何でもよい)を参照することができます。

bau sumtcita, bangu由来: {sumti}という言語を使って
se ja'e sumtcita, se jalge由来: {sumti}が原因で

naはbridi全体を否定してしまい、しばしば都合が悪いことがあります。mi na sutra tavla bau le glibau se ja'e le nu mi dotco - 「私はドイツ人であるから英語を速く話す、は真ではない」というのは、否定できる箇所が多すぎて、速く喋るということだけを否定したいというのがはっきりしません。より正確に表現するには、私が早く喋るということを否定しているのであって、他のものは否定していないということを示す必要があります。
bridiの一部だけを否定するために、sumtiが置けるあらゆるところにnakuを置くことができます。そうすると、na kuは後続のあらゆるsumti, selbri, sumtcitaを否定します。selbriの直前に置かれるときは、kuは省略できます。nakuの移動の仕方によっては量化詞に影響があるので注意が必要です。

ロジバンコミュニティの中で、na kuが後続の語句だけを否定するというのに対し、selbriの前に置かれたnaがbridi全体を否定するというのは、非合理的だという意見があります(尤もな意見です)。しかし、この章では公式の見解を学んでいきます。すなわち、selbriの前のnaはbridiを否定するということで話を進めていきます。

次のna kuの使用例を見ていきましょう。
na ku ro remna cu verba 「次のbridiは真ではない:すべての人間は子供だ」
su'o remna na ku cu verba 「少なくとも一人の人間について、次は正しくない: それは子供だ」
na kuがcuの前に置かれています。sumtiはcuの前にしか来れないのですから当然です。もしna単体を使うときは、cuの後に来なければならないでしょう。しかしそれではnaはbridi全体を否定してしまい、「次のbridiは真ではない:少なくとも一人の人間は子供だ」となってしまいます。

na kuを右へ移動すると、あらゆる量化詞が逆転します - たとえば、ro はsu'oに変わります。
これは、もちろん、bridiの意味が保存されなければならない場合に限ります。このことは、na kuがbridiの最後に置かれた場合、selbriだけが否定され、sumtiとsumtcitaはすべてそのままということを意味します。次の3つの同じ意味の例文を見てみましょう:
ckule x1はx2(所)でx3(科目)をx4(聴衆)に教える、x5(者)によって営まれている教育機関/学習施設

na ku ro verba cu ve ckule fo su'o ckule – 「次は偽である:すべての子供が学校の生徒である」
su'o verba cu ve ckule na ku fo su'o ckule – 「少なくとも一人の子供が生徒であることについて、次は偽である:少なくともひとつの学校の生徒である」
su'o verba cu ve ckule fo ro ckule na ku – 「何人かの子供は全ての学校における生徒とは限らない」
[注:分かりやすいように、ハイライトとイタリックを施しました。イタリックはnakuの係る部分、赤いハイライトはnakuが右に動くことによって逆転した量化詞を表しています。]

naの正反対の語がja'aです。ほとんどのbridiにおいてja'aはデフォルトで設定されているので、滅多に使われません。例外は繰り返されるbridiです(次章)。bridiが真であることを強調したいときに時々使われます。例えば、 la .bab. ja'a melbi は「ボブは本当に美しい」となります。

na kuのメカニズムは自然言語の否定に似ているにもかかわらず、否定される対象やそれのbridiに対する影響の仕方について一定の基準を設けるのが難しく、それにより、na kuという構造はbridiの初め以外の場所では滅多に見られません。より限定的な否定表現が必要となるほとんどの場合では、別の手法を使います。段階否定(scalar negation)と呼ばれるこの手法はエレガントかつ直感的なものです。段階否定として使われる語は、seといった語のようにselbriに結合するので、否定の効果をselbriのみに適用することができます。
段階否定という名前は、このselbriに結合する語句が肯定から否定、そして真逆といったある尺度の中にあるという事実に由来しています:

je'a 「本当に」; 段階的な肯定
no'e 「そうでもない」, 段階的な中間点
na'e 「~ではない/ 非」, 段階的な否定
to'e 「~とは反対の/ 反」; 段階的な反対/真逆

これらの語はnaと同じ意味での否定語ではありません。段階否定語はbridiが偽であると述べるのではなく、ある尺度の点ではそのbridiは真であるという積極的な言明 -- そのbridiはselbri以外合っているという言明 -- を発するのです。
この違いはもはや学術的なものではありますが。例えば、mi na'e se nelci 「私は非好かれている」というのは、そのselbri (nelci)の表す尺度(今回は好き~嫌い)のどこかの点におけるものは私に当てはまるということです。
[注:たとえば、nelciに段階否定が用いられると、nelciという目盛りがある物差しが出てきます。つまり、どれくらい好きかという物差しです。好き度 0--1--2--3--…--10みたいな感じですね。段階否定はnelciの目盛り(7とか8とかにあると思います)からみてどのくらい離れているかを表すわけです。]

ほとんどの場合、複数の地点を取り得ないような尺度を想定する(love - like - dislike - hateのような)ので、 mi na'e se nelci は mi na se nelci を暗に意味しています。
それゆえ、no'eとto'eは、そのselbriがいくらか明白な尺度に位置するときにのみ使われるべきです:
le mi speni cu to'e melbi - 「私の配偶者は醜い」 は、美の反対が何であるか即座に分かりますから、意味をなします。一方で、
mi klama le mi to'e zdani - 「私は私の反家に行く」は、文法的に正しいものの、話者が何を意図して"反家"と言ったのかの推測を聞き手に丸投げしていますから、避けるべきです。

では、ある尺度の他の地点においてそのselbriは正しいと示唆することなく、単にselbriのみを否定するにはどうすればいいでしょう? 簡単ですね: na kuをbridiの右端にもってこればよいのです。nakuのこの性質はとても有用です。ロジバニストの中には、selbriの語頭にnaのrafsi、narをくっつけるのを好むのもいます。これは同じ効果がありますが、ひとつアドバイスしておくと、brivlaを見慣れないものにしてしまうので、日常会話では理解しづらくなります。

selbriだけを否定する必要が出てきたが、bridiの最後になる前に否定であることを言いたいときは、試験的cmavo、na'ei (文法的にはna'eと同じように働く)が使えます。
na'ei: 直後のselbriのみを否定

次の文を訳してみましょう:
「私の配偶者は女ではない」(男だという意味)

Answer: le mi speni cu na'e / to'e ninmu  段階否定を使えば、配偶者は存在しているということを示唆し、naを使えば、それすら示唆しません。

「私の配偶者は本当の女というわけではありません」

Answer: le mi speni cu no'e ninmu ここでの尺度は女性から男まで、と推定されます。

「私はドイツ人だから、英語を速く話しません」

Answer: mi na'e sutra tavla bau le glibau se ja'e le nu mi dotco

ついでに、tanruにこういった語を結合するときはいつでも一番左端のselbriにのみ係るということに注意して下さい。tanru全体や、tanruの一部に結合させたいときは、通常のtanruをくくる語を使います。

「私は黄色の家ではないものを売る」を、pelxu zdani vecnuというtanruを使って言ってみましょう。

Answer: mi na'e ke pelxu zdani ke'e vecnu または mi na'e pelxu bo zdani vecnu

「アメリカの王は太っているか?」という質問に答えようとしましょう。これは段階否定ではすべて失敗に終わります。専門的なことを言えば、naを使って否定するのが正しい一方、何が真かを一切示唆しないので、聞き手にアメリカの王がいると誤解させるかもしれません。こういった場合には、メタ言語的否定 na'iがあります。
na'i : メタ言語的否定。「真理値をそのbridiに割り当てることに問題がある。」
na'i には自由文法(心態詞と同じ文法)が与えられています。これはつまり、na'iはどこにでも現れることができ、直前の語や構造に係るということです。

palci x1はx2(基準)において悪質/非道/堕落的
le na'i pu te zukte be fi le skami cu palci – 「そのコンピュータが探し求めていた目的{誤り!}は悪質だった」
おそらく、この文はコンピュータが意志を持ってゴールを探し求めることに異議を唱えているのでしょう。
[注: 結局、「アメリカの王は太っているか?」の答えの例としては、「le na'i merko noltrunau」があるでしょう。つまり、「アメリカの王様というのがおかしい」と答えるのです。]

これは否定についての章ですから、naiについて少し触れておくべきかと思います。これは小規模の文法構造を否定するのに使われ、心態詞、テンスを含むすべてのsumtcita、呼応系、論理接続詞に使えます。naiを用いた否定の規則は、構造ごとによって違い、naiの効果はその構造それぞれについて触れるときに説明したいと思います。例外はsumtcitaで、sumtcitaの否定規則はより複雑で、このテキストでは扱わないつもりです。

Note: これを書いている時期には、naiをselma'o CAIに移動させることが提案されています。これは、naiの意味論がnaiがどのselma'oに続くかに依存しているということを意味しています。

2013/05/25

Lojban Lessons - 24章 (brika'i/代bridi と ko'a)


Lojban Lessons - 24章 (brika'i/代bridi と ko'a)

「私はポン太(.pont.)と呼ばれている」、zo .pont. cmene mi と私が言い、あなたがそれと全く同じbridiを言わなければならないとき、どうすればいいでしょう?よくある答えは、do se cmene la .pont. です。bridiの内容が同じであるためには、miとdoを入れ替えてやればよく、別にseで変換されたselbriを使うかどうかは問題ではありません。なぜなら、bridiはそれを表す語々のことではでなく、考え、抽象的な命題のことをいうからです。私が言うmiとあなたが言うdoは同じsumtiですから、さっきの2つのbridiは同一のものなのです。
この章はbrika'i、sumka'iのbridi版についてです。brika'iはbridi全体を表す語です。ここで思い出しておいてほしいのが、bridiはsumtiと、sumtiとselbriとsumtcitaを含む句からのみなります。心態詞やkoやmaのような意味論的な語はbridiの一部ではありませんから、brika'iで表されません。

brika'iはsumka'iに比べるとかなり少ないです。まずは一番良く使うGOhAと呼ばれるシリーズからやっていきましょう。:

go'u かなり前のbridiを繰り返す
go'a 以前のbridiを繰り返す
go'e 2つ前のbridiを繰り返す
go'i 直前のbridiを繰り返す
go'o 直後のbridiを繰り返す
nei 最近のbridiを繰り返す
no'a かなり後ののbridiを繰り返す

以上がGOhA brika'iの一部です。おなじみのi, a, uパターンが、「直前、以前、かなり前」にあるのに注意してください。

これらはsumka'iのri,ra,ruとかなり似ています。brika'iはjurfaの主bridiを参照することしかせず、関係句等のいわゆる副bridiは参照しません。主bridiが関係句を含むことはもちろんありますが、brika'iがその関係句のみを参照するのに使われることは絶対にありえません。
GOhAは文法的にはselbriと同じように働くので、selbriに係ることのできるものはGOhAにも係ることができます。GOhAの位置構造は、それが表すbrdiと同じで、そのsumtiは初期設定では参照しているbridiと同じものになります。GOhAのsumti位を埋めると、その位のsumtiを上書きすることができます。2つの文を見比べてみてください:
A: mi citka lo plise B: go'i - 「私は林檎を食べる」「あなたはそれをする」
A: mi citka lo plise B: mi go'i - 「私は林檎を食べる」「私もそれをする」

こういったbrika'iはxuの疑問文に答えるのに非常に使えます:
A: xu do nelci le mi speni B: go'i / na go'i - 「あなたは私の妻が好きですか?」「はい/いいえ」
xuは心態詞ですから、go'iによってコピーされません。
naで否定したbridiを繰り返す、すなわちその冠頭(bridiの始めかselbriの直前)にnaが置かれたbridi(27章)を繰り返すときは、naのコピールールが他と違うので注意してください。naはコピーされるのですが、brika'iに追加されたnaはその元のnaと置き換わります。例をみてみましょう:
A: mi na citka lo plise
B: mi go'i = mi na citka lo plise
C: mi na go'i = mi na citka lo plise
D: mi na na go'i = mi citka lo plise = mi ja'a go'i

neiとno'aはbridiを構文解析しづらくする(たとえば、dei na se du'u le no'a la'e le nei)使い方以外ではあまり使われません。neiはかなり後のbridiを繰り返すわけですから、le nei はかなり後のbridiのx1を、le se nei はx2を・・・参照するのに使えます。

brika'iを使うときは、miやdoといった人称的sumka'iを伴った文をコピーするのに注意を払い、それが間違った文脈にあるときは繰り返さないように気をつけなければなりません。たとえば、上の林檎を食べるといった2つの例文のように。それぞれを入れ替える代わりに、そのbridiのどこでもいいのでra'oを置くと、bridiが話者の視点で当てはまるように人称sumka'iを更新することができます。
A: mi do prami B: mi do go'i は、A: mi do prami B: go'i ra'o と同じ意味です。
ra'o そのbridiが話し手の視点で当てはまるようにすべての人称sumka'iを更新する

