これまでの章すべての内容を読んで理解したなら、残りの内容を学ぶのに困らないほどにはロジバンの十分広い知識を得られています。結果として、ここからの章の構成は学びやすい順に、日常会話で重要な順にしてあります。
今ロジバンを話す上でもっとも必要に迫られることのひとつに、sumtiの作り方における知識があります。今のところ、tiとlo SELBRI しか知らず、これではいかにsumtiが大事であっても実感がないでしょう。この章とそれに続く2章はsumtiについてです。まず、描写sumti(loのような冠詞を伴うもの)に焦点を当てます。冠詞はロジバンではgadriといい、この章で議論する内、 la CMEVLA, lai CMEVLA , la'i CMEVLAを除いたすべてのものが終端詞kuで締められます。
描写sumtiの単純な3種類からはじめますが、すぐにそれらがそんな単純なものではないと分かるでしょう:
lo - gadri: 総称的現実性sumti化。個群は曖昧.
le - gadri: 総称的記述性sumti化。 個群は曖昧.
la - gadri: 名称冠詞: 通例、selbriやcmevlaをsumti化する。個として扱う。
loとその機能についてはもういいですね。しかし、「現実性」と「個群が曖昧」とはどういう意味でしょうか。個と群については後で触れるとして、「現実性」について触れることにします。「現実性」とは、lo klamaと記述されるには実際にそれがklamaでなければならないということです。ということで、現実性gadriは真偽のある主張 -- 当該の対象が実際にloの後にくるselbriのx1であるということを主張しているのです。
これはle(記述性)と対照的です。もしあなたがle gerkuと言うとき、一匹またはそれ以上の特定の対象を心に浮かべ、聞き手がそれを同定できるようにselbri、gerkuを使って記述したということをle gerkuは示しています。つまり、leにはloと二つの重要な違いがあります: ひとつに、leは一般的な実体を参照することはできず、常に特定の実体を参照します。もうひとつに、lo gerkuは絶対に一匹かそれ以上の「犬」であるのに対し、le gerkuは「現実性」ではないので、その記述が、正しい対象を同定するのに役立つと話者が思ったものであれば、何でもあり得ます。もしかすると、話者はハイエナを指しているが、それについて馴染みがなく、「犬」という表現が妥当と考えたのかもしれません。この空想な感じはほとんどの文章では必要ないかもしれません。結局、犬を記述したいのであれば、それを犬と記述する(lo gerku)のがいちばんよいのであって、そのような記述ができない正当な理由がない限り、le gerku はlo gerku(現実の犬)でもあるようなものを指しているとたいていみなされます。
訳の上では、lo gerkuはふつう「犬(a dog)」「何匹かの犬(some dogs)」であり、le gerkuは「その犬(the dog)」「その犬ら(the dogs)」となります。le gerkuのよりよい訳は、「その犬(たち)」、つまり単数でも複数でもある感じ、でしょう。
三つの基本的なgadriの最後は、la、名称gadriで、私は「慣例的(conventional)」と勝手に呼んでいます。この意味するところは、それがれっきとした名前を指すことから、記述的でも現実的でもないということです。もし、彼女の名前の感じから「無垢」と呼ばれる子を指すとき、彼女を「無垢であるようなもの」と記述することも「無垢である」と述べることもしません。ただ慣例に従って彼女を「無垢」と述べているだけであり、その対象はそういったselbriやcmevlaによって指されているだけのです。laとそれ由来のgadriはcmevlaを他のgadriとは違う風にsumtiへと変換することができます。ここで、他の多くのテキストでは、名前はlaを使うことで普通のselbriからも作れることに触れてないことに注意してください。そういった異端書は燃やされなければならないでしょう。というのも、selbriの名前を誇り高いロジバニストの多くが持っているからです。