[注: GOhAは以前の文のselbriのごとく働くので、gadriで囲んでsumtiとして使うこともできます。
mi citka - le se go'i cu mo = 私は食べた - 食べられたものは何ですか
例文でもあるように、GOhAにSEを使うこともできます。selbriにできることなら好きにしてください。]

brika'iのもうひとつのシリーズは実に覚えやすいです。
broda bridi変項 1
brode bridi変項 2
brodi bridi変項 3
brodo bridi変項 4
brodu bridi変項 5
cei bridi変項を定義する(brika'iでなく、BRODAで)

broda~broduはすべて同じ語で、5通り用意されています。これらはbridiへのショートカットとして使われます。
bridiのあとにcei brodaと言うことで、そのbridiをbrodaとして定義し、brodaは続く会話でそのbridiのbrika'iとして使うことができるのです。
ついでに、sumka'iにも似たようなものがあります。この章のテーマとは多少ずれますが、ここでやってしまいましょう:
ko'a sumti変項 1 fo'a sumti変項 6
ko'e sumti変項 2 fo'e sumti変項 7
ko'i sumti変項 3 fo'i sumti変項 8
ko'o sumti変項 4 fo'o sumti変項 9
ko'u sumti変項 5 fo'u sumti変項 10

このシリーズのceiに相当する語句はgoiです:
goi sumti変項を定義する

これらはbrika'iの場合と同じように使えます。たとえば、sumtiのあとにgoi ko'uを置けば、そのsumtiはko'uによって参照することができます。

不思議なことに、これらのシリーズは上で述べたような目的で使われることは滅多にありません。実際は、次のような感じで任意のselbriやsumtiとして使われています。:
「ってことはko'a ko'e broda na ku の真理値は常にna ku ko'a ko'e brodaと一緒ってこと?」「ううん、違うよ」

[注:ですから、例文を見ると、ko'aが彼とか彼女という訳になっているのを見かけるわけです。日常的な語で包括的な代名詞が無いですから。「それ」だと非人間な感じがしますし。より厳密に訳を与えるなら、某(それがし)とかになるかもしれませんが、あんまり日常で使いませんしね。]

sumtcitaとその由来

BAIには60語ほどありますが、学習しやすいように使えそうなものに絞ってみました。
たった10語ですが、覚えてしまうとかなり表現に幅ができると思います。

まずは、sumtcitaの由来となるgismuを覚えましょう!


bangu x1はx2(使用者)がx3(概念/命題/文字列)を表すのに用いる言語
finti x1はx2をx3(目的/機能)のためにx4(既存要素)から創る/著する
zgana x1はx2(対象)をx3(方法)・x4(条件)で観察/観賞/鑑賞する
gasnu  x1(者)はx2(事)をする
klama x1はx2(終点)にx3(起点)からx4(経路)をx5(方法)で行く/来る
panra x1はx2に、x3(性質)の相違を伴いながら、x4(基準)において対応する/並立的である
pilno x1はx2(道具/機械/者)をx3(目的)のために使う/用いる
sidju x1はx2(者)をx3(行動/事)に関して助ける
tadji x1(過程)はx2(事)をx3(状態条件)のもと遂行するための方式/方法/用法/手段/マナー
stuzi x1はx2(物/事)の本質的/恒久的な場所/現場


・・・よし、いいですか?それでは上のgismuからなるsumtcitaを覚えましょう

bau {sumti}という言語で >bangu
fi'e {sumti}が創って/作成者は{sumti}で >finti
ga'a {sumti}から観て/を観察者として >zgana
gau {sumti}によって >gasnu
ka'a {sumti}が行って・来て / 往来者は{sumti}で >klama
pa'a {sumti}が共に/が並行して >panra
pi'o {sumti}が使って/使用者は{sumti}で >pilno
si'u {sumti}が助けて/補助となって >sidju
ta'i {sumti}を方法/手段として >tadji
tu'i {sumti}を場所として >stuzi

ロジバン例文検索(http://lojban.lilyx.net/jufsisku/)から例文をいくつか引っ張っておきました。

.a'o mi tavla bau la .lojban. - 私はロジバンで話したい。

mi ponse so'o cukta be bau lo glico - 私は英語の本をいくつか持っています。

mi ba zbasu lo titnanba te fi'e lo jbedetnunsla be la.meris. - 私はメリーの誕生日のためにケーキを作るだろう。

lo cifnu cu cisma ga'a mi - 赤ん坊は私から観て笑う = 赤ん坊は私に向かって笑った

ra melbi ve ga'a lo nu darno - 遠いという条件で観て、彼女は美しい = 遠くからだと彼女は美しい

mi'a cliva xe ka'a lo trene - 私たちは電車で去る。

se ka'a ma ra ca bajra - 彼は今どこに向かって走っていますか?

ma'a tirna se pi'o loi vo'a kerlo - 私たちは自分の耳を使って聴く

ta'i ma - どうやって?

ta'i ma do klama lo ckule - あなたはどうやって学校に行きますか?

mi cilre tu'i lo ckule le se du'u li fe'a so du li ci - 我々は学校で、9の平方根が3であると学ぶ。

la .mik. klaku tu'i lo panka - ミクは公園で泣く


気付いたと思いますが、SEを一緒に使うことが多いです。

Lojban Lessons - 22章 (sumtiの量化)

Lojban Lessons - 22章 (sumtiの量化)

[注: 最初に言っておきますが、この章の分量はなかなか多いです(10章以来?)。ペンとメモを用意して読んだほうがいいかもしれません。一応補足記事として22.1章を作りましたのでそちらも読むといいかもしれません。]

The complete Lojban LanguageやLojban for Beginnersのようなほとんどの教材は、"xorlo案"--gadriの定義とgadriの量化におけるルール改定--の適用以前に書かれたものです。そういったテキストに今や穴が空いてしまっているので、新しい情報を詰め込んだ章を書かねばならないわけです
sumtiの量化は、ある規則の暗黙に言わんとすることを緻密に議論すると、すごく複雑になってしまいます。このテキストが最終目標--公式の"ゴールドスタンダード"、BPFKのルールが表すものに十分精確である--に達するには、この章は完成までに一番かかり、一番よく頻繁に書き直しされるものだと思われます。ミスを見つけた人はどうかぜひ私に連絡してほしいと思います。
つべこべいわず、始めていきましょうか。

最初に学ぶ概念は「分配性」です。14章で、分配的だとみなされる物体のまとまりに"個"という語を使いました。分配的な集団ko'aは、ko'a brodaが真ならば、その集団のすべての要素もbrodaで描写されるという性質をもったものです。これは(群が有する)非分配性とは対照的で、非分配的な集団はその要素とは異なる性質をもちます。分配性(たとえば個)と非分配性(たとえば群)の差は、sumtiを量化するときに関係してきます。
まずは、描写sumti(GADRI BRIVLAの形のsumti)の量化をどうするか考えましょう。量化を行う数字句はgadriの前におかれ、その場合、その数字句は外部量化詞となります。一方、gadriとbrivlaの間に置かれたときは内部量化詞になります。あらゆる数字句が量化詞として機能できます。
内部および外部量化詞がsumtiにどんな影響を及ぼすかは、そのgadriの種類によります:

--loとle-- 内部量化詞はいくつの対象が話題に上がっているかを表します。外部量化詞があるときは、そのsumtiはその数だけの対象に割り当てられます。先ほど述べたように、外部量化詞がなければ、selbriがいくつの対象に係っているのか(ゼロはありませんが)、それが分配的なのか非分配的なのかについて曖昧になります。例を出すのがいいですね:
mu lo mu bakni cu se jirna - 内部量化詞の5は話題にしているのが5匹の牛であるということを表し、外部量化詞の5は話題にした5匹のうち5匹ともこのbridiの内容に該当することを表しています。それゆえ、この意味は「5匹の牛すべてがツノを持つ」となります。
bakni x1はx2(種類)のウシ属動物
jirna x1はx2(本体)の角/触角

次のbridiはどういう意味ですか?
lo ru'ugubupu be li re pi ze mu cu jdima lo pa re sovda

ru'urgubupu x1はUKポンドでx2(数)である
jdima x1はx2の、x3(買者)・x3(売者)による価格/値段
sovda x1はx2(生体)の卵/卵子/花粉/配偶子

Answer: 「2.75UKポンドは12個の卵の値段だ。」
日本語訳では、卵それぞれが2.75ポンドとも(分配的)、12個の卵全体で2.75ポンドとも(非分配的)解釈できます。

so le ta pa pa ci'erkei cu clamau mi (taは内部量化詞の前にきていることに注意)

ci'erkei x1 はx2(主催者)・x3(ルール)の、x4の試合と関連した試合に出る
clamau x1 はx2よりx3(方向)・x4(差)だけ高い/長い

Answer: この内部は11人の選手が話題にあがってあることを述べており、外部量化詞はselbriがそのうち9人に分配して係っているということを述べています。ですから、意味としては「あの11人の選手のうち9人が私より背が高い」

lo/leの量化に関していくつかポイントがあります:
第一に、{数字} {selbri} が{数字} lo {selbri}としてみなされるという点です。それゆえ、ci gerku cu batci re nanmuは ci lo gerku cu batci re lo nanmu と定義され、これは犬の集団が男集団に対して分配的であるとみなされます。ですから、その三匹の犬それぞれが二人の男をそれぞれ噛み、計6回噛んだということになります。
batci x1はx2(対象本体)・x3(対象箇所)をx4で噛む

[注: この話を少し掘り下げたいと思います。結構難しい話なので、飛ばしてもらって構いません。
pa nixla cu klaku と lo nixla cu klaku は同一の文ではありません。もちろん後者は少女の人数が文脈に依りますから、その意味でも異なります。しかし、文脈上lo nixlaが1人の少女を表していることが明らかでも、この2つの文はまったく同一ではありません。
 lo nixli はどの範囲の少女を指しているのでしょうか?教室?町内?世界中?…これは純粋に文脈によって決まることで、文自体では決まりません。この文脈によって決まる範囲のことを、『議論領域』といいます。lo nixliが指す少女は議論領域の中にいる少女というわけです。
 さて、lo nixli では、議論領域に複数の少女がいて、そのうちのどの少女を指すのかはやはり決まりません。文脈によって「あの子だろうな」と分かるくらいです。ですから、lo nixli cu klaku は、かなり真偽の微妙な文で、ある人は真と思い、ある人は偽と思うことがありえます。
 一方で、pa nixla cu klaku の(lo) nixlaも議論領域の中にいる少女を指すのはさっきと同じです。しかしここからが異なる点で、pa nixla は、議論領域の中の少女全員の顔をチェックするのです。そして、議論領域の中に泣いている少女がきっちり1人いたときのみに真となります。つまり、議論領域が共通認識のうちにあれば、この命題はどんな人からも真偽が一致するわけです。外部数量詞は「調べ上げ」を起こすと覚えておくといいでしょう。
 上の例文の、ci gerku cu batci re nanmu を考えてみます。外部数量詞のあるsumtiが2つ以上ある場合は左のものから順に処理していきます。今回は、ci gerku から。まず、議論領域の中の犬を調べ上げます。そして、その犬それぞれについて次は噛んだ男が議論領域内に何人いるか調べあげます。めでたく2人の男を噛んだ犬が3匹いることが判明すればこの文は真です。ここで注意したいのが、男を噛んだ犬はきっかり3人いますが、犬に噛まれた男は2人以上いるかもしれないということです。そのわけは…、上の文を読めば分かりますよね?]

 第二に、外部量化詞が無いときです。そこには外部数量詞はあるにはあるが省略されているとみなすのでしょうか?いいえ。もしなにか外部量化詞があれば、省略されていようとなかろうと、それはsumtiを分配的にしてしまいます。つまり、loもleも(実際は使えるにもかかわらず)群を表すのに使えないということになってしまいます。それゆえ、外部量化詞が無い場合は、それは省略されているのではなく、単に存在していないということになります。外部量化詞のないsumtiは、意図しなくとも、ある数に参照されます。どれくらいの数なのかは文脈が決めてくれます。

 第三に、内部量化詞よりも大きい外部量化詞は意味をなしません。これは、話題にしているよりも多くのsumtiに対してselbriが成り立つという意味ですが、これでは内部数量詞が機能していません。文法的には正しいですが...。

最後に、内部量化詞を付けるときに限り、sumtiの前にlo/leを置いてもかまいません。
lo/le {数字} {sumti} はlo/le {数字} me {sumti} ({数字}個の{sumti}に属するもの)と定義されます。
ではこれはどういう意味でしょう? mi nelci loi mi briju kansa .i ku'i ci lo re mu ji'i ri cu lazni

briju x1はx2(従業員)・x3(所)の職場/事務所/営業所/局
kansa x1はx2に、x3(事)において伴う/付き添う; x1とx2は一緒
lazni x1(者)はx2(動作/仕事/努力/事)に関して怠惰/怠ける; x1はx2を怠る

Answer: 私は仕事仲間が好きだが、彼ら約25人のうち3人はぐうたらだ

--la-- 内部量化詞はその名前がselbriであるならば文法的に正しく、この場合、その数字は名前の一部とみなされます。外部量化詞はそういった個(lo/leのような)を分配的に量化するのに使われます。 {数字} {sumti}の前に置いても構いません。その場合は、その数字とsumtiの両方とも名前とみなされます。

次のものを訳してください: re la ci bargu cu jibni le mi zdani

Answer: 二つの"3つのアーチ"は私の家の近くにあります。(もしかすると、3つのアーチはレストランの名前かも?)

--loiとlei-- 内部量化詞はその話題となる群にいくつの要素があるかを表します。外部量化詞は分配的に(!) これらの群を量化します。
複数の群は非分配的とみなされる集団からなる一方で、外部量化詞は常にその複数の群を個として取り扱います。
{数} {sumti}の前に置かれた場合、loi/leiは、lo gunma be lo/le {数} {sumti} -- {数}個の{sumti}からなる群 -- と定義されます。

次の文を訳してみましょう: re dei gunma re loi ze valsi .i ca'e pa dei jai gau jetnu
gunma x1はx2(要素)からなる群/団
valsi x1はx2(意味/効力)を有する、x3(言語)の言葉/語彙
ca'e 心態詞: 認識系: 私は定義する
jetnu x1(命題)はx2(認識体系)において真実/本当

Answer: 「これら2つの発話はそれぞれ7語でなる2つの群からなる群である。私は定義する:この発話は真である」
[注: 毎度のことながら、群の量化は理解し難いですね…。
loi A はAであるようなものからなる群ですね。{}を群のくくりとします。
loi 3 A は {A A A}であり、2 loi 3 A は {A A A} {A A A}を表します。]

--lai-- laのように、内部量化詞は(名がselbriのとき)、その名の一部となります。外部量化詞は群を分配的に量化します。数+sumtiの前では、sumtiも数字も名前に変換します。

loi, lei, laiを量化する外部量化詞として小数が使われるとき、その群の一部について話すということになります(たとえば、「その武田グループの半分」はpi mu lai .takedas.となります)。

-- lo'i とle'i -- 内部量化詞はその集合の要素の個数を表します。外部量化詞はそういった集合のいくつかを分配的に量化します。数とsumtiの前に置かれたとき、lo selcmi be lo/le {数} {sumti} -- {数}個の{sumti}からなる集合 -- と定義されます。

次を訳せ: lo'i ro se cinki cu bramau la'a pa no no lo'i ro se bogykamju jutsi
cinki x1はx2(種類)の昆虫綱(甲虫/チョウ/ハエ/ハチ/カメムシ/バッタ/トンボ…目)
la'a 心態詞: 談話系: たぶん
bramau x1 はx2よりx3(次元)においてx4(差)だけ大きい
bogykamju x1 はx2(種)の脊椎動物 (bog > bongu = 骨、 kamju = 柱)
jutsi x1はx2(属)・x3(科)の生物種

Answer: 「昆虫の種すべての集合はたぶん脊椎動物の種すべての集合100個よりも大きい」=「昆虫の種すべての数はたぶん脊椎動物の種すべての数の100倍よりも大きい

--la'i-- laiと同様です。群gadriのように、集合gadriの前に置かれた外部量化詞は、集合の一部分について話すことを可能にします。数とsumtiの前では、lo selcmi be la {数} {sumti} -- {数}個の{sumti}からなる集合(という名前) -- と定義されます

--lo'e と le'e-- これらはいくつかの理由により現在まともなgadriの提案がありません。他のgadriのルールを拡張してその代用をするなら、lo/le が多分に最善でしょう(そのどちらも群よりは個を表すからです)。ですので、内部量化詞によって与えられたいくつかの典型的/偏見的物体に外部量化詞が分配性を強制するのを期待するでしょう。

 複数の物体を表すsumka'iを量化する際、それらは大抵群であることを覚えておくと便利です。定義では、{数} {sumti} は {数} da poi ke'a me {sumti} となっています。
数章先までdaについては触れませんが、この文脈では「なにか」という意味ととってください。それゆえ、ci mi は「我々に属する人々のうち3人」を意味します。こういった群を量化する際、meによって示唆される関係は群の所属関係であると想定してよく、それゆえ ci mi は「我々のうち3人」となります。

具体的に何か定まっていないようなselbriや対象を量化する際は、「論理的量化変項」なるものを使います。これらはその量化の方法と一緒に27章で学びます。

最後に、砂糖や水といった不可算な物質を量化したいときはどうすればいいでしょう?ひとつは曖昧な数字を使って量化する方法です。しかし、この方法はどういった尺度(単位)で測ったのかすら指定しないので曖昧すぎます。: 砂糖はたくさんの結晶の集団とみなせ、その一粒一粒を1と数えることもできます。水の場合は、当の水の本体を構成する水滴の量(もしくは水分子の個数)で数えることができるでしょう。こういったやり方は別に間違ってはいないものの、あまり正確ではないし、なにより紛らわしく誤解しやすいです。
非可算性であることを明確にするためには、内部量化詞として空(くう)なる語 tu'o を使うといいでしょう。
tu'o 空集合(φ)。

この解決策はエレガントかつ直感的です。xorlo案の元文には次のような恐るべき、しかし滑稽な例があります:
le nanmu cu se snuti .i ja'e bo lo tu'o gerku cu kuspe le klaji
snuti x1(事/状態)はx2(観点)にとって事故/偶然
ja'e sumtcita: BAI (jalge由来): bridiは{sumti}という結果になる
kuspe x1はx2(間隔/領域)にわたる; x2はx1の範囲/範疇
klaji x1はx2(所)における、x3につながる街路/通り/回廊

さあ、どういう意味でしょう?
Answer: 「その男はある事故に遭遇し、その結果、犬(非加算)はその街路にわたっていた。
[注:たしかにおそろしいですね。非可算な犬・・・・つまりは肉片でしょうね・・・・]

物質を量化する2番目の方法は、10章でやったように、テンスve'i, ve'a, ve'uを使う方法です。:
ti ve'i djacu - 「これは少ない量の水です」
djacu x1は水; x1は水溶性/含水の

三番目は、もちろん、正確な尺度を与えるbrivlaを使うことです:
le ta djacu cu ki'ogra li re pi ki'o ki'o - 「あの水は2.000000キログラムある」
ki'ogra x1 は群で測って、x2(数)kgである。なお、基準はx3。

2013/05/24

位数が1のgismu

純粋にx1しかsumti位を持たないgismuたちです。
従来でいう自立語?とにかく覚えやすい!(けど有用かどうかは別の話…)
ざっと見れば分かる通り、色、元素がほとんどを占めていますね。
色、元素を除いた語をまずは覚え、その次に色、暇なら元素、という感じでいきましょう!

bikla x1はビュッと動く/パチッとする
blabi x1は白色
blanu x1は青色
bunre x1は茶色/黄褐色/小麦色
cando x1は無動作/怠惰/怠けている/アイドリング状態
cfari x1(事/状態)は始まる/開始する
cfine x1は角柱/くさび形
cicna x1は青緑色/シアン/ターコイズ
cidro x1は水素(H)
cikna x1は目覚めている
cilce x1は野生
cindu x1はブナ科(樫/オーク)
cisma x1はほほえむ/にやつく
clupa x1は回路/循環系/ループ
cmila x1は笑う/笑い声をあげる
cnisa  x1は鉛/Pb
crino x1は緑色
djacu x1は水; x1は水溶性/含水の
fasnu x1は事/出来事/事件/事象/現象; x1は起こる/生じる/発生する
fatci x1(命題)は事実/現実
gluta  x1は手袋/グローブ/ミトン
grusi x1は灰色/グレー
kijno x1は酸素(O)
korcu x1は歪んでいる/ねじれている
lunbe x1は裸/服無し
lunra x1は地球の月; x1はx2の主要衛星
manku x1は暗い/闇
mapni x1は綿/コットン
margu x1は水銀/Hg
morsi x1は死んでいる/生が無い
mucti x1は非物質的/無形/形而上的
namcu x1は数/量/値
nanmu x1は男(の人)
narju x1は橙色/オレンジ色
nikle x1はニッケル(Ni)
ninmu x1は女(の人)
nukni x1は深紅色/マゼンタ
panje x1はスポンジ状/多孔性
pelxu x1は黄色
pipno x1は鍵盤楽器(ピアノ/ハープシコード/シンセサイザー/オルガン)
prenu x1は(心理学上の)人; x1は人格を有する
pruni x1は弾性がある/柔らかい/伸縮可能
pruxi x1は魂/霊; x1は霊的
rarna x1は自然/天然/本能的/自発的
rijno x1は銀(Ag)
rutni x1は人工物; x1は人為的
senci x1はくしゃみする
sfofa x1はソファ/カウチ
silka x1は絹/シルク
sipna x1は寝ている; x1は眠る
snime x1は雪/雪原
solji x1は金物質(Au)
stizu x1は椅子/腰掛/ベンチ
tabno x1は炭素(C)
tabra x1は金管楽器/ホルン/トランペット/トロンボーン/喇叭(ラッパ)
tinci x1はスズ(Sn)
tirse x1は鉄(Fe)
trano x1は窒素(N)
tunka x1は銅(Cu)
xekri x1は黒色
xunre x1は赤色/クリムゾン
zinki x1は亜鉛(Zn)
zirpu x1は紫色/パープル

全64語
うち
色12語
元素13語

2013/05/23

Lojban Lessons - 20章 (bo, ke, co, そしてさらなる可愛さ)

Lojban Lessons - 20章 (bo, ke, co, そしてさらなる可愛さ)

「君は重要な、アメリカ系の、コンピュータの買い手だ」と言ってみましょう。[注:括弧で括ると、重要な(アメリカ系の(コンピュータの買い手))]  さて、どうしますか?こういった構造にはtanruが理想的です: mi vajni merko skami te vecnu 。いや、しかし、これは正しくないのです。tanruは左から右へと括られていくので、このtanruは次のように理解されます: ((vajni merko) skami) te vecnu - 「重要なアメリカ人のコンピュータ、の買い手」。有用なtanruを得るためにselbriの順序を変えることはできません。また、論理接続詞を使っても解決できません(論理接続詞は後でやります)。唯一の解決策はseleriの結合の仕方を変える方法です。

[注:日本語では修飾関係を明記することはほとんどありません。唯一のルールといえば、修飾部は被修飾部より前にくる(その距離は問わないが、近い方が関係があるとみなされやすい)ことだけです。例えば、「黒い長い髪の女」という日本語は一見問題なく見えますが、修飾関係は実に曖昧で、ロジバンではそこを厳しく指摘します。実際、黒い長い髪の女と見て、どう解釈しますか?僕は、(黒い(長い髪))の女と解釈しました。しかし、見方によっては、黒い((長い髪)の女)、つまり日に焼けた肌の黒い女性を表しているとも読み取れます。ですから、日本語を見るだけでは修飾関係がしっくりこないことが多々あると思うので、この章はいささか奇妙に感じるかもしれません。なるべく訳しわけるように努力はしたつもりです。]

tanruで二つのselbriを結合するには、その間にboを挟みます: mi vajni bo merko skami bo te vecnu は、mi (vajni bo merko) (skami bo te vecnu)と読まれ、この文脈では有用です。boが一続きのselbriの間に挟まれているとき、くくり方が通常の左から右へではなく、右から左へになります: mi vajni merko bo skami bo te vecnu は、vajni (merko bo ( skami bo te vecnu))と読まれ、「重要な(アメリカ人の(コンピュータの買い手))」となり、この状況ではより一層適切な表現です。
bo 二つのselbriを強く繋げる

それは美味しい黄色のりんごだ、をロジバンに訳してください。
kukte x1はx2にとっておいしい/美味

Answer: ti kukte pelxu bo plise

「それは大きい、美味しい黄色のりんごだ」はどうですか?