la、lai、la'iは常に名前の開始点を示すので、少し風変わりです。他のgadriと違って、laとその類の後ろに文法的に正しく置かれた語はなんでも、名前の一部とみなされます。たとえば、le mi gerkuは「私の『犬』」ですが、la mi gerkuは「『私の犬』」なのです。
これら三つのgadriはさらに三つのgadriに拡張されますが、それぞれ以前のものと対応しています。
loi - gadri: 現実性sumti化。群を扱う。
lei - gadri: 記述性sumti化。群を扱う。
lai - gadri: 名称冠詞。群を扱う。
これらは一点を除くすべての点で同じです: そのsumtiを明確に群として扱います。当該の対象がひとつだけしかない場合は、それで構成される個も群も同等なものです。この両者の違いは、selbriを個のグループと群のグループのどちらに帰するかにあります。
そのグループの全員それぞれがそのselbriにふさわしければ、またそのときに限り、個のグループはそのselbriにふさわしいと言えます。たとえば、lo gerkuのまとまりを個で考えるとき、それぞれがみな黒色なら、そのまとまりを黒いと表すことは正しいことになります。一方で、その構成員が全体として、いわばチームとしてselbriにふさわしければ、その群はそのselbriにふさわしいと言えます。しかし、loi gerkuという群のメンバー全員、loiが適用されているので、犬でなければなりません。群の発想は洗練されているので、いくつか例をみて群か個か見分けてみることにしましょう。
sruri: x1はx2をx3(方向/次元/面)に関して包囲する/取り囲む
lei prenu cu sruri lo zdani - 「その人々は家を取り囲んだ。」
これは正しい文です。影分身の術は置いといて、メンバーのそれぞれが独りで家を囲むことなどありえないですから。日本語で例を出してみます: 「人間たちは20世紀に天然痘に打ち勝った」。人間の誰ひとり天然痘を負かしてはいませんが、人間たちという群は打ち勝っており、その意味で日本語の文も意味をなします。なお、ロジバンの群と同じく、日本語の群「人間たち」はそれぞれは人間であるような個しか指していません[注:たとえばその中に兎はいない]。もうひとつ例を見ましょう:
mivysle : x1 はx2(有機体)の細胞
[注: ji'esleも細胞という意味で、かつこっちのほうが発音しやすいです。
どちらを使っても構いません。ここでは原文に則りmivysleで通します。]
remna : x1 は人間
loi mivysle cu remna - 「細胞のかたまりは人間である。」
細胞それぞれはどれも人間ではありません。実際、細胞は人間の特徴のほんの少ししか呈していませんが、全体としては人間を構成するとみなされます。
leiで作られる群(lei gerkuなど)は、そのそれぞれを話者がle gerkuとして指すような特有の個のグループによって形成される群を指します。
laiによって表される群名は、そのグループが全体としてそう名付けられているときに適切であって、メンバーそれぞれがそういう名前であるときではありません。しかしながら、そのbridiがそのグループの一介に対してのみ真であるときに使われることがあります。
loとleは個と群どちらを表すのにも使えることは覚えておくといいでしょう。「犬のまとまり」を記述する必要があるとしましょう。そのまとまりをlo gerku かloi gerku のいずれかで表現すると思います。loを使うと、一見矛盾なことを正しく述べれてしまいますが、実際はそうではありません。
lo gerku na gerku - 「複数の犬は犬でない。」
それは犬の群としてみなされているのですから、その「たくさんの犬」は全体としては「犬」ではなく、「犬のまとまり」であるわけです。さて、selbriを明確に個に変換する語がないことに気がついたかもしれません。個であることを明白にするためには、lo, le, laに外部量化詞をつける必要があります。量化詞の話題はあとでとりあげます(22章)。なぜ、loとleは曖昧で、明確に個を表さないのでしょうか。それは、曖昧にしておくことで、話者がそのsumtiが群なのか個のグループなのかを考える必要なしに、どんな文脈にでもloやleが使えるからです。
このシリーズの3番目は、集合を形成するgadriです。