Answer: ti barda kukte bo pelxu bo plise

これに対するもう一つのアプローチは、ke...ke'eを使うやり方です。これらは上の段落で使った括弧に相当する語とみなすことができます。keは強いselbriの結合を開始し、ke'eはそれを閉じます。
ke – 強いselbriの括りを開始する
ke'e – 強いselbriの括りを終了する

keの結合の強さはboと同じです。それゆえ、mi vajni merko bo skami bo te vecnu は、mi vajni ke merko ke skami te vecnu {ke'e} {ke'e}とも書けます。

「私はドイツ系の、黄色い家の販売員だ」をなんと言いますか?

Answer: mi dotco ke pelxu zdani vecnu

tanruの構造がぐちゃぐちゃになっている中、注目に値する語がもう一つあります。まず、「私は翻訳のプロだ」は、mi fanva se jibriと言えます。
jibri x1はx2(者)の職/仕事; x2はx1に就職している
dotybau x1はx2(使用者)の、x3(命題(si'o, du'u))と言うために使われるドイツ語
glibau x1はx2(使用者)の、x3(命題(si'o, du'u))と言うために使われる英語

「私は英語からドイツへの翻訳のプロです」と言うには、beとbeiで文をぐちゃぐちゃにしなければなりません: mi fanva be le dotybaubei le glibau be'o se jibri 。こうなると、これがtanruであるだなんてことは文が複雑すぎて、話している間に忘れてしまいます。ここで、coを使いましょう。これはtanruに挿入して、その右側がその左側に係るように仕向けます:

mi se jibri co fanva le dotybau le glibau はさっきの文と同じ意味ですが、より理解しやすいものになっています。tanruの前にあるsumtiはse jibriのもの、tanruの後にくるsumtiは修飾selbri: fanvaのものになることに注意してください。
co tanruに挿入する。先行するsumtiは被修飾selbriのもの、後続のsumtiは修飾selbriのものになる。

coの結合力はとても弱く、何の結合語も伴わない普通のtanruの結合よりも弱いです。
これは、常に左側が被修飾部、右側が修飾部になるようにするためです。この結合力の弱さのおかげで、co構成体は構文解析がしやすいのです:
ti pelxu plise co kukte は、ti (pelxu plise) co kukte と読まれ、これはti kukte pelxu bo pliseと同じです。これは、ke...ke'eがcoを包み込めないということも意味します。

selma'oGIhAのcmavo、bridi末の後付け論理接続詞は、coよりも弱い結合力です。これは、どのselbriがGIhA構成体のどれに結合するのかという混乱を完全に避けるためです。結論は簡単です: GIhAはどんなselbriグループも包み込むことがありません。

「私は重要な、アメリカ系の、コンピュータの買い手です」をcoを使って表現してください。

Answer: mi skami te vecnu co vajni merko

役に立てばと思い、結合の強い順にまとめてみました:

1. bo と ke..ke'e

2. bridi末の後付け論理接続詞を除く、論理接続詞(25章で説明します)

3. 結合語無し

4. co

5. bridi末の後付け論理接続詞


この章の残りは、17章でやったような有用だと思われる多彩な語についてやっていきます。

boにはもうひとつ、selbriのくくりを隔てるような使用方法があります。それは、sumtcitaの内容がsumtiではなくbridiになるように、sumtcitaをbridi全体にくっつけることができるということです。これは例をあげて説明するのがいちばんでしょう。
xebni x1はx2(物/者/事)を憎む; x1はx2にたいする怨恨を抱いている; x2は憎らしい

mi darxi do .i mu'i bo mi do xebni - 「私はあなたを叩く、私があなたを憎むという動機を以って。」
ここでは、boはmu'iとそれに続くbridiをくっつけています。
テンスsumtcitaとその他のsumtcitaの細かな違いというのがこれです。分かる通り、boでbridiとつながっている普通のsumtcitaについては、後続のbridiがsumtcitaのsumti位にはめ込まれます。しかし、神のみぞ知る理由により、baやpuといった語がbridiと結合するときは真反対の効果を受けます。たとえば、mi darxi do .i ba bo do cinjikcaというbridiにおいては、二番目のbridiがbaのsumti位に埋められ、一番目のbridiは二番目のbridiの未来に起こるという意味になると思うはずです。しかし、そうではないのです。この文の正しい訳は、「私はあなたを叩く。そのあと、あなたはいちゃつく」となるのです。この奇妙なルールは、すべてのsumtcitaのカテゴリをひとつにまとめられない主たる原因となっています。もうひとつの違いは、テンスsumtcitaは何かに係っていても、省略することができるという点です。このルールはさっきよりは妥当なものです。なぜなら、bridiがある時間やある空間にあるというのはしばしば想定できますが、BAIのsumtcitaが係っているとは想定できないからです。

非公式な語me'oiはme la'e zo'oiに相当する語で、直後にくる語をselbri化します。これはbrivlaを何もなしに開発するために使えます: 「mi ca zgana la me'oi トトロ」は「私は今、トトロを見る」となります。la'oiやzo'oiのように、公式文法ではサポートされてはいませんし、試験的文法を用いた構文解析においても大いに問題を孕んでいます。 [訳: me'oiはzo'oiを使って定義されていることを考えれば、当然のことです。ちなみに、zo'oiについては18章で述べています。]

giは奇妙なbridiセパレータで、.iに似ていますが、私の知るところでは二つの異なる構造に使われます。すなわち、giは論理接続詞(25章)だけでなくsumtcitaにも使えます。sumtcitaに使うのは、有用ではありますが、少し見にくい構造になります:
mu'i gi BRIDI-1 gi BRIDI-2は、BRIDI-2 .i mu'i bo BRIDI-1と同等です。それゆえ、私があなたを叩いた云々の例文は、mu'i gi mi xebni do gi mi darxi do とできます。また、元の文の順序を保存するためにmu'iにseを使うこともでき、その場合は、se mu'i gi mi darxi do gi mi xebni doとなります。


2013/05/21

Lojban Lessons - 19章 (数)

Lojban Lessons - 19章 (数)

[注:digit, number, number string, number word の訳し分けが厄介で、訳が分かりにくいものになっているかもしれません。]

言語を学ぶとき、数え方というのはたいてい初期に教わります。
しかし実際のところ、数え方を知っていても、それを伴う会話の仕方が分からなければあまり意味がありません。
これは数についての章を19章に持ってきた理由のひとつでもあります。その他の理由として、数それ自体は学びやすいのですが、sumtiへの修飾の仕方がややこしいというのがあります。しかし、それについては後ほどの章に回しましょう。

これらの語を学ぶ前に、数それ自身には文法がないことを知っておくべきです。これはつまり、いかなる数字の羅列(以下、数字句という)も、それがまったく意味をなさないとしても、すべて文法的に同一なものとして扱われるいうことです。それゆえ、ある数字の構成体が意味をなすか否かをはっきりと答えることはできません。しかし、数語を意図して使うやり方もあり、その基準からそれると混乱が生じる元になります。

この章ではロジバンの数語すべては学びません。よく使われるものに絞って説明していきます。多彩な数学的cmavoはmeksoと呼ばれ、その複雑さゆえ、まるごと扱いません。いわゆるbridi数学における利点も疑わしいものですし。

普通の数字から始めていきましょう。すなわち、0から9です。:

 零    一    二    三    四    五    六    七    八    九
no    pa     re    ci     vo    mu    xa    ze    bi    so

noを除き、その母音がa,e,i,o,uの順であること、それぞれ異なる子音が使われていることに注意してください。10以上の数字は、その数字の桁をそのまま読めばいいです:
vo mu ci - 四百五十三
pa no no no no - 10000

「疑問数」なる穴埋め疑問語のようものもあります。それはxoです。そういった質問には、単にその該当する数字それ自体を答えるか、数を表す構成体(後にやります)を答えます。
ci xo xo xo  - 3??? (三千いくら?)
xo 疑問数 – その正しい数を尋ねるために、普通の数字のように使う

試験的な語xo'eは、不特定の、省略的数字を意味するのにときどき使われます。その定義は非公式ではありますが。
ci xo'e xo'e xo'e – 三千といくらか
xo'e 省略 数
すべての数字句は文法的に同一に扱われるのですから、ひとつのxo'eに対して複数桁で答えることもできます。

さらには、16進数用の数字(A〜F)もあります。普通は10進数を使いますが、16進数用の数を使えば安全に誤解なく16進数を使っているということが想定されます。

dau fei gai jau rei xei vai
10(A) 11(B) 12( C) 13(D) 14( E) 14(E) 15(F)

Eに相当する語が二つありますね。公式ではreiが採用されています(xではじまる三文字のcmavoはすべて試験的なものです)。xeiはreと混同するのを避けるために提案されています。

進数はju'uを使って明確に述べることができます。ju'uの前に該当する数字を書き、ju'uのあとにそれが何進数かを示します。
dau so fei no ju'u pa re - A9B0 (進数は12) (ここで進数が12になるのはその場限りで、その後はまた10進数に戻ります。永久に進数を変えることもできますが、あまり実践的でもなく、その仕方も明確に決まってはいません。)

小数はふつう小数点piを使って表されます。
pi 小数点
pa re pi re mu 12.25

数学と同じく、piの前に数字句がなければ0を想定します。これに関連して、数セパレータpi'eは16進数よりも大きな進数で話すときだったり、小数点piが不適切であったりするときに、桁を隔てるために使われます。たとえば、時間(時、分、秒)について話すときです:
pa so pi'e re mu pi'e no ju'u re ze - 19, 25, 0 (27進数)
re re pi'e vo bi - 22, 48 (22時48分)

数学的には厳密ではない、主観的、相対的な数語もひとしきりあります。これらの語は基本数とほとんどまったく同じに振る舞いますが、お互いに結合してさらに大きな数を形成することはできません。

ro so'a so'e so'i so'o so'u
すべて ほとんどすべて ほとんど たくさん いくつか 少しだけ

これらの語は、数字を伴うとき、その数字の程度についての二番目の目安となります。
mu bi so'i sai - 58、これは本当に大きい

それゆえ、これらは数字句の中間に置かれることはありません。piのあとに置くと、小数点以下の数の程度を表すとみなされます。

pi so'u – それの小部分
pi so'o – それのいくつか
pi so'i – それの大部分
pi so'e – それのほとんど
pi so'a – それのほとんどすべて

まさに主観的な数語がいくつかあります。これらは先ほどのものと同じように働きます。

du'e mo'a rau
多すぎる 少なすぎる 十分

次の5語は文脈に基づいた数です。直後の数を修飾すること以外は、先ほどのものと同じに働きます。

da'a su'e su'o za'u me'i
~を除くすべて 多くて~ 少なくとも~ ~より大きい ~より小さい

これらの語のあとに数字がこない場合、1が想定されます。
so'i pa re da'a mu - 5を除く12という多数

知っておくべき最後の2つの数には、ほんの少し複雑な文法があります:
ji'i  数字を丸める、概数、約

ある数の前にji'iが置かれると、その数全体がおおよそであるとなります:

ji'i ze za'u rau ju'o - 約70、これは確かに十分量より大きい

数の中間に位置するときは、その後続の桁のみ大まかであるという風になります。数の終わりにある場合は、その数は既に丸められたものであるという意味になります。

ki'o 数コンマ - ある数字句の中で桁を分ける; 1000

ki'oがキロと似たように思えるのは偶然ではありません。いちばん単純な使い方は、大きい数を3桁ごとに区切ることです。日本語でいう、カンマですね。

pa ki'o so so so ki'o bi xa ze – 1,999,867

3桁未満の数がki'oの前に置かれたとき、その数は最低限重要なものと想定され、その残りを埋めるためにzeroが想定されます。
vo ki'o ci bi ki'o pa ki'o ki'o - 4,038,001, 000, 000
ki'oは小数点以下でも同様に使われます。

これらがsumtiにどのように係るのかはそれ自体大きな単元ですので、22章に回します。そこでは、これらの数がbridiでどんな具合に使われるのかに焦点を当てます。

数字句はxo型の質問への答えに使われるので、それ自体で文法的に正しいものです。しかし、この場合、その数字句はあるbridiの省略形といったものではなく、ただただ数字句でしかありません。つまり、なんらかのbridiの一部というわけではありません。一般的に数がbridiの一部となるとき、二つの形のいずれかをとります。純粋な数字か量化詞です。量化詞に関しては後の章でやるとして、ここでは純粋な数字をみていきましょう。

純粋な数はliを接頭辞にもつ数字句のことです。これは数から直接sumtiを作り、たとえば「数字の6」といった数学的概念を指します。liのfa'orma'oはlo'oです。
li 数/mekso表現をsumti化。

lo'o 数/mekso表現のsumti化を終わらせる。

この単純なsumtiはふつうmitreやcacraのようなbrivlaのx2を埋めるものです。

mitre  x1はx2(数量)・x3(方向)・x4(基準)のメートル; x1はx2メートル
cacra  x1はx2(数)・x3(基準)の時間

次の文を訳してみましょう:

le ta nu cinjikca cu cacra li ci ji'i u'i nai

Answer: 「はあ、あの夜遊びは約3時間続いているわ」

ロジバンで一から三まで数えて見ましょう。
Answer: li pa li re li ci

この章で最後にするのは、selma'oMAIとMOIです。
MAIにはmaiとmo'oの二語しかありません。このどちらとも数字句を序数に変換します。これは心態詞と同じ文法を持っています。序数は文章を章や節など二つの区分に分けるときに使われます。maiとmo'oの唯一の違いは、その区分のレベルの違いです。mo'oのほうがより大きな区分を示します。たとえば、章はmo'oで、節はmaiで数え上げます。注意してほしいのが、これらはMOIと同様、liを必要とせず、数字をそのまま取ることができます。

mai: 低レベルの序数マーカー: 数字を序数に変換する。mo'o: 高レベルの序数マーカー: 数字を序数に変換する。

MOIには5つの語があり、これらはすべて数字句をselbriに変えます。
moi - 数字nをselbri化する: x1はx2(集合)・x3(原理)におけるn番目

例: la lutcimin ci moi lo'i ninmu pendo be mi le su'u lo clani zmadu cu lidne lo clani mleca –
「ルイチーミンは私の女友達の中で、背の高い順から3番目だ。」
(順序を指定する際、ka抽象詞(29章)をsumtiとして使うならば、その集合の要素のうち、その性質の高い順に数えていくと理解されます。なので、今回のx3はlo ka clani と短く表現できます。)

lidne  x1はx2を、x3(序列)において先行する/先立つ; x2はx1に続く; x1は前者; x2は後者
clani  x1はx2(次元/方向)・x3(照合枠)において長い
zmadu x1はx2よりも、x3(性質/数量)の点で、x4(度合)ほど卓越している/x3がx1にはx2よりももっとある
mleca x1はx2よりも、x3(性質)に関してx4(数量)ほど少ない

mei -  数字nをselbri化する: x1 はx2(集合)からなる群で、その群はn個のx3を有している。
注意: ここで、x3は個、x2は集合、x1は群と想定されている。

mi ci mei はどういう意味でしょう?
Anwer: 「我々は3人グループだ」

si'e -  数字nをselbri化する: x1 はx2のn倍
例: le vi plise cu me'i pi pa si'e lei mi cidja be ze'a lo djedi –
 「このリンゴは一日の私の食べものの1/10未満だ」
上の例文のsi'eの定義が「x1はx2の1/n倍である」になっているのに注意してください。当初はn倍の定義で使っていたのですが、最近では変わりつつあります。公式のsi'eの定義も多分変わると思います。

cu'o -  数字nをselbri化する: 1(事)は2(条件)において n の確率で起こる
例: lo nu mi mrobi'o cu pa cu'o lo nu mi denpa ri –
「私が死ぬという出来事は、私がそれを待つという条件において1の確率で起こる」
= 「十分長く待てば、私が死ぬのは確実だ」
denpa x1はx2(事)をx3(状態)ながら待つ、x4(事)の開始以前/再開以前に

va'e -  数字nのselbri化: 段階selbriに変換する; x1 は段階 x2 上の段階位置 nにある
例: li pa no cu ro va'e la torinon – 「10はトリノスケールの一番上だ」

Lojban Lessons - 18章 (引用符)

Lojban Lessons - 18章 (引用符)

ロジバンの大きな特徴のひとつは、視聴覚的に同型であるように作られていることです。つまり、書いたとおりに発音し、発音したとおりに書けるということです。それゆえ、発音しない(できない)ような句読点が存在しないのです。結局、このことはロジバンは何かを引用するための幅広い語を持ち合わせているということを意味します。ロジバンの引用符にはすべて、引用部分を囲み、sumtiに変える働きがあります。いちばん単純なものから始めましょう。

lu 引用符: 文法的に正しいロジバン文の引用を開始する。
li'u 引用符: 文法的に正しいロジバン文の引用を終わらせる。

この構造体の中にある分はそれ自体で文法的に正しくなければなりません。少しの例外を除けば、 この引用符はどんなロジバンの単語も引用することができます(その例外の中には、当たり前ですが、li'uもあります)。

次の文を訳してみましょう。

mi stidi lo drata be tu'a lu ko jai gau mo li'u
drata    x1はx2ではない何か、x3(基準)において; x1は他のもの

Answer: 「私は”ko jai gau mo”ではない何かを提案します。」

 luとli'uは文法的に正しくない文は引用できません。しかし、文の一部分を抜き出したいときもありますね。たとえば、「"gi'e"はsumtcitaですか?」などのようなものです。そのときはどうすればいいでしょうか?

このために、次の2つのcmavoを覚えておきましょう:

lo'u 引用符:文法的には正しくないがロジバンであるような文の引用を開始する。 
le'u 引用符:文法的には正しくないがロジバンであるような文の引用を終わらせる。

この中身はロジバンの単語でなければなりませんが、文法的に正しくなくてもかまいません。さっきの"gi'e"の文をロジバンに直してみましょう:

Answer: xu lo'u gi'e le'u lojbo sumtcita

これらの語はle'u以外のすべての単語を引用できます。しかし、これでは不十分です。たとえば、「"do mo"は"What's up?"の適切な訳ですか?」を訳したいとき、ここまでに述べたものでは少々間違いが生じるかもしれません。というのも、"do mo"は「あなたは何ですか?」という意味にもなるからです。さて、別の手を打ちましょう。必要な語は、zoiです。

 zoi  万能な引用文を開始し、万能な引用を閉じる

 zoiを使えば、形態論的に正しいロジバン単語ならなんでも引用することができます(境界詞(delimiter)という)。[注: というより、あらゆる言語のどんな言葉も引用できます。英語も日本語もドイツ語もエスペラントも…。]その引用は、zoiで始め、zoiで締めます。これで、境界詞を除くすべての単語を引用することができるようになりました。ふつう、引用句はzoi単体か、もしくはそれの書かれた言語を表す文字を伴って囲まれます。
例: 「私はオペラ座の怪人が好きでした」 = mi pu nelci la'e zoi zoi. オペラ座の怪人 .zoi
[注: mi pu nelci la'e zoi ponbau. オペラ座の怪人 .ponbauでもOKです。ponbauは日本語という意味です。英語を引用する場合は、glibauを使ってもいいです。簡略な方法としてその言語の頭文字を使う(ponbauならpy. glibauならgy.)というのもあります。]
この例文について注意点が二つあります。ひとつは、その引用文の文字列が好きなのではなく、それの指すもの(つまり、オペラ座の怪人の劇とかDVDとか)が好きなのですから、la'eが必要です。二つ目は、引用符と引用句の間には必ず小休止(ピリオド)を置くということです。この小休止は、境界詞を正しく見定めるために必要不可欠です。
[注: 言葉の響きが好きであることを表すときは別にla'eはいりません。Tシャツの柄として、「勇気」という単語が好きというときには、mi nelci zoi zoi. 勇気 .zoi (私は勇気という文字列が好きだ)と言えます。 ]
 さて、さっきの"What's up?"の文を訳してみましょう。

drani x1はx2(性質)に関してx3(状況)のときx4(基準)において正しい/正確/適宜

Answer: xu lu do mo li'u drani xe fanva zoi gy. What's up? .gy ここで、gyはglico(英語)短縮形ですから、境界詞にgyが選ばれています。[注:日本語では py となります。]

かなり似ている語に、la'oがあります。これはzoiと全く同じように働きますが、その引用句を名前に変えます。ふつうselbriとcmevlaだけが名前になり、引用句はなれませんから、この語が必要となります。

la'o 多目的引用を開始させ、終わらせる。しかし、その引用句は名前として使われる。

最後に、公式な引用符としてzoがあります。zoはそれがどんなものであろうと、常にその直後のロジバン単語を引用します。これはかなり使いやすいです。
zo 直後のロジバン単語を、何であれ引用する

例: zo zo zo'o plixau = 「"zo"は有用だ、なんちて」

zo'o : 心態詞: 談話系: ユーモアな感じで、「冗談だよ」
plixau x1 はx2にとって、x3(目的)をするのに有用だ

ロジバン使用者の一部は、次に説明するさらに4つの引用符を補ってやることが有用であると気づいています。それらはすべて試験的で、正規の文法ではサポートされていません。さらに残念なことに、試験的文法の構文解析で大いに問題を孕んでいます。
それにも関わらず、これらは度々使われて、一役買っています。いちばん使われるのは次の語です:

zo'oi 次にくる語だけ引用する。次にくる語は会話では小休止、筆記では空白で明確に区別する。
例: ri pu cusku zo'oi どわ! .u'i = 「彼は「どわ!」って言ったんだよ、はは」

使い方はとても簡単ですが、実際問題として、これらを使うのはかなり問題を含んでいます。zo'oiに続く語にはピリオド、声門閉鎖音、小休止が含まれてはいけないということを心得ておかねばなりません。たとえば、以下の文は試験的な[訳: それゆえ今よりも柔軟性の高い] 文法でさえも構文エラーが生じます。

書き言葉の例: ko iklki sedi'o zo'oi http://www.lojban.org/ -- エラー(zo'oiの適用範囲は"http://www"だけになるため)

話し言葉の例: lo salpo (ku) fa'u lo finti cu smuni zo'oi saka fa'u zo'oi sa.ka lo ponjo -- エラー(2つ目のzo'oiの適用範囲が"sa"だけになるため)
(この"ku"はPEG構文解析ツールでは省略可能です)

zo'oiとla'oに似たものに、la'oiもあります。これは、zo'oiとまったく同じ働きをしますが、その引用句は名前として扱います。
la'oi 直後の語のみを引用し、それを名前として使う。直後の語は会話では小休止、筆記では空白で明確に区別する。

「私の英語の名前は"Safi"です」は何というでしょう?

glico  x1はx2(性質面)に関して英語系(言語/文化/民族/地理)
cmene x1(文字列)はx2の、x3(者)による名称; x3はx2をx1と呼ぶ; x2はx1と呼ばれている

Answer: mi glico se cmene la'oi Safi 
seが必要なことに注意してください。我々は自分たちが名前であると言いたいわけではないですから。

[注:
日本編もやっておきましょう。
ponjo x1はx2(性質面)に関して日本/ジャポニカ系(言語/文化/民族)
これを用いて、「私の日本語の名前は"太郎"です」を訳してみましょう。

Answer: mi ponjo se cmene la'oi 太郎
]

la'oiもzo'oiと同じ問題を抱えています。すなわち、la'oiに続く語にはピリオドも声門閉鎖音も、小休止も含んではいけません。たとえば、次の文はla'oiが公式の語となっている試験的文法でさえ構文エラーになります。

書き言葉の例 : .u'a mi te vecnu lo zgike datni pe la'oi t.A.T.u -- エラー(la'oiは"t"しか引用していないことになっている)
(t.A.T.uは音楽グループ)

話し言葉の例 : la'oi .uli.uli zgike tutci -- エラー(la'oiは最初の"uli"しか引用しないため)
("`uli`uliはハワイの楽器)

話し言葉の例 : ju'i la'oi jugemujugemugokounosurikirekaijarisuigionosuigioumatsu,unraimatsufuuraimatsuku,unerutokoronisumutokoro,iaburakoujinoburakoujipaipopaipopaiponosiu,uringansiu,uringan,nogu,urindaigu,urindainoponpokopi,inoponpokona,anotcoukiu,umeinotcousuke mi'o ko'oi klama lo ckule -- 一息で言えないなら、エラー
("じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじのぶらこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだいぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ"  は有名な日本の男の子の名前)


三つ目、ra'oiは直後のrafsiを引用します。rafsiは語ではないですから、ふつうはzoiで引用してやらないといけません。さらに、いくつかのrafsiはcmavoと同じ形をしています。その混同を避けるために、ra'oiは常にrafsiを指します。rafsiでない文字列に使うのは誤りです。

次の文はどういう意味でしょうか?: ra'oi zu'e rafsi zo zukte .iku'i zo'oi zu'e sumtcita
ku'i 心態詞: 談話系: しかし(前述の言明とは対照的に)
rafsi    x1(文字列)はx2(語)のx3(部位/性質)に由来する、x4(言語)の形態素/語基/語幹/接辞

Answer: 「"zu'e"(rafsi)は"zukte"のrafsiです。しかし、"zu'e"はsumtcitaです。」

そして最後に、ma'oiを説明します。ma'oiはcmavoを引用しますが、それをその語が属するカテゴリ(selma'o)の名前として扱います。たとえば、ba'oはZAhOに属しているので、ma'oi ba'oは「ZAhO」の非公式な言い方です。