lo'i - gadri: 現実性sumti化。集合として扱う。
le'i - gadri: 記述性sumti化。集合として扱う。
la'i - gadri: 名称冠詞。集合として扱う。
個のグループ(たまに群)と違って、集合はその構成要素由来の性質をもちません。集合は純粋数学や論理学の構成物であって、濃度、メンバーシップ、包含関係といった性質をもちます。またもや、集合とその構成要素の間の違いに注意してください。
[注: たとえば、loi mivysle (細胞の群れ)は「細胞である」という性質を持っていますが、lo'i mivysle(細胞の集合)にはそのような性質はありません。]
[注: ロジバンの集合は数学で扱われる集合のことだと書きました。ですから、集合は濃度、メンバーシップ、包含関係といった性質をもつとも書きましたが、もちろんこれだけに留まりません。元と元の間にある関係も集合の性質です。たとえば、細胞の集合が、細胞間の関係として「ヒトである」という性質をもつこともできるのです。
大事なのが、群れと集合では「部分」の具合が異なってくるということです。細胞の群れは所詮ただの細胞の集まりですから、その部分をとってきてみるとやはりそれは細胞の群れです。一方で、細胞の集合は、「ヒトである」という性質をもっていたとすると、その部分をとってきてみてもそれはもうヒトではありません。手だとか、心臓だとかになります。つまり、また別の意味をもった集合となるわけです。]
tirxu :x1はx2(種類)・x3(模様/柄)のトラ/ヒョウ/ジャガー
lo'i tirxu cu cmalu は、その大型ネコが小さいかどうかについて述べているのではなく(ところでこれは明らか偽ですね)、その大型ネコの集合が小さいということ、つまり、トラの数が少ないということを述べているのです。
最後に、(2つだけ)一般化gadriを紹介します:
lo'e - gadri: 現実性sumti化。 sumti はlo {selbri} の典型的な姿を指す。
le'e - gadri: 記述性sumti化。sumti はle {selbri} の記述/認知されている典型的な姿を指す。
laに対応するものは無い。
さて、「典型的な姿」で何を言えるのでしょう?lo'e tirxu は、理想的な、想像される大きいネコであり、一般化された大きなネコがもつ全ての性質を持っています。大きなネコの集合のメンバーを構成要素とする大きい統合的な部分集合は縞模様の毛皮を持っていないので、lo'e tirxuは縞模様の毛皮を持っているというのは誤りです。同様に、典型的な人間というのは、人類の大部分がそうであるからといって、アジアに住んでいるわけではありません。しかし、十分多くの人間がある特徴を持っているのであれば(たとえば、会話能力など)、こう言うことができます:
kakne: x1はx2(事)がx3(条件)においてできる; x1は有能
lo'e remna cu kakne lo nu tavla - 「典型的な人間は話すことができる。」
それから、le'eは話者によって認知/記述されるような理想的実体です。これは現実に正しい必要はなく、しばしば「偏見」と訳されます(日本語だと「偏見」という言葉は悪い印象がありますが、ロジバンのle'eに悪い印象はありません。実際、どんなカテゴリに対しても偏見的で典型的なイメージというのを人は誰しも持っています。言い換えれば、lo'e remna はすべてのlo remnaを一般化したものであり、一方でle'e remnaはle remnaを一般化したものです)。
以下に11個のgadriをまとめておきます。
総称的 | 群 | 集合 | 一般化 | |
現実性 | lo | loi | lo'i | lo'e |
記述性 | le | lei | le'i | le'e |
名称 | la | lai | la'i | 無し |
[注:現実性、記述性、名称はそれぞれ、「客観系」「主観系」「あだな系」と呼ばれることもあります。]
Note: 以前まで、総称的gadriとしてxo'eがありましたが、2004年にgadriの規則と定義に変更があり、現行のものとなりました。今は、loが総称的gadriであり、xo'eは省略桁として使われています。
0 件のコメント:
コメントを投稿