では、puとbaは同じselma'oにありますと言ってみましょう。
cmavo x1(文字列)はx2(品詞)・x3(意味/機能)・x4(言語)の機能語
[注: (ヒント: puという文字列はbaの属する品詞の機能語だ)]

解答例: zo pu cmavo ma'oi ba


[注:結構散り散りに紹介されているので、整理のためここで引用語を列挙しておきます:

lu 引用符: 文法的に正しいロジバン文の引用を開始する。
li'u 引用符: 文法的に正しいロジバン文の引用を終わらせる。

lo'u 引用符:文法的には正しくないがロジバンであるような文の引用を開始する。 
le'u 引用符:文法的には正しくないがロジバンであるような文の引用を終わらせる。

zoi  多目的な引用文を開始し、多目的な引用を閉じる

la'o 多目的引用を開始させ、終わらせる。しかし、その引用句は名前として使われる。

zo 直後のロジバン単語を、何であれ引用する

*以下、非公式*

zo'oi 次にくる語だけ引用する。次にくる語は会話では小休止、筆記では空白で明確に区別する。

la'oi 直後の語のみを引用し、それを名前として使う。直後の語は会話では小休止、筆記では空白で明確に区別する。

ra'oi 直後のrafsiを引用する。

ma'oi 直後のcmavoを引用し、そのcmavoが属するselma'oの名前として働く。

]

2013/05/19

Lojban Lessons - 21章 (COI)

Lojban Lessons - 21章 (COI)
この章では、呼応系、ma'oi coiを使って他の人と交流していきましょう。ma'oi coiで1章割いているのは、これらを理解することが一般的なロジバン文法を理解するための基礎になるからとか、理解するのが難しいからとかではなく、日常会話でとてもよく使われるのと、分量が多いからです。
呼応系はdoが誰を指すのかを定めるのに時々使われます。呼応系のあとにcmevlaがくると、そのcmevlaはその頭に暗黙のlaを得ます。selbriが続くときは、代わりにleがgadriとして使われます。
こういったものの例として、私は呼応系 coi を使います。これは「やあ」とか「こんにちは」といった意味です。
coi .mik. - 「やあ、ミク」

人がla + SELBRIで呼ばれているとき、その人を呼ぶのにそのselbriだけを呼応系と共に用いると、それにはleが想定されるのでその人のことを実際にそのselbriのx1であると指し示すことになってしまいます(これは大概の場合間違っています)。たとえば、ある人がla tsani 「空さん」と呼ばれているとすると、coi tsani は彼女をle tsaniとして参照し、「やあ、(実際の)空」という意味になります。一方で、coi la tsani は彼女を「空」と呼ばれる人として正しく参照し、「やあ、空さん」という意味になります。これはよくあるミスで、特に新参者のロジバニストで起こっています。
すべての呼応系には時々必要となるfa'orma'o、do'uが備わっています。これが使われるのはもっぱら、呼応系のあとにくる語とその句の最後の語がどちらもselbriのときで、それがtanruを形成してしまわないようにするために使われます。
[注: 呼応系は単体で(つまり後ろに何も付けずに)言うこともできます。「やあ、ミクが生まれたよ」と言うときに、coi la .mik. ca'o jbena といってしまうと、coiがla .mik.を取り込んでしまいます。こういったときもdo'uを使って呼応系の区切りを明確にします。もしくは.iで区切ってもいいです。coi do'u la.mik. ca'o jbena か、coi .i la .mik. ca'o jbena]

do'u 呼応系の句を終わらせる。たいてい省略される。
klaku x1はx2(涙)・x3(理由)で泣く

coi la gleki do'u klaku fi ma - 「やあ、幸さん。どうして泣いてるの?」

包括的な呼応系、doi、はdoによって参照されているのが誰かを規定する以外には何も仕事をしません。
doi .ernst. xu do dotco merko - 「ねえ、エルンスト。君はドイツ系アメリカ人なの?」

そのほかの呼応系はすべてdoを規定する以外にも意味があります。coiはもう知っていると思いますが、「こんにちは」の意味もあるわけです。呼応系の多くが心態詞のように2,3個の定義を持っています。心態詞と同じで、これはcu'iとnaiで修飾されます。もっとも、cu'iの形があるのはひとつだけですが。
重要な呼応系をいくつか表にまとめておきます。他にもまだありますが、あまり使われません。



呼応系
cu'inai
coiやあ/こんにちは--
co'oさようなら/またね--
je'e了解/OK-分からない
fi'iようこそ/どうぞ-無愛想
pe'uお願いします--
ki'eありがとう-不感謝
re'i聞く準備ができました-準備できていません
ju'i注目!気楽にして私に構うな!
ta'a中断/割り込み--
vi'oやります!/承知しました-したくない!
ke'oもう一度言ってください-繰り返さなくていいですよ
ki'aiご元気で/どうかご無事で-呪ってやる

ki'aiは試験的なものであることに注意してください。


coi co'o はどういう意味でしょうか?

Answer: 「通りすがりの挨拶」、つまり「こんにちは、そしてさよなら」

je'eは「OK」として使えますが、お褒めや感謝を受けた時の適切な返答でもあります(最低限丁寧でありたいならば)。そのお褒めや感謝が無事伝わりましたよということを示しているわけですね。

ki'e sidju be mi bei lo vajni .i je'e jenifyn. を訳せ。

sidju  x1はx2(者)をx3(行動/事)に関して助ける

Answer: 「ありがとう、私が大事なことをするのを助けてくれた人よ。」「どういたしまして、ジェニファー」

fi'i te vecnu .i pe'u ko citka はどうでしょう?

Answer: 「ようこそ、お客様。どうか食べて下さい!」

re'i は話を聞く準備ができていることを知らせるときに使います。「何かお力になれますか?」のロジバンでの相当表現として使うこともあります。もしくは「もしもし」かもしれません。re'inai は「AFK」や「ちょっと待って」といった意味になります。

次の文を訳せ:「こんにちは、何かお力になれますか?翻訳家さん」

Answer: coi re'i la fanva

ta'aは他人に行儀よく割り込もうとするときに使います。これに対するいい返答はなんでしょう?

訳せ: ta'a ro do mi co'a cliva
cliva x1はx2からx3(経路)によって離れる/発つ/別れる/去る; x1はx2を残す

Answer: 「みなさん、横から失礼。今、私は去るところです。」 fa'orma'oも.iもいらないことに注意してください。

ke'oは、聞こえなかった発言を繰り返してもらうために使えるだけでなく、ロジバンを教える際、声に出して一緒に発音するときにも使えます(repeat after me)。これはかなり使い勝手のよい語です。
sutra x1はx2(動作/事)に関して速い/すばやい/敏速/俊敏

次を訳せ: .y. ke'o sutra tavla

Answer: 「えっと、もう一度お願いします、あなたはクイックスピーカーですね」

そして: 「繰り返さなくていいから…(不幸)、俺がやるよ。」

An answer: ke'o nai .ui nai vi'o

2013/05/18

Lojban Lessons -17章 (可愛いらしい多彩な語)

Lojban Lessons -17章 (可愛いらしい多彩な語)

前回3章かけて、sumtiについてかなり知識がつきました。そんな長期間の険しい体系的学習の後ですが、ここで、他の章には入りきらなかった/相応しくなかった単語にこの章を割きたいと思うのですがいかがでしょう?とっても小さな、でもとっても使える単語たちを紹介していきます:

次のcmavoは省略語と呼ばれています。zo'eはもう既に親しみがありますね:

zo'e - 省略 sumti
co'e - 省略 selbri    
do'e - 省略 sumtcita
ju'a - 省略 認識系
do'i - 省略 発話変項
ge'e - 省略 心態詞

これらはすべて、それの表す種類のcmavoとして文法的に正しく働きますが、何の情報も含んでおらず、面倒くさかったり、お茶を濁したいときにかなり使えます。しかし、いくつか注意点があります:

zo'e は何か内容のあるものを指し示す必要があります。たとえば、「0台の車」や「無(nothing)」は内容がないので、zo'eでは参照できません。これはなぜかというと、もしzo'eが無を意味するとすれば、削除されたsumtiのひとつを無を示すzo'eで埋めると、どんなselbriもその否定形と同一になってしまうからです。
ge'e は何の感情も抱いていないという意味ではなく、特別述べるような感情を抱いてはいないという意味です。「I'm fine」に似てますね。.ge'e pei は省略心態詞について尋ねており、いい訳し方としては「あなたはどう感じていますか?」となります。
co'e は文法的な事情で句にselbriが欲しいに使えます。似たようなのを前の章でやりましたね(tu'a)。
ju'a は真理値とかbridiの意味合いを変えたりはしません。実際、ほとんど何もしないのです。しかし、ju'a pei 「その根拠は何?」は使いやすいです。
do'i はとても使えます。発話や会話を「これ」や「あれ」で指し示すときに、思わずdo'iを使いたくなるでしょう。
selbriの取りうる位置の数以上のsumtiがある場合、それらの前にはdo'eが想定されています。

さらに、zi'oという、sumti位を消してしまう語があります。たとえば、lo melbi be zi'o はただただ「美しいもの」であり、melbiの通常のx2、それが美しいかを判断する観察者を含んでいません。これはつまり、「客観的に美しい」といった意味になるのです。無が削除されたsumti位を満たしているのではなく、そのsumti位がそのselbriにそもそも無かったことになるということです。sumtcitaにzi'oを使うと妙なことになります。形式的には、それらは消え去り意味がなくなるはずです。しかし実際は、そのsumtcitaは今回関係ないと明確に言っていると理解されるでしょう。たとえば、mi darxi do mu'i zi'o は 「私はあなたを叩く、動機があろうがあるまいが」となります。

それから、jaiという語もあります。これは、理解しにくいが一旦わかってしまうと実にシンプルな働きをするクールで小さな語のひとつです。jaiは2つの使い方がありますが、似たような機能です。どちらも、seのように、selbriを変換することに関係があります。

jai selbri変換: sumtcitaや不特定の抽象句をx1に変換する。faiと共に使う。
fai sumti位を印す。faのような機能。jaiと一緒に使われる。

jaiが活躍する文法構造としてまず、 jai {sumtcita} {selbri} があります。これは、sumtcitaのsumti位をselbriのx1に移動させ、元のx1は取り除かれ、faのような働きをするfaiを使うことによってのみ使用可能にするといったようにsumti位を変化させます。例をみれば理解できるはずです:

gau - sumtcita (gasnu由来) 「bridiは {sumti}(実行者) によってもたらされた」
do jai gau jundi ti fai mi - 「君は私にこれへの注意を払わせる。」

この新しいselbri、jai gau jundi は「x1はx2に払われる注意をもたらす」という位置構造をもちます。それから、doとtiがそこに詰められ、faiが元のx1(注意を払う人)の位置を印づけ、そこにmiがはまります。この語はとても便利で、いくらでも使い道があります。いい例が、描写sumtiです。たとえば、lo jai ta'i zukte で「意志のある行動という方法」を指すことができます。

ta'i: sumtcita (tadji由来) 「bridiは {sumti} という方法でなされる」

よく使われる表現 do jai gau mo はなんという意味か推測できますか?

Answer: 「何をしているの?」

jaiのもうひとつの機能はまだ説明しやすいです。x1のsumti の前にtu'aがくるように変換します (ko'a jai broda = tu'a ko'a broda)。言い換えれば、jaiは、x1のsumtiから省略抽象句を作り、実際のsumtiの代わりにその抽象句をx1にはめ込むという風にselbriを変換します。またもや、元のsumti位はfaiによって使用可能となります。
とても活動的なロジバンIRC使用者はしばしば、x1のsumtiにデタラメな例を使うために、le gerku pe do jai se stidi mi ということがあります。さて、彼はなんと言ったでしょう?

stidi  x1はx2(概念/行動)をx3(者)に示唆/推奨/提案する

Answer: 「私はあなたの犬について(ほにゃららということを)提案します」

今のところ、bridiをselbriに、selbriをsumtiに、そして、すべてのselbriはそれ自身bridiでもあるのですから、selbriをbridiに変換する方法を学びました。残るはあとひとつ、sumtiをselbriに変換する方法ですね。これはmeを使ってなされます。これはsumtiを取り込み、それを位置構造「「x1 は x2 (性質)において {sumti} に属する」をもつselbriに変換します。

me: 総称的なsumtiのselbri化。 x1 は x2 (性質)において {sumti} に属する/のうちのひとつ

文がぐちゃぐちゃになったときに、それを訂正する方法を知っておくと便利です。ロジバンには自分が直前に言ったことを取り消すためにつかう語が3つあります。

si - 削除: 直前の語のみ取り消す
sa - 削除: 直後のcmavoに該当するところまで遡って削除
su - 削除: その文を全削除

これらの語の機能は明らかですね: 語句をあたかも発話してないかのように削除するのです。これらはある引用句(lu...li'uを除くすべての引用句)の中では働きません。まあ、そうでないとこれらの語を引用することが不可能になりますからね。複数回siをいうと、その分の単語が削除されます。


Lojban Lessons - 16章 (sumti その3: 派生sumti)

Lojban Lessons - 16章 (sumti その3: 派生sumti)

le bangu poi mi se bangu ke'a は「私の言語」の拙い表現です。実際、かなりくどい表現です。「私が話す言語」は bangu mi というbridiのx1に相当します。しかし、bangu miをgadriを使ってsumtiに変換することはできません。: bangu mi はbridiであってselbriではないので、 le bangu {ku} mi は2個のsumtiとなります。le su'u を用いても変換できません。というのも、su'uはそのbridiに新しいx1を与えて、抽象句にし、それをleが抽出するからです。結局、「何かが私の言語であるということ」というようなことを意味する抽象sumtiが出来上がってしまいます。

beを導入しましょう。beは句(sumtiやsumtcitaなど)をselbriに結合させる語です。普通のselbriに使っても何の効果もありません: mi nelci be do ではbeは何も仕事をしません。しかし、sumtiがこのようにしてsebriにくっつけられているときは、sumtiを引っぺがすことなしにgadriを使ってsumti化できるのです。つまり、le bangu be mi はさっきの問題への正しい解決策となるのです。同様に、sumtcitaを付けることもできます:le nu darxi kei be gau do - 「殴るという、君によって起こされた出来事」。keiの有無で構文解析が異なることに注意して下さい。fa'orma'oがあると、beはnuに係り、fa'orma'oがないと、beはdarxiに係ります。これによって、何が強調されているのかが決まります: 君が起こしたのは殴ることなのか、殴るという出来事なのか? しかし、この場合に限っては、どちらも大体同じ意味になります。

では、複数のsumtiをselbriにくっつけてgadriで囲みたいときはどうすればいいでしょう?「あなたへのその林檎の贈与者」は le dunda be lo plise be do でしょうか?いいえ、違います。二番目のbeはpliseに係り、le plise be do - 「君という種の林檎」と意味不明になります。複数のsumtiをselbriに繋ぐためには、2つ目以降のsumtiをbeiで結びつける必要があります。その「繋がり」は、be'oで締められます。まとめておきましょう:

be sumtiやsumtcitaをselbriに繋ぐ
bei  2つ目以降のsumtiやsumtcitaをselbriに繋ぐ
be'o  selbriへの繋がりを終わらせる

[注:結局beは、lo SELBRI poi ke'a SELBRI sumtiA = lo SELBRI be sumtiA とします。]

sumtiを別のsumtiと緩く関係づける方法もあります。peとneはそれぞれ制限用法的、非制限用法的な関係を示します。
実際、 le bangu pe mi は「私の言語」のよりよい訳です。というのも、この句は、日本語と同様、その2つがどういう関係にあるかについて曖昧だからです。

pe とne は緩い関係性(あなたが座る椅子について「私の椅子」という風に)だけに使われます。実際にはあなたの所有物ではなく、君と何らかの関係があるだけです。もっと密接な関係を表すにはpoを使います。これは、ある一人の人間に独特に関係づけます(実際あなたが所有する車に対して「私の車」という風に)。最後に残るはpo'eで、2つのsumtiの繋がりが先天的であるといった、いわゆる「譲渡不可能」な関係を表します。いくらか例をあげると、「私の母」「私の腕」「私の故郷」などがあります。こういう類の所有が失われることはなく(たとえあなたが自分の腕を切り落としても、それはなおあなたの腕です)、その意味で譲渡不可能なわけです。なんだか厳かですが、大体においてpo'e は適切であり、x1が繋がったものをそのselbriのx2が含むときはbeがベターです。

ne 非制限用法的関係。 「~と関係のある」
pe 制限用法的関係。「~と関係のある」
po 所有関係。 「~に特有な」
po'e 譲渡不可能な関係。「~に属する」

{gadri} {sumti} {selbri} はとても有用な知っておくべき句です。これは{gadri} {selbri} pe {sumti}と同等です。たとえば、 le mi gerku はle gerku pe mi と同じです。描写sumtiを内部に組み込むこともできます。たとえば、le le se cinjikca be mi ku gerku = le gerku pe le se cinjikca be mi = 「私がいちゃついている男の犬」。しかし、あまり読みやすくない(さらには会話だと理解しにくい)ので、しばしば避けられる表現です。

覚えておくと多くの文をより簡単にできるので、tu'aも学んでおきましょう。tu'aは、sumtiをそれと関係のある省略的な抽象句に変換します。たとえば、mi djica lo nu mi citka lo plise というのを、林檎をどうしたいのかを文脈に任せることで、 mi djica tu'a lo plise ということができます。 tu'a SUMTIによって話し手がどんなことを言いたいのかを推測しなければならないので、文脈上それが明らかで簡単に分かるときにのみ使うのがいいです。もうひとつ例を出します:

gasnu  x1(者)はx2(事)をする(意志は伴わない)

za'a do gasnu tu'a lo skami - 「私は見たよ、君がコンピュータに何かさせるのを。」
公式では、tu'a SUMTI は le su'u SUMTI co'e と同等です。曖昧ですが、使えます。一見どこでも使えそうですが、tu'aを使えない場合があります。それは、その結果生じるsumtiが抽象句でなく、具体的なsumtiであってほしいときです。この場合、zo'e pe を使います。

tu'a sumtiを、それを伴う曖昧な抽象句に変換する。le su'u SUMTI co'e kei kuと同等。

最後に、ある種のsumtiはLAhEカテゴリの語によって別のものに変えることができます。

lu'a - sumtiを個に変換する。
lu'i - sumtiを集合に変換する。
lu'o - sumtiを群に変換する。
vu'i - sumtiを序列/配列に変換する。 その順序については述べない。

これらは素直に使えばいいです: sumtiの前に置いて、新しい型のsumtiを作るわけです。しかし、注意してほしいのが、4番目の、序列/配列です。これはあまり使われていません(たとえば、序列/配列は自身のgadriを持っていません)が、網羅のため載せておきました。

残る2つのLAhEの語は、sumtiを別の型に変えるのではなく、それを指し示すものを言及することで、そのsumtiについて話すことを可能にするものです:
まず、日本語で説明したいと思います。『桃太郎』という本があるとします。このとき、『桃太郎』はその本の題名であって、本それ自体ではありません。つまり、『桃太郎』という文字列が、ある本を指し示しているわけです。これをロジバンでは、la'e 桃太郎 と書きます。これはつまり、「『桃太郎』という本」のことです。
次にロジバンで例を見ていきましょう。mi nelci la'e di'u は「私はさっきあなたが言ったことが好きだ」という意味になります(mi nelci di'u だと「私はさっきの文の文字列が好きだ」になります)。もうひとつ、la'e le cmalu noltru は「『星の王子さま』という本」という意味になり、実際に星の王子さま自身を指しているわけではありません。
lu'e はこの一連の真逆のことを行います。つまり、『桃太郎』という本があったときに、 lu'e 本 は、『桃太郎』という文字列を表します。

la'e - sumti の左に付いて、その sumti の指示対象を引き出す
lu'e -  sumti の左に付いて、その記号・文字列を引き出す

[注:la'e,lu'eの部分がなんだかわかりにくい内容でしたので、かなり改変しました。]


Lojban Lessons - 15章 (sumti その2: KOhA3、 KOhA5、KOhA6)

Lojban Lessons - 15章 (sumti その2: KOhA3、 KOhA5、KOhA6)

次の文を訳すことにしましょうか:「(私の思う)典型的なロジバン話者というのは、自分の話せる言語について互いに話しだす。」

bangu: x1はx2(使用者)がx3(概念/命題/文字列)を表すのに用いる言語; x2はx1語を話す

le'e prenu poi ke'a kakne lo nu tavla fo la .lojban. cu tavla le'e prenu poi ke'a kakne lo nu tavla fo la .lojban. lo bangu poi lo prenu poi ke'a tavla fo la .lojban. cu se bangu ke'a

…日本語の文に比べて長いですね!これはなぜかというと、ロジバンの文ではばかばかしいほどに長いsumtiが文中に2回以上出てきているのに対し、日本語の文では「お互い」とか「自分の」とかを使ってそれを指しているからです。これは非常に効率的ですね。ロジバンにもこれと同じようなメカニズムは無いのでしょうか?

驚くことなかれ!ロジバンにも「代sumti」という意味のsumka'iと呼ばれる一連の単語があります。代名詞とsumka'iは似たような機能をしているので、日本語で代名詞を使うように、あるsumtiを指すためにsumka'iを使えばよいのです。実際、tiやdo、miを既に知っていると思いますが、もっとたくさんあるので学んでいきましょう。まず、今まで習ったものを体系的なものにしたいですね。日本語でも馴染み深いものから始めましょう。:


ti - sumka'i: 直近のそれ: 話者から物理的に近いsumtiを表す。
ta - sumka'i: 近くのそれ:  聞き手に近いか、話者から物理的にいくらか離れたsumtiを表す。
tu - sumka'i: 離れたそれ: 話者と聞き手から物理的に遠いsumtiを表す。

ここでも「i a u」の並びが見られますね。いくつかはっきりさせておく必要があるかもしれません。まず、これらのsumtiは物理的空間を占めると思われるものなら何でも表すことができます。実体は表せますが、概念は表せません。出来事は表せますが、ある程度の特定の場所に限られます -- ジャスミンの進化は指し示せませんが、バーでの喧嘩とかキスしたこととかは表せられます。次に、距離は絶対的なものではなく、あるモノとモノの相対的な距離であることに注意してください: tu は話者とも聞き手とも離れているのであれば、どんな距離であっても適用できます。話者と聞き手が遠く離れていて、聞き手が話者の話していることが分からない場合でも、taは聞き手に近いものを指します。3つ目に、これらの語はすべて相対的で、文脈に依存します。たとえば、書かれた文だと話者と聞き手の位置がお互いに分からず、さらには時間が経つにつれ変わっていくため、問題が生じます。
さらに、本を書くとき、あるものをti、ta、tuで指すことはできず、何を指しているのかきちんと表現しなければなりません。

それから、miとdoの属しているKOhA3と呼ばれるシリーズがあります(koも属していますがここでは書きません):


mi - sumka'i: 話し手(単複)
mi'o - sumka'i: 話し手(単複)と聞き手(単複)の群
mi'a - sumka'i: 話し手(単複)と第三者の群
ma'a - sumka'i: 話し手(単複)と聞き手(単複)と第三者の群
do - sumka'i: 聞き手(単複)
do'o - sumka'i: 聞き手(単複)と第三者の群

これら6つのsumka'iはベン図を書くと、より分かりやすくなります。


KOhA3のベン図(koを除く)。le drataはKOhA3ではないが「第三者(単複)」を意味する。


彼ら全員の代表としてある言明がなされたなら、それは複数人が「話し手」になることになります。それゆえ、「我々」という言葉はmi, mi'o, mi'a, ma'aのいずれかに訳されますが、大体miでいけます。この6語はすべて、2つ以上の個を指すとき、群を表します。bridiの論理上、Aさんが言ったmi glekiと、BさんがAさんに言ったdo glekiは全くもって同等のもので、同じbridiとみなされます。このことについてはまた後で、brika'i(代bridi)の章でやりましょう。

これまでのsumka'iはなかなか適用範囲が狭く、例えば、この章の冒頭にやった文に関しては役に立ちません。次にするシリーズは原理的にはどんなsumtiも指すことができます:


ri - sumka'i: 直前のsumti
ra - sumka'i: 最近だが直近ではないsumti
ru - sumka'i: かなり前のsumti

これらのsumtiは、他のsumka'iのほとんどを除く既に言い終えられたsumtiを参照します。他のsumka'iのほとんどを参照できない理由は、単にそのsumka'iを繰り返したほうが簡単だからです。例外はti, ta, tuで、これらについては位置関係が変わってしまって単に繰り返すだけではいけない可能性が生じるからです。ri, ra, ruは既に言い終えられたsumtiのみを参照するので、たとえば自身が内包されている抽象句を指すことはできません。: le pendo noi ke'a pendo mi cu djica lo nu ri se zdani - この場合、抽象句は終わっていないので、riはそれを参照できませんし、sumka'iであるmiとke'aも参照できません。なのでri はle pendoを指します。
raとruがどれを参照するかは文脈によりけりですが、上で述べたルールに従って、ruは常にraよりも離れたsumtiを参照します。

ri、ra、ruは冒頭の文をシンプルにするのにうってつけです。sumka'iを2個用いてやってみましょう!

Answer: le'e prenu poi ke'a kakne lo nu tavla fo la .lojban. cu tavla ru lo bangu poi ru cu se bangu ke'a
ri を使ってしまうと、la .lojban. を指してしまうので不適当です。raは使えますが、lo nu tavla fo la .lojban. を指していると誤解される可能性があります。一方ruは一番離れたsumtiを指すと想定されるので、最も外側のsumtiを参照できます。

最後に、発話を表すsumka'iがあります。なので、これらは発話変項などと呼ばれたりします。文脈が許せば、1文(jufra)に限らず、複数の文を参照することもできます。:


da'u  発話変項: かなり前の文
de'u  発話変項: 最近の文
di'u  発話変項: 直前の文
dei  発話変項: この文
di'e  発話変項: 次の文
de'e  発話変項: 近い未来の文
da'e  発話変項: かなり未来の文
do'i  発話変項: 省略発話変項: いくつかの文

これらは文をsumtiとして表し、実際に話された言葉や文字のみを参照し、それらの裏に隠された意味は参照しません。

sumka'iはまだまだありますが、ここで一旦休憩しましょう。次の章は派生sumti、他のsumtiからなるsumtiの話になります。




Lojban Lessons - 14章 (sumti その1: LE と LA)

Lojban Lessons - 14章 (sumti その1: LE と LA)

これまでの章すべての内容を読んで理解したなら、残りの内容を学ぶのに困らないほどにはロジバンの十分広い知識を得られています。結果として、ここからの章の構成は学びやすい順に、日常会話で重要な順にしてあります。

今ロジバンを話す上でもっとも必要に迫られることのひとつに、sumtiの作り方における知識があります。今のところ、tiとlo SELBRI しか知らず、これではいかにsumtiが大事であっても実感がないでしょう。この章とそれに続く2章はsumtiについてです。まず、描写sumti(loのような冠詞を伴うもの)に焦点を当てます。冠詞はロジバンではgadriといい、この章で議論する内、 la CMEVLA, lai CMEVLA , la'i CMEVLAを除いたすべてのものが終端詞kuで締められます。

描写sumtiの単純な3種類からはじめますが、すぐにそれらがそんな単純なものではないと分かるでしょう:
lo - gadri: 総称的現実性sumti化。個群は曖昧.
le - gadri: 総称的記述性sumti化。 個群は曖昧.
la - gadri: 名称冠詞: 通例、selbriやcmevlaをsumti化する。個として扱う。

loとその機能についてはもういいですね。しかし、「現実性」と「個群が曖昧」とはどういう意味でしょうか。個と群については後で触れるとして、「現実性」について触れることにします。「現実性」とは、lo klamaと記述されるには実際にそれがklamaでなければならないということです。ということで、現実性gadriは真偽のある主張 -- 当該の対象が実際にloの後にくるselbriのx1であるということを主張しているのです。

これはle(記述性)と対照的です。もしあなたがle gerkuと言うとき、一匹またはそれ以上の特定の対象を心に浮かべ、聞き手がそれを同定できるようにselbri、gerkuを使って記述したということをle gerkuは示しています。つまり、leにはloと二つの重要な違いがあります: ひとつに、leは一般的な実体を参照することはできず、常に特定の実体を参照します。もうひとつに、lo gerkuは絶対に一匹かそれ以上の「犬」であるのに対し、le gerkuは「現実性」ではないので、その記述が、正しい対象を同定するのに役立つと話者が思ったものであれば、何でもあり得ます。もしかすると、話者はハイエナを指しているが、それについて馴染みがなく、「犬」という表現が妥当と考えたのかもしれません。この空想な感じはほとんどの文章では必要ないかもしれません。結局、犬を記述したいのであれば、それを犬と記述する(lo gerku)のがいちばんよいのであって、そのような記述ができない正当な理由がない限り、le gerku はlo gerku(現実の犬)でもあるようなものを指しているとたいていみなされます。
訳の上では、lo gerkuはふつう「犬(a dog)」「何匹かの犬(some dogs)」であり、le gerkuは「その犬(the dog)」「その犬ら(the dogs)」となります。le gerkuのよりよい訳は、「その犬(たち)」、つまり単数でも複数でもある感じ、でしょう。

三つの基本的なgadriの最後は、la、名称gadriで、私は「慣例的(conventional)」と勝手に呼んでいます。この意味するところは、それがれっきとした名前を指すことから、記述的でも現実的でもないということです。もし、彼女の名前の感じから「無垢」と呼ばれる子を指すとき、彼女を「無垢であるようなもの」と記述することも「無垢である」と述べることもしません。ただ慣例に従って彼女を「無垢」と述べているだけであり、その対象はそういったselbriやcmevlaによって指されているだけのです。laとそれ由来のgadriはcmevlaを他のgadriとは違う風にsumtiへと変換することができます。ここで、他の多くのテキストでは、名前はlaを使うことで普通のselbriからも作れることに触れてないことに注意してください。そういった異端書は燃やされなければならないでしょう。というのも、selbriの名前を誇り高いロジバニストの多くが持っているからです。
la、lai、la'iは常に名前の開始点を示すので、少し風変わりです。他のgadriと違って、laとその類の後ろに文法的に正しく置かれた語はなんでも、名前の一部とみなされます。たとえば、le mi gerkuは「私の『犬』」ですが、la mi gerkuは「『私の犬』」なのです。

これら三つのgadriはさらに三つのgadriに拡張されますが、それぞれ以前のものと対応しています。

loi - gadri: 現実性sumti化。群を扱う。
lei - gadri: 記述性sumti化。群を扱う。
lai - gadri: 名称冠詞。群を扱う。

これらは一点を除くすべての点で同じです: そのsumtiを明確に群として扱います。当該の対象がひとつだけしかない場合は、それで構成される個も群も同等なものです。この両者の違いは、selbriを個のグループと群のグループのどちらに帰するかにあります。

そのグループの全員それぞれがそのselbriにふさわしければ、またそのときに限り、個のグループはそのselbriにふさわしいと言えます。たとえば、lo gerkuのまとまりを個で考えるとき、それぞれがみな黒色なら、そのまとまりを黒いと表すことは正しいことになります。一方で、その構成員が全体として、いわばチームとしてselbriにふさわしければ、その群はそのselbriにふさわしいと言えます。しかし、loi gerkuという群のメンバー全員、loiが適用されているので、犬でなければなりません。群の発想は洗練されているので、いくつか例をみて群か個か見分けてみることにしましょう。

sruri: x1はx2をx3(方向/次元/面)に関して包囲する/取り囲む

lei prenu cu sruri lo zdani - 「その人々は家を取り囲んだ。」

これは正しい文です。影分身の術は置いといて、メンバーのそれぞれが独りで家を囲むことなどありえないですから。日本語で例を出してみます: 「人間たちは20世紀に天然痘に打ち勝った」。人間の誰ひとり天然痘を負かしてはいませんが、人間たちという群は打ち勝っており、その意味で日本語の文も意味をなします。なお、ロジバンの群と同じく、日本語の群「人間たち」はそれぞれは人間であるような個しか指していません[注:たとえばその中に兎はいない]。もうひとつ例を見ましょう:

mivysle : x1 はx2(有機体)の細胞
[注: ji'esleも細胞という意味で、かつこっちのほうが発音しやすいです。
どちらを使っても構いません。ここでは原文に則りmivysleで通します。]
remna : x1 は人間

loi mivysle cu remna - 「細胞のかたまりは人間である。」

細胞それぞれはどれも人間ではありません。実際、細胞は人間の特徴のほんの少ししか呈していませんが、全体としては人間を構成するとみなされます。

leiで作られる群(lei gerkuなど)は、そのそれぞれを話者がle gerkuとして指すような特有の個のグループによって形成される群を指します。

laiによって表される群名は、そのグループが全体としてそう名付けられているときに適切であって、メンバーそれぞれがそういう名前であるときではありません。しかしながら、そのbridiがそのグループの一介に対してのみ真であるときに使われることがあります。

loとleは個と群どちらを表すのにも使えることは覚えておくといいでしょう。「犬のまとまり」を記述する必要があるとしましょう。そのまとまりをlo gerku かloi gerku のいずれかで表現すると思います。loを使うと、一見矛盾なことを正しく述べれてしまいますが、実際はそうではありません。
lo gerku na gerku - 「複数の犬は犬でない。」
それは犬の群としてみなされているのですから、その「たくさんの犬」は全体としては「犬」ではなく、「犬のまとまり」であるわけです。さて、selbriを明確に個に変換する語がないことに気がついたかもしれません。個であることを明白にするためには、lo, le, laに外部量化詞をつける必要があります。量化詞の話題はあとでとりあげます(22章)。なぜ、loとleは曖昧で、明確に個を表さないのでしょうか。それは、曖昧にしておくことで、話者がそのsumtiが群なのか個のグループなのかを考える必要なしに、どんな文脈にでもloやleが使えるからです。

このシリーズの3番目は、集合を形成するgadriです。

lo'i - gadri: 現実性sumti化。集合として扱う。
le'i - gadri: 記述性sumti化。集合として扱う。
la'i - gadri: 名称冠詞。集合として扱う。

個のグループ(たまに群)と違って、集合はその構成要素由来の性質をもちません。集合は純粋数学や論理学の構成物であって、濃度、メンバーシップ、包含関係といった性質をもちます。またもや、集合とその構成要素の間の違いに注意してください。
[注: たとえば、loi mivysle (細胞の群れ)は「細胞である」という性質を持っていますが、lo'i mivysle(細胞の集合)にはそのような性質はありません。]
[注: ロジバンの集合は数学で扱われる集合のことだと書きました。ですから、集合は濃度、メンバーシップ、包含関係といった性質をもつとも書きましたが、もちろんこれだけに留まりません。元と元の間にある関係も集合の性質です。たとえば、細胞の集合が、細胞間の関係として「ヒトである」という性質をもつこともできるのです。
大事なのが、群れと集合では「部分」の具合が異なってくるということです。細胞の群れは所詮ただの細胞の集まりですから、その部分をとってきてみるとやはりそれは細胞の群れです。一方で、細胞の集合は、「ヒトである」という性質をもっていたとすると、その部分をとってきてみてもそれはもうヒトではありません。手だとか、心臓だとかになります。つまり、また別の意味をもった集合となるわけです。]

tirxu :x1はx2(種類)・x3(模様/柄)のトラ/ヒョウ/ジャガー

lo'i tirxu cu cmalu は、その大型ネコが小さいかどうかについて述べているのではなく(ところでこれは明らか偽ですね)、その大型ネコの集合が小さいということ、つまり、トラの数が少ないということを述べているのです。

最後に、(2つだけ)一般化gadriを紹介します:
lo'e - gadri: 現実性sumti化。 sumti はlo {selbri} の典型的な姿を指す。
le'e - gadri: 記述性sumti化。sumti はle {selbri} の記述/認知されている典型的な姿を指す。
laに対応するものは無い。

さて、「典型的な姿」で何を言えるのでしょう?lo'e tirxu は、理想的な、想像される大きいネコであり、一般化された大きなネコがもつ全ての性質を持っています。大きなネコの集合のメンバーを構成要素とする大きい統合的な部分集合は縞模様の毛皮を持っていないので、lo'e tirxuは縞模様の毛皮を持っているというのは誤りです。同様に、典型的な人間というのは、人類の大部分がそうであるからといって、アジアに住んでいるわけではありません。しかし、十分多くの人間がある特徴を持っているのであれば(たとえば、会話能力など)、こう言うことができます:


kakne: x1はx2(事)がx3(条件)においてできる; x1は有能
lo'e remna cu kakne lo nu tavla - 「典型的な人間は話すことができる。」

それから、le'eは話者によって認知/記述されるような理想的実体です。これは現実に正しい必要はなく、しばしば「偏見」と訳されます(日本語だと「偏見」という言葉は悪い印象がありますが、ロジバンのle'eに悪い印象はありません。実際、どんなカテゴリに対しても偏見的で典型的なイメージというのを人は誰しも持っています。言い換えれば、lo'e remna はすべてのlo remnaを一般化したものであり、一方でle'e remnaはle remnaを一般化したものです)。

以下に11個のgadriをまとめておきます。

  総称的 集合 一般化
現実性 lo loi lo'i lo'e
記述性 le lei le'i le'e
名称 la lai la'i 無し


[注:現実性、記述性、名称はそれぞれ、「客観系」「主観系」「あだな系」と呼ばれることもあります。]

Note: 以前まで、総称的gadriとしてxo'eがありましたが、2004年にgadriの規則と定義に変更があり、現行のものとなりました。今は、loが総称的gadriであり、xo'eは省略桁として使われています